天府の地へ 秋風と呼ぶにはあまりに冷たい風が吹き、朝には草木に霜が降りる季節となった。尚香が去った哀しみから未だ劉備軍の面々が立ち直れずにいる頃、益州の主君劉備から突如援軍要請の急使が届いた。突然の事に皆は哀しみも一時忘れて驚いたが、急使が携えた手紙にはまた一つ驚くような事態が書き記してあった。
――龐統戦死す。
劉備に付き従い、益州への遠征に赴いていた軍師龐統が死んだ。従軍中、流れ矢に当たって絶命したのだと手紙には淡々とした文字で記されている。あまりにも突然の訃報だった。当軍はまず軍師を失い、士気を落とした所を盛り返され劣勢に立たされている。手紙はさらにそう続いていた。
この急使によりただでさえ意気沈みがちだった荊州在中の諸将らが、一層気を落としたのは言うまでもない。誰もが皆龐統の生前の飄々とした振る舞いを思いだし、胸を痛めた。諸葛亮とは違う雰囲気で、荊州の大豪族の血統の、間違いなく優秀な軍師だった。出征前の見送りがまさか今生の別れになるなどと、誰が予見出来たであろう。もっと別れを惜しんでおけばと悔やむ空気が荊州の地に満ちた。
しかし、急使の目的は援軍の要請である。急遽孔明の命により主だった将官らが一堂に召集された。勿論召集された面子の中には趙雲も含まれている。
文官、武将関係なく召集されたため、部屋には入れきれず廊下に立つ者もいる。その中で趙雲は部屋の奥に立ち位置を確保する事が出来た。堂内は人で埋め尽くされて空気も澱んでいるが、文句は言えまい。
「益州におわす殿より援軍の要請が参りました。幾人か選抜し益州へ兵を送らねばなりません」
人いきれがするほどの群衆の中、部屋最奥中央に立つ孔明が声を発した。決して大きくは無かったが不思議と良く通る声である。いつもの如く、諸葛亮は黒衣に羽扇の出で立ちであった。皆が孔明の発する一語一語に耳を傾けており、堂内は不自然なほどの静寂が張り詰めていた。緊張した空気が場を支配している。
「荊州を空けるのも正直不安は残りますが、ここは荊州に残る髭殿を信じましょう」
元々遠く江陵の地に留任している関羽はこの場所にはいない。
「関兄者なら間違いねぇ」
比較的孔明の近くに陣取っていた張飛が言った。張飛の副将を介しその隣に趙雲は立っている。張飛よりは諸葛亮から遠い位置。流石に張飛の大音量の声は群衆の中でもお構い無しらしい。張飛の発言が聞こえた皆々が首肯するのが趙雲からも確認できた。関羽はやはり劉備軍の内でも特異な存在なのだ。
「季常は荊州に残って髭殿を支えるように」
「え、私がですか?」
孔明からやや離れた、文官達が固まった場所にいた馬良が答える。眉が白いという特徴があるため、小柄な体躯ながら見つけるのは容易い。
「季常になら問題なく役目を果たせるでしょう。それに、そちらの方が貴方には向いていると思います」
気が優しい馬良は従軍させるより荊州に残って政治をさせた方が良いと言うのには、趙雲も同感であった。そんな孔明の気遣いが分からない馬良ではない。若干の戸惑いはあるようだったが、馬良は最終的に孔明の指示に従う意志を示した。
同様にその他諸将百官らに大まかな指示を出して今日の軍議は終わった。軍議中、趙雲はほとんど孔明の顔を見ることが無かった。いや、見られなかったと言った方が正しいだろう。流石に趙雲への指示を仰ぐ時は向かい合ったが、それすらもほんの短い間のこと。趙雲を見る孔明の顔からは、申し訳なさそうな感情が滲み出ていた。
そんな顔をさせたかったわけではないのに、と歯痒くて哀しくて堪らなかった。何故あんな事を口走ってしまったのかという自問自答は既に数え切れない程繰り返している。決して孔明を困らせたいわけではなかった。それでも何故かあの時は言ってしまいたい気分になって、結果あんな事になってしまった。孔明の方もそう望んでるのではないかという気がしたのだ、あの時は。今となってみれば完全なる思い違いではあったのだが。思い上がりも甚だしい事この上ない。
しかし遠征ともなれば暫くはそれどころではなくなる。戦が始まるというと出立前から何かとやる事が多くて、物思いに耽っている暇など無いはずだ。その事実が今の趙雲には正直ありがたい。ひとまず邪念は頭から取り去って、趙雲は出征の準備に精を出した。
益州へ向かうには水路が一番簡単だ。孔明以下劉備軍の面々は船に乗り、長江を下って益州の入り口までなんなく兵を動かすことができた。流石にこの辺りまで劉璋軍の手は及ばない。
下船が完了すると、孔明は趙雲と張飛を中心に軍団を分け、それぞれ道中の敵を撃破しつつ益州へ入るよう指示を出した。その一方、自身は敵がいないと思われる道を選び、真っ直ぐ劉備のもとへ向かう進路をとる事にした。龐統を失った劉備は恐らく動揺していることであろうし、総大将の動揺は全軍の士気の低下に繋がる。とりあえず援軍が入ったと分からせる事で味方の意気も上がろうし、敵への牽制になるとの考えによるものだ。張飛も趙雲も、敵小隊を撃破して進むくらいならばいちいち軍師の必要も無い。孔明は自隊の兵にもなるべく軽装をさせ、強行軍とは言わないまでもかなり駆け足に益州へと入った。
劉備の軍と合流するまでに大した敵と遭遇しなかったのも幸いであった。道中に点々と戦の痕跡を認める度に、戦闘がいかに激しかったかが自ずと思われる。崩壊をした村落を目にした時は流石にひどく胸が傷んだ。戦火は益州の民にも降り掛かっている事実から目を背ける事はできない。劉備がはじめ益州に入ってから、既に一年以上の月日が経っていた。
「おお、孔明。よく駆け付けてくれたな。涙が出る思いだ!」
一年以上時を跨いで久々に再会した劉備は、以前より多少痩せている様には見えたものの、あまり変わった様子はない。これ程まで長く戦場にいるのにさほど疲れた様子が無いのには流石の孔明も驚きを禁じえなかった。劉備の今までの人生を思えば、膠着状態の対陣くらいではそう大変なものではないのかもしれない。孔明は見た目以上に己が主は気丈夫なのだと改めて気付かされた。乱世の英雄とはどういうものか思い知らされる。
「殿もご無事なご様子でなによりで御座います。して、現況を出来るだけ詳細に知りたいのですが」
孔明は再会の挨拶も程々に早速本題に入る事にした。荊州にいた頃から頻繁に軍の状況を伝えさせていたし、今も多すぎるくらいの斥候を出してはいたが、それでも実際に戦っていた軍の者からしか得られないものも多い。
「そう言うと思ってな、予め纏めて記しておいたぞ。これを読むと良い」
思いもがけず手回しの良い回答に驚きつつつも、そこはひとまず置いておき劉備が差し出した竹簡を手に取る。つらつらと黙読すると、内容は秩序立てて状況が纏められており実に分かりやすい。劉備が書いた物ではないだろう。筆跡が劉備のものではないが、それ以前の問題だった。
「……よく纏められておりますね。誰がこれを?」
「法正だ。字に興しておこうと提案したのも奴だ。」
法正かなるほど、と思った。劉備が荊州を発つ前に軍議で数回話した事があるが、冴え渡る様な切れ者であったと記憶している。龐統が非業の死を遂げても、最悪の事態と言うほど劉備の軍が乱れなかったのは、この法正の尽力によるものであると孔明の耳に入ってきていた。
「状況はどう思う、孔明?」
「法正の方はなんと申しております?」
この記録を法正が纏めている間、法正とて何も考えず機械的に手を動かしていたものとは考えにくい。法正は法正なりに自分の知識と見解を交えながらこれを書いたのであろう。それに孔明自身、法正がなんと考えているか興味があった。
「そうだなぁ。芳しくはないが、難しい状況ではないと」
「そうですか、私もその意見には同意です。いや、援軍が到着すれば事態は一気に改善できます」
孔明の言葉に、劉備は意外そうに眉を上げて返した。
「法正より幾らか楽観的だな」
「我が軍の強さを目の当たりにしていない法正がそう言うなら、実際はもっと上手くいくでしょう」
なるほど、と言って劉備はカカと笑った。劉備のこう言った開けっ広げな笑いを聞くのも久々のことで、孔明の胸にじんわりと温かなものが広がっていく。
「龐統が死んだ」
笑いをおさめた劉備が、実に何でもない調子で言った。
「ええ、落鳳坡という、冗談の様な場所で戦死したのだと」
「私を怒らないのか? 孔明よ。ホウ統はお前の学友であり、姻戚でもあったろう」
劉備は芒洋とした薄い笑みをたたえて言った。笑みこそ微かに浮かべているが、感情の無い顔だ。劉備はこの顔で、己の感情を隠す術を意図せずして身に付けている。相手の感情を見定めようとする時に、無意識にこういう表情を浮かべているようだ。
劉備は若い頃は配下に支えられるだけの能無しだと揶揄された事もあったらしいが、孔明からすれば劉備は身に付けようとて身に付くものではない何かを、沢山持っていると思う。こういった力は、上に立つべきものが持つべくして身に付けたものだとしか、孔明には思えない。軍師として非常に羨ましいその能力は孔明には無いので、常に羽扇を携えて必要な時は顔を隠すことにしている。
「怒るなど、私にその様な権利があるのでしょうか」
「私は結果的に徐庶に龐統、お前の親しい者をお前から奪っている」
「憎むべきは乱世でしょう。それに二人とも、自らの意思で殿に仕えたのですから、なんの後悔がありましょうや。無論、私とて同じこと」
孔明は羽扇を使うこともなく、真っ直ぐに劉備を見据えて言った。劉備の方も真正面から孔明の視線を受け止め逸らさない。そうして一拍置いて、「そうかな」と言って笑った。笑う時は非常に人懐っこく笑える所がまた、劉備の才だと孔明は思う。
「正直、哀しみがないと言えば嘘になりますが、私は生来やるべき事が目の前にあると、そちらにばかり集中する頭をしているようです」
「ほう、それはありがたい事だな」
趙雲のことも――今こうやって課題が目の前にあるから、今はとりあえず考えずにいられる。実際に顔を合わせでもしない限りは大丈夫。だけど状況が落ち着いたならば、ちゃんと向き合わなければならないと思っている。
「だが龐統の死を無駄にするわけにはいかないからな。出来るだけ早く決着をつけたい」
「ええ。援軍が集まり次第、反撃に移るとしましょう」
ちょうど話し終わった時、法正が幕舎に入ってきた。孔明は法正に会釈をして、入れ替わりになる形で幕舎を出た。
張飛の軍が先に、それとあまり間を置かずして趙雲の軍が無事に合流した。各個敵を撃破しつつ郡県を平定しながら進むという指示も、概ね遂行できたらしい。
劉備軍は、強い。力と力でぶつかり合う様な戦なら、曹操軍にとてひけをとらないと孔明は思っている。その力を活かすのが軍師たる己の役目……それも良くわきまえている。張飛の軍も、趙雲の軍も、士気は高く状態は良い。彼等の兵を一部先発組の軍へ組み込んでみた。彼らに感化されて、疲弊している隊が元気になれば良いのだが。
「俺の軍はいつでも戦えるぜ、軍師よ」
そういう本人自身が一番暴れたくてうずうずしているのだろう、張飛が実に元気良く言いに来た。しかし今はそういう張飛の暴力的なまでの力強さがありがたい。
「張将軍には、巴郡へ向かって頂きましょう。厳顔という劉璋の宿将が守っているはずです。名将だという話もありますので、油断なさらぬよう」
「心配されるまでもねえさ! 荊州に残ってる兄者の分まで頑張らねえと」
こういう時の張飛は本当に強い。援軍と合流した劉備軍の士気は上々で、多少の劣勢なら跳ね返せるだろう。孔明は張飛を信頼する事にして早々に進軍させた。
孔明が張飛のもとから中央の幕舎へ帰ろうとする帰路の途中に、趙雲が立っていた。ちょうど向かい合わせになる形で歩いてきた所、孔明の姿を見つけて立ち止まったのであろう。孔明と視線が合った瞬間、気まずそうに目をそらした。その様な態度は、今までの趙雲ならば決してする筈は無かった。
そのよそよそしい態度に孔明は悲しくなり、趙雲がそうするのも自分のせいだと思うと、余計に辛くなる。孔明が歩み寄らねば、この距離は縮まらない。このまま黙っていては、そのうち趙雲は去っていってしまうだろう。
「子龍殿……」
孔明の呟く声に反応して、趙雲の身体がピクリと反応する。ゆっくりと顔を上げて、窺うような目付きで孔明を見た。
少し歩を進めて距離を縮める。孔明の歩幅で5歩の距離。これが孔明にとってもギリギリの距離だ。無用意に近付くのは、孔明もやはり怖い。
趙雲の精悍な顔が、伏し目がちに向けられている。道中大した戦闘は無かったという報告は受けたが、よく見れば鎧には細かい傷や返り血がついている。趙雲自身で槍を振るって戦ったのだろう。それらの跡を見て無事で良かったと、今更ながら痛感した。趙雲の強さはよく知っているし、そう簡単な事で命を落とす真似はしないと分かっている。
それでも、龐統が戦死した今では――無事でいる事のありがたさが身に染みて分かる。人間は前触れもなく死ぬのだ。まさか死ぬなんて想像もしていなかった相手が、気付いたら死んでいたなんて不条理なことが、拒否する権利も暇も与えられないままに押し付けられる。
もし、仮に趙雲が道中に命を落とすような事があっていたらと考えて孔明はゾッとした。この様な形のまま永遠に会えないなんて、考えただけで身震いがする。死んでしまった相手には、ただ後悔ばかりが残るだろう。だから、無事に帰ってきてくれて、また話す機会を与えてくれて、本当にありがとうと思った。
「無事に到着して、安心しました」
この機会を無駄にしてはならない。孔明は真っ直ぐに趙雲を見据えて、口を開いた。
「はい、軍も大した損害は出ず……」
やはり趙雲は俯いたままだったが、孔明は構わず続けた。
「ありがとう、本当にありがとうございます……」
せめて、この想いを伝えなければ。ただその一心で、必死に言葉を紡いだ。なんとか吐き出した声は思ったよりも小さかったが、趙雲の反応を見る限りちゃんと伝わったようだ。最初にまず驚いたようで、そして、今までの緊張が弛んだように少し微笑んだ。
「私はそう簡単に死んだりしませぬよ」
趙雲の優しい声音を聞くのも随分久々な気がする。軽く涙腺が刺激されるくらい喜んでいる己に、孔明は自分自身驚いてしまった。やはり趙雲の優しい表情や物言いが好きだし、素敵だと孔明は思う。精悍で逞しいのにそれでいて穏やかで、皆がそう思うかは分からないが、孔明は凄く安心できる。
改めて、傍で笑っていて欲しいと思った。信じられない事に、向こうも自分を好いていてくれるらしい。一生報われないだろうと思っていたのに、向こうから歩み寄ってくれた。自分はとんだ果報者だと思う。
しかし自分は一度その想いを拒んでしまった、相手を傷つけてしまった。その想いに応える事が正しいのかも分からないし、自分はまだ応える事が怖いのだとも分かった。今すぐには無理だ。
それでも決して趙雲の事が嫌いなのではないのだと、気まずいままでいるのは絶対に嫌なのだと、分かって欲しい。自分には貴方が必要なのだと分かって貰えたら、今は。自分勝手な事を言っているのは自覚している。それでも、何も伝えないままでいるのは絶対に後悔するだろう。
「それでも言わせて下さい。生きていてくれてありがとうと」
改めて孔明が言うと、大袈裟ですなと、趙雲は少し照れたように頭を掻いた。そんな微笑ましい姿を見てまた、心が弾んだ。自然に孔明の口許も上がる。
「まだ戦は続きますが、決して怪我などなさらぬよう……」
「勿論、そのつもりでございますよ」
「事態が落ち着いたら……、貴方とゆっくり話したい」
趙雲がハッと目を見開いた。
「孔明殿……」
「私は臆病です。それでも、臆病ながらに頑張りたい、と思います」
「……人は皆臆病なものですよ」
「貴方がその様な事を言うなんて」
「私は臆病ですよ。戦に関しては多少慣れただけで」
顔を見合わせて、お互いに少し笑う。
「ならば尚更のこと、この戦を早く終わらせねばなりませんな」
趙雲が高い位置を見上げて言った。そうだ、この長引いた戦を一日も早く終わらせねばならない。民のためにも、劉備のためにも、今向かい合うこの人のためにも、そして自分のためにも。
孔明も趙雲の視線の先を追うように空を見上げた。空は広く晴れており、乾燥した空気が二人の間を抜けていく。益州では雨が夏に集中し、これからの季節は晴れの日が多くなるらしい。この青空が、我々の行く末の暗示であれば良いのに、と思う。
軍師の龐統が戦死し、益州攻略にも暗雲が立ち込めたかのように思われた劉備軍だったが、もう一人の軍師諸葛亮と諸葛亮が引率してきた援軍の活躍により、戦況は一気に好転した。徐々に徐々に劉備軍は益州の中心都市成都に迫り、長かった益州攻略もようやく終わりが見え始めている。逆を言えば劉璋軍にとってみれば後がない状況になっていることになる。
追い込まれた人間は、思いもよらぬ手を打ってくる。上々な戦況に反して、軍師たる孔明は何かに警戒している風に見える。法正も同様であるようだった。
趙雲は注意深く彼等軍師を―というか、実際はほとんど孔明を観察していたため、彼等に倣って何かあるものだという心構えで戦列に加わっている。結果、軍師達の危惧は杞憂にはならず、確かな形でもって劉備軍の前に表れた。
――劉璋が漢中の張魯と手を組み、援軍を要請。
法正が放っていたらしい斥候が、慌てた様子でその報を陣にもたらした。
「まさか、張魯と手を組むか!」
実際に劉備に報告をしたのはその斥候ではなく、斥候から報を受けた法正だ。たまたま趙雲は劉備の幕舎にいた。どうせすぐ皆にも公表することだからと、劉備と一緒に聞く事を許されたのである。
「事を決めたのは数日前でしょうから、既に張魯は援軍を向ける準備をしているでしょう」
法正が淡々と言う。法正は元々蜀の人間故、彼が放つ斥候も蜀の色々に通じており信頼度は高い。
「これはいかん、なんとかしなければ。孔明はどこに居る?」
「兵糧の確認に行くと言って出ておられるようですが」
「即刻呼び戻さないと」
「私が呼んで参りましょうか」
趙雲が言うと、劉備と法正が同時に趙雲を見た。今部屋の内には劉備と法正と趙雲の三人しかいない。
「頼めるか、子龍」
「お任せあれ、すぐに戻ります」
「お願いします」
法正にも言われ、慌てて趙雲は劉備の幕舎を後にした。
言われた通り、孔明は兵糧倉庫の陣にいた。相変わらずの黒衣で一見すれば目立たないのだが、趙雲はすぐにその姿を見つけられる。自慢にもならないなと、趙雲は一人で苦笑した。
「軍師殿!」
大声で呼び掛ける。
「おや、し……趙将軍?」
思いがけない相手の出現に、孔明は純粋に驚いたようだ。兵と何かを確認していた所だったようだが、こちらも一刻を争う。
「殿がお呼びです。ただちに殿の幕舎へ急がれますよう」
そう趙雲が言うと、諸葛亮もすぐに居住まいを正した。事態の逼迫さを感じ取ったらしい。流石察しが良くて助かる。
「殿が? 分かりました、すぐに向かいましょう」
趙雲と、同時に話していた兵達に向かって告げる。そのまますぐに趙雲と並んで歩き出した。走るという早さではないが、かなり急いだ歩調で先を急ぐ。
「貴方も戻るのですか?」
孔明が前を見据えたまま尋ねて来た。
「え? ええ。すぐに戻ると言って残して来ました」
「殿の幕舎にいらっしゃったのですか?」
「はい、偶然」
孔明は一体何の用で?と訊きたそうな顔を一瞬こちらに向けたが、今はそれどころではないと判断したのか、それ以上は訊いてこなかった。趙雲としてもありがたい。
かなり急いで歩いたため、あっという間に目的の幕舎に到着した。孔明はかなり息が上がっていたので、歩調が速すぎただろうかと少し反省をする。
「殿、お待たせ致しました」
咳払いをしてから、孔明が言った。
「おお孔明。待っとったぞ、単刀直入に言うが、劉璋が張魯と手を組んだ」
劉備は抱きつかんばかりの勢いで孔明に駆け寄った。
「なんですって?」
「我等を追い払った暁には、領土を少し分けてやるという条件だそうだ」
孔明は近すぎる劉備との距離から一歩引き、同時にため息をついた。
「……劉璋と張魯が手を組む。その可能性も充分あり得る事とは思っておりましたが……」
「そうなのか? だって両者はずっと小競り合いを続けていたのではないか」
「はい、ですから長年の敵に領土の割譲を条件に援軍など、士としても劣る上に愚の骨頂です」
孔明の言葉に続ける様に、法正が声を上げた。
「今我々を撃退したとしても、事態は悪くなるだけの策故に、その選択をしては来ないだろう。そう考えていたのでしょう? 諸葛軍師」
「ええ、その通りです」
孔明と法正のやり取りに、趙雲と劉備は目を丸くした。軍師二人は劉璋と張魯が手を組む可能性を考えた上で、それは愚策だから劉璋は選ばないと判断していたらしい。武将連中はとりあえず仲が悪い両者が手を組む可能性すら考えてなかった。そもそも劉備が益州に呼ばれた理由が張魯討伐だったのだから。
「とにかく、成都の包囲を一旦解いて張魯の軍の迎撃に備えましょう」
「包囲を解くのか? 孔明。張魯の軍は蜀の桟道を越えてくる。どのみち大軍は送れないだろう?」
「それはそうですが、関所で食い止めねば挟撃の形にもなりかねませんし、それに……」
「それに? なんだ」
「錦が出てきたら嫌な気がします。ああいう手合いはいるだけで戦局を左右する事がある」
「……錦、ですか?」
「馬超ですよ。西涼の雄、馬孟起」
趙雲の疑問に返したのは諸葛亮ではなく法正だった。
「自分の戦にかまけて失念していたな! そう言えば馬超は今張魯のもとにいるのだったか」
「まだ我が軍は西涼兵と戦った事がありませんし、馬超が出るだけで敵の士気が上がるかもしれないのも痛い。故に、関所で蓋をしてしまいたいところです」
「うん、そうだな、なんか怖いし対策は取っておこう」
「諸葛軍師、誰を派遣しますか?」
「張将軍でよろしいのでは? 張飛隊の兵は状態も良いし、馬超の名にも怖じないでしょう、あの人ならば」
「あっはは、我が義弟なら間違いない」
「そうですね、私もそれでよろしいかと」
趙雲は黙って成り行きを見守っていた。この時趙雲は自分がやると表明しても良かったのだが、そういった自己主張はあまり自分の役目でもないと思うので黙っている事にした。
それともう一つ、諸葛亮が何やら別に考えがあるのではないだろうか……。諸葛亮の表情を間近で見ていてそう感じたのだ。故に、この場では静観する事を選択した。
その夜、趙雲の幕舎を訪ねる者があった。見覚えがある男……孔明の侍従の一人だった。主が幕舎へ来るよう呼んでいるという。己の勘が外れていなかった事の喜びが出てしまわぬよう噛み締めて、急いで趙雲は諸葛亮の幕舎に向かった。
「良くいらっしゃって下さいました、子龍殿」
幕舎に入ってまず、趙雲は驚いた。孔明はいつもの如く黒衣に身を包み羽扇を携えた姿で待っているかと思えば、全くの違う姿で立っていたからだ。どちらかと言えば粗末な装いで、冠も外して麻布で髪を包んでいる。寝間着なのかと一瞬思ったが、それにしては脚絆を巻いていたりと、むしろ今からどこかへ向かう様な出で立ちである。
しかし、こんな夜更けにどこへ出掛けるというのだろう。
「孔明殿……? 何の用でございましょうか」
孔明は豪奢ではないけれども質の良い衣服が似合うだろうと思っていたわりには、この様な格好も馴染んでいる。そう言えば昔は決して裕福ではない生活を送っていたというから、そのためだろうか。
「こんな時間にお呼び立てして申し訳ありません。しかし、こんな事を頼めるのは貴方しかいなくて」
思いがけぬ言葉に、趙雲は嬉しくなる。孔明にこう言われては、どんな事も引き受けてしまいそうだ。
「私に出来る事ならばなんでも」
「今から馬超の元へ行きたいのですが、流石に一人では不安なので一緒に来てもらえますか?」
「…………え、えっ?」
前言撤回、流石に引き受けられない事がある。自分はともかく孔明の身を危険に晒すような事は引き受けられない。
「正気ですか? というか、何をしに……」
「こんな時に戯れ言を申しませんよ。勿論、馬超と話に行くのです。面会は向こうからの提案です」
孔明が部屋の奥に視線を移す。すると、部屋の隅に男が一人立っている事にやっと気づいた。灯りが乏しく、すぐには気付かない。
「あの者は馬超からの使者です。今から馬超の元へ案内すると」
男が、ゆっくりと灯りが届く範囲へ進み出た。光の無い漆黒の髪に、浅黒い肌をしている。着ている服にもどこか変わっている所を見ると、羌の血が混じった者だろうか。背は趙雲や孔明より頭1つ分はゆうに低く、あまり体格が良いとは言えない。年もかなり若く見える。
「ち、ちょっと待ってください孔明殿。あまりに話が性急過ぎます。何故馬超が貴方にその様な事を」
「……私は以前から、と言っても益州へ入ってから以降の事ですが、馬超と元から便りを通じていました」
「……えっ?」
「劉璋が張魯と結ぶ可能性が棄てきれなかったので、予め動いておいたのです」
なんということであろう。
「馬超の方も、張魯からの扱いに満足していたわけではない。故に、我々は手を結べるのではないかと思って」
「そうでしたか。いやはや、なんとも」
「まだ双方探りあいの段階だったのですがここにきて劉璋と張魯が手を組んでしまいました。だから時間がありません。客将の馬超は真っ先に派兵される可能性が高いので」
「……なるほど、それは分かります。しかし、貴方自身が行くというのを私は賛成できかねます」
「…………」
「他の者を使者にするではいけませんか? 私が一人で行っても構いませぬ」
「この件は、私が単独で進めていた話です。私が行かなくては信用に関わります」
孔明の言い分が理解出来ない趙雲ではないが、そう易々と認められる事ではない。
「しかし、こんな事で貴方を喪うわけには参りません。今や張魯は我々の前面の敵です。その下にいる馬超も」
「私はむしろ、そんな状況だからこそ話す価値があると思います。馬超にしてみれば、張魯が敵になった状況であれば、より自身の離反の価値が上がるわけですから」
「それは、確かにそうでしょうが……」
「先方も張魯の陣から離れてかなりこの益州の方へ脚を伸ばしてもらっているのですから、状況は同じです。それに、道中貴方が兵を伏している様に感じたならばすぐに引き返しましょう」
「……間違いないですな?」
「ええ、勿論」
軍師のなりはしてはいないが、孔明の舌の冴えは揺るぎがない。
「……私の指示に従って下さる事が条件です」
「ありがとうございます」
微かに、孔明の顔が綻ぶ。こういう時はもっとハッキリ喜べば良いのにと思う。
「貴方が我が軍にとってかけがえの無い方だと言うのは失念下さいませぬよう」
「承知しております」
「……あと、軍とは関係なく、私は貴方を喪いたくない。貴方に何かあったら私は……」
「しっ、子龍殿っ!」
慌てた様子で諸葛亮が部屋の隅を見る。羌族の男がいた事をすっかり忘れていた。
「早く出発しませんと夜が明けてしまいます。良ければもう出ませんか?」
男は何事もないかのように答えた。出来る男だ……と、とりあえず趙雲は男の反応に感謝したが、そのあと暫く孔明には睨まれた。
三人はこっそりと周囲に気付かれぬように陣を抜けた。羌族の男に導かれるまま林の中に入ると、準備の良い事に馬が用意されている。馬は二頭……どちらも体格の大きな、名馬と呼んで差し支えながない立派な姿をしている。趙雲の愛馬より大きいかもしれない。江南地域では滅多に手に入らないだろう
「二頭……」
諸葛亮が呟いた。馬は二頭、こちらは三人。数が合わない。
「諸葛殿の事しか想定しておりませんでしたので、申し訳ありません。ですが良い馬ですので大した距離でなければ男を二人乗せて走れましょう」
「では私は子龍殿の後ろに」
孔明は迷わずに言った。
「えっ、私と共に乗りますか?」
趙雲としては嬉しい申し出だが、少し戸惑う。
「体重から考えれば、私と諸葛殿が一緒に乗るのが良いと思いますけど」
羌の男が言う。趙雲も同じ考えだった。
「不躾な事を申しますが、流石に貴方と二人で馬に乗る勇気はありませぬ」
「ええ、そうでしょうね」
ああそうかと、遅れて理解する。孔明を乗せた馬が勝手に趙雲から離れていっては、どうしようもない。それに、背に孔明がいた方がいざと言う時守りやすい。常識的に考えればすぐに分かる事なのだが、孔明と二人乗りという状況に動揺した己が恥ずかしい。
「では、私が先行しますのでついて来ていただけますか?」
「ああ、だがあまり早くは進まないでもらいたい」
「羌の馬術について来られるか不安ですか?」
「……残念だが生憎私はその様な挑発にのる男ではない。こちらは二人、おまけに夜だ。それに、辺りに警戒して進まねばならぬ」
暗闇で良くは見えないが、羌の男は満足げに笑ったようだ。
「試す様な真似をして申し訳ありません。私も夜の山道を駆ける自信は無いですからね」
約束の通り、男は趙雲が容易について行ける早さで馬を進めた。とは言え、道を照らすのは空からの月光と諸葛亮が灯した小さな手燭のみ。慎重に進まねばならない。決して楽ではない道程である筈なのだが、軽やかに進んでいくあたり、やはり男の馬術はかなりのものであるらしい。
「あの男、何者でしょうか」
向こうには届かない声量で、後ろの諸葛亮に問う。
「さあ、馬超の手の者に直に会うのは私も今日が初めてです。今迄は書簡のみのやり取りでしたので」
「私が来るまで幕舎の中で二人きりでおられたのですか?」
「ええ。外には侍従を立たせていましたが」
「良くないですね、危険です。あの男、私が部屋に入っても暫く存在に気づけなかった。気配を完全に殺していた」
いくら幕舎の中が暗く、見通しが悪かったとしても、そんなくらいで気配に気付けない趙雲ではない。
「……私にはそういうの良く分かりませんが、あの者が私に何かするとは思えませんでした。なんというか、単純に殺気がないというか」
諸葛亮の言う事も、趙雲には分かった。趙雲はチラリとでも殺気を感じたならば、相手に剣を抜かせる隙も与えず斬り捨てるつもりでいた。しかし男は会話の端々にこちらを諮る様な空気を出しつつも、害そうという気は微塵にも感じられなかった。
「馬超の方も、和やかに話してくれると良いですが」
「書簡を交わしている分には悪い感触は無かったのですけども……」
「相手は一応名族の人間ですから、矜持が強い男かもしれませぬ」
「それはありますね。……錦と呼ばれる男ですから、どういった男なのか、私には分かりません」
「その錦というのは、なんです?」
「西涼の馬超を良く知る者の間では、そう評する者がいるそうで。面白いので私も使っています」
「ふうん……」
男が錦とは、ちゃらちゃらしてる様にも感じて、趙雲的にはあまり良い印象はない。
「振る舞いだけでなくその姿も立派な故に、錦、だそうです。どの様な男なのでしょうね、楽しみです」
素直に楽しみにしている様子が伝わって、なんだか面白くない趙雲であった。
「そろそろ着きますよ!」
少し離れて前を行く男が、振り替えって二人に告げる。言われてみると確かに、前方の木々の合間から光が漏れている。松明を焚いているらしい。趙雲は慎重に辺りの空気を確かめる。だが、兵を配している気配はおろか、前方の光の方からも大した人の気配が感じられない。
「……とりあえず、今の所妙な気配は感じません」
趙雲が言うと、応えるように諸葛亮は趙雲の腰に回した手に力を込めた。こんな状況では、せっかくの二人乗りの機会を楽しめないのが残念である。
ずっと暗闇の中を進んでいたため、決して多くはない松明の灯りの数に、眼が眩む。目をならしつつ、ゆっくりと光の中へ馬を進めた。
「ただ今劉備軍が軍師、諸葛孔明殿を連れて戻りました!」
先に馬に降りていたらしい男の声が聞こえた。男が案内したこの場所は、ちょうど少しだけ木々が生えていない小さな広場の様になっていて、先方はそこに簡易な机や椅子などを用意して、面会の席を作っていた。幕舎なども作っていない、星空の下の席である。
眼が慣れてくると、松明の光も大した強さでは無かったことが分かった。あまり明るくしては、ここからそう離れていない劉備軍の陣に見つかってしまうから、当然の処置であろう。
「ああ、待っていたぞ」
二つ向い合わせで設置された席に一人、既に座っている男が答えた。趙雲達を案内した男とは別の男だ。趙雲と孔明が馬を降りると、男も立ち上がってこちらを検分している。平均より背は高いが、趙雲よりは幾らか低いくらいであろうか。
「む? 二人か」
孔明がその声に答えて前に進もうとしたので、趙雲は慌ててそれを制した。
「こちらが軍師の諸葛孔明殿におわします。私はその護衛にて」
「護衛か、なるほど。流石に一人で来る勇気は無かったか」
「それは勇気とは申しませぬ。蛮勇という類いのものでございましょう」
孔明のゆるりとした声に、男は不服そうにフンと鼻を鳴らした。
男が再び席についたのを見計らって、孔明も席につくよう勧める。男と孔明は向かい合う形で座る形になった。その間に趙雲は辺りを窺ってみるが、最初に感じたままにやはり人の気配は少ない。劉備陣営から二人を案内して来た男に、今席についている男、あと数人後ろに控えている兵で全てのようだ。張魯の陣から相当離れて来たであろうに、これだけの数の護衛しか連れて来なかったのは度胸があると認めて良いだろう。
「私が馬孟起だ」
孔明と向かい合った男が言う。
「貴方が、馬将軍……」
やはりこの男が馬超か。孔明の後ろに控えた趙雲も、興味深げに馬超を観察する。先程も言った通り、身体は趙雲よりは小さいくらいに見えるが、漢服とは少し異なる服を着こみ更に大きな羽織りを身に付けているため、身体の線は良くわからない。案内をした男と同じ、光を吸収するかのような漆黒の髪を、一つにして束ねている。
羌の人間が皆そうなのかもしれないが、案内した男とかなり似た顔の造りをしている様に感じる。しかし似た顔をしていながら、馬超の方は何故だか華やかな印象を与えるのが不思議だった。顔は、世間的に見ても整っている方だといって良いだろう。なるほど錦か、と言われれば納得出来る様な気もする。
挿絵梨音(あっすぅ)
「此度はこの様な席を設けて下さり感謝しています、馬将軍」
「こちらとしても張魯の扱いに満足はしてはおらぬ。そちらの私達の扱いによっては劉備軍に与すのもやぶさかではない」
口調自体は名族の生まれらしく整ってはいるが、馬超の喋りはどこか高圧的だ。しかし孔明は、それに苛立つ様子もなく涼しい顔で聞いている。いつものように羽扇を持っていたならば、優雅に口許で揺らめかせていたことだろう。
向かい合う二人の態度は一見すると対称的なものだった。しかし、両者とも微かに相手を挑発するかのようである。互いに探りをいれあっているらしいのは何となく趙雲にも分かる。
「私が劉備殿に協力を申し出たとしたら、劉備殿はどう私を扱ってくれる?」
「この件は劉備殿にはまだ何も話しておりませぬ」
「ふん?」
「ですが、この私が悪いようにはしないと約束しましょう」
「ならば言うが、我々は劉備殿の配下になるつもりはない事は理解して頂けるか?」
「なっ」
思わず趙雲は声を出してしまったが、孔明の方はなに食わぬ顔で馬超を見ている。
「我々には既に孫権軍という『同盟相手』がおります。そちらに並ぶ形でよろしいのでございましょう?」
馬超の眉間が、ピクリと反応する。
「貴殿等と孫権軍は荊州で小競り合いを続けておられるようだが」
「同盟とは、同じくする敵に対し手を組んで共に戦う者であると、我々は理解しておりますが」
故に、互いが戦う事もなくはない。孔明は口に出してはいないが、言外にはそう物語っている。
つまり此度の場合、張魯を撃退するうちは手を組むが、その後の恒久的和平は約束できないということになる。馬超もそれを察したのか、鋭い視線で孔明を睨んでいる。
しかし実際の所孔明は、孫権軍との同盟をそういうものとは考えていない筈だ。少なくとも、互いが領土を争う事の無い同盟を、孔明個人は望んでいる筈である。馬超を試しているらしい――趙雲は黙ってことの動向を見守る事にした。
「張魯を討った後は、我々か?」
「我々の眼前の敵は劉璋であり、張魯と、ましてや貴方と一戦するつもりなど毛頭ございませぬ」
「…………」
張魯の迎撃が完了した後は、劉備軍はすぐ成都の包囲に戻る。漢中の方面へ兵を送る事は当分は無いだろう。つまり、逆を言えば張魯を撃退さえしてしまえば、馬超軍と劉備軍は協力の機会は無い。馬超は単独で張魯と戦う事を余儀なくされるだろう。対等の同盟であるという事は、そういうことだ。
「見た目に反してなかなか毒を吐くな諸葛亮殿」
「毒など、そのようなつもりは」
空気が一気に張り詰めてきた。趙雲も、もしもの時に咄嗟の行動がとれるよう、油断はしない。馬超の隣でも、あの例の馬超に良く似た男が剣の柄に手を置いた。趙雲の動きに合わせたものらしい。視線が合うと、にっこりと笑って返してくる。やはり殺気というものがこの男からは感じられない。出来れば乱闘沙汰は避けたいものです―、男の眉下がりの笑みは、そう言っているかのようだ。
「私は、馬将軍ご自身のためにも我が軍に降られるのがよろしかろうと思います」
「……ふん? 聴こう」
「我が軍に降るというならば、益州を押さえた暁には貴方の所領も認めましょう。しかしあくまで独立を貫くというならば、あなた方は張魯と単独で戦わねばならない。我々は蜀の桟道を越えねばならぬ関係も考え大軍は送れませぬ」
馬超は、苛立ってはいるようだが静かに話を聞いている。矜持は強いものの、馬鹿ではないらしい。
「我々のもとへ来て下さるなら、我々もあなた方を護る事が出来ます」
「護るだと」
「勿論、それは此度馬将軍が張魯を離れて、我々に協力をしてくだされば現実味が増す計算でありますが」
しかし並の者では孔明の口に敵うはずもない。馬超はむっつりと黙ったまま、言葉を探している様だ。
「贅沢を言っている場合でもありますまい」
思わず趙雲は口を出してしまった。いや、もう言いたい事は互いに言い終わってはいるのだ。馬超はそれでも迷っているに過ぎない。となれば、ここから先は正面からぶつかるしかないだろう。
「……なんだと?」
「残り少ない西涼兵配下を守りたいと思うならば、貴殿が決断をしなければならぬのではありませんか。我々に降る事が、兵を護る事に繋がるのでは」
「大層な口を利く男だ、何者だ」
「劉備軍が将、趙雲、字を子龍と申す」
「趙雲だと―?」
馬超がハッと顔を上げた。どうやら名前くらいは知っていてもらえたようだ。
「通りで」
隣に侍っていた男がくすくす笑っている。
「なんだ馬岱」
「いえ、並の人ではないと思っていたので。いやあこの人と斬り合う事にならなくて良かった。命が幾つあっても足りない」
例の趙雲らを案内してきた男は、名を馬岱というらしい。同じ姓である所もみると、やはり馬超と同族なのだろうか。
「字までは存じ上げなかったので」
馬超に比べると随分と空気の柔らかな男である。
「口を出させてもらったついでに言わせて頂きます。従兄上、この馬岱は劉備軍に降る事に異論はありませぬ」
「馬岱!」
馬超が立ち上がる。
「私は何食わぬ顔でこの方々の会話を聞かせて頂いてますが、我々を騙そうだとか、少なくともそんな悪どい方ではございませぬようで」
そう言えば随分とこの男の前で喋ってしまった気がする。まさか馬超の親族だとは思っていなかったからだ。
「それに馬岱はこの方々、嫌いではありませぬ。陣も見ましたが、よく整備されていて良い陣でありました」
「…………」
思いがけぬ展開だが、ありがたい事には代わり無い。もっと言ってくれ、と趙雲は内心必死に馬岱を応援をしていた。
「我が主劉備殿にとって、曹操は相容れぬ仇敵であります」
孔明は立ち上がり、一歩一歩馬超の近くに歩み寄る。危険だと思ったが、馬超の目に剣呑さは無いと判断し事態を見守った。
「我々の目的は同じはず。我々は……仲間になれないのでしょうか?」
「……私は……」
「従兄上……」
馬岱がそっと、後ろから馬超の肩に手を置いた。二人の視線が刹那交わる。互いの目で何を語り合ったか趙雲には分からなかったが、振り返った時馬超の目から迷いは消えていた。
「我々は劉備殿に降る」
「!」
趙雲と孔明は、同時に息を飲んだ。
「従兄上……」
「私はいつ降れば良いか」
「明日にでも使者を送りましょう。その時正式に我が軍に迎えいれます」
「明日? 随分と急ではないか」
「馬超殿が降ると聞いて、反対する者は我が軍にはおりますまい」
そうだな、と馬超は小さく笑った。
「では明日、迎えを待つ」
「ええ、仲間として迎えに参ります」
孔明と馬超は互いに拱手を交わしてから、それぞれの陣地へと帰っていった。
「ば・ちょ・う・が・く・だ・る・だとぉ~!??」
翌朝、早速孔明は劉備に馬超の件を話に赴いた。趙雲は陣に戻ってから仮眠をとったのだが、孔明の方はそれからも細々とした手続きを済ましていたらしく、結局徹夜であったらしい。元々良いとは言えない顔色が、今朝は一層くすんでいるように見える。
しかしそれに対して表情はいつにないほど明るい。他の者はそうは思わないかもしれないが、趙雲から見たら驚くほど明るい。その顔が見れただけでも、昨夜の危険を承知での会見には価値があったと思えた。
「馬超は張魯のもとで冷遇されており、かねてから我が軍に帰順したいと申し出ておりました」
孔明は流石に興奮を表にだすような真似はせず、理路整然と馬超の投降について一つ一つ丁寧に劉備に説明をしていった。
「そ、そうなのか? 孔明」
「今日改めて此方から帰順を促す使者を送れば、きっと誘いに乗るでしょう」
「そ、そうだな……そうかもしれん」
劉備は突然の事に驚いたようだが、状況的にありえない事ではないと説得されて、一応は納得したらしい。
「使者はどうする」
「私が参ります。護衛に趙将軍を」
「アンタが直々に? 危険じゃあないか」
「ご心配ならば兵をつけて頂いても構いませぬ。ですが、使者の代表は私にして頂きたい」
「何故だ」
「私が馬超殿と主だって話をつけていたからです」
「…………」
劉備は驚くというよりは呆気に取られた様な顔をしている。その隣で、法正はまだ納得がいかないような表情をしていた。
「孔明がそう言うのならそうした方が面倒が無いって事なんだろう。よし、孔明に任せる」
「り、劉備殿。正気でございますか」
「おう法正、乱世は多少酔狂でなきゃやってられねえさ」
劉備の返答に法正は目を丸くした。法正は元より丸々とした瞳をしているが、その瞳が更に丸みを帯びたものだから、趙雲は内心笑いを堪えるのに必死だった。人間らしい表情をすればなかなか可愛らしい顔をしているではないか。
「ありがとうございます、劉備殿」
孔明の拱手に、劉備は満面の笑みで返した。あたたかな、こちらへの信頼を感じさせる微笑みだった。
「聞いてたか子龍。くれぐれも孔明に何か無いように護ってやってくれ」
「御意に」
言われなくとも、死んでもそんな目に合わせるつもりはない。もっとも、馬超達がそんな暴挙に出ない事を、趙雲自身はよく承知しているのだが。
孔明と趙雲は数十名の兵を引き連れて、国境沿いにまで進んだ。先に馬超のもとに走らせた使者は、既に馬超の元へ着いただろうか。馬超の軍が現れるまで、孔明達は国境付近で陣を張りやって来るのを待つつもりであった。
しかし、向こうは先に国境付近で待っていたらしい。孔明隊が目的地についてほどなくすると、向こうから馬超と馬岱を先頭にゆっくりと隊が迫ってくるのが見えた
人数の割りに圧倒的に騎馬の数が多い。それも、どの馬も一様に立派な姿であるためその光景は壮観だった。とりわけ馬超の乗った白地に斑の入った馬は、体が大きく逞しい。馬超や馬岱、以下兵達も一様に帯剣はしているが全く殺気は感じられない。趙雲は孔明が彼等に近付く事を何も言わずに許した。
「張魯のもとが余りに居心地が悪い故、調練と称して出てきてしまった」
馬上の馬超が憮然とした口ぶりで言った。
「張魯の配下に従兄上を良く思わない者がおりまして、今朝も張魯の前である事ない事言っておりましたのです」
補足するように、馬超の隣の馬岱が言う。馬超は昨夜の闇夜の下で見るよりずっと煌びやかな印象で、長く束ねた髪も、漢の者からするとやや奇妙な服装も、背にたなびく羽織も全てが馬超という一人の人間を上手に構成しているように感じる。なにより騎馬をする姿があまりにさまになっていて、なるほどこれは錦と呼ぶに相応しいと、趙雲は素直に感心した。
長い黒髪の合間からのぞく金色の耳飾りが、時おり光を受けて目映く輝いている。趙雲とて周りから良い男振りだの、容姿に優れているだの言われるが、馬超のように衆人の中で人目を惹く華やかさは持ち合わせてはいないと自覚している。劉備もきっとこの馬超の華やかさに惹かれるだろうと思った。
「全ての兵は連れてはこれなんだが、時期を見て陣を抜けてくるよう示し合わせてある」
「承知いたしました。馬将軍の兵と確認出来た者は寛容に受け入れた後、馬将軍の隊に組み入れましょう」
孔明の言葉を聞いて初めて、馬超と馬岱はほっとした様に微笑んだ。馬超が緊張を解いた顔をしたのは、この時が初めてだった気がする。馬超が我々の仲間になったのだ……そう実感として感じられた。
暫くそうやって安堵した表情の二人であったが、劉備の陣に入る頃には流石に緊張した面立ちに戻った。緊張しているのは馬超の兵達も同様である。興味津々な顔で馬超達の様子を見学に来ていたらしい張飛の姿を見て、少しおののいた兵もあったようだ。趙雲から見たらまだ厳めしくない表情をしていたように見えたのだが、なにぶん相手は張飛であるが故に仕方がないというものだ。
馬超と馬岱の緊張は、劉備の待つ幕舎に入る時点において、とうとう最高点を迎えた様である。馬岱はまだ柔和な雰囲気だから良いが、馬超の方は人によっては喧嘩を売られているのではと勘違いするのではないかと思うほど、険しい。生まれが良いだけに、態度に尊大な面があるのにも問題があろう。
しかしそんな態度であった馬超が、劉備の空気に振り回される姿には思わず笑いが漏れそうで、なんとか趙雲は歯をくいしばって耐えた。
「お前が馬超であるな! なるほど良い男振りをしている!」
劉備は幕舎に馬超が入ってくるなりズイと近寄って、馬超の腕をバンバンと叩いた。
「は、はあ。我こそが馬孟起……」
「固い挨拶は要らん! あ、いや名門の人間からしたらそっちのが喋りやすいのか? すまん、私の方がそういうのが苦手でな」
「あ、いえ」
馬超はしどろもどろな様子で短く答えた。
「そちらは誰だ?」
「私は孟起殿の従兄弟にあたります、馬岱ともうします」
「馬岱? 従兄弟か、なるほど良く似ている」
ふと隣を見ると、孔明も口元に当てた羽扇の奥で、笑いを堪えているようである。
「私はお前達を歓待するぞ。良く来てくれた! 感謝しよう」
劉備とて馬超達の緊張を解くために、あえて朗らかに振る舞っているのであろう。しかしそれにしても劉備は初対面の相手の懐にスルリと入り込んでくるのが上手い。それこそが趙雲が劉備を慕う、最大の美点である。劉備の傍は居心地が良いのだ。故郷を失った馬超や馬岱にも、その温かさを知って欲しい。
「馬超達が仲間になってくれたら百人力だな!」
「ありがたきお言葉。我々も一刻も早く役に立ちたく思う故、いつでも前線に送ってくださればと」
「戦う必要はございますまい。馬将軍の威名だけで劉璋は諦めるでしょう」
劉備の奥に立っていた法正が、初めて話に加わった。朗らかな劉備の隣で法正だけはずっと難しい顔を崩さなかった。
「馬将軍は包囲網の前線に行き、劉璋を威嚇して下さるだけで結構です。ただでさえ永らく包囲されていた上に援軍に来たと思った馬超軍が我等についたとあれば、士気も持ちませんからね」
「そうだな。益州を暫く戦地にしてしまった。成都くらい、流す血を最小限に留めたい」
馬超は、幕舎の入り口に立つ孔明の方を振り返って見た。孔明もそれに頷いてみせる。それを見た馬超は納得した様子で再び劉備の方に向きなおった。
「それだけであれば、今すぐにでも出られます。我が隊は精強屈指の西涼兵。成都まではあっという間です」
「おお、頼もしい事を言ってくれる。ならば早速向かってもらおうか。この長き戦を、早く終わらせたい」
馬超は毅然とした顔で拱手を掲げ、一礼した。
法正の思惑通り、馬超が成都包囲網の最前線へ行って投降するように促すと、拍子抜けする程に呆気なく、劉璋は成都城の門を開いた。劉璋は片肌脱いだ自らの身体を縄で縛り、供に益州牧の印を携えさせて、成都城の中央通りに腰を置いていた。劉璋の後ろには、正装をした文武百官が同じく膝を折った状態で劉備を待っている。
百官の顔は、哭く者、安堵した者、とにかく疲労が見える者、様々である。ざっと見渡しただけでも、益州の人間は華北の人間より一回り小さいような印象を受けた。張飛や関羽は勿論、趙雲や諸葛亮と並ぶ大きさの者は見当たらない。魏延でさえも、この中に入れば一目で目につく大きさに見える。
「あんたが劉季玉殿か」
劉備が、膝をついたままのの劉璋に歩み寄り言った。趙雲も、もしもの場合を怖れて劉備に従って続く。居並ぶ百官の間に出来た一つの道の真ん中に、劉備と趙雲だけがポツリと立っていた。
「いかにも、私が劉季玉でござる」
劉璋は地面に向かい頭を擦り付けるように叩頭した。体自体は肥えて恰幅が良いが、群衆の中ではなんとも小さく見える。
これが、一州を統治していた者の姿か。乱世とはいかなるものか見せ付けられたようで、勝ち戦であるにも関わらず、趙雲は手放しで喜ぶ気持ちにはなれなかった。
「頭を上げてくれ季玉さん。私はあんたより偉いわけでもない。ただ戦であんたの国を奪った、それだけだ」
「と、殿」
「良い事とは言えないだろうが、必要な事だったんだ。我等の躍進と大義のためにな。降伏を決断してくれて感謝する」
「…………」
劉璋は言われた通り頭を上げたものの、俯いたまま何も返さない。それでも構わず劉備は続けた。
「せめて良い土地にするから、見ていてくだされや」
劉備が傍らの兵になにか指示を出すと、その兵達は劉璋を立たせてそのままどこかへ連れて行った。劉璋の命は奪わない。益州の僻地で家族と静かに暮らさせるのだと決めていた。
「我こそが漢の皇叔、劉玄徳である!」
劉璋の姿が消え、場が再び静寂に包まれた頃、劉備が叫んだ。
「今より天府の地益州は我が領地となる! しかし漢の国地であることには代わりはない!」
劉備の声は、不思議とよく通る。孔明のそれと違って腹に響く。
「私が目指すのは漢の復興! そのためには益州はより豊かにより強くあらねばならぬ!」
場に集まった数千数百の人間の視線が、一斉に劉備に集まっているのが分かる。傍に立つ趙雲の総身にも、思わず緊張が走る。
「私は益州を良い国にしたい! その意志には寸分の曇りはない!しかし私は非力だ! 時に逃げ時に裏切り、配下の支えがなければとっくに路傍の露と消えていたであろう!」
劉備軍の将達も、劉備の口上を見守っている。
「我にはそなたらの力が必要なのだ! 漢に益州が必要なように、私には! 将の! 官の! 民の! そなたらの力が! 必要なのである!」
孔明が隣を見ると、張飛はいかめしい顔をくしゃくしゃにして泣いていた。関羽がいれば、きっと静かに泣いていただろう。
「だから、私に力を貸してはくれまいか……」
劉備が最後、呟く様に吐いた。先程までの口上に比べて、ずっと小さく頼りない声であった。それなのにこの場の皆にこの声が届いている様な、不思議で、神聖な空間だった。
「この身尽きるまで従いまする! 劉皇叔万歳!」
突如、暫しの静寂を打ち破る声が満場に響いた。趙雲だ。傍らに静かに立っていたはずの趙雲が、力強く拱手すると共に叫んだ。趙雲自身、自分の行動に一瞬遅れて驚いた。意思ではない、身体が先に反応していたのである。
劉備の一番近くにいた趙雲が、一番感銘を受けたためであろう。はたまた、今までの長年の苦労が思われて、感極まってしまったのかもしれない。しかし趙雲が出過ぎた真似をと自分で気がついた時には、既にその場は耳が潰れそうな程の歓声に押し潰されていた。
「万歳! 万歳!」
「兄者ー! 万歳! 万歳! 溜まらねえよ俺は!」
いつのまにか張飛が劉備の側まで駆けてきていて、すかさず劉備を肩車した。今や人々は自由に立って叫んだり、拍手をしたりしている。最初は民や一般の兵から始まったらしいこの熱気は、やがて戸惑いながらも官や将達にも伝播していった。
「万歳! 万歳!」
もはや民官将入り乱れての大騒ぎである。一部の真面目な将や官は必死に羽目を外しすぎぬよう大声で警告しているが、当の劉備達が一番騒いでいるのだから、時間以外にこの騒ぎを収められるものはいまい。本来ならば趙雲もそちらの真面目な側にいるのだが、今日ばかりは浮かれても良いかと自分に言い聞かせた。やはり、熱気に当てられているのだ。
趙雲は、人々の隙間から城門の方を見た。やはり、その人は立っていた。いかな熱気の中であろうと、その人だけは静かに立っているのだろうという期待に違わぬ立ち姿だった。
「孔明殿!」
趙雲はなんとか人いきれの中を掻い潜り、喧騒を抜けた。少し人の輪を抜けるだけで、ぐっと空気が落ち着いているように感じる。
「これは……趙将軍」
良く見ると、すぐ側には馬超と馬岱もいた。一緒にいるだろうかと思った馬謖の姿は予想に反して、見えなかった。
「馬超殿達も」
慌てて拱手をして見せた。それを見た馬超も、そして馬岱も拱手を返して来る。馬超は相変わらずの仏頂面だが、馬岱の方は面白げに笑っていた。
「立派な口上で御座いましたね」
孔明の細い声は、この喧騒の傍ではやや聞き取り辛かった。
「はい、感動しました。やはり殿は万民の上に立たれるべきお方だ……」
「殿もですが、貴方も」
「え?」
「ええ、素晴らしかったですよ、趙将軍」
馬岱が笑いかける。
「ああ、いや、つい……お恥ずかしい」
思い出すと、顔から火が出るような心地がする。
「貴殿方も中へ入れば宜しいのに」
照れ隠しに、趙雲は話題を代えようと試みた。
「いえ、私は。皆が騒いで警備を疎かにするわけには参りませんから」
孔明が城門側に立っていたのは、警備の指示のためであったらしい。こんな時も役目を忘れないのは、流石というか、なんというか。
「我々は……まだ新参だ。共に騒ぐのは気が引ける」
そんな事誰も気にすまい、そう趙雲は返そうと思ったが、矜持の強い馬超自身が気がすまないのであろう。
「これから行われます宴では、是非とももっと打ち解けて下さいますよう」
孔明が思いがけない事を言ったので、趙雲は少し驚いた。
「殿が哀しまれます故、一緒に騒いで頂きたいのです」
「……善処しよう」
馬超が苦々しげに呟いた。馬超は本人がただ人前で騒いだりするのが苦手なだけかもしれない、という考えが頭をよぎる。その想定を裏付けるかのように、馬岱が隣で笑っていた。なんだ、可愛い所もあるじゃないか。
「騒ぎが落ち着いたら、宴の場へ皆を誘導しましょう。まだ当分かかりそうですが」
「もう準備はしてあるのですか?」
「ええ、法正殿が任せろとおっしゃるので頼みました。幼常にはそれを手伝うよう言っております」
二人の姿が見えないと思えば、なるほど既に宴の準備に動いているらしい。
「法正殿が、ですか?」
あまりそういう遊興めいた事が得意そうには見えないのだが、と思って確認をしてみた。
「ばか騒ぎになるのが目に見えているから、だそうです」
だから早めに退散したのでしょう、と言外に告げるように孔明が小さく笑った。どうやら他にも周りと騒ぐのが苦手な人間がいるようだ。趙雲も、思わず笑い返した。
「誘導を、手伝っていただけますか? 趙将軍」
「はい、勿論ですとも。では、それまではここに」
趙雲は、孔明の隣に並んで喧騒を見守る。孔明の言う通り、騒ぎが収まるまでもう暫くかかりそうだ。
「……戦が、やっと終わりましたね子龍殿」
隣の孔明が小さく呟いた。喧騒を縫って、なんとか趙雲の耳に届くほどの呟き。恐らく馬超達にも届いていないだろう。微かに一瞬、総身に緊張が走る。
「……ええ、そうですね」
やっと、長い戦が終わったのだ。だから今だけは少し、まだこの歓声に酔っていたい。それから、これからの現実に向き合おう。二人はそれからは、黙って騒ぎを見守っていた。
法正はあまり歓楽的な事には疎そうだと思ったわりには、手回し良く立派な宴が催された。酒も料理も品数、質共に急拵えにしてはなかなか悪くない。役目の終わった法正はあまり端になりすぎずも壁際の位置を賢く陣取って、ちびちびと酒をたしなんでいる様子。
隣にいるのは孟達だろうか。此度の戦、そもそもの発端は法正と孟達と、殺されてしまった張松が劉備を引き入れようとした事から始まったのだ。この戦の立役者の割りには、二人してあまり目立つ場所は避けているようにも見える。孟達を初めてこの時見たが、なかなか整った小綺麗な容姿をしている。
一方の馬謖は孔明の右隣に座っている。件の孔明は劉備の席から少し離れた位置に座っている。此度の戦功の一等は法正であるという遠慮の顕れなのかもしれない。馬謖はその孔明に従っただけ……というより、孔明の側を陣取ったに過ぎまい。孔明の隣で誇らしげな顔をしているあたり、宴の準備は率先して馬謖がやったのかもしれないという考えが頭をよぎった。法正よりは些か馬謖の方がこういう面には強そうな気がして、それもありうるなと思う。
馬超はどうしたかと思えば、諸将の中に混じって酒を呑んでいる。一緒に酒を、というよりは酔った諸将(主に張飛)に絡まれていると言った方が正しいかもしれない。しかしこれでも馬超にとっては大した挑戦だし進歩なのではないだろうか。心底疲れたという顔をしているのは、見なかった事にしておこう。
「よお、子龍! 呑んでるか?」
急に肩を掴まれたと思って顔を上げると、顔を真っ赤に染めた劉備が酒壷片手にこちらを見下ろしていた。劉備は上座に専用の席が用意されているとはいえ、あまり定位置に定まらずに色んな場所に顔だして、皆と触れあっているらしい。随分と息が酒臭く、呂律も回ってない所をみるとかなり酒が回っているようだ。それでもまだ喋ってない人間を把握しているあたり、大したものだと素直に感心する。この辺りも劉備の天性のものだろう。
「ええ殿、美味しく頂いております」
「どうした今宵はこの様に一人寂しく。いつものように益徳らと呑まないのか?」
劉備はドサリと勢い良く趙雲の隣に腰を下ろした。
「今宵の主役は馬超殿に譲ろうと思いましたので」
「はは、そういう所は子龍らしいな」
劉備は持っていた酒壷を傾けて、空いていた趙雲の杯を問答無用に満たした。もういい加減鼻が慣れてしまったと思った芳醇な香りが、思い出されたように趙雲の鼻孔をくすぐる。
劉備は趙雲が一献飲み干すのをじっと見守ってから、少し声を落としてどこか神妙な様子で「だが……」と漏らした。
「私としてはお前が一人で丁度良かったかもな。どうだ、子龍考えたか? 先日私が話した事は」
「あの、えっと」
「言ったであろう、先日幕舎で二人きりになった時に! 益州に着いたら妻を貰えと」
「いや、まあそれは……」
「子龍、私はお前の家を継ぐ者がおらんのではあまりにも悲しいと不安なのだ。誰ぞ好いた女でもおるのか ?その女に操でもたてておるのか? ん?」
呟く体で始まったものの、言っているうちに熱くなってしまったのか、次第に声は熱を帯び大きくなっている。
「殿、声が大きい……。随分酔われておりますようで」
実際騒がしい宴の中では劉備が多少熱くなった所でさほど響きはしないと思うが、周りに聞かれてこれ以上話が大きくなったら面倒だ。趙雲はなんとか劉備を黙らせようとするも、酔った劉備はなおも続ける。
「もしそうならせめて養子を取れ。でもなあ私はお前の子が見たいぞ子龍」
「そんなお泣きになられなくても」
「いいや! お前はなぁ、雲長や益徳と同じく私の義弟みたいなものだ! 義弟の子が見たくない義兄などおるまい!」
なんとありがたい言葉であろうか。ありがたいのだが、気持ちだけで充分なのだ。困ったな……と思っていると、いつ現れたのか馬岱がそっと劉備の向こうに座っていた。
「劉備殿、何やら張飛将軍が呑み競べをすると申しておりますよ」
ごく自然な態度で、馬岱はするりと二人の間に入ってきた。
「ん、なに?呑み競べ?面白そうだのう、私も混ぜよ!」
「はい、お気をつけられませ」
酔っ払った劉備は面白そうな方へ、光に誘われる羽虫が如くふらふらと惹き付けられていった。馬岱はニコニコとしながら千鳥足の劉備を袖を振って見送る。
あとには馬岱と趙雲だけが残され、気付けば先程まで周りに混在していた人々も騒ぎの中央へ向かってしまって、付近はなんとなくガランとしていた。
「やあ、助かった。それにしても馬岱、君は気配を消すのが得意みたいだな」
馬岱はニコリと微笑んで返した。あまり飲んではいないのか、酔った様子は見受けられない。
「将軍が酔われているので私に気付かなかっただけでございますよ。しかしまあこの馬岱、従兄上の傍だと良く存在を忘れられます」
「馬将軍は目立つからな、無理もあるまい」
「かく言われる趙将軍もなかなかの男振りでは御座いますせんか」
「なんの、世辞はよしてくれ。私はそんなたちでは無いし、そういう役目もあまり好きではない」
「……趙将軍は私と気が合いそうです。是非とも仲良くして頂きたいところ」
「ん? そうだろうか。気が合うにこしたことはあるまい。こちらこそよろしく頼む」
「……して、将軍」
馬岱が杯を差し出したので、趙雲も同じように杯を差し出した。趙雲の杯は先程飲み干して空になっていたので、馬岱が手際よく劉備が置いていった酒壷から酒を注いでくれた。
「耳に入ったのですが今のお話は……」
聞かれていたのか。恥ずかしいと思ったが、聞かれてしまっては隠そうとした所で意味もない。
「ああ、先だって殿にいい加減に嫁を取れと言われてな。しかし困った事に私はまだその必要を感じておらず……」
「私は、将軍はてっきり諸葛軍師と良い仲なのだと思いましたが」
「! ! ? 」
口につけていた酒を大いに噴き出す。向かい合う馬岱にも断片が降りかかったらしいが、馬岱は笑顔を崩さないまま懐から手拭いを取り出して顔を拭った。
「す、すまない」
慌てて趙雲も口許を拭う。幸いな事に喧騒に紛れたのか、周りの注目を引いたという事も無かったようだ。
「いいえ、こちらこそ」
馬岱の歪まない笑顔が妙に気味悪く見えてくる気がした。
「し、しかしどういうつもりだ。その様な事冗談だとしても言うべきではない。私はともかく軍師殿に失礼であろう」
冷静になれ、と必死に趙雲は自分に言い聞かせた。杯に残った酒を一気に喉へ流し込む。
「私の馬鹿な思い違いでございましょうか」
「当たり前だ! そもそもどうしてそんな勘違いを――」
と、趙雲は言いかけて気が付いた。この男はあの夜、馬超と会談を行ったあの夜、我々二人とずっと一緒にいたのだ。しかしそれでも何か決定的な間違いを犯したわけではないし……、事実趙雲と孔明はそんな関係では、ない。
「……とにかく、純然たる誤解だ、それは。軽々しくその様な事を言うのはよしてくれ」
趙雲は酒壷から自分で酒を注ぎ、そして一気に杯を空にした。それでも酔いが全て醒めてしまった心地がする。
「不快な想いをさせてしまったようでお詫びします。そうですか……未だその様な関係ではないと」
「その通りだ。……ん?」
「誰にも言いませんよ」と言って、馬岱はニコリと笑う。趙雲は直感した。こいつの方が馬超より喰えない奴かもしれない。
「だから違うんだ、誤解なのだよ」
「そうですか、私の誤解ならば謝りましょう」
馬岱は小さく頭を下げた……が、腹の中では何を考えているのか分かったものではない。
しかし、この男は自分の立ち位置を理解している。目立たず、それでいてするりと人の間に入り込む。あまり武将らしいとは言えない性質だが、趙雲はそういう男も嫌いではない。少なくとも、その男が味方だと分かっている限りは。
「君は……悪い人間ではないようだ」
「将軍に信頼して頂けたなら何よりです。ですが、私は貴方の思うほど出来た人間ではないかもしれませんよ?」
「味方の弱味を握って楽しむ輩ではあるまい」
馬岱の眉が一瞬楽しげに開かれた。
「ええ、それは勿論」
「なら、良い……」
馬岱の黒い瞳がきらりと揺らめいた。
「将軍は良いお方ですね」
「言っておくが、本当に何でもないのだからな」
「はい、わかっておりますよ。軍師殿も将軍も、思いがけなく私の気に入りましたので、純粋に好奇心でうかがったのです。気に入る、とは不躾な言葉でございますが、他に言葉が見つからなくて」
「酒の席の事だとしておこう」
「……私は嬉しいです。もう、心を許せるのは若しかいないと思ってました」
馬岱が微笑む。心なしか、いつもの笑みより朗らかに見えた。馬岱も相当な苦労を経てこの益州までやって来たのだ。腹を探らずにはいられない……環境がそうさせたのかもしれない。
誰にも言わないという馬岱の言葉を趙雲は信じられると思った。だから、とやかく言っても仕方のないことだ。趙雲は再び、黙って杯を口に運んだ。
「お詫びとは言いませんが、協力出来る事があれば何でも致しますよ」
「っ!」
杯に残っていた酒が全て吹き零れた。本当に喰えない男らしい。それだけは重々理解ができた。