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    しおり
    聞こゆれど 矢が勢い良く放たれ、空を切って的を貫いた。的を穿った瞬間、静寂に包まれた広場に気持ちの良い快音が響き渡った。矢は的の中心、ど真ん中に当たった。
    「お見事!」
     趙雲が発すると、一拍遅れて周囲がどっと歓声を上げた。
    「天晴! 的のど真ん中とは」
    「黄忠殿はまこと、天下に並ぶ者無き弓の名手であられる!」
     先程まで静まり返っていたかのが嘘のように、場は賑やかな声で満ちた。拍手、歓声。その中心にいるのが黄忠だ。先だっての荊州南郡攻略の折りに、劉備軍へと投降した武将であった。
    「見よ、拙者の申した通りであろう。黄忠殿の弓の腕前、真に無双でござる。正に養由基の再来なり」
    「いやいや、お褒めに預かる程にはごさらぬよ関羽殿。某などまだまだ」
    「いいや、関兄者の言う通りだ。アンタの腕は相当だ! そう思うよな、子龍」
    「はい! 私も同感です」
     趙雲は関羽と張飛、その他大勢の将達と弓を持った黄忠を囲んでいた。関羽が黄忠の弓の腕前は凄いと言うので、お披露目の為に皆が集まった次第である。事実、黄忠の弓の腕は素晴らしかった。自尊心の高い関羽が手放しで褒めるのも頷ける。
    「領地も増え、黄忠殿の様な類い稀なる武人も仲間となった。此度の荊州南郡攻めは大成功であったのう」
    「だな! 自分の領地があるってのは良いもんだ」
    「うむ、重畳重畳」
     関羽達の言う通り荊州南郡攻略は対した損害もなく、無事に成功した。劉備軍の面々は久々に仮住まいではない平和を楽しんでいる。
    「趙雲将軍」
     そうやって楽しく過ごしている趙雲のもとに、一人の男が駆けてきた。宮殿の小間使いの一人である。
    「なんだ、どうした子龍」
    「さあ、なんでしょう」
    「劉備様のご命令をお伝えします。軍師殿がお出掛けになるという事なので、護衛せよと」
    「軍師殿の……」
    趙雲は劉備や軍師、劉備の家族を護衛するのが仕事の主騎である。
    だが、実のところ今まで軍師を護衛した事は無かった。単純に、その機会に恵まれなかったのだ。劉備軍には長らく軍師はいなかったし、徐庶や諸葛亮が仕官してこの方、劉備軍は一息つく間も無く今日までやって来た。
    「承知した。すぐ行く」
    「ちっ、またあの軍師かよ。災難だな、子龍」
    「いや、そんな事は……」
     張飛が忌々しそうに吐く。張飛はあまり諸葛亮と仲が良くないが、勿論張飛とて今では劉備軍の軍師として認めてはいる。
    ただ時々こうして苦言を呈する事も少なくない。今回は大方楽しい所に水を注され、且つ趙雲を取られる事が面白くないのだろう。そんな張飛に趙雲はたしなめるように、やんわりと返す。
    「軍師殿は軍師殿なりに忙しく働いておわれるのですから」
    「そうかあ?」
     趙雲が言うも、張飛はイマイチ納得していない顔だ。趙雲は苦笑する。かくいう趙雲とて少し前までは張飛と同じだったのだから、強くは言えない。
    「では、私は失礼します」
     趙雲は一人、その場を後にした。



    「アンタが儂を護衛してくれるっていう、武人さんかい?」
     下男に言われた通りの場所に行くと、そこに居たのは見た事も無い男であった。一度見たら忘れないような個性的な顔をしている。お世辞にも整った顔立ちとは言い難い。間違いなく初対面だ。
    会った事があれば、この顔なら必ず覚えているだろう。
    「は、あれ……?」
    軍師と聞いて来てみれば、諸葛亮とは似ても似つかぬ男が待っている。
    「ん、違うのかい?」
    男は不思議そうに趙雲の顔を覗き込んだ。男はかなり小柄な体格で、長身の趙雲とはかなりの身長差になる。故に、自然と下から見上げる形になる。
    「あの、えーっと……」
    逆に、趙雲は男を見下ろしている。それくらい体格差があった。
    「おや、もしかして儂の事聞いてない?」
    「はい、あー……」
    「趙将軍」
     後ろから耳馴染んだ声が聞こえた。凜とした、小さくても良く通る声。趙雲は勢い良く振り返ると、後ろに立っていたのは思った通り諸葛亮だった。いつもと変わらない、黒衣に羽扇の立ち姿である。
    「軍師殿!」
    趙雲が探していたのは、勿論この諸葛亮の姿であった。
    「殿から、頼まれて参りました」
    「頼まれて?」
    「士元の事皆さんに何も伝えて無かったそうなので、私が代わりに紹介をさせて頂きます」
    諸葛亮はそう言うと、趙雲の横を通り過ぎ男の隣に並んだ。諸葛亮は趙雲と並んで少し低いくらいの身長で、当然平均からすると高身長の部類に入る。そんな諸葛亮が男と並ぶと、やはりかなりの身長差が見てとれた。
    「こちらは龐士元。新たに我が軍で軍師となる者です」
    「軍師……?」
    「そっ。最近まで田舎の長官やってたんだが、この度孔明と同じく軍師中郎将に任命されたわけだ。よろしく、将軍さん」
    龐統と紹介された男は、剽軽そうに手を振った
    「士元、この方は趙雲将軍。主騎となるお方です」
    「ああ、この人が噂の趙子龍。成る程、良い男だねぇ」
    「護衛などは専ら、このお方がなさって下さいます」
     一人呆然としている趙雲をよそに、二人は軽快に会話を続けている。この二人、どうやら以前から面識があるらしい。出会ってすぐの関係には見えない。
    「あと士元、……無理はせず。何かあったらすぐに戻って来て下さい」
    「了解、孔明。こんな立派な武人がついてるんだ、心配いらない」
     諸葛亮は、呆然としている趙雲を見た。諸葛亮の視線に気付いて、趙雲もやっと背筋を正した。
    「本当は私が行くべき所なのですが……。趙将軍、士元を頼みます」
    諸葛亮は低く、ゆっくりと頭を下げた。
    「いやいや、それは勿論。それが私の務めでございますから」
     趙雲は慌てて頭を振った。龐統はそんな趙雲を見て、微かに笑っている様だった。



    「もしかして、護衛するのが儂で不満だった?」
     龐統がそう切り出したのは、宮殿から離れて幾ばくもしない頃だった。馬は使わず二人徒歩で歩いている。二人きりだと気まずい空気になるかと思ったが、龐統が沈黙が生まれない程度に話しかけてくるのでまるで気にならない。先程諸葛亮と話している時からも察しはついたが、龐統は口数の多い男の様だ。
    同じ軍師とは言え、どちらかと言えば口数の少ない諸葛亮とは、こういう点でも大違いだった。
    「えっ、何故そのように」
    「いや、なんとなく?」
     嫌そうな顔をしてしまっていたのであろうか。だとしたら失礼極まりないと、趙雲は慌てて頭を下げた。
    「そんなつもりはございませんでしたが、不快な想いをさせてしまったのでしたら、申し訳ありませぬ」
    そんな趙雲の様子を見て、龐統はカラカラと笑った。
    「いやいや、いきなり知らない醜男を護衛しろなんて言われたらそりゃ、面喰らうもんさ」
    「あ、いや……」
    「殿も折りを見て儂を皆に紹介するっちゅう話だったんだが、急に孔明の代わりに行かなきゃならなくなってね」
     そう言えば先程諸葛亮も「本当は私が行くべき」だと言っていた。今回の外出は諸葛亮の代行という事らしい。
    「何故軍師殿が代わりに行く事になったのですか?」
    「ん、軍師って儂のこと?」
    「はい、そのつもりでしたが……」
    「う~ん、分かり辛いな。呼ばれ馴れてもないし、孔明を呼んでるのか分からなくなる」
    「あ、これは申し訳ありません!」
    「名前で良いよ。こちらも趙雲殿と呼ばせて頂く」
    「は、はい」
    確かに、これから軍師が二人となるならば「軍師殿」という呼び方は使い辛くなる。軍師二人は一緒にいる事も多いだろう。
    「何故儂が孔明の代わりにって話だったね。簡単さ、孔明が行きたくないと言ったからだよ」
    「行きたくない?」
     諸葛亮がそんな事言うなんて、なんだか想像もつかない。もしかして趙雲が護衛につく事を見越して、それで嫌だと言ったのかもしれない。諸葛亮とはなんとなく和解(?)の方向に向かいつつあると思ったが、それは趙雲の勝手な思い込みで、向こうは全くそうは思っていなかったのかもしれない。考えれば考えるほど、そんな気がしてくる。
    「どうしたかい、趙雲殿。そんなに驚く事かねえ。誰だってやりたくない仕事の一つや二つはあるだろう」
    「ぐん……諸葛亮殿は、もしや私が護衛につくのを嫌って、そう仰られたのでは……」
    「はあ~?」
     一瞬驚いた後、龐統は弾かれた様にいきなり笑いだした。決して整った顔ではないが、笑うと親しみやすい表情をする。
    「いやいや、全く違うがね! なんだい、趙雲殿はそんなに孔明に嫌われてるわけかい!?」
    「いや、それは私にも……」
    取り敢えず趙雲の被害妄想だったらしいので、胸を撫で下ろした。
    「孔明が嫌がったのは、今から会いに行く相手方の問題でね」
    「そうなのですか?」
     そう言えば、行き先も誰と会うのかも聞いていない。突然の任務だったとは言え護衛失格だ。
    「今から我々が会うのはとある豪族の当主でね。その地域一帯を主に納めてる大豪族だ」



     後漢の世、朝廷の支配が衰退するにつれ、地方ではその地域に住む有力者が次第に力を持つようになった。それは刺史や牧といった大きな範囲での統治者に言えることだが、もっと狭い範囲にも適応する。その場合は公の勢力ではない、地域の豪族名族が力を得る事が多かった。
     特に中央から離れた江南地域ではそれが顕著で、曹操が中央政権化を進める華北とは違い、南では今でも豪族の支配が強い。劉備が南の地でやっていこうとするならば、こういった荊州豪族とも折り合いをつけなければならない。
    「諸葛亮殿は豪族と会われるのが嫌なのですか?」
    「そういうわけではない。正確には一度会ってるらしい。先日向こうが城に来て、殿と孔明に謁見したんだそうだ」
     そう言われれば確か先日そんな事があった気がする。そういった会見の際は関羽が護衛に立つ事が多いので、趙雲は立ち会っていない。
    「問題はその謁見後でね。個人的に孔明に話しかけて来たんだと。その時嫌な事を言われたらしい。この事は殿にも言ってないそうだが……」
     龐統が意味ありげに趙雲に視線を送った。
    「決して他言致しません」
    「本当に?」
    「はい」
     口の堅さには自信がある。
    「その時言い寄られたんだそうさ」
    「言い寄られた……。謁見されたのはご婦人だったのですか」
    「いや、勿論男だが」
    「男がっ? えっと、いや、それは一体」
     先だって趙雲も縁談の誘いを受けた事があったが、趙雲の場合は相手は勿論女だった。しかし諸葛亮の場合は相手は男。言うまでもないが諸葛亮も男である。趙雲が二の句が続けられないでいると、龐統はまたカラカラと笑いだした。
    「何か勘違いしてるね、趙雲殿。言い寄られたってのは、うちで働かないかって事だよ」
    「あ、な、なるほど。そういう意味ですか」
     つまり、引き抜きの誘いだ。とんだ勘違いをしてしまった。穴があったら入りたいとか、顔から火が出る想いなんてのはこういう心境を言うのだろう。
    「一緒に話しをして孔明の事を大変気に入ったらしい。殿にもそれとなく聞いてみたが、殿もそんな印象を受けたとおっしゃってたね」
    「そうでしたか……」
    「勿論孔明はその場で断ったそうだけど」
     自分の才能を活かしたいのであれば、劉備軍は確かに相応しい場ではある。だが安定した富を望むのであれば、豪族の顧問にでもなった方が確実な場合もある。少なくとも今の劉備軍は金がない貧乏所帯だった。勿論趙雲を始め、将や官達も大した禄は受けていない。
    「断ってもまだ諦めてない感じだったから、孔明は会いたくないんだそうな」
     引き抜かれるつもりが無いなら、はた迷惑なだけであろう。諸葛亮の気持ちも充分に分かった。
    「向こうさん驚くだろうねぇ。孔明が来るかと思ったら、似ても似つかないこんな男が来たらさ」
    「は、はは……」
    果たして、龐統の予想は、まさしく現実となった。



    「どなたかね、貴殿は」
     庶民が住むにはあまりに立派過ぎる家の主は、趙雲達を見てあからさまに顔を歪めた。諸葛亮を歓待する気満々だったのだろう、
    大きな門をくぐった瞬間から至れり尽くせり。高級品の茶まで用意されている。趙雲は茶を飲む事はおろか、香りを嗅いだ経験もほとんど無かった。
    「お初にお目にかかります。某は劉備軍より参りました、龐士元と申します」
    「私は貴殿を呼んだつもりは無い。軍師殿を呼んだのだが」
    「はい、某は劉備軍の軍師中郎将の役を拝命しております」
     龐統は先程までの軽い口調をおさめ、意外な程に丁寧な言葉遣いで話した。生まれが良いのだろうか、スラスラと畏まった言葉が続く。しかし当主の方はいくら龐統が言葉を連ねようと、一向に機嫌を直す気配が無い。
    「お引き取り願おう」
    とうとう、追い払おうとし始めた。
    「今度は諸葛殿を呼んで頂きたい」
    無礼な主の振る舞いに流石に腹に据えかねて、趙雲はとうとう苦言を呈す事にした。
    「龐統殿が何か粗相を致しましたでしょうか。左様でなければこのぞんざいな扱い、納得がいきませぬ」
    「趙雲殿」
    龐統が軽く制止の声を出したが、後の祭りだった。
    「ふん、なら言わせて頂く。まず顔が気に入らない。仮にも折衝の席にこの様な者を派遣するか?」
     あまりにも失礼な物言いに、趙雲はいっそ剣でも抜いて脅してやろうとさえ一瞬考えたが、当の本人の龐統が涼しい顔のままであったのでなんとか溜飲を下げた。趙雲達が黙っているのをいいことに、当主は更に続ける。
    「この様なパッとしない男、気に食わぬ。早々にお帰り頂こう」
    「……確かに、貴公のおっしゃる通りでございます」
    「龐統殿……?」
    龐統は相変わらず涼しい顔で、柔らかく話し始めた。
    「……しかし、この郭家も立派になられたものですな。いつかは水害に見舞われて、他家に泣き付いた事もあったと言うのに」
    「っ……!?」
     郭家とは、当のこの豪族の一族の事である。龐統が急に何を語り始めたか趙雲には全く分からなかったので、とりあえず黙って見守る事にした。
    「あの時援助の手が延びなければ、この郭家は今頃……」
    「確か姓は龐……。よ、よもや……」
     当主の顔が面白い程青ざめていく。詳しい事は良く分からないが、龐統の言葉がそうさせているらしい。
    「いやはや、これは失礼な事を申し上げました! あ、土産品を用意してございますので、どうぞお持ちになって下さい」
    先程までの勢いはどこへやら、いつの間にかまるで別人の様に腰が低くなっている。
     一体どんな技を使ったのか。まるで狐に化かされているような気分を、趙雲は味わっていた。


     二人は居心地の悪い豪族の屋敷を後にして、早々に城へと帰った。龐統に持たされた土産品は品の良い香炉だった。造りの細かい装飾の豪華な一品。まだ香は焚かれていないが、すでに何やら良い香りがして来そうな、そんな気さえする。その美しい香炉を龐統が持っていると、なんとも不釣り合いで苦笑を誘う。
    「良い物を貰いましたな、龐統殿」
    「本当はそう思ってないでしょう趙雲殿」
    「あは、いえ……」
     龐統は趙雲の考えている事がお見通しの様だが、特に怒った風でもない。先程豪族の当主に言い返した点からも、もはや言われ馴れているのかもしれない。それはそれで悲しいわけだが……。
     趙雲がそんな事を考えていると、龐統は件の香炉を趙雲の方にヒョイと差し出した。
    「……えっと?」
    「悪いがこれ持って孔明の所に行ってくれないかな。ちょっと儂は劉備殿に報告に行ってくるんでね」
     趙雲は恐る恐る香炉を受け取った。触るとより、この香炉が実に繊細に出来ているのが分かる。趙雲は工芸品の良し悪しなど詳しくないが、それでも見るからに出来が良い品だ。
    「それは分かりましたが、何故ぐ……諸葛亮殿の所に?」
    「多分孔明、ずっと儂らの事気にしてると思うからさ。行って、無事帰ったと伝えて欲しいんだよ。儂も後ですぐに向かうから」
    「では、この香炉は? 龐統殿からお渡しした方が良いのでは」
    「だってそれ、孔明の為に用意されたもんだろうし。孔明が要るかどうか分かんないけど、とりあえず儂は要らないから孔明にあげて」
    「これが、諸葛亮殿のために?」
     龐統はさも当然だと言いたげに頷いた。
    「こんなもん最初から用意されてるなんてありえんだろう? 儂の為ではないし、だったら孔明の為だとしか考えられん」
    「そう言われるとそうですね……」
    「儂には似合わんかもしれんが、孔明になら良く似合うだろうしねぇ。孔明は香も焚くしな」
    「…………」
     確かに似合う。だがたからこそ、なにか面白くなかった。
    「んじゃ、頼んだよ」
     龐統は手を軽く振りながら劉備の元へと向かっていった。頼まれたからには行くしかない。趙雲は香炉を脇に抱え、諸葛亮の部屋へ向かった。

     諸葛亮の仕事場は宮殿の奥まった一室にある。急拵えで用意した部屋だが、諸葛亮はそこを既に仕事場として常時そこに籠っている。陣における幕舎の位置でも諸葛亮は端を好んだが、仕事場でも同じらしい。しかしこんな所にあると本人も周りも不便ではないのだろうかと、お節介ながら心配する。
    「もし、趙子龍ですが。今大丈夫でしょうか」
     トントンと部屋の戸を叩く。陽が傾くにはまだ早い。諸葛亮はまだ仕事をしているだろうと思ったが、果たして思った通り諸葛亮は在室だった。
    「はい、どうぞ」
     諸葛亮はすぐに戸を開けた。開けた瞬間に室内から何かの香りが漂う。龐統の「孔明は香も焚く」という言葉を俄に思い出した。
    そう言えば普段から孔明はこの微かに香りを漂わせているが、この部屋にはその香りが凝縮されている。
    「趙将軍、お戻りになられていたのですね」
     諸葛亮は少し安堵した様な顔をしてさらに続けた。
    「あの、士元は?」
     趙雲の背後をちらりと見回す。
    「殿の元に行ってから、こちらに来るとおっしゃってました。私はこれを……」
     趙雲は例の香炉を諸葛亮に差し出した。香炉を受け取った諸葛亮は、様々に角度を変えて観察している。思った通り、繊細な造りの香炉は諸葛亮の雰囲気に良く似合った。
    「香炉、ですか?素敵な造りですね」
    「差し上げます」
     諸葛亮は香炉に向けていた視線を、パッと上げて趙雲を見た。普段からやや伏し目がちな瞳が、大きく開かれている。
    「私に?」
     戸惑い半分、喜び半分といった表情。やはり香炉は諸葛亮の趣味にも合うのだろう。何故だか妙に面白くない。あの気に食わない男が、諸葛亮の気に入る品を用意したというのが妙に腹立たしい心地がした。
    「私からではありません。今日会った郭家の方から貴方にと」
     趙雲が憮然と言った瞬間、諸葛亮の顔がさっと曇った。しまった、言い方が悪かったかと一瞬考えたが、趙雲の口調が悪いわけではないらしかった。
    「そうですか……」
     明らかに先程より声が低い。諸葛亮がこんなに困り顔をするとは思わなかったので、言わなければ良かったと後悔したが遅い。
    「……あの方から言い寄られたそうですね」
    「!」
     趙雲の言葉に、諸葛亮はあからさまに動揺した様子だった。本人になら聞いた事を言っても良いかと思ったが、失敗だったか。どうも裏目に出てばかりである。
    「だ、誰がそんな事を……」
     声が震えている。いつも冴えわたるような凛とした声であるだけに、震えが目立つ。
    「申し訳ありません、龐統殿にお聞きしました」
    「龐統……士元にですか?」
     諸葛亮はキョトンとした表情で趙雲を見た。予想外の答えだったらしい。今度は趙雲が驚いた。龐統でないとしたら他に一体誰がいるというのだ。劉備にも言っていないという話ではなかったか。――何か食い違いがある? 微かに趙雲は思った。
    「いや、なら良いんです……」
     諸葛亮はホッとした様に長い息を吐いたが、こちらとしは釈然としないものが残る。かと言って、あれだけ狼狽していた諸葛亮に問いただすなどは出来ない。
     諸葛亮は手の内の香炉をもて余す様に見ていた。様々に角度を変えてはいるが、今度は別に観察しているわけではない。この手に余る物をどうしたら良いか決めかねているようだ。
    「要らないなら、私に下さい」
    「えっ?」
    「私が使わせて頂きます」
     勿論嘘だ。趙雲には香を焚く習慣は無い。ただこの香炉が諸葛亮の元にあるという状況が気に食わなかった。諸葛亮も扱いに困っている様だし、この際趙雲が貰って何が悪い事がある。
    「はあ、まあ、どうぞ……」
     諸葛亮がおずおずと差し出した香炉を、少し引ったくる様にして受け取る。繊細な造りであろうがこの際構いはしない。
    「では、失礼しました」
     これ以上何を言えば良いか分からなかったので、辞去の挨拶もほどほどにさっさと部屋を出た。諸葛亮はただ茫然とした様子で趙雲を見送っていた。




    「あれ~、趙雲殿じゃないか?」
     諸葛亮の部屋から戻る途中、こちらへ歩いてくる龐統と遭遇した。ちょうど諸葛亮の部屋に向かう所で、入れ違いの形だった。
    「龐統殿……」
    「ん、その香炉。孔明に渡してと頼んだはずじゃあ」
    「ああ……」
     趙雲は小脇に挟んでいた香炉を差し出した。
    「諸葛亮殿が要らない様だったので、私が頂きました」
     半ば奪い取った形ではあったが、間違ってはいない。龐統は別段驚いた様子もなく、趙雲の手の内の香炉をチラリと見やった。
    「あぁそう、やっぱり喜ばなかったか。気を遣われましたな、趙雲殿」
    「はて?」
    「孔明が困ってるから、貰ってやったんでしょう?」
    「…………」
     半分は違うが、半分は確かに諸葛亮の為だった。だがそれを認めるというのも男としては些か格好が悪い。故に趙雲は肯定も否定もせずに、曖昧に微笑むだけに徹した。
    「……趙雲殿は真面目だし、優しい良い方ですな」
    「いいえ、そんな滅相もありません」
    「なのに何故孔明に嫌われているですかな? 儂には分からんねぇ。本当に嫌われてるの?」
    「…………」
     その質問には趙雲も答えようがない。龐統はいやはやと、頭を掻いた。
    「まぁ奴はああ見えて人見知りだからね~。意外と嫌われてはないと思うよ、うん」
     慰められているのだろうか?しかし当の龐統は呑気そうに笑っていて、あまり真剣に言っている風ではなかった。
    「んじゃあ儂は行くよ。今日はありがとう趙雲殿」
    「いえ……」
     龐統はヒラヒラと手を振って、趙雲の来た道を進んで行った。
    「………………」
     趙雲は手の内の香炉を見た。勢いで受け取ったは良いが、使い道もてんで分からない。これがあの当主の男からの物で無ければ、諸葛亮は喜んで受け取ったのだろう。諸葛亮の趣味らしいが生憎趙雲の趣味ではなかった。というより、これを自分が使っている姿が想像つかない。龐統の事を笑ったが、趙雲も人の事は言えないようだ。
     趙雲は香炉を頭上高くに掲げた。透かし彫りになった香炉からは光が漏れ、キラキラと輝いている。こんな風に見ても美しいのが、また一層腹が立つ。
     なんだかイライラする。趙雲はそのまま香炉を放り投げ、そのまま空高く上がった香炉は、一瞬のうちに地に落ちて呆気ない程簡単に砕け散った。



     一方、諸葛亮の部屋には龐統が訪れていた。
    「士元、白湯でも用意させますか?」
    「いや、出先で茶をご馳走になったから」
    「そうですか……」
     諸葛亮は龐統の向かいに腰を下ろした。机を挟んで諸葛亮と龐統は向かい合う形で座っている。
    「どうでした?」
    「我が軍に協力するって言ってた。税もちゃんと納めさせるって。最初は非協力的だったが、儂が龐家だと分かった途端、震え上がってたさ」
     龐統はカラカラと笑い声をあげた。つられて、諸葛亮も少し微笑んだ。
    「昔うちが援助してた事がこういう形で役に立つとは。人生何があるか分からんな」
    「本当に、助かりました」
     龐統の実家、龐家は荊州随一の大豪族である。周りの豪族への影響力は計り知れない。
    「いんや、結果的には儂が行った方が良かった訳だし。孔明に障りが無くてもね」
    「…………」
    「行かなくて正解だった。あの人まだかなりご執心な様子だったからね」
    「そうですか……」
     諸葛亮は煩わしそうに長く細く、息を吐いた。龐統はそんな諸葛亮の様子を観察するが如くまじまじと眺めている。
    「趙雲殿に喋ってしまった、すまん」
     短い沈黙の後、先にそれを破ったのは龐統だった。
    「趙将軍から言われました。言い寄られたとかなんとか、なんとも人聞きの悪い言い方をしましたね」
    「でも事実だろう? そういう意味でも言い寄られたと」
    「なっ……」
     弾かれた様に諸葛亮は顔をあげた。
    「士元、どうして。貴方にはただ……」
    「ん~、会ってみた感触? あとあの香炉だね。部下に求める人材とはいえあんな小洒落た香炉は用意せんだろう、普通」
    「…………」
     諸葛亮はこめかみを指で抑え、肩を落とした。体全体から疲労感を感じさせる。顔色も良くなかった。ただし、諸葛亮は机を並べて学問に勤しんだ昔から、血色の良い方でもないのを龐統は知っている。
    「冗談じゃないです……」
     絞り出すような声で諸葛亮が言った。
    「詮索するようで悪いが、なんと言われた?」
    「貴方に言った通りですよ。『私の元で働かないか?』とだけ。ただ、視線と手付きに寒気がしただけです」
     そう言うと諸葛亮は右手を逆の手でゴシゴシと触った。右手を触られたのだろう。
    「災難だったな、孔明。心情察する」
    「……いや、こればかりは実際我が身に降りかからない限り、分からないでしょうね」
     確かに、と言ってまた龐統は軽やかに笑った。龐統の笑い声が、空気を少し和ませた。
    「儂にはそんな災難一生あるまいて。整った顔に産まれた事を悔いるんだな」
    「…………」
     諸葛亮は人目を惹くような美青年……というわけでもなかったが、充分に整った顔はしていた。背も高く痩せていて、見目は良い方だと言って差し支えないだろう
    「……こんな事は初めてか?」
    「こんな事とは?」
    「ほら、その、男に言い寄られるとか」
     龐統の質問に、諸葛亮はすぐに答えなかった。逡巡するような気配を察する。
    「……あるのか?」
     まさかあるまいと思った上での発言だったが、予想外の反応に龐統は内心驚いた。諸葛亮は以前山奥の田舎で妻と弟とひっそり慎ましく暮らしていたのだ。そんな相手も状況もないと考えるのが普通だろう。
     諸葛亮は黙っていた。少しの間黙ったまま何かを思い出していたようだが、やがて小さな声で答えた。
    「いや、そういうわけではないのですが……」
    「まさか、趙雲殿?」
    「はあ?」
     見るからに「何を言っているんだ」という諸葛亮の表情を見て、龐統は自分の考えが間違っていた事を即座に悟った。
    「いや、すまん。趙雲殿が自分は孔明に嫌われているのではないかと言ってたのでな。もしかしてそういう事があったのではないかと思ったのだ」
     正直に龐統は答えた。
    「いや、あの方とはそんな事はありませんよ。向こうにも失礼でしょう」
    「すまんすまん。だからちょっとそう思っただけなのだ。趙雲殿には黙っといてくれよ?」
    「言いませんよ、そりゃあ」
     自分に言い寄って来たと勘違いされていましたよなんて、相手に言う筈が、言える筈がない。
    「でも実際のところ、趙雲殿とはどうなの?」
    「え?」
    「嫌ってるのかい?」
    「……そんな事はないですが」
    「まぁ、良い人だしね。嫌う理由が無い。男振りも良い」
    「…………」
     龐統は今日初めて会った趙雲に、既に好感を抱いている。基本的に人から嫌われる人間でもないとも思った。勿論、それは諸葛亮にも。龐統が認識している諸葛亮の嫌う性質にも、趙雲は当てはまらないと思っている。
    「でも向こうは嫌われているんじゃないかと気にしてる。誤解させない様にしないとな」
    「そうですね……反省します」
     諸葛亮はため息をついて肩を落とした。本心から反省はしている様子だ。諸葛亮は昔からあまり周りと打ち解けられない性格だった。心の壁が高いというか、気の置けない関係になるのに人より時間が掛かる。それは人と仲良くなるのが得意な自覚のある龐統でさえそうだった。そしてそれは本人も自覚する所らしい。
     しかし本人としても、多少はそれを改めたいと思う心があるのだ。要するに人見知りなのである。器用だか不器用だか分からないこの友人が、龐統は嫌いではなかった。だからこうして、柔らかく欠点を指摘してあげるのである。龐統としても、諸葛亮がもっと周りと打ち解けられたら嬉しい。
    「そうだそうだ。殿が明日には儂を皆に紹介してくれるとさ」
    「そうですか。……貴方ならすぐに周りと馴染めますよ」
     自虐のつもりなのか、諸葛亮は少し自虐めいた様子で微笑んだ。何と返せば良いか、上手い言葉が見つからない。龐統は確かに、諸葛亮よりは遥かに気さくで人当たりが良い。
     ――仲良くなれば良い奴なんだかなぁ。
     諸葛亮の事を理解してくれる人間がもっと増えれば良いのにと純粋に思う。一人の友人として、龐統はそれが残念で仕方がないのだった。

     翌日、劉備から召集命令がかかった。集められたのは、劉備軍の主だった将や官など。劉備の元から離れた場所に赴任している者にも、呼び出された者がいるらしい。とは言え劉備軍自体が規模の小さな軍であるので、それでも大した人数にはならない。
     趙雲も勿論その中にいた。人垣の中に視線を巡らせると諸葛亮がいるのも分かった。武将達から離れ、文官の集まりの中にいる。
     諸葛亮は文官の集団の中に居ると一人背が高くて非常に目立つ。
    相変わらずの黒衣に羽扇、綺麗に結い上げられた髪。本人は意識してはいないのだろうが、自然とその姿は視線を引く。
     趙雲は諸葛亮に話しかけようと思ったが、ちょうどその時劉備が部屋に入ってきた。龐統がその後ろに続けて現れる。部屋中の視線が一瞬の内に二人に集中した。
    「皆急に呼び出して悪かった。皆に紹介したい奴がいてな」
     劉備が大声で話し始めた。劉備の声は雑踏の中でも良く通る。部屋の中は大人数のために雑多としていたが、劉備の声は部屋中に響き渡った。皆が劉備の声に耳を傾けている。
    「こいつは龐統、字は士元だ。諸葛孔明の同門であの龐家の一人だ。これからは孔明と同じ、軍師中郎将として働いてもらう」
    「龐士元です。よろしく」
     龐統は拱手を掲げ、軽く頭を下げた。
    「今後は皆に龐統から命令がいく事があると思う。そういう場合は、私の言葉と思って従うように」
     成程、劉備はこれが言いたかったようだ。諸葛亮が軍師として仲間に加わった時、古参の面子たちと色々と衝突もあった。それを知っているが故に、劉備はわざわざ人を集めて自らの口で言い聞かせたのだろう。静かに聞いている群衆の顔を見回して、劉備は満足そうににんまりと笑った。
    「よし、皆聞いたな? それでは解散だっ!!」
     話し始めたと思ったら、すぐに解散。無駄にだらだらと話はしない。一部の者は戸惑っているようだが、古参の者は今更驚いたりはしない。
     張飛や関羽は早速龐統に話しかけている様だ。諸葛亮よりは馴染みやすそうだと思ったのだろうか、気さくに話しかけており、対する龐統も朗らかに返している。他の部将達も加わり龐統の周りはちょっとした人垣が出来ている。
     趙雲はその輪には加わることはせず、代わりに再び諸葛亮の姿を探した。見つけた瞬間ちょうど一人で、部屋を出ていこうという所だった。趙雲は急いで追いかけた。
    「軍師殿!」
     部屋を出て少し歩いた所で諸葛亮を捕まえる事が出来た。呼びかけてから趙雲は思い出した。もう軍師殿と呼ぶのはまずい。
    「あの……諸葛亮殿」
     諸葛亮はハッと驚いた顔で趙雲を迎えた。呼び名の変化に気付いたのだろう。いきなり名前で呼んでは失礼だっただろうか、と後悔の念が一瞬よぎる。
     急に照れ臭さを感じた趙雲は、諸葛亮が何か言い出す前に先手を取って続けた。
    「すいません、失礼でしたでしょうか」
    「……孔明で良いですよ」
    「え?」
    「……孔明で良いです」
     孔明で良いと、確かに言った。小さな声ではあったが、間違いなくそう聞こえた。
    「こ、孔明……殿」
     確かめる様に呟くと、諸葛亮の方も少し恥ずかしそうに小さく頷いた。
    「それで良いです。……あの、それで何用でしょうか」
    「ああ、実は渡したい物がありまして」
    「渡したい物、ですか?」
    「はい、これを」
     趙雲は懐の中から袋を一つ取り出す。簡素だが、綺麗に包装された小さな袋。諸葛亮の瞳が興味深そうに袋へと注がれる。二人の側を部屋から出ていく人々が通り過ぎていくが、誰も気に留める者はいない。
     朝特有の爽やかに冷えた風が、趙雲の顔を撫でた。
    「香木です」
    「香木、ですか? これを私に?」
     趙雲は頷いた。趙雲の返答に諸葛亮は驚いているようだ。ただただ純粋にに驚いている。
     そこまで驚く事だろうか。ある程度驚かれるのは覚悟していたが、思った以上にに驚くものだからむしろ趙雲の方が戸惑った。それほど自分から何か贈られるというのが意外だっただろうか。額から微かに汗が流れたが、心地好い風がすぐに乾かしていく。差し出された小さな袋を、躊躇いがちな諸葛亮の手がおそるおそる受け取った。
    「私に、香を……」
     繰り返し諸葛亮は呟く。少し戸惑っている様にも見える。
    「迷惑でしたか? 昨日の香炉のお礼をと思いまして。いや、本当は代わりになる香炉をとも思ったのですが……」
     香炉のお礼に香炉を、というのは普通に考えればおかしな話だ。だが、なんとなく対抗して香炉を贈りたくなったのだ。
     しかしよくよく考えてみれば、あの諸葛亮に贈る為に拵えられたのであろう、非常に凝った意匠の香炉より良い物を見付けられる筈も無い。ならばせめてと思って趙雲が買い求めたのが、香木だった。
     だが趙雲は香に詳しくもなければ、諸葛亮の好む香りも知らない。買ってから何と浅はかな考えだったのだろうと後悔したのだが、買った以上は渡さなければ勿体ない。なかなか値の張る品を、趙雲は買い求めたのだった。
    「お気に召す物ならば、良いのですが……」
     黙っているのも気まずいので言いつくろうが、諸葛亮は聞いているのかいないのか、袋の口を広げ中身の香りを確認している。
    袋を開いた事で辺りにはほんの微かに芳香が漂う。良い香りなのは間違いないが、知識のない趙雲には何と形容すべきか難しい。
    「……私の普段使っている物とは違いますね」
     ああ、そうだろう。今香ってきた香は、確かに諸葛亮の部屋で嗅いだものとは違う。香木が色々と置いてある店内では、余り良く分からなかったのだが、今なら流石に趙雲でも分かる。
    「申し訳ありません。なにぶん、香には疎くて」
    「何故謝られるのです。貴方はこれを下さる方なのに」
    「しかし、お気に召さない物を渡してしまっては……」
    「嫌いではありませんよ。ええ、嫌いではありません。むしろ……いや、たまには違う香りも良いものです」
    「そうですか?」
     諸葛亮がそういうので一先ずほっと胸を撫で下ろす。しかしなんて自分は気が利かないのだろうと改めて思う。今までこんな風に、異性に何か贈るという経験はなかったせいだろうか。いや、諸葛亮は女ではないのだが。
     とにかく趙雲は、今まで男女問わず誰かに何かを贈り物をするという機会を持たなかったのだ。この年になって突然相手が喜びそうなもの、気の利いたものを用意せよと言われても、一筋縄にはいかないというのが哀しいかな現実だった。
    「気が向いたら焚いて下さい」
     受け取ってくれただけで充分、という気になっていた。
    「ええ、ありがとうございます」
    「本当に気が向いた時にで大丈夫ですので……」
    「そうですね、眠る前にでも焚かせて頂きますね」
     そう言って、諸葛亮ははにかみながらふわりと微笑んだ。
    ――笑った!
     笑みらしい笑みを、初めて目にした気がする。ただ微笑んだだけの事ではあったが、昨日色々と駆けずり回って香木を買い求めた苦労が報われたような気がした。
     しかしいざ笑いかけられると、趙雲の方が戸惑ってしまう。軽く狼狽しているのが自分でも分かった。人間であれば誰だって笑うのは当たり前のこと。しかし諸葛亮のそれは思いがけない程趙雲に衝撃を与えた。それだけ趙雲の中で、笑う諸葛亮とは珍しい光景だった。
    「い、いえ、どういたしまして……」
     やっとの事で、この一言を絞り出す。ここで気の利いた一言でも言えれば良いのだろうが、正直な話それ所ではなかった。冷静な時ならば気の利いた言葉が出たかどうかは別の話であるが。
    「この香を焚いて眠ったら、また貴方の夢を見てしまうかもしれませんね……」
     軽く目を伏せ微かに笑って諸葛亮は言った。
    「…………」
    挿絵梨音(あっすぅ)
     何という事を言うんだろうか、と思った。その件は趙雲もすっかり忘れていたのに、諸葛亮の方から蒸し返すとは意外だった。
    「それは、なんというか申し訳ありません」
     趙雲がそう言うと、諸葛亮のくすりと笑う声が落ちてきた。
    「誰がどんな夢を見るかなど、基本的には不可抗力なのですから。貴方が気負う必要などありますまい」
     相手の事を想っていれば相手の夢の中で会いに行ける、とは諸葛亮は信じていないようだ。
    「ですが、それでも」
    「……私は、貴方の夢を見る方が良いです」
    「えっ」
     どういう意味だ。趙雲はハッとした気持ちで諸葛亮を見たが、諸葛亮の表情は暗い。なにか切実な理由があるらしいと、すぐに悟った。
    「……夢見が凄く悪いんです。貴方の夢を見るならば、いつもの悪い夢を見ずに済む……」
    「そうなのですか……」
     なんだか少し肩透かしをくらった気分ではあったが、夢見が悪いというのは穏やかではない。諸葛亮がいつも疲れている様子なのは、良く眠れないせいもあるかもしれない。
    「ならば、私の夢を見て下さい」
    「ええ、そう出来れば良いんですけど」
     諸葛亮は苦笑している。先も言った通りどんな夢を見るかは不可抗力だ。見ようと思って夢を変えられるものならば、諸葛亮は今こうやって悩んではいない。
    「私に出来る事は無いですかね……。香で良ければいつでもまた用意しますが」
    「香を替えて効果があるかどうかは、まだ分かりませんから」
    「ああ、そうですね」
     自分で役に立てる事が無いのが歯痒い。何かしてやれる事があれば良いのに、と純粋に悔しく思う。
    「……趙将軍はお優しいですね。こんな事にまで親身になって下さるなんて。士元も貴方を良い方だと褒めていましたよ」
    「いや、そんな事。私は主騎ですから」
    「主騎?」
    「貴方を護る事が仕事です。例え、貴方の夢の中でも」
     諸葛亮が目を見開く。少し気障だったか。
    「……仕事熱心ですね、趙将軍は」
     言い方は若干皮肉めいていたが、表情は柔らかい。笑っている。言ってみて良かったと思った。
    「いえ、当然です。あと孔明殿」
    「なんでしょう」
    「子龍で良いです。子龍とお呼び下さい」
    「…………」
     再び、諸葛亮の目が大きく開かれた。趙雲も諸葛亮を字で呼んでいるのだから、この申し出はおかしくない筈だ。そう思って、趙雲は言った。今の所諸葛亮が字で呼んでいるのは徐庶や龐統など、元からの知り合いしかいない。少なくとも趙雲は知らなかった。だとすれば諸葛亮に字で呼んで貰えれば、周りとは一歩差がつくのか? なんだかそれも悪くない。
    「……子龍殿、ありがとう。この香大切に使わせて頂きますね」
     諸葛亮は香の入った袋を掲げ、笑った。そして背を向けて、そのままゆっくりと去っていく。香の薫りだけが諸葛亮の立っていた場所に残っている。
     趙雲は一人立ち尽くした。動かない、いや動けない。香の薫りは、風が吹く度に見る見る間に薄くなっていく。
    「しりゅうどの……」
     己の字を、というより諸葛亮の言葉を繰り返した。子龍と、確かに字で呼んだ。ただそれだけの事が、やたらに趙雲の心を掻き乱した。
     どうしたものか。言われ馴れている筈なのに、いつもと違う。
     ――一体私はどうしたいと言うんだ。
     自問自答するが答えはでない。いや、本当は最初から答えは出ているかもしれない。答えはあるのに、それを知るのが恐ろしいような――。知ってはいけない、そう遠くで誰かが警鐘を鳴らしている。
     しかし実際は、答えの存在に気付いてしまった時点でもう遅いのだ。その気持ちの正体が何か分からなくても、なにやら自分の思い通りにならない気持ちに気付いた時点で、半分は勝負がついてしまっている。その警鐘に耳を貸すかどうか……それは最早問題ではないのだった。
    「いや、本当にどうしたいんだ……私は」
     じっと立ち尽くす。俄に吹いた強い風が、その場に微かに残った薫りをかき消していった。



    梨音(あっすぅ) Link Message Mute
    2020/11/08 13:14:45

    聞こゆれど

    サイトよりサルベージ。サイト版より適宜修正済み。挿絵有。
    「聞く」というのは耳で聞くのと、香りを味わうのと両方いうそうです。

    more...
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    • 2後日談(干天の慈雨)最近描けてなかったな~と思ったので小説の後日談を少し描いてみる。
      小説の続き書きたいとはずっと思ってるけど、普通に難しくて…時系列的には定軍山の戦いなんですけど、孔明多分お留守番だから…書きようが無いんだ…。
      梨音(あっすぅ)
    • 司馬懿って趣味あるのかな曹丕が物凄く美食や詩歌管弦を愛する趣味人なのに対して司馬懿って全然趣味とか無さそうだよな…と思ったので梨音(あっすぅ)
    • 干天の慈雨成都の外から始まるお話です梨音(あっすぅ)
    • 2こたつこたつは生産性下がるので我が家でも廃止しています梨音(あっすぅ)
    • 5レキソウお疲れ様でした~。表紙の不採用デザイン案もこの際なので載せます。梨音(あっすぅ)
    • 5【サンプル】「頓首再拝」2021/2/13 レキソウオンライン冬祭(ピクトスクエア内開催オンラインイベント)で頒布予定です

      「頓首再拝」
      全28P(表紙含)/A5/400円
      全年齢/オンデマンド印刷
      サークル名:あうりおん

      レキソウオンライン冬まつりで頒布します
      孔明と陸遜が文通する漫画です
      あんまり三国志してない平和なお話です
      CP要素なし
      一番最後のがサークルカットなのでよろしくお願いします
      梨音(あっすぅ)
    • 夏天の成都夏の成都の暑さに辟易する人々。
      手を変え品を変え成都の暑さにへばる劉備軍を描いてるので性癖なんだと思います。
      ラストに挿絵有。
      梨音(あっすぅ)
    • 新しき日々サイトよりサルベージ。適宜修正済み。挿絵有。
      過去1長い話です。黄夫人の存在も好きなので大切にしたい。
      梨音(あっすぅ)
    • あけましておめでとうございます~。今年もよろしくお願いします。梨音(あっすぅ)
    • 天府の地へサイトよりサルベージ。適宜修正済み。挿絵有。
      馬超と馬岱の服装は羌族の民族衣装を参考にしてます。
      梨音(あっすぅ)
    • 3馬岱詰め以前RaiotというイラストSNSにアップしてた漫画のデータが残ってたので、改めて描き直しました。
      アップしようとしてただけかもしれない…。
      梨音(あっすぅ)
    • 別離の岸辺サイトよりサルベージ。適宜修正済み。挿絵有。
      短いですが転換点的なお話。
      梨音(あっすぅ)
    • 某月某日サイトよりサルベージ。適宜修正済み。挿絵有。
      一度やってみたかった作中作と言うべきか?作中人物の書く文章だけで進むお話が書けて楽しかったもの。
      自分的にはお気に入りの章。
      馬良と趙雲が仲良くしてるのをもっと書きたかったけど、馬良はもう趙雲と会うことはない…
      梨音(あっすぅ)
    • 陸遜の結婚陸遜と朱然のCPってなんて表記するの??(これはCPなのか?)

      陸遜の奥さんが孫策の娘だったという事は陸抗の母が孫策の娘という記述から分かるのですが、孫策の娘だと陸遜と年が結構離れてる…?
      呉主の姪にあたる女性を二番目以降の奥さんにするかな~と考えると、初婚の正室…?逆にそうなると陸遜結婚おそかったのか…?
      とまで想像して、若い頃山越討伐に忙しすぎて独身長かった陸遜良いなぁ~とか思いました。
      一人目の奥さんが子どもできなくて離縁…とかも良くある話なので、そんなんでも全然ありそうですけどね。
      夭逝した陸抗の兄は最初の奥さんが産んだ可能性もある。

      陸抗の母が孫策の娘というだけで大喬の娘か分からないけど、孫策は孫策で若くして亡くなったので、他に子供を産むような奥さんが居たのかな~と思ったので大喬であってほしい。
      しかし改めて考えて孫家に対して思う所もあったであろう陸家の陸遜が孫家のご令嬢と結婚したっていうのはエモいですよね。
      梨音(あっすぅ)
    • BOOTHに「軍師殿と私」の紙版を追加しました。安くない金額出して買うまでの事はないと思いますが、もし興味ある方がいらっしゃいましたらよろしくお願いします。

      https://gesusu.booth.pm/items/2589683
      梨音(あっすぅ)
    • 陽光煌々たりサイトよりサルベージ。適宜修正済み。挿絵有。
      オリキャラがそこそこでばります。
      私の脳内の龐徳公を上手く表現できませんでした。
      梨音(あっすぅ)
    • 4他勢力の人達(現パロ)原稿の息抜きに丁度良いんです…
      なんだか人のパーソナリティをネタにした漫画が多くて良くないなぁ…と思ったのですが、載せます
      関羽と張飛が現代人やってる姿が全然想像できなくて登場させられない
      曹丕はキラキラOLだとフォロワーに思われている
      梨音(あっすぅ)
    • 繰り返し見る夢サイトよりサルベージ。適宜修正済み。
      記憶からは失われていますが、タイトルお題をもとに書いたようです。
      一部孔明の一人称で進む部分があるなど、本編とは外れた番外編の様な扱いです。
      本編中で孔明が度々言っている「悪夢」の内容が主にコレです。
      梨音(あっすぅ)
    • 居場所サイトよりサルベージ。適宜修正済み。挿絵有。
      アンジャッシュ的な奴好きなんだろな過去の自分。
      梨音(あっすぅ)
    • 4性懲りもなく現パロ原稿の息抜きに描いてるつもりが楽しくて増えた奴。
      前髪と髭は偉大だなぁと思いました。
      梨音(あっすぅ)
    • 渇愛サイトよりサルベージ。適宜修正済み。挿絵有。
      サイト掲載時ずっと「喝愛」と誤字ってたんですが、「渇愛」が正しいです。
      初の孔明視点。
      梨音(あっすぅ)
    • 江南の姫君サイトよりサルベージ。適宜修正済み。挿絵有。
      この章については趙孔というより劉尚です。
      梨音(あっすぅ)
    • 2お香にまつわる四コマ以前もお香ネタのこの様な漫画描いた気もします…。孔明のイメージフレグランスはパチュリーだという事は延々と言っていきます。梨音(あっすぅ)
    • 4現パロ(自分の)誕生日にはいつもやらないような事をやりたい!と思って描いたら楽しくなって続きも描いた現パロです。三国志のさの字も無いので閲覧注意。趙孔です。

      孔明は有能だが納期の融通とか一切認めない開発課のエースとして営業の間で有名になってるのを本人は知らない。孔明は経理課も似合うなー。サンドイッチ大きく描きすぎた。
      梨音(あっすぅ)
    • 窈窕たる淑女は何処サイトよりサルベージ。サイト版より適宜修正済み。挿絵有。
      「窈窕淑女」は詩経の窈窕の章がネタ元。
      桂陽の寡婦騒動はエンタメとして最高。
      梨音(あっすぅ)
    • 夢で逢いましょうサイトよりサルベージ。サイト版より適宜修正済み。挿絵有。
      改めて読むとなんだこの話は…ってなりますね
      梨音(あっすぅ)
    • 武器と仮面とすれ違いの興奮サイトよりサルベージ。文章適宜修正しています。紙媒体用に直してるのでWEBだとやや読みづらいかもしれません。
      作者の私自身が当時正真正銘若かったせいか、作中の孔明や趙雲の言動が妙に若いと云うか、軽いと云うか、そんな感じが強いのが少々気に入らないのですが、後半より彼らも実際若いしなと思って原文の雰囲気を残してます。
      今読むともうこの時点で無自覚に惚れてません?
      梨音(あっすぅ)
    • 一個上げ忘れてた↓梨音(あっすぅ)
    • 7小説本作る際の挿絵没絵です。1枚目だけ資料として描いた孫尚香。どの場面の絵かはご自由にお考え下さい。梨音(あっすぅ)
    • 4軍師殿持ち上げチャレンジクリスタ買ったので習作として描きました梨音(あっすぅ)
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