武器と仮面とすれ違いの興奮 長江の支流の一つに趙雲は船を停めて待っていた。漁村がほどちかい比較的ゆるやかな流れの川岸。太陽の暖かな光は地上に注いではいるが、それを無に返すが如く冷たい風が吹き荒ぶ。
季節は冬。風は北からのものだ。北国生まれの趙雲にとっては江南の寒さなど何でもない。そうは言っても底冷えする甲板の上でじっとしていれば、身体の芯から冷える心地がする。こんな程度で調子を崩すようなヤワな体ではないが、決して気分の良いものではなかった。本音を言えば一刻も早く引き返したい。
待ち人は未だ来ず――。
待ち合わせの場所はここで正しかったのかと不安になってきた。趙雲は記憶を反芻する。劉備が言うには、長江の本流から少し離れた漁村の外れで待つべしとの事だったはず。まさか長江とは言え、戦場近くの烏林側だとは考えられないし……。
もっと荊州方面へ行った先の漁村だろうか、と趙雲は頭を捻る。
一口に漁村と言っても幾つもあるのだ。趙雲が今停泊している漁村が、指定の場所であるという保証はない。しかし待ち人は孫権軍から来るのだから、建業から余りに遠く離れた場所とは考え辛い。
恐らくだが、あの人は歩いて来る。そうでなければ馬だが、どちらにしろ遠い距離は移動出来まい。だからこそ、こうして趙雲を呼びつけたのであろうが……。
「来ませんね、将軍」
「もう少し待とう」
待ち人が来ない事に気をもんでいるのは趙雲だけではない。船頭に変装させた兵士達も同じだ。趙雲と数人の兵士達は、目立たないように船乗りの恰好に身を窶している。
とは言えこの様な格好でいつまでもこうしているわけにもいくまい。村人達に不審に思われたら面倒だというのは勿論が、問題はそれだけではない。長江の本流では、今まさに激突せんと曹操軍と孫権軍が対峙しているのだ。孫権軍が敗れれば、趙雲たち劉備軍も後がない。まさに生死を賭けた一大決戦であった。
だがそんな時に、趙雲と言えばどうだ?田舎の静かな漁村で、船を浮かべて他に何をする術も無い。劉備軍の命運が決まろうとしている時に、なんてザマだろう。
――それもこれもあの軍師のせいだ。
趙雲は兵士達には気付かれない程度に顔を顰めた。劉備の指示故に従う他無い以上、兵の士気を下げる真似は極力避ける。趙雲は上からの指示にはあくまで忠実だった。しかしそれは不満を持たない事と同義ではない。趙雲とて表面に出さないだけで、不満は常に心中には抱いている。
――全く、あの人の考える事は分からない。
趙雲は暫くその顔を見ていないあの人――諸葛亮の事を思った。諸葛亮は三顧の礼を以て劉備に召し抱えられて以来、劉備軍の軍師として働いている。いつも厚手の黒い上衣を羽織り、髪は綺麗に結い上げられている。劉備に下賜されて以来は、いつも手には白い羽扇をひらひらとさせていた。どこかいつも取り澄ました表情。抑揚の無い口調。無頼な男が集まる劉備軍では、正直浮いていると言っても過言では無い。
そんな諸葛亮を苦手とする者も劉備軍には多い。かく言う趙雲も最初に諸葛亮と出会った時は、どう接するべきか対応に困ったものだった。諸葛亮より先に軍師として劉備軍に入った徐庶はどこかいなせな印象の男で、学の無い劉備軍の面子ともすぐに馴染んだ。
その後三顧の礼を経て入ってきた諸葛亮は、徐庶の学友と聞いていた分、その雰囲気の違いに驚いたのかもしれない。とは言え、徐庶と諸葛亮は確かに仲が良かった。二人で親しげに話をしている姿を趙雲は何度も見たし、事ある毎に二人は互いに相談し合って一緒に結論を出そうとした。諸葛亮と話している時の徐庶は、他の者と話す時より随分と利発そうな表情をした。そして諸葛亮の方も、徐庶と話している時だけは血が通った温かな顔をするのだ。微笑んだり、熱っぽく話したり……。
最初見た時は趙雲も驚いた。こんな表情もするのか、と。徐庶以外では、劉備と話している時も諸葛亮は少しばかり和らいだ表情を見せた。それでもやはり、徐庶に対してと劉備に対してではどこか違う。そこはきっと友人と主君の違いであろう。
とにかく徐庶といる時の諸葛亮は、こちらが戸惑う程に別人だった。趙雲はそんな諸葛亮を目にする度、どちらが本当の諸葛亮なのだろうかと不思議な感覚に陥る。しかし自分に対してあの抑揚の無い口調で話しかけられる度、やはりこの男は冷めた人間なのだと内心悪態づくのだった。
――何故皆にその笑顔を見せられないんだ?
諸葛亮との仲は特段悪くはない……とは思っている。趙雲は張飛や他の武将達の様に、不満を実際に口に出すことははしない。与えられた命令には忠実に従うし、自分の意見を出す事もしない。
軍師が考えた通りに動いた方が、結果的に上手くいくと分かっているからだ。
故に、基本的に軍師の考えには全て従う。それは諸葛亮に対しても然りだ。諸葛亮の人間性はともかく、その才能に関して趙雲は信頼している。今は既に棄ててしまった新野の城だが、諸葛亮が来てからはあっという間に税収と兵数が増えた。城下の経済も向上した。劉備は城下の民からの人気は高いが、人気が高いだけではダメなのだと、諸葛亮が来て初めて趙雲は知った。趙雲にとってそれは、目から鱗が落ちたような感覚だった。
そんな風にしてせっかく栄えた新野だったが、曹操軍の南征の為に結局は棄てざるを得なかった。「せっかく街を作ったのに、残念ですな」と趙雲が言うと、諸葛亮はやはり無表情に「また作れば良いことです」とだけ返した。微かに悲しそうな目をした気もしたが、思い違いかもしれない。
「将軍、本当に来るのでしょうか」
「来る……もう少し待て」
兵達もかなり焦れったくなってきたらしい。趙雲もやはり同様だ。体が小刻みに揺れるのは、寒さのためだけではない。本当に諸葛亮は来るのか、趙雲は出来るだけ考えないようにした。
そもそも何故、諸葛亮は趙雲を指名したのだろうか。最初劉備に諸葛亮からの命令を伝えられた時は、正直驚いた。
――何故、私が?
劉備が適当に決めたというならむしろ納得がいったのだが、諸葛亮からの直々の指名だと言うではないか。どうして私を選んだのだろうかと、趙雲は不思議に思った。
だがなんて事はない。私以外には誰もいないのだ、とすぐに趙雲は気付いた。趙雲は諸葛亮との仲は悪くはないという程度だが、趙雲以外の人間とはそれ以下なのだ。単純に頼みにくかったという話だろう。きっと、それだけの話だ。そうに違いない。
諸葛亮との関係をある程度保ったが為にこの役が回ってきたのだとしたら、趙雲としてはとんだ誤算である。趙雲だって劉備の傍で出陣に備えていた方がどれほどマシだったか。
とにかく早く帰りたい。趙雲は未だ見えぬ待ち人の姿を探す。
「――あっ」
来た。諸葛亮だ。やはり件の軍師は歩いてやって来た。長江沿いにこっちへ歩いて向かって来る。趙雲は用心の為に声は出さず、ただ大きく手を振った。諸葛亮も気付いたようで、速度を上げてこちらに駆けて来る。
趙雲が岸に立つ諸葛亮へと手を差しのべる。諸葛亮がその手に捕まったので、一気に諸葛亮を船上へ引き上げた。予想以上に軽い。上背は趙雲とさほど変わらないのだが、体重は随分と違うようだ。
「軍師殿、お待ちしておりました」
「感謝します。早く出航を」
「は、はい」
諸葛亮に言われるまま、趙雲は急いで船を出すよう兵達に指示をだした。趙雲達を乗せた船は勢い良く長江に漕ぎ出で、流れに乗ると一気に加速し始めた。顔にあたる風は一瞬のうちに激しいものへと変わり、ずっと体を動かしていなかった趙雲は思わず身震いをした。
「あの、軍師殿」
「はい」
「まさか……追っ手が?」
船の背後を確認する。陸には漁民達の姿しか見えないが、どこかに隠れているのかもしれない。趙雲は剣を握る手に力を込めた。
「いえ、そんな事はありませんけど」
「えっ?」
なんだ……、拍子抜けした。諸葛亮はそんな趙雲の様子を意にも介さず、視線を進路へと向けた。走ってきた為か、諸葛亮は肩を上下させて荒い息をしている。頬はうっすらと紅潮し、首筋は汗で湿っている。この様な姿の諸葛亮も珍しい。
趙雲は諸葛亮に気付かれない様に、こっそりと諸葛亮を観察した。諸葛亮は孫権軍へ説客に向かった時と変わらず、黒い着物に身を包んでいる。多少髪は乱れているが、その装いには概ね変わりがない。
恰好は変わらないが――趙雲は今度はまじまじと諸葛亮の全身を見回す。明らかに痩せている。以前から厚みがあるとは言い難かった首の線が一層鋭くなっている。紅潮がやや引き始めた顔は、心なしか顔色も悪かった。厚手の着物に包まれた身体の線は見えないが、きっと痩せ細っているのだろう。趙雲が触れれば簡単に壊れてしまいそうな程に。
「軍師殿……」
「はい」
無表情で返す諸葛亮の顔は、やはりやつれている。
「何ですか?」
「あ、いえ、お加減が悪そうだなと」
「? 特にその様な事はありませんが」
諸葛亮はキョトンとした表情で、趙雲を見た。私の見間違いだったのかと一瞬趙雲は思い直そうとしたが、見直すまでもなく、明らかに諸葛亮は以前より痩せている。
「痩せましたね」
「そうですか。そうかもしれませんね」
「…………」
会話が続かない。やはり諸葛亮に対してどう接すれば良いか、趙雲にはよく分からない。しかし広いとは言えない船内、お互いに黙っているのも気まずい。他の兵達は一心に船を漕いでいる。何か話題を振ろうと思うも、趙雲は元々会話の引き出しの多い話術に長けた男ではなかった。どうすべきか……趙雲は次第にジリジリし始めた。
気づけば汗までかいている。これでは暑いのか寒いのか良く分からない。そんな気まずい沈黙を破ったのは、意外にも諸葛亮の方だった。
「今夜、孫権軍は出陣します。そしてきっと孫権軍は勝利します」
「え?」
「その後、我が軍は陸上に撤退した曹操軍を追撃します」
「お、おお。そうですか」
「一刻も早く、その事を殿にお伝えせねばなりません」
趙雲を迎えに来させたのも、出航を急がせたのもそのためだったか。趙雲は納得した趙雲は、兵達に更に急ぐよう指示をする。
風も更に激しさを増す。長江を走る冷たい風を受けながら、諸葛亮は続けた。
「私は、魯粛殿に頼んで逃がして頂きました」
逃がして――。
「まさか軍師殿は、孫権軍に監禁されていたのですか?」
「まぁ一応は。と言っても軽い軟禁という所でしょうか」
「軟禁……ですか」
「しかし孫権軍が戦に勝てば、事態は変わります。私は人質として利用価値が出ますから」
「人質?」
「曹操軍が撤退すれば荊州の利権は我が軍と孫権軍で争う事になるは必定。そうなれば『劉備軍の軍師の身柄』は良い脅迫の条件になります」
「なるほど……」
一応の会話の応酬は続けつつも、趙雲は諸葛亮の観察を続けていた。なんだか今日の諸葛亮は良く喋る。そう言えば、荒い息は収まってもまだ微かに頬は紅い。首筋も汗で光っている。
……興奮、いや、昂揚している?
いや諸葛亮に限ってまさか。表情は相変わらずの鉄面皮だが、よく見れば目だけは爛々と輝いている。瞳孔が拡がって黒目がちになった瞳に、趙雲が映っているのが分かった。
「軍師殿」
「はい?」
「……あの、えっと、柴桑はどうでした!?」
「……はあ、柴桑ですか」
こんな時に土産話を聞いている場合かというのは、趙雲本人が一番良く分かっている。訊かれた諸葛亮の方も少し困惑した様子で答える。
「柴桑にいたのはほんの少しだけで、後はずっと長江沿いの前線近くの陣にいましたので」
「あ、そうですよね……。いや、申し訳ない」
「……そうですね。孫権軍の周瑜殿は、それはご立派な方でしたよ。呉主からの信頼も厚く、将兵達からの支持も強いのはよく伝わってきました」
周瑜と言えば、呉の大都督を務めている男だ。曹操軍との戦にそなえ、水軍の全権を孫権より任されたと話に聞いていた。容姿に優れているということで、美周郎なんて呼ばれ方をしているとも耳にした事がある。
「あの人が軍を指揮するならば、きっと曹操軍を撃ち破れましょう。我が軍は朗報を待つだけです」
「……はぁ」
「容姿にも大変優れた方で、あの方がいるだけで軍の雰囲気が華やぐようでした。音楽にも精通されていて……」
「…………」
大都督という事は、諸葛亮を軟禁した張本人ではないのか?何故そんな男を持ち上げるのだ。
「……将軍」
「え?」
「どうかされました?」
いつのまにか、諸葛亮は心配そうに趙雲の顔を覗き込んでいる。余程怖い顔をしていたらしい。また一つ、汗の滴が頬を伝った。
「……なんだか将軍、少し会わないうちに変わられましたね」
「変わった? 私がですか」
諸葛亮は上目遣いに趙雲を窺いながら、小さく頷いた。
「変わったのは軍師殿の方ではありませんか?」
「えっ。特に何も変わっていないと思いますが」
「明らかに痩せてますし、やつれてます。他軍の将を妙に褒めるし、それに……!」
趙雲はたどたどしくもまくし立てるように言った。予期せぬ事態だったのだろう、諸葛亮は目を丸くして驚いている。趙雲自身も、自分で何を言ってるのか良く分からなくなってきた。
趙雲は額の汗を拭った。諸葛亮の目から視線を反らすと、諸葛亮の汗ばんだ首筋が目に入った。
「……とにかく、以前と違います」
「…………」
諸葛亮は何も答えない。ただ目をパチパチとさせながら、趙雲を見ている。分かりやすく驚いた顔だ。
――ああ、そんな目で見ないでくれ。
胸の鼓動がうるさい。
「将軍が急に大声出されるなんて、驚きました」
ひどく平坦な声色で諸葛亮が言った。自分でも驚いているのだから当然だ、と趙雲は思った。
「将軍、やっぱり変わりました。……いや」
諸葛亮は視線を趙雲から外し、伏し目がちに長江の流れの方へ移した。とっくに元居た漁村は見えなくなっている。
「私が勝手に勘違いしていただけかもしれません」
「……勘違い?」
「将軍はもっと冷静な方かと思ってました。ですが、私の思い違いだったようですね」
そうだ。冷静な顔して命令を聞いているのは、全てうわべだけの事だ。諸葛亮の言っている事は正しい。趙雲自身、そう認めている。それが趙子龍という人間の真実なのだ。
そうだ、そうだろう? それなのに――。何故落胆されたような、幻滅されたような、そんな気分になっている?何故こんなにも傷付いた気分なのだ、私は。
「……声を荒げてしまった事は謝ります」
「謝らなくて結構です」
「いえ、謝らせて下さい。軍師殿に失礼な事を」
「…………」
諸葛亮は訝るような目付きで趙雲を見据えた。なんなんだ?胸が妙にざわついている。
「私は別に、大きな声を出されたから言っているわけではありません」
「では……」
「……将軍も、やはり私を迎えに来る役なんて嫌だったのだろうと思いまして」
「えっ?」
諸葛亮は相変わらず無表情ながら、目がさっと曇ったのを趙雲は見逃さなかった。そうしてすぐに顔を背けてしまった。
「いえ、何でもありません。今の言葉は忘れて下さい」
「いやいや、ちゃんとおっしゃって下さい! 私が気持ち悪いですから」
「…………」
「お願いします」
向き直った顔はやはり感情の機微を感じさせず、諸葛亮の感情は上手く読み取れない。やはり良く分からない相手だ、と趙雲は思った。これが諸葛亮以外の劉備軍の人間であれば、言いたい事があればすぐに言ってしまう。この様にはぐらかしたりなどしない。実にまどろっこしい。どうしてこの人はこうなんだろうか。なんでこうも、何を思ってるか分かりにくい?
……なんだか体が熱くなってきた。趙雲がイライラしていると、諸葛亮は小さくため息をついてからようやく話し出した。
「私の指示で働いて貰う以上、気の向かない命令もあると思います」
「……はい」
「我が軍にはどんな命令にでも従ってくれる将が必要です」
「はい」
「将軍は、そういう方だと思ったから……」
「私が?」
諸葛亮は小さく頷いた。
「えっと、それは、信頼して頂いているのならばありがたく思いますが……」
しかし、今はそう思っていないわけで。何を以てそう思われてしまったのだろうか。声を荒げてしまったからではないと、諸葛亮は言った。
「……私は、軍にとってそういう将でありたいと願っています。是非今後も、そういう任務は私にお任せを」
「…………」
諸葛亮は納得していないようだ。趙雲は再び、額の汗を拭った。
「私とて将軍の事を期待したいですよ。事実期待していました。だから、貴方に今回の役を頼みました」
「では、なぜ」
「貴方もやはり冷静にいられそうにない。そう判断しました」
「だから、声をあげてしまったのはつい……」
「それだけではありません」
「え?」
「ずっと興奮してました」
「えっ。……ああ、やはり?」
「は?」
「あ、いや、軍師殿が」
「私は貴方の事を言っているのですが」
「私?」
諸葛亮は大きく頷いた。そして、趙雲を指差して言う。
「頬の紅潮、発汗。瞳孔も開いています」
「それは」
貴方の事でしょう、と言おうとして趙雲は口をつぐんだ。こんな状況で諸葛亮が嘘をつくとは思えない。納得し難くとも、それは事実なのだろう。確かにいやな汗をかいていた。イライラしていたのは事実だが、他人に指摘される程に冷静さを欠いていたとは自分でも気づいていなかった。
「本当は私に色々と言いたい事があるのでしょう?いや、やりたい事ですか」
「やりたい事?」
「私に手が出そう……なのではありませんか?」
手が、出る?諸葛亮はジロリと睨み付ける様な目で趙雲を見ている。その目は挑発的でありつつも、どこか怯えている様な……。全身に力が入っているのも分かる。警戒しているのだ。戦場ではこのような表情をした兵士を趙雲は何人も見て来た。
「貴殿方はいつもそうです。いつも力で解決しようとする。気に入らない相手を力で排除しようとする」
「…………」
趙雲が目をぱちくりさせている間も、諸葛亮は少し唇を尖らせて趙雲を睨んでいる。いや、一見するといつも通りの無表情なのだが、よく見ると微妙に違うのだ。今までも気付かなかっただけで、小さな変化を見せていたのかもしれない。
諸葛亮の顔の部分を一つ一つ観察する。改めて見ると、小ぶりな口なんだなと気が付いた。あれで時に自分より一回り大きい武将を黙らせ、時に他国の君主をやりこめる。この口が、と思うと不思議な気分になった。
「私を気に入らない気持ちは分かりますが……。聞いていますか?」
「え? あ、いや」
慌てて口元から目を反らすと、今度はまともに視線がぶつかった。視線をかわそうと目線を下げると、襟口からのぞく諸葛亮の胸元に目がいった。先ほど走ったせいか、着物はわずかに崩れ、そこから薄い胸が見え隠れしている。白い肌だ。眩しいくらいに。上下する胸の動きが、諸葛亮の鼓動の早さを伝える。息が荒い。胸の上下する幅が大きい。
――いや、何を見ているんだ私は。
急いで諸葛亮から目を離した。何だか胸がざわついて落ち着かない。興奮している、のか。鼓動がうるさいほど大きいのに、諸葛亮の着物の衣擦れの音だけがいやに耳についた。
確かに諸葛亮の言う通り、自分はおかしい。何かが普通じゃないと趙雲は焦った。
「あの~、趙将軍」
突然第三者の声が加わった。一生懸命櫂を漕いでいた筈の兵達が、急に話しかけてきたのだ。
「な、なんだ。どうした?」
「そろそろ到着しますが……」
「あ、ああ……そうか」
「そのまま着岸して下さい」
趙雲の代わりに諸葛亮が答えた。そのままテキパキと兵達に指示を出している。趙雲は何も言えずに、その様子をただボンヤリと見ていた。そうしている内に船が目的地へと着岸した。
「趙将軍」
「な、なんでしょう」
「とりあえず話はこの辺にして、今はとにかく出陣の準備を」
「承知しました」
「曹操軍の大船団はきっと破られます。今夜、長江は赤く染まるでしょう。今夜の戦はきっと歴史に残りますよ」
諸葛亮は、普段の彼にしては熱っぽい声で言った。そうだ、今夜の戦はこの先の世も語り継がれる事になるだろう。そうでなかったとしても、今夜の戦は劉備軍の進退を決める大事な戦になる事は間違いない。冷静に見える諸葛亮も、今回ばかりは興奮しているようだ。
いや、この戦のために奔走した諸葛亮だからこそ、冷静に着実に盤面を動かし続けた諸葛亮だからこそ、その興奮も一入なのだろう。なにせ、体が痩せ細るまでに駆けずり回ったのだ。その苦労の全てが今夜の戦で報われようとしている。ここで興奮しない男はいない。
――ああ、そうか。
趙雲は再びあの感覚に襲われた。目から鱗が落ちるような、あの感覚。諸葛亮は戦っていたのだ。誰にも頼らない、たった一人で臨む戦。冷静さは武器だ。弱さを見せないための武器であり、仮面。諸葛亮はそれだけを携えて、孤高に戦っていた。今夜の戦に敗ければ、劉備軍の命運は断たれる。
しかし孫権軍が徹底抗戦を決めなければ、戦う術もなく劉備軍は終わりだった。諸葛亮は劉備軍の未来の為に必死で戦っていたのだ。今夜の戦に勝てば、暫しの間諸葛亮はその武器を下ろせるだろう。そしてその仮面の下の素顔が、今ばかりは少し露わになっている。
諸葛亮は何も変わっていなかった。最初出会った時から、少しも。変わったのはむしろ趙雲の方だ。諸葛亮という人間の事をやっと分かるようになったのだと、趙雲はようやく気付く事が出来た。
「――軍師殿っ!」
「なんですか?」
船から降りようとしていた諸葛亮を呼び止めた。
「私は、何をすれば!?」
「…………」
「何でもやります! 貴方の命令なら……」
「……今回の戦で我が軍がやる事は、曹操軍への追撃だけです」
「はい」
「特に貴方に任せる事はありません」
「……はい」
諸葛亮はひらりと船から降り、そのまま陣の方へと向かっていく。陣の前には劉備と、関羽を始めとする諸将等が諸葛亮を待っていた。諸葛亮は劉備に今夜の戦について話し、早速出撃の準備を始めるのだろう。世に語り継がれる大戦が始まるのだ。
「私に任せる事は無い……か」
それは果たして「今回の戦で我が軍がやる事は、追撃だけ」……だからなのか。それとも、趙雲が信頼するに値しないからなのか。
今まで築いてきた諸葛亮との微かな信頼関係は呆気ない程簡単に崩れた。崩れて……しまったのだろうか。今になって、その関係を大事にしておけば良かった等と思うのは、虫が良すぎるだろうか。
だが、どうすれば良い? 変わってしまった、そして変わってしまった自分に気づいてしまった以上、変わる前には戻れないのだから。
長江の風は陽が傾くに従って強さを増している。しかしあれほど刺すようだった冷たさはゆるみ、生暖かいものへと変わっている。風向きが東南に変わっていた。
ため息をつきながら、趙雲は船の上から去っていく諸葛亮の後ろ姿を見た。薄暗い川岸にいると、黒衣の諸葛亮の輪郭はなんとも朧気だ。
――叡知溢れる軍師殿に従っていれば、正しい結果へ導いてくれるのだろうか。
諸葛亮は一度も振り返らないまま、陣の奥へ消えていった。