窈窕たる淑女は何処 曹操軍が北へ撤退した今、劉備軍が向かうべき先は荊州南部だった。やや形だけの面はあったが孫権軍による曹操軍追撃を援助した後、劉備達は早々と引き上げて南へと軍を進めた。
「しかし赤壁で頑張ったのは孫権軍なのに、良いのかねえ」
「我々は対等の同盟相手です。何も問題はありません」
そういうもんかねぇと呟きながら、馬上の劉備は髭を撫で付けるように触る。対して劉備の隣で馬を緩やかに進ませる諸葛亮の顔は涼しいものだ。二人の後ろには多数の将兵が続いている。
「こういうのを火事場泥棒と言うんだよな」
「漁夫の利です。曹操を追い払い、更に土地を得る」
「ハハ、そりゃそうだ」
劉備は苦笑する。劉備の言う事も諸葛亮の言う事も事実だ。しかしこの状況に持ち込めたのも諸葛亮の活躍があってこそ。孫権に徹底抗戦を決意させ、劉備との同盟を結ばせた諸葛亮の活躍。諸葛亮はその時点で既にこうなる未来を予想していたのだろうか。
諸葛亮は涼しい顔をしてはいるが、葛藤が無かったわけではないだろう。ずっと人里離れた山奥で、他人と関わらずに泰然とした生活を送っていたのだ。いきなり一つの陣営と駆け引きをし、ゆくゆくは利益だけを奪う。葛藤が有ってもおかしくはない。
しかし今の諸葛亮はそんな様子は微塵も見せない。隠している風でもなかった。一度腹を括ればそれ以上悩まない性格なのだろう。軍師としては実に頼もしい限りではないか、と劉備は思った。
「して孔明。もう決めてはいるのか?」
「何がでしょうか?」
「荊州南郡は三県ある。誰をどこに向かわせるんだ」
諸葛亮は少し逡巡する様な表情をしてから、劉備に向き直った。
「はい、決まっております」
相変わらず、諸葛亮は顔色一つ変えない。
「私は桂陽……ですか」
突然招集を受け軍師用の幕舎に参上した趙雲は、いきなり桂陽攻めを命令された。勿論荊州南郡を攻めるために近くまで来て本陣を構えたのだから、当然言われる事は戦の話に決まっている。
しかし趙雲としてはつい先日諸葛亮を怒らせた件もあり、諸葛亮からの呼び出しと聞いて身構えた部分があったのもまた事実だ。だがいざ会ってみれば、いつもとなんら変わりない軍師然とした諸葛亮であった。呆気に取られるほど声音もいつも通りだ。
「桂陽太守の趙範は大した男ではないと聞き及んでおります。趙将軍お一人で大丈夫でしょう」
「そうですか」
まるで障りなんて何もなかったような諸葛亮の振舞い。これで良かったはずだ、向こうが無かった事にしてくれるというならば、甘んじて受け入れるべきだろう。そうは分かっているのだが……、何故か淋しい気がしてしまう。
「他の二県へは、既に関将軍と張将軍を向かわせてあります。以上、何か質問はありますか」
「え……?」
「無いのならば、早速桂陽に向かって頂きますが」
諸葛亮の命令はいつも短くて簡潔だ。久々に話す機会を得たのに、このままではまた暫く顔を合わせられなくなる。とは言え、先日の件を蒸し返せる筈もなかった。
「軍師殿は、その……」
「私ですか? 私と殿は本陣を守ります。何かありましたら本陣に報告を下さい」
「そうですか……」
「それだけですか?」
何か言っておくべき事ははないかと必死に頭を捻るが、何も出てこない。暫く沈黙が続いた。趙雲がずっと黙りこんでいるのを、諸葛亮は質問は無いためだとやがて判断したようだ。
「では、ご武運を祈ります」
諸葛亮は羽扇を持った手で拱手を掲げ、礼をした。趙雲も慌てて礼を返すしかなかった。
命令を受けた以上は趙雲は任務に忠実だ。出来る限りは余計な事は考えない。趙雲は頭の切り替えが出来る男だった。
「桂陽城の様子はどうだ? 随分戻りが早かったが」
趙雲は桂陽の一人を斥候に出していたが、待つまでもなくその斥候はあっという間に帰ってきた。
「それが……」
「どうした?」
「桂陽は正門が開かれて、投降の姿勢をとっております」
「なんだと」
半信半疑ではあったが、趙雲は供回り数十騎だけを連れて桂陽城まで赴いてみる事にした。結局の所自分の目で確認するまでは安心が出来ない。
桂陽城の城門は開かれていた。周囲は掃き清められ、城壁には幟の一つも立っていない。兵のざわめきなども聞こえず、少なくとも戦闘の準備がされている様には思えない。
改めて考えてみても曹操が北へ去ってしまった以上、遺された荊州南郡だけで徹底抗戦するのも難しかろう。特に荊州は小競り合いはあれ、ここ十数年は比較的落ち着いた情勢であった。恐らくここらの兵達は大きな戦をしたことが無い。軍師の諸葛亮は何も示唆しなかったから想定もしていなかったが、戦わずして降伏する可能性は元より十分にあったのだ。
趙雲は伏兵の心配も無しと見て、そのまま供回りだけを従えて城門をくぐった。中は外同様に静かであった。しばらくそのまま馬を進ませると、やがて大通りの中央に人垣が見え始める。
「ようこそ桂陽城へ、趙雲将軍」
一人の男が大勢の供を連れて、趙雲達の一行の前に現れた。身分が高い者だということは一瞬で見当がつく。趙雲は慌てて馬を降りた。
「……貴殿は?」
「私は趙範。この城の太守にございます」
「おお、貴殿が趙範殿でしたか」
「はい、趙雲将軍に投降の意を示すべく参上致しました」
そう言って趙範は両膝を折り拱手を高く掲げ、深く礼をした。趙範は思ったより若く、そして人の良さそうな男だった。確かに戦いには向いている風には見えない。小柄なので、丈高い趙雲と並ぶと頭一つ分以上は小さい。
「降伏の決意、ありがたく思います。どうぞお立ち下され」
趙雲は手づから趙範を立ち上がらせるべく距離を詰めた。だが、触れるか否かの瞬間に趙範は自ら立ち上がった。思わず至近距離で視線が交差する。
「実は、趙雲将軍を歓待する宴を用意しております」
「宴?」
「はい、この奥の宮殿内へどうぞ」
「いや、そんな気遣いは無用です」
趙雲が辞退しようとしたのは遠慮からばかりでもない。正直こんな状況で宴をされても、楽しめるとは思えなかった。趙雲は劉備や張飛達と騒ぐ宴……とも言えないような酒盛りは嫌いではなかった。しかし知らない人間ばかりの堅苦しい宴は気が進まない。特に酒が好きなわけでも、美女の舞が好きなわけでもないからだ。出来れば回避したいという想いもむなしく、趙範はそれを遠慮からの断りだと受け取った様だ。
「そんなそんな、遠慮なさらずに! とびきりの酒と料理を用意しております故!」
「はあ……」
趙範に半ば強引に連れられ、趙雲もようやく覚悟を決めた。趙範も喜ばせようとしてやっているのだ。せっかく抵抗を見せずに投降してくれたのに、荒波をたてるのも利口ではないだろう。
「ささ、趙雲将軍。どうぞどうぞ」
「かたじけない」
通された部屋には確かに趙範の言う通り、既に宴の準備が出来ていた。一番の上座と思われる位置に、酒と料理が設置されている。香しい料理の匂いに、思わず趙雲も舌が反応する。
「さあこちらへ。遠慮なくお召し上がりください」
思った通り上座の席に趙雲は導かれた。趙範はというと趙雲の隣にピッタリと寄り添うように腰をおろし、しきりに酒を進めてくる。趙範なりの誠意なのだろうが、これではせっかく用意した料理も女楽隊も、楽しむ暇がないという事には気付いていないらしい。確かに酒は良いものであったし、趙雲は酒に弱くはない。それでもこう飲まされては、多少は辟易するというものだ。
「趙範殿、もうこれくらいで結構」
趙雲が失礼でない程度で制止すると、趙範は残念そうな顔をしてからやっと酒器を下ろした。しかし、しょぼくれた表情をしたのも束の間、瞳をキラリとさせて趙雲に詰め寄る。なんとなく嫌な予感がした。
「時に、私も趙雲将軍も同じ趙姓でございますよな?」
「ああ、確かにそうですな」
「これも何かの縁。これからは義兄弟としてよしなにお願い致します」
中華の人間にとって、姓は重要な要素である。己と同じ姓を持つ人間はそれだけで親切にするし、助け合う。同じ姓ならば同じ一族として、年の近い男同士であれば兄弟のように振る舞う事もある。そうするのを良しとする風習が、確かに中華の地には根付いていた。
「それはこちらこそ、願ってもない」
趙雲は拱手に笑顔で返す。爽やかで人当たりの良い笑顔を作るのは、趙雲の得意とするところであった。勿論、本当は喜ばしくない場合でも、である。
「いやあ恐悦至極。ならばこの際、遠慮はせずに申し上げましょう」
趙範はすっくと立ち上るや、パンパンと手を二度大きく叩いた。何かの合図の様だ。部屋の奥が、俄に騒ぎ始める。
「何事ですか?」
趙雲が尋ねるも、趙範はただニコニコと笑うばかりで一向に答えない。その内に女が数人固まって入ってきた。女達は皆下女のようだが、唯一中心の女だけは身分の高い女であることは一目でわかった。
この様な田舎の城にいるのが意外なほどの美しい女だ。女にしてはスラリと背が高く、ほっそりとした肢体は漢の成帝の愛妾であった飛燕もかくや、と思わせる程だ。
しかしこの様な美女が何故、今この場に出てきたのか分からない。宴で酌をするような身分の女には見えないのだが。
「……このご婦人は?」
趙雲が尋ねている間に、趙範とは逆側に件の美女は座った。女の服に焚き染めてあるのか、花の様な薫りがふわりと漂う。劉備軍内では決して嗅ぐことは出来ないであろう、上品で芳しい薫りだ。唯一孔明は香は焚いているようだが、それでもこの様に華やかなものではない。
女は恥ずかしそうに顔を伏せている。近くで見てもやはり美しい。年齢は三十を迎えるかどうかという辺りだろうか。まだまだ女盛りだと言えた。
挿絵梨音(あっすぅ)
「この方は樊氏。私の兄嫁でございます」
「左様ですか。実に美しい女性ですね」
趙雲の言葉を聞いてか、女は少し頬を赤らめた。己が美しいと言えば、大抵の女は顔を赤くするという事を趙雲は経験から知っている。何故か昔から女受けは良かった。
「しかし何故義姉君を?」
普通、兄の嫁を宴に出したりはしない。
「いや、それなんですよ!」
趙範は何が楽しいのか、ニコニコと微笑みかけてくる。先程までより一層笑みが濃くなった。なんとなく媚びる様な感じが、どうにも受け付けない。
「実は私の兄……樊氏にとっては夫にあたりますか。兄は弟の私より先に鬼籍に入りましてな」
「それは、……ご冥福をお祈りします」
「そして義姉君は後家となりました。しかし、見て下さい!」
そう言った瞬間に趙範が樊氏を指差したので、趙雲もつられて樊氏の方を振り替える。自分へ急に注目が集まり、樊氏は一層恥ずかしそうに目を伏せた。
「義姉君はまだ若い。そして美しい」
「そうですな」
「未亡人として一生を終わらせるには、あまりにも惜しい!」
趙雲は馬鹿ではない。むしろ察しの良い男だと軍内の評判も上々だ。趙範が何を言わんとしているか、あまりにも見当がついてしまった。
「不躾ながら、私はこの辺で退室させて頂く」
「ち、趙雲殿!?」
趙雲がおもむろに立ち上がったものだから、趙範は目を丸くして驚いている。先程まで視線を落としていた樊氏も、驚いた様子で趙雲を見上げている。
「私には当分所帯を持つつもりはありませんので」
「そ、そんな趙雲殿!」
追いすがる様に趙範も立ち上がる。
「ご覧下さい、ほら。これほど美しい女性は、例え洛陽でもそうそうお目にかかれませんぞ」
「そうかもしれませんね」
趙雲はサラリと答える。趙範は黙った。趙雲の言葉の続きを待っている。
「しかし私と趙範殿が義兄弟であるならば、樊氏は私にとっても姉。娶るなどとんでもない」
「い、いや、それは……」
「そうでなくても娶る気など無いですが」
「なっ……」
「少し美しいくらいで、私の気が引けるとでも?」
少しくらい強く言ってしまった方が良い。そう思って少々かっこつけて言ったが、どうやら効果は抜群だったようだ。
趙範は黙っている。今度は単に二の句が続かない様子だ。一方未だ一人座ったままの樊氏だが、紅が差していた筈の顔がすっかり青ざめている。自分自身、美しさには自負があったのだろうか。趙雲が軽く睨むと、樊氏は怯えた声を小さく上げて、再び顔を伏せた。美しさを鼻にかける様な女は好きではない。一見穏やかでたおやかに見せようとしている場合は尚更。
「失礼」
一言言い残し、趙雲は颯爽と部屋を後にする。その背を呼び止めようとする者はいなかった。