繰り返し見る夢 焦げるような臭いが辺りに充満していた。それに腐臭。焼かれる臭いと腐る臭いだけが充満し、それ以外の臭いを忘れてしまったような世界。もはや鼻を摘まむ事も息を止める事も辞めてしまった。もう慣れてしまったから。かれこれ一週間以上この臭いに閉じ込められている。恐ろしい事に、既に身体はこの状況に順応し始めているのだ。
それでもこの不快感は止まない。身体ではなく心が感じている。心まで慣れてしまったら……。そうなってしまった時が怖くて、必死に不快感を呼び起こした。もしかしたら自分で思い込んでるだけで、本当は不快でもなんでもないのかもしれない。そう一度考えってしまって総身が震え上がった。自分を守るために不快感にしがみつく。
外は一面の焼け野原だ。既に燃え尽きて灰になったものもあれば、まだ微かに燻っているものもある。茶色い地面の上に、黒い炭と灰と煙だけが存在している。立っているものは何も無い。消し炭となって倒れたもの達の中には家屋や草木もあれば、人の形を残しているものもある。かつてここに村があった事を想起させるもの達。家があり、木が生え、人が暮らしていた痕跡。それが今は少しの形だけをのこして、灰塵へと帰している。少し前まで、ここで自分と同じ人間が生きていたのだと思うと、全身を寒気が襲った。確かに存在していた命が、まるで最初から無かったように奪われる。そしてその可能性は誰にも等しく振り分けられている。勿論自分だって例外ではない。
いつこの命が奪われるかは誰にも分からない。当然のように大人になり、老い、死んでいくのだと思っていた自分の浅はかさが恨めしい。その様な甘い考えは父が死んだ時に棄てた……と思っていた。本当は全くそんな事なかったわけで。
「亮、外を見るのはおやめなさい」
ピシャリと言われてハッと我に帰った。薄く開いた扉を閉め車内へと向き直る。幼い弟を膝に乗せた母がこちらを詰るような目で見ていた。息子を心配するというよりは、扉を開け放しにされるのが嫌だったのだろう。母の目には叱るという風はなく、責めるとか、嫌悪感といった表現が良く似合った。
「申し訳ありません、母上」
とりあえず謝っておく事にした。扉の向こう側の景色が彼女の視界に入るわけでもない。鼻をつく臭いが扉によって遮られるわけでもない。何をそこまで神経質になる必要があるのかと思いつつも、彼女の気持ちも分からなくはなかった。
母は世間的に見てもまだ若い。夫に先立たれこれからどうしようかという時に、兵民の区別なく全てを滅ぼさんとする曹操軍の襲来。気が滅入り、癇癪気味になるのも無理はない話だ。 己が母相手ながら同情する。
「母上、均は喉が渇きました」
「徐州を出るまでは我慢なさい」
母の膝を占領する弟がにわかに母に要求した。母に言われても納得できないとばかりに弟はぐずる。まだ幼い少年だ。我慢しろという方が難しい。
「我慢出来ません、何か飲みたい!」
「こら、均。大人しくなさい!」
母はなんとか息子を黙らせようとするが、一筋縄ではいかない。母の怒りの限界が近付いて来ているのが手にとる様に分かった。どちらかといえば平素は穏やかな性格の母が、今ばかりは人が変わってしまったかのように顔を歪ませている。
「黙りなさい! 黙らないと……ッ」
「母上!」
母の振り上げた手が弟に下ろされる前に、口を挟んだ。母の手が高い位置でピタリと止まり、所在なさげにさっと下ろされる。決まりの悪そうな表情をした母は、何事かといった表情でこちらを見る。
「亮?」
「私が飲める水を探して参ります」
「な、何をいうのですか。外は危険です。一刻も早くここを離れるべきでしょう」
「ですがこのまま州境まで飲み水無しでは皆持ちません」
脱出時に運び出した飲み水は既に尽きていた。自分、母、弟、今は何も知らずに眠っている妹、そして御者を含めた五人が、このまま飲み水無しでは耐えられるとは思えなかった。食物はともかく、水はどうしようもない。
「停めて下さい」
母の許可を待たずに御者に停止させるよう命じた。馬車は、一部が焼け落ちたらしい家屋の陰に停まった。
「すぐに戻りますから」
空の革袋をひとつ持ち、いそいそと車から降りると、例の鼻をつく異臭が襲ってきた。車内からは母が叫ぶ声が聞こえたが、聞こえなかった事にしてして焦土と化した大地へと久方ぶりに足をつけた。
先程より腐臭が強まったように感じる。それと同時に遠くから水の流れる音が聞こえた。恐らくこの近くに河があるのだろう。この鼻をつく腐臭も、恐らくそこから発生しているものと思われた。見たわけではないが大体は予想がつく。河に所狭しと死体が浮かんでいるのだろう。火に焼かれて逃げてきた人々だろうか。上流で死んだ死体が、ここまで流れてきたのかもしれない。人間以外のものもあるかもしれないが、まとめてそれらは死体だ。焦げ墨になってから落ちたのでなければ、恐らく水を吸ってブクブクに膨れた水死体になっている。女は俯せに、男は仰向けに。だがそれらは元の身体の線が分からなくなるほどに、ふやけててしまっている事だろう。
なんにせよ、その様な河の水は飲みたくない。どこかに井戸はないだろうか。泉などでも良いが、市街地であったらしいこの辺りで見つかるとは思えなかった。井戸にも毒が入れられている可能性がなくはないが、曹操軍は市民をその場でただなで切りにしている。わざわざ井戸に毒を入れるような丁寧な真似は、していないと信じたい。死体が浮かんでいる様な井戸もダメだ。流れている水ならともかく、井戸水の様な溜まった水に腐乱物が入ると、それだけで水が毒になる。戦ではわざわざ敵地の井戸に排泄物や腐乱物、主に動物の死体だが……を入れる事もある。
引き続き水を求めて彷徨う。暫く歩くと、大地の向こうに小さな集落の焼け跡が見えた。あそこになら井戸があるかもしれないと思い、歩を速めた。短い歩幅で必死に歩くせいで、息は簡単に上がる。それでもようやく辿り着いた集落は、他の場所に比べればいくらか被害を免れていた。
実際に近づいて見ると、軒を連ねた住居の殆どは形が保たれていた。住人は既に逃げたあとだったのか、集落は不気味なほど静まりかえっている。集落の形が残されているだけに異様な雰囲気だ。しかし、むしろそれは却って都合が良い。この分なら井戸も期待が持てる。大抵ならば集落の中心にあるはずだと考えて、ずんずんと中へ入って行くとすぐに目当てのものは見付かった。
薄汚れた蓋を外して井戸の中を覗く。光の届かない内側は暗くて視認が難しいが、おかしな物は何も入っていないように見える。とりあえず一度水を汲んでみる。桶の水を嗅いでみたが特に異臭はしない。試しに少し口に含んでみても、おかしな味はしない。飲めそうだ。
再び水を汲み馬車から持ってきていた革袋に注ぐ。予想はしていた事だが、水の入った重量は先程までの比ではない。子供が持てるギリギリの重さ。その革袋を肩に担ぎ上げゆっくりと歩き出す。歩はふらふらと軸が定まらず揺れて、ただ前に進むだけでもままならない。往路もかなり長く感じたが、復路は更に長くなりそうだった。長いため息をついた。
……その時、気付いた。足音。人の声。間違いなく誰かいる。誰かが近づいて来ている。一気に全身から血の気が引いた。
確かにさっきまでは何の気配も無かったはずだ。何故だ何故だと繰り返しているうちに、人の気配は着実にこちらへ近付いて来る。この様な無人の集落跡に一体なんの目的があってやって来たのか。逃げなければ――! 理屈ではなく瞬間的にそう思った。
全身を嫌な予感が駆け抜ける。
そうは言っても子供の足だ。走って逃げられる距離などタカが知れている。ここはひとまず建物の物陰に隠れてやり過ごす他ない。遮二無二構わず、身を潜める場所を求めて駆け出した。その時――
ドサッ。
「!?」
しまった! 肩から落ちた革袋が盛大な音を立てて、地面に落ちた。革袋の周囲にはもうもうと砂埃が巻き上がっている。革袋は重さは勿論、体積もそれなりのものだ。その革袋が地に落ちた衝撃は予想以上に大きく、私を驚かせた。問題なのは砂埃などではない。音だ。 革袋が地に落ちた瞬間、思いがけないほどの大きな音が出た。無論それは普段ならば街の雑踏に掻き消えてしまう様な程度だが、無人の寂れた集落跡の中では思うよりも高く響いた。
まずい――一瞬血の気が引くのを感じながら、直ちに革袋を回収する。一度手から離れたそれの重さはやはり変わらず、咄嗟には持ち上げられない。その間にも、人の気配は無情にもこちらへ近付いてくる。
「何か今音がしなかったか?」
足音に紛れて声が届く。恐れていた事態が起きてしまった。今の音は向こうの耳にも届いていたらしい。遠く聞こえてきた声は男の低い声だった。年齢は定かではないが、若くも年寄りでもない印象だ。更に血の気が引くのを感じた。壮年の男がこんな場所へ何の用だというのだ。脳裏の片隅でそんな事を考えながら、やっと肩に戻った革袋を抱えて再び走り出す。
走れば当然足音がする。それでもみつかる危険性と秤にかけて、一刻も早くどこかへ隠れる事を選んだ。
「人の気配がするな」
男の声はすぐ向こうの路地の裏から聞こえてきた。絶望的なほど近い。それでも間一髪の差で角を曲がりきった。角に入るのが一歩遅かったら見付かっていた。
「砂埃が立ってるな」
背後から聞こえる声に冷や汗をかきながら、出来るだけ足音を立てない様に走る。近くなった男の声は、耳に入った瞬間下品た印象を受けた。徐州の都では聞いた事のない、荒くれた感じの低い声。当然これで貴族の主人なんて事はありえない。ますます気が沈む。絶対に見付かりたくない。
その時、向かいに戸が開け放たれた粗末な小屋の入り口が目に入った。どうせ住人はいないのだから、勝手に入って悪い事があろうかとやっと気が付いた。既に疲れきった脚をなんとか動かして、その戸口へとひた走る。この中に入ってやりすごそう。一先ずはそうするしかなさそうだ。
「いたぞ!」
背後から声が響く。見付かった。視界が一瞬真っ白になる。もう隠れる事は叶わない。無意識に振り返った。丁度路地の角の地点から男が三人こちらを見ている。そのうちの一人が、こちらをまっすぐ指差しているのが見えた。
男達は案の定、粗末な装いと不釣り合いに大きな剣を腰に刺している。どうみても素行の悪い荒くれものだ。血の気が引くなんてものでは、最早無かった。全身から力が抜け、腰から頼りなく崩れ落ちた。逃げなければと思う気持ちと、逃げても所詮無駄だという諦めが頭を駆け巡る。頭だけはグルグルと慌ただしく動いているが体は動かない。力が全く入らない。自身の体が小刻みに震えている事に気が付いた。自分でも嫌悪したくなるほど自分は臆病だった。
「オイ、小僧。お前一人か?」
男達が近付いてくる。至近距離で見ると、皆それなりに引き締まった体をしている。だが体よりもその瞳に目がいった。ギラギラとした、獣の様な目。今まで出会った事の無い人種だった。
「何を持ってる」
「あ……ぅ……」
喉が震える。掠れた息ばかりでまるで声にならない。自分が何を言おうとしていたのかも、正直分からない。
「逃げ遅れたガキか。それを寄越せ」
へたりこんだ時に同時に地に落ちた革袋が、男の一人によって奪われた。しかし、中身が水だと分かるとつまらなそうに投げ棄てた。
「水を探しに来てたのか」
「見た所良い身形をしてやがる。戦の前は良い暮らしをしていたお坊っちゃんだったんだろうな」
男達は腰を下ろして、ニヤニヤしながらこちらを取り囲んだ。男達に囲まれ、ムッとするような汗の臭いと生臭さが鼻をつく。
完全に囲まれた。もう逃げられない。囲みを運良く抜け出せた所で、この体格差ではあっという間に捕まるだろう。見付かった時点で望みは断たれていたのだ。
「けっ、めぼしいモンは全部持っていかれちまってらぁ」
囲みを離れ、辺りの民家の中を物色していた男が言った。やはり男達は盗賊……この場合は火事場泥棒といったかもしれない。戦の騒乱につけこんで、上手い汁にありつこうという連中らしかった。しかし幸か不幸か、こちらは水以外は何も所持していない。何も奪われる物は無い。だったらすぐに解放してくれるだろう……そう思った。
「女もいないか」
正面に立つ男が言った。脂ぎった顔には男臭い髭が散っている。
「女どころか、人っ子一人いやしねぇ」
「あーあー、女を抱きてぇなぁ」
正面の男がぼやき、もう一人の男も頷いた。離れていた男も戻ってきて、二人に相槌を返している。
「……待てよ」
正面の男の目がキラリと光り、一拍遅れてニヤリと口角をあげた。男と目が合い、背筋にゾッとうすら寒いものが走る。
「この際この小僧で良いか。良く見りゃあ線も細いし、綺麗な顔してる」
男はニヤニヤしながら愉快そうに言った。男の言わんとしている事が分かり、目の前が暗くなるような衝撃を覚えた。何も奪われずに解放されるなどという考えは虫が良すぎた。まだ奪われる物を持っていた。
「俺、男は抱いた事ないぜ?」
周りの男も口では驚いているような事を言うが、顔は同じ様にニヤニヤと笑っている。男達の嫌らしい表情に、悪寒が止まらない。カタカタと音がなりそうなくらい身体が震えていた。
「貴族の坊っちゃんだったんだろうなぁ。年が経てば偉そうに俺達に命令する様な身分になる筈だったんだろう」
男の一人が、乱暴にこちらの腕を掴んだ。男達の目は好奇と欲情と、憎悪に染まってギラついていた。
「や……やめ……」
必死の抵抗を試みるも、体は震え、声すらも出せない。
「うるせえっ!」
思いっきり頬を叩かれた。衝撃で飛ばされ、地面に叩きつけられる。砂埃が巻い、息苦しさと痛みで涙が出た。どうしてこんな目に合わなければならない。怒りと情けなさで目頭が熱くなる。
「こんな良い身形の小僧を犯せるなんて機会そうそうねえ」
舌なめずりでもしだしそうな様子で、倒れ込んでいるこちらに男が覆い被さってくる。周りの男も、同じ様な表情でこちらを取り囲んだ。
信じられない。どうしてこんな事になったんだ。戦のせいだ、曹操のせいだ……怨みの言葉ばかりが頭を駆け巡る。男の腕が乱暴に襟を掴む。痛い。
「孔明っ!?」
俄に自分の字を呼ばれて、一瞬のうちに意識を引きずり戻された。全力疾走の後の様に動悸が荒い。荒ぶる鼓動を抑えながら周囲を確認する。明るい室内。賑やかな談笑に囲まれている。突然様変わりした視界に頭がついていかない。暫しの間今自分がどんな状況に置かれているのか、理解できずに呆然とした。
しかし、目の前のこちらを心配そうに覗き込む顔を見て、ようやく理解がおいつく。劉備玄徳――私の大切な、主君。
「孔明、大丈夫か?寝ながらうなされていたが……」
「私は、眠って……いたのですか」
目をこすり、息を吐いて少しばかり記憶を辿る。そうしてやっと思い出すことが出来た。そうだ、私は宴の席にいたのだ。
宴がどういう理由で催されたものだったかは忘れた。いつもの如く下らない理由であった事だろう。その中で私は、特に誰と杯を酌み交わすわけでもなく、ただボーッと右横に座る劉備様の席を見ていた。
私と違って、劉備様の元へは酌をしに来る人が絶えない。劉備様もその一人一人に親しげに声をかける。私はそんな様子を、ご苦労な事だ……とただ、眺めていた。
次第に目蓋が重くなってくる。ここの所ろくに睡眠を摂っていなかった為か、こんな場所にも関わらず睡魔に襲われた。そして私はそのまま、座ったままの体勢でつらつらと眠りの淵に沈んでいったらしい。この様な騒がしい場所で良く……と思い、苦笑するしかない。
改めて見渡せば、私が眠りに落ちる前より宴の席は幾分か落ち着いていて、皆思い思いに酒と肴を楽しんでいる。あれだけ劉備の周りを囲んでいた人影も、今は見えなかった。
「申し訳ありません、寝不足だったようで」
「いや、良いんだ。しかし疲れてるんだろうな。辛そうな顔で眠っていたぞ」
「それは……」
夢のせいだ。ただの夢ではない。あれは確かに昔私が体験した、過去――。
「悪い夢でも見ていたか」
私は劉備様の言葉に小さく頷いた。
「いつも見る悪夢なんです」
「悪夢をいつも見るとは、そりゃあ災難だなぁ……どんな夢なんだ?」
「……昔の光景です。私がまだ幼かった頃の……」
劉備様はその言葉だけで察して下さったのか、それ以上は詮索してこなかった。徐州での事は……、きっとあの場にいた皆に悪い記憶として刻み付けられているのだろう。自身、その時の徐州にいたらしい劉備様なら言わずとも分かって下さる。
「ならば、起こして良かったな」
「……ありがとうございます。でも、最後は救いのある終わり方をするのです、いつも」
「ほお?」
「最後はいつも……幼い私を助けてくれる方が現れるのです」
そう、あの後の展開を私は知っている。暴漢に襲われかけた私を、偶然居合わせた男が助けてくれるのだ。暴漢達はその男と、男が連れていた部下の者達にうち倒され、私はすんでの所で救われる。事実、私は昔その様にして助けられたのだった。
私を助けてくれたあの男が何者だったのか、未だに分からない。あの場にいた部下以外にも、多くの兵を連れていたらしい。今思えばどこぞの将軍だったのかもしれない。今から向かう所があるからと言うので、その男とはその場で別れた。「真っ直ぐ家族の元へ戻るように」と言う別れ際の男の言い付け通り、私は皮袋を持って一目散に家族の待つ馬車へと逃げ帰った。男に言われるまでもなく、これ以上一人で出歩くつもりはなかった。
「本当は送ってやれたら良いんだが……」と、最後に言った男の笑顔が、優しかった事だけは覚えている。それ以外は顔も声も背格好すらも覚えていない。もう数十年前の幼い頃の話であるため、記憶は随分曖昧だった。夢で見る時は、顔の辺りだけがぼんやりと霞んでいた。それはその男に限った事ではなく、夢に出てくる家族以外の全ての登場人物も同様だった。場面場面で人物が印象的な目や表情をしたことだけを、覚えているのである。
「じゃあ、私が起こさなくても良かったのかな」
劉備様が、冗談めかした笑顔で言う。相当酔いが進んでいるのか頬が紅に染まっている。あれだけ酌をされては当然だろう。その姿が無性に微笑ましくて、私はほんのすこし笑った。
「いえ、嫌な夢には変わりありませんので。ありがとうございます」
「そうか? なら良いんだが」
劉備様はそう言って、右手に持っていた杯を差し出した。中は酒で満たされている。
「殿?」
「飲め、孔明。酔って眠れば夢は見ない」
この人なりの慰めだろうか。
「……頂戴いたします」
酒を溢さないように、私は慎重に杯を受けとる。あまり酒は好きではないというのは、この際黙っておこう。
「もう夢を見ないと良いな」
酒は苦く、それでいてどこか甘かった。確かに酒であの夢を見なくなれるなら願ってもない事だ。荊州に来たばかりの頃から、幾百の夜も私を苛んだ悪夢。その夢は、ただあの男が助けてくれる事だけが救いだった。
あの男は、何者だったのだろう。今再び逢う事が出来るなら、その時はこうやって苦手な酒を酌み交わすのも悪くはない。
でも――
「ありがとうございます、殿」
今はこうやって、目の前に私を救って下さる方がいる事をに満足し、そして感謝しなければならない。