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    窈窕たる淑女は何処 曹操軍が北へ撤退した今、劉備軍が向かうべき先は荊州南部だった。やや形だけの面はあったが孫権軍による曹操軍追撃を援助した後、劉備達は早々と引き上げて南へと軍を進めた。
    「しかし赤壁で頑張ったのは孫権軍なのに、良いのかねえ」
    「我々は対等の同盟相手です。何も問題はありません」
     そういうもんかねぇと呟きながら、馬上の劉備は髭を撫で付けるように触る。対して劉備の隣で馬を緩やかに進ませる諸葛亮の顔は涼しいものだ。二人の後ろには多数の将兵が続いている。
    「こういうのを火事場泥棒と言うんだよな」
    「漁夫の利です。曹操を追い払い、更に土地を得る」
    「ハハ、そりゃそうだ」
     劉備は苦笑する。劉備の言う事も諸葛亮の言う事も事実だ。しかしこの状況に持ち込めたのも諸葛亮の活躍があってこそ。孫権に徹底抗戦を決意させ、劉備との同盟を結ばせた諸葛亮の活躍。諸葛亮はその時点で既にこうなる未来を予想していたのだろうか。
     諸葛亮は涼しい顔をしてはいるが、葛藤が無かったわけではないだろう。ずっと人里離れた山奥で、他人と関わらずに泰然とした生活を送っていたのだ。いきなり一つの陣営と駆け引きをし、ゆくゆくは利益だけを奪う。葛藤が有ってもおかしくはない。
     しかし今の諸葛亮はそんな様子は微塵も見せない。隠している風でもなかった。一度腹を括ればそれ以上悩まない性格なのだろう。軍師としては実に頼もしい限りではないか、と劉備は思った。
    「して孔明。もう決めてはいるのか?」
    「何がでしょうか?」
    「荊州南郡は三県ある。誰をどこに向かわせるんだ」
     諸葛亮は少し逡巡する様な表情をしてから、劉備に向き直った。
    「はい、決まっております」
    相変わらず、諸葛亮は顔色一つ変えない。



    「私は桂陽……ですか」
     突然招集を受け軍師用の幕舎に参上した趙雲は、いきなり桂陽攻めを命令された。勿論荊州南郡を攻めるために近くまで来て本陣を構えたのだから、当然言われる事は戦の話に決まっている。
     しかし趙雲としてはつい先日諸葛亮を怒らせた件もあり、諸葛亮からの呼び出しと聞いて身構えた部分があったのもまた事実だ。だがいざ会ってみれば、いつもとなんら変わりない軍師然とした諸葛亮であった。呆気に取られるほど声音もいつも通りだ。
    「桂陽太守の趙範は大した男ではないと聞き及んでおります。趙将軍お一人で大丈夫でしょう」
    「そうですか」
     まるで障りなんて何もなかったような諸葛亮の振舞い。これで良かったはずだ、向こうが無かった事にしてくれるというならば、甘んじて受け入れるべきだろう。そうは分かっているのだが……、何故か淋しい気がしてしまう。
    「他の二県へは、既に関将軍と張将軍を向かわせてあります。以上、何か質問はありますか」
    「え……?」
    「無いのならば、早速桂陽に向かって頂きますが」
     諸葛亮の命令はいつも短くて簡潔だ。久々に話す機会を得たのに、このままではまた暫く顔を合わせられなくなる。とは言え、先日の件を蒸し返せる筈もなかった。
    「軍師殿は、その……」
    「私ですか? 私と殿は本陣を守ります。何かありましたら本陣に報告を下さい」
    「そうですか……」
    「それだけですか?」
     何か言っておくべき事ははないかと必死に頭を捻るが、何も出てこない。暫く沈黙が続いた。趙雲がずっと黙りこんでいるのを、諸葛亮は質問は無いためだとやがて判断したようだ。
    「では、ご武運を祈ります」
     諸葛亮は羽扇を持った手で拱手を掲げ、礼をした。趙雲も慌てて礼を返すしかなかった。



     命令を受けた以上は趙雲は任務に忠実だ。出来る限りは余計な事は考えない。趙雲は頭の切り替えが出来る男だった。
    「桂陽城の様子はどうだ? 随分戻りが早かったが」
     趙雲は桂陽の一人を斥候に出していたが、待つまでもなくその斥候はあっという間に帰ってきた。
    「それが……」
    「どうした?」
    「桂陽は正門が開かれて、投降の姿勢をとっております」
    「なんだと」
     半信半疑ではあったが、趙雲は供回り数十騎だけを連れて桂陽城まで赴いてみる事にした。結局の所自分の目で確認するまでは安心が出来ない。
     桂陽城の城門は開かれていた。周囲は掃き清められ、城壁には幟の一つも立っていない。兵のざわめきなども聞こえず、少なくとも戦闘の準備がされている様には思えない。
     改めて考えてみても曹操が北へ去ってしまった以上、遺された荊州南郡だけで徹底抗戦するのも難しかろう。特に荊州は小競り合いはあれ、ここ十数年は比較的落ち着いた情勢であった。恐らくここらの兵達は大きな戦をしたことが無い。軍師の諸葛亮は何も示唆しなかったから想定もしていなかったが、戦わずして降伏する可能性は元より十分にあったのだ。
     趙雲は伏兵の心配も無しと見て、そのまま供回りだけを従えて城門をくぐった。中は外同様に静かであった。しばらくそのまま馬を進ませると、やがて大通りの中央に人垣が見え始める。
    「ようこそ桂陽城へ、趙雲将軍」
     一人の男が大勢の供を連れて、趙雲達の一行の前に現れた。身分が高い者だということは一瞬で見当がつく。趙雲は慌てて馬を降りた。
    「……貴殿は?」
    「私は趙範。この城の太守にございます」
    「おお、貴殿が趙範殿でしたか」
    「はい、趙雲将軍に投降の意を示すべく参上致しました」
     そう言って趙範は両膝を折り拱手を高く掲げ、深く礼をした。趙範は思ったより若く、そして人の良さそうな男だった。確かに戦いには向いている風には見えない。小柄なので、丈高い趙雲と並ぶと頭一つ分以上は小さい。
    「降伏の決意、ありがたく思います。どうぞお立ち下され」
     趙雲は手づから趙範を立ち上がらせるべく距離を詰めた。だが、触れるか否かの瞬間に趙範は自ら立ち上がった。思わず至近距離で視線が交差する。
    「実は、趙雲将軍を歓待する宴を用意しております」
    「宴?」
    「はい、この奥の宮殿内へどうぞ」
    「いや、そんな気遣いは無用です」
     趙雲が辞退しようとしたのは遠慮からばかりでもない。正直こんな状況で宴をされても、楽しめるとは思えなかった。趙雲は劉備や張飛達と騒ぐ宴……とも言えないような酒盛りは嫌いではなかった。しかし知らない人間ばかりの堅苦しい宴は気が進まない。特に酒が好きなわけでも、美女の舞が好きなわけでもないからだ。出来れば回避したいという想いもむなしく、趙範はそれを遠慮からの断りだと受け取った様だ。
    「そんなそんな、遠慮なさらずに! とびきりの酒と料理を用意しております故!」
    「はあ……」
     趙範に半ば強引に連れられ、趙雲もようやく覚悟を決めた。趙範も喜ばせようとしてやっているのだ。せっかく抵抗を見せずに投降してくれたのに、荒波をたてるのも利口ではないだろう。
    「ささ、趙雲将軍。どうぞどうぞ」
    「かたじけない」
     通された部屋には確かに趙範の言う通り、既に宴の準備が出来ていた。一番の上座と思われる位置に、酒と料理が設置されている。香しい料理の匂いに、思わず趙雲も舌が反応する。
    「さあこちらへ。遠慮なくお召し上がりください」
     思った通り上座の席に趙雲は導かれた。趙範はというと趙雲の隣にピッタリと寄り添うように腰をおろし、しきりに酒を進めてくる。趙範なりの誠意なのだろうが、これではせっかく用意した料理も女楽隊も、楽しむ暇がないという事には気付いていないらしい。確かに酒は良いものであったし、趙雲は酒に弱くはない。それでもこう飲まされては、多少は辟易するというものだ。
    「趙範殿、もうこれくらいで結構」
     趙雲が失礼でない程度で制止すると、趙範は残念そうな顔をしてからやっと酒器を下ろした。しかし、しょぼくれた表情をしたのも束の間、瞳をキラリとさせて趙雲に詰め寄る。なんとなく嫌な予感がした。
    「時に、私も趙雲将軍も同じ趙姓でございますよな?」
    「ああ、確かにそうですな」
    「これも何かの縁。これからは義兄弟としてよしなにお願い致します」
     中華の人間にとって、姓は重要な要素である。己と同じ姓を持つ人間はそれだけで親切にするし、助け合う。同じ姓ならば同じ一族として、年の近い男同士であれば兄弟のように振る舞う事もある。そうするのを良しとする風習が、確かに中華の地には根付いていた。
    「それはこちらこそ、願ってもない」
     趙雲は拱手に笑顔で返す。爽やかで人当たりの良い笑顔を作るのは、趙雲の得意とするところであった。勿論、本当は喜ばしくない場合でも、である。
    「いやあ恐悦至極。ならばこの際、遠慮はせずに申し上げましょう」
     趙範はすっくと立ち上るや、パンパンと手を二度大きく叩いた。何かの合図の様だ。部屋の奥が、俄に騒ぎ始める。
    「何事ですか?」
     趙雲が尋ねるも、趙範はただニコニコと笑うばかりで一向に答えない。その内に女が数人固まって入ってきた。女達は皆下女のようだが、唯一中心の女だけは身分の高い女であることは一目でわかった。
     この様な田舎の城にいるのが意外なほどの美しい女だ。女にしてはスラリと背が高く、ほっそりとした肢体は漢の成帝の愛妾であった飛燕もかくや、と思わせる程だ。
     しかしこの様な美女が何故、今この場に出てきたのか分からない。宴で酌をするような身分の女には見えないのだが。
    「……このご婦人は?」
     趙雲が尋ねている間に、趙範とは逆側に件の美女は座った。女の服に焚き染めてあるのか、花の様な薫りがふわりと漂う。劉備軍内では決して嗅ぐことは出来ないであろう、上品で芳しい薫りだ。唯一孔明は香は焚いているようだが、それでもこの様に華やかなものではない。
     女は恥ずかしそうに顔を伏せている。近くで見てもやはり美しい。年齢は三十を迎えるかどうかという辺りだろうか。まだまだ女盛りだと言えた。
    挿絵梨音(あっすぅ)
    「この方は樊氏。私の兄嫁でございます」
    「左様ですか。実に美しい女性ですね」
     趙雲の言葉を聞いてか、女は少し頬を赤らめた。己が美しいと言えば、大抵の女は顔を赤くするという事を趙雲は経験から知っている。何故か昔から女受けは良かった。
    「しかし何故義姉君を?」
     普通、兄の嫁を宴に出したりはしない。
    「いや、それなんですよ!」
     趙範は何が楽しいのか、ニコニコと微笑みかけてくる。先程までより一層笑みが濃くなった。なんとなく媚びる様な感じが、どうにも受け付けない。
    「実は私の兄……樊氏にとっては夫にあたりますか。兄は弟の私より先に鬼籍に入りましてな」
    「それは、……ご冥福をお祈りします」
    「そして義姉君は後家となりました。しかし、見て下さい!」
     そう言った瞬間に趙範が樊氏を指差したので、趙雲もつられて樊氏の方を振り替える。自分へ急に注目が集まり、樊氏は一層恥ずかしそうに目を伏せた。
    「義姉君はまだ若い。そして美しい」
    「そうですな」
    「未亡人として一生を終わらせるには、あまりにも惜しい!」
     趙雲は馬鹿ではない。むしろ察しの良い男だと軍内の評判も上々だ。趙範が何を言わんとしているか、あまりにも見当がついてしまった。
    「不躾ながら、私はこの辺で退室させて頂く」
    「ち、趙雲殿!?」
     趙雲がおもむろに立ち上がったものだから、趙範は目を丸くして驚いている。先程まで視線を落としていた樊氏も、驚いた様子で趙雲を見上げている。
    「私には当分所帯を持つつもりはありませんので」
    「そ、そんな趙雲殿!」
     追いすがる様に趙範も立ち上がる。
    「ご覧下さい、ほら。これほど美しい女性は、例え洛陽でもそうそうお目にかかれませんぞ」
    「そうかもしれませんね」
    趙雲はサラリと答える。趙範は黙った。趙雲の言葉の続きを待っている。
    「しかし私と趙範殿が義兄弟であるならば、樊氏は私にとっても姉。娶るなどとんでもない」
    「い、いや、それは……」
    「そうでなくても娶る気など無いですが」
    「なっ……」
    「少し美しいくらいで、私の気が引けるとでも?」
     少しくらい強く言ってしまった方が良い。そう思って少々かっこつけて言ったが、どうやら効果は抜群だったようだ。
     趙範は黙っている。今度は単に二の句が続かない様子だ。一方未だ一人座ったままの樊氏だが、紅が差していた筈の顔がすっかり青ざめている。自分自身、美しさには自負があったのだろうか。趙雲が軽く睨むと、樊氏は怯えた声を小さく上げて、再び顔を伏せた。美しさを鼻にかける様な女は好きではない。一見穏やかでたおやかに見せようとしている場合は尚更。
    「失礼」
    一言言い残し、趙雲は颯爽と部屋を後にする。その背を呼び止めようとする者はいなかった。

     趙範が逃亡した――と聞いたのは、件の宴から1週間ほど過ぎての事だった。趙雲はあの日、そのまま兵や副官だけを残して一人、本陣に帰還した。劉備も諸葛亮もかなり驚いた様子だったが、趙雲は詳しい事情を話す気になれず事務的な事だけを告げて引っ込んでしまった。普段の真面目な勤務態度が功を奏したか、特に咎められもしなかったのを良い事に、以来桂陽へは一度も足を運ばずにいる。桂陽へは代わる形で劉備が向かっていた。劉備が到着する目前に、趙範は消えたという事だった。
    「趙将軍」
     兵舎を見回っている趙雲のもとへ諸葛亮が訪ねて来たのは、趙範出奔の噂が届いて更に数日後の事だった。
    「これは、軍師殿」
     同じ本陣内に寝泊まりしているとは言え、諸葛亮と会話をする機会は少ない。実際この日、諸葛亮と話すのは久々の事であった。
    「どう致しました。何用ですか?」
     諸葛亮はあいも変わらず黒い厚手の上衣に羽扇の出で立ちであった。いまいち顔色が優れないのまでいつもの通りだ。
    「殿が桂陽より帰還されました」
    「ああ、殿が。そうですか」
    「して、殿が貴方を呼んでいます」
    「殿が私を?」
     諸葛亮はこくりと頷いた。
    「一緒に来て頂けますか?」
    「はあ、承知しました」
     趙雲の承諾を確認するや、諸葛亮はくるりと向きを変えて歩き出した。劉備の幕舎のある方向だ。諸葛亮の背に従って趙雲はついて歩いた。諸葛亮は比較的歩が遅いので、趙雲が合わせる形になる。会話は無いが、趙雲も劉備の用件は何かと考えていて、あまり沈黙は気にならなかった。どうせ幾ばくもかからず到着する。
    「殿、趙将軍をお連れしました」
     諸葛亮と趙雲が、一言声を掛けてから劉備の幕舎に入る。中に入ると、劉備は奥の座台に深く腰かけて座っていた。
    「良く来たな、子龍」
    「殿こそ、無事の帰還なによりです」
     劉備の正面に進み出て、拱手に礼を合わせる。諸葛亮は数歩下がった位置で止まっているようだ。他に人の姿はなく、幕舎の中に居るのは三人だけだった。
    「桂陽の者達から聞いた」
     趙雲はパッと顔をあげた。劉備は面白そうにニヤニヤと趙雲を見ている。一人なんの事か分からない諸葛亮だけが、事態を静かに見守っている。
    「急に帰って来てどうしたのかと思えば、そういうワケだったんだな」
    「いや、それは……」
    「相当な美女という話ではないか。勿体ない」
     劉備はからかい半分な気持ちと同時に、本心で言っているようだ。
    「女で私に取り入り、更には我が軍に取り入ろうとする行為。その様な浅ましい真似をする男は、私は信用出来ませぬ」
    「……流石子龍と言った所だな。しかしな、別にお前が趙範の兄嫁を娶ったとしても私は怒らんぞ?趙範が信用出来ないと言うのは分かるが、せっかくだから貰っておけば良いのに」
    「殿……」
     恨めしげに劉備を睨むと、劉備は声をあげて笑った。
    「そんな顔をするな、子龍。私はお前が早く所帯を持ってくれれば良いなと思って言ってるんだぞ?」
    「そのお気持ちだけは、ありがたく受け取っておきます……」 劉備になんと言われようと、趙雲は妻帯する気は無い。決して独身主義というわけではない。ただ、今の所必要性を感じていないだけだ。する時は、する。あえて急ぐ必要は無いというのが、趙雲の主張だった。
    「しかしなぁ……。桂陽の者が言うには、かなりの美しさという話だったからなぁ……惜しい」
     一度見てみたかったなーと、なおも劉備はぶつぶつ呟いている。趙雲にというより、単に自分が視たかっただけなのではないかと思えてきた。そう言われれば樊氏はどうなったのかと思ったが、劉備の口ぶりから趙範と共に消えたのだろうと思われた。
     とにかくこんな話題はさっさと終わりにしたい。他の地域の制圧に向かっているからであろうが、この場に張飛や関羽がいなくて良かった。
    「私は女の価値を外見にはおいていません」
    「む?」
    「それに天下に女はいくらでもいますから。もっと我が軍が落ち着いた時にでも、妻になってくれる女を探します」
    「おわ、なんだか私に責任転嫁してないか?……んー、しかしその台詞、言ってみたいなー」
    「え?」
    「『天下に女はいくらでもいる』……か。いや、お前ほどのイイ男が言うと、キマるなぁ……」
    「殿……?」
    「はぁ、もう退がって良いぞ、子龍。孔明」
    「はっ」
     傍で静かに立っていた諸葛亮が、久々に声を出した。
    「あっ……」
    完全に諸葛亮の存在を忘れていた。全て聞かれていたわけか。



    「…………」
     劉備の幕舎を出て、二人は再び並んで歩いた。諸葛亮は自分の仕事に戻るのだろうが、趙雲はただ諸葛亮の後をついて歩いている。何か話さなければと思ったが為だが、なんと切り出したものか考えが纏まらない。劉備の幕舎がそろそろ見えなくなるだろうかという頃、趙雲が行動を起こすまでもなく諸葛亮の方が声をかけて来た。
    「趙将軍」
     諸葛亮は俄に足を止めて、ゆっくりと振り返った。
    「はいっ?」
     まさか諸葛亮の方から話しかけてくるとは思わず、返事の声が思わず上擦った。
    「災難でございましたね」
    「え……」
    「急に本陣に戻られたので驚きましたが、そういう事情があったのですね」
     なんとなく諸葛亮には馬鹿にされるのではないかと思ったのだが、予想に反して同情的だった。諸葛亮は口元で羽扇をゆらゆら揺らしながら続けた。そのまま再び歩を進めるので、趙雲も合わせて足を動かす。そのまま横並びで歩き始めた。
    「素敵だと思います」
    「えっ?」
     むしろ出て来たのは誉め言葉であった。どういう風の吹き回しかと思わず身構えてしまう。
    「女性の価値は外見ではないという考え。私も同感です」
     ――そこか。まさか諸葛亮がそこをついてくるとは思わなかったので、趙雲は素直に驚いた。
     しかし、少し考えてすぐに思い当たる点に気付く。そう言えば諸葛亮の妻は、近所でも有名な醜女だとかなんとか……。
     ――そういうことか。諸葛亮は女は外見派ではない……という話なのだろう。実に諸葛亮らしい思想だとは思った。
    「はは、いや、当然ですよ」
     趙雲は正直、諸葛亮に同志と思われて良い男ではなかった。昔から取り立てて女に不自由はして来なかった趙雲としては、今更少し美しい程度で心騒いだりしない。実際の所そういう意味合いが一番強かったのだが……笑顔を作るのが得意で良かったと、この場に置いては心底そう思った。
     せっかく諸葛亮が好意的に接してくれているのだから、下手に本当の事を言ってこの空気を壊す必要も感じられない。余計な事は言うまい、と腹を括った。
    「それはそうと、今回の一件で趙将軍が未婚だと初めて知りました」
     微妙に話題の矛先が逸れて、内心趙雲が安堵したのは言うまでもない。
    「ああ、そうでしたか。実はそうなのです」
    「何か理由がおありなのですか?」
     諸葛亮がそう疑問を抱くのは自然な流れだった。趙雲の年になって、妻も妾もいないというのは珍しいからだ。死別したわけでもなく、趙雲は一度も妻をもったことがない。
    「いや、そういうわけでもないんですが。今の所必要を感じないというだけの話です」
     それ以上でも以下でもないため、他に言い様が無い。趙雲は歯切れ悪く更に続ける。
    「機会があればと思うのですが……」
    「そうでしたか。私はそれで構わないと思いますよ」
     趙雲が結婚に関して言うと、叱られるか心配されるか、はたまた突然知人女性の斡旋が始まるのかのいずれかなのだが、諸葛亮はそれらの全てに当てはまらなかった。好意的に受け取られるのは初めての経験で、純粋に嬉しい。嬉しいというかホッとした。結婚自体よりそれに伴う周りの反応が煩わしいのが実は真相かもしれない、と自己を顧みる。
    「そうですか? 正直、そんな風に言われるのは初めてです」
    「生涯の伴侶になるのですから、焦らずにお決めになるのがよろしいかと。無理にするものでもないでしょう」
    「そう言って頂けるとありがたいです」
     ――私達は、何の話をしているのだろう……。なんだか妙な展開になってきたなと思った。まさか諸葛亮と結婚談義をすることになるとは、人生何が起こるか分からない。
     しかし逆を言えば、こんな機会は今後はきっとないだろう。無理に話を打ち切るのは勿体無い。
    「軍師殿は、ご結婚なされていますよね……?」
     無論知っているのだが、まるで知らない風を装って尋ねた。
    「はい、妻が一人おります」
     諸葛亮は趙雲の演技に気付く様子も無く、素直に答えた。劉備が諸葛亮を召し抱える前には既に、結婚していたという妻。名前は知らないが、荊州の名家である黄家の娘だという情報は聞いたことがある。
     かつて城に初めて参内する諸葛亮を迎えに行った際には、妻を連れていなかった。その後、身の回りが落ち着いてから呼び寄せたという事らしい。結婚して既に数年が経っているらしいが、二人の間に子はいない。趙雲は諸葛亮の妻に一度も会った事は無かった。劉備は知らないが、趙雲以外の大体の将も同じ所だろう。
    「そうですか。軍師殿は今幸せだと感じていますか?」
     趙雲は結婚願望も無いし、結婚に理想も抱いてない。とは言えこの時代、結婚はして当然というものだから、願望やら理想以前の話なのかもしれないが……。それでもこの年になって独身男の趙雲としては、やはり気になるものだった。普段この手の話をすると面倒な事になるのであえて避けるのだが、どうせならこの機会に聞いてみたいという気になった。
    「えっ? ええまあ、お陰様で?」
     問われた諸葛亮は明らかに狼狽していたが、答える気はあるらしく、さらに続けた。
    「そうですね。家族がいるというのはやはり良いものですよ」
    諸葛亮にしては発言に感情が篭っている。ひどく真摯な表情だったが、視線は趙雲を捉えてはいなかった。
    「へえ、そういうものですか……」
     答えながら、諸葛亮も家では普通に笑ったり、のんびりしたりするのだろうかという疑問が湧いた。あまりそんな姿は想像出来ない。夫婦の関係であればそんな様子も普段から見られるのだろうか。徐庶の前では朗らかに笑う諸葛亮の光景が、にわかに蘇った。
    「愛しておられますか?」
    「えっ?」
    「奥方を、愛しておられますか?」
    「え、なんですか、急に」
     どこか遠くを見つめていた諸葛亮も、この時ばかりは趙雲の方へ視点を戻して目をしばたかせていた。こんな事急に訊かれては、大抵の男は戸惑うだろう。尋ねた方は呑気なもので、柄にもなく慌てている諸葛亮を見て、珍しいものを見たような得をした気分になっていた。
    「さ、さぁ……。私には、良く分かりません」 
     少し間を要して諸葛亮は答えた。存外真剣な声色。
    「分からない?」
    「分かりません」
     意外な答えだった。恥ずかし紛れに言ってるわけではないようだ。諸葛亮は妻以外には一人も妾を迎えず、妻を大切にしている愛妻家だと聞いていたのだが。質問をふっかけておきながら、趙雲は諸葛亮の答えに戸惑った。こう返されると、却って趙雲の方がどう反応するべきか困ってしまう。
    「妻の事は大切に思ってますし、守りたいとも思います。尊敬もしています」
     諸葛亮の妻は大変聡明な女性だという話だから、そういう意味で尊敬しているのだろう。
    「かけがえの無い、家族なんですけど……」
     諸葛亮は再び、視線を明後日の方向へ向けた。しかし先程より幾分か、顔は伏せられている。
    「…………」
     なんと返したものか分からない。それだけ慈しんでいるのは、愛しているとは言えないのだろうか? 妻という存在は、愛の対象というより家族という対象になってしまうものなのだろうか。結婚経験の無い趙雲には良く分からない。
    「そうなのですか……」
     毒にも薬にもならない答えしか出来ない。
    「そうですね……」
     諸葛亮がふと立ち止まった。見渡せばいつの間にやら、本陣の西端まで来ていた。ここには兵糧が管理されている。諸葛亮の幕舎も、ここにある。
    「何故その様な事を?」
     諸葛亮の視線が、再び趙雲に向き直った。じっと、多少訝る様な目付きで趙雲を見ている。
    「えっ?」
    「いや、言われてみて私も気付いたので」
    諸葛亮はさっと瞳に影を落として、ゆっくりと視線を外した。どこを見るでもなく虚空に視線を泳がせている。先ほどからひどく視点が曖昧で、見てるこちらがなんだか不安になってきた。
    「私は妻を愛していないんでしょうか……」
    「そ、そんな事は無いと思いますよ。そんなに大切に思われているのに……」
    「…………」
     諸葛亮が再び趙雲に視線を戻した。じっとみつめてくる。何の感情も無い目だったが、趙雲はドキリとした。
    「趙将軍」
    「はい」
    「良い伴侶が得られると良いですね」
    「え、はあ……ありがとうございます」
    「では私は幕舎に戻りますので。失礼します」
     目の前の幕舎が、諸葛亮の幕舎であるらしい。軍の動向を担う軍師の幕舎にしては、随分と端に位置している。諸葛亮は兵糧の管理もしているため、諸葛亮自身が望んでいるのだそうだ。諸葛亮の幕舎は大抵はこういった辺鄙な場所にある。
     諸葛亮は自身の幕舎の中へ、ゆっくりと消えて行った。なんとなくその背中が淋しい気がするのは、趙雲の気のせいだろうか。諸葛亮と話せたのは良かったが、話したら話したで益々分からない部分も増えていく気がする。やはり不思議な人だ、と趙雲は思う。また諸葛亮と話したい……そう思いながら、趙雲は自分の持ち場へ帰っていった。
    梨音(あっすぅ) Link Message Mute
    2020/11/03 11:29:52

    窈窕たる淑女は何処

    サイトよりサルベージ。サイト版より適宜修正済み。挿絵有。
    「窈窕淑女」は詩経の窈窕の章がネタ元。
    桂陽の寡婦騒動はエンタメとして最高。

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    • 2後日談(干天の慈雨)最近描けてなかったな~と思ったので小説の後日談を少し描いてみる。
      小説の続き書きたいとはずっと思ってるけど、普通に難しくて…時系列的には定軍山の戦いなんですけど、孔明多分お留守番だから…書きようが無いんだ…。
      梨音(あっすぅ)
    • 司馬懿って趣味あるのかな曹丕が物凄く美食や詩歌管弦を愛する趣味人なのに対して司馬懿って全然趣味とか無さそうだよな…と思ったので梨音(あっすぅ)
    • 干天の慈雨成都の外から始まるお話です梨音(あっすぅ)
    • 2こたつこたつは生産性下がるので我が家でも廃止しています梨音(あっすぅ)
    • 5レキソウお疲れ様でした~。表紙の不採用デザイン案もこの際なので載せます。梨音(あっすぅ)
    • 5【サンプル】「頓首再拝」2021/2/13 レキソウオンライン冬祭(ピクトスクエア内開催オンラインイベント)で頒布予定です

      「頓首再拝」
      全28P(表紙含)/A5/400円
      全年齢/オンデマンド印刷
      サークル名:あうりおん

      レキソウオンライン冬まつりで頒布します
      孔明と陸遜が文通する漫画です
      あんまり三国志してない平和なお話です
      CP要素なし
      一番最後のがサークルカットなのでよろしくお願いします
      梨音(あっすぅ)
    • 夏天の成都夏の成都の暑さに辟易する人々。
      手を変え品を変え成都の暑さにへばる劉備軍を描いてるので性癖なんだと思います。
      ラストに挿絵有。
      梨音(あっすぅ)
    • 新しき日々サイトよりサルベージ。適宜修正済み。挿絵有。
      過去1長い話です。黄夫人の存在も好きなので大切にしたい。
      梨音(あっすぅ)
    • あけましておめでとうございます~。今年もよろしくお願いします。梨音(あっすぅ)
    • 天府の地へサイトよりサルベージ。適宜修正済み。挿絵有。
      馬超と馬岱の服装は羌族の民族衣装を参考にしてます。
      梨音(あっすぅ)
    • 3馬岱詰め以前RaiotというイラストSNSにアップしてた漫画のデータが残ってたので、改めて描き直しました。
      アップしようとしてただけかもしれない…。
      梨音(あっすぅ)
    • 別離の岸辺サイトよりサルベージ。適宜修正済み。挿絵有。
      短いですが転換点的なお話。
      梨音(あっすぅ)
    • 某月某日サイトよりサルベージ。適宜修正済み。挿絵有。
      一度やってみたかった作中作と言うべきか?作中人物の書く文章だけで進むお話が書けて楽しかったもの。
      自分的にはお気に入りの章。
      馬良と趙雲が仲良くしてるのをもっと書きたかったけど、馬良はもう趙雲と会うことはない…
      梨音(あっすぅ)
    • 陸遜の結婚陸遜と朱然のCPってなんて表記するの??(これはCPなのか?)

      陸遜の奥さんが孫策の娘だったという事は陸抗の母が孫策の娘という記述から分かるのですが、孫策の娘だと陸遜と年が結構離れてる…?
      呉主の姪にあたる女性を二番目以降の奥さんにするかな~と考えると、初婚の正室…?逆にそうなると陸遜結婚おそかったのか…?
      とまで想像して、若い頃山越討伐に忙しすぎて独身長かった陸遜良いなぁ~とか思いました。
      一人目の奥さんが子どもできなくて離縁…とかも良くある話なので、そんなんでも全然ありそうですけどね。
      夭逝した陸抗の兄は最初の奥さんが産んだ可能性もある。

      陸抗の母が孫策の娘というだけで大喬の娘か分からないけど、孫策は孫策で若くして亡くなったので、他に子供を産むような奥さんが居たのかな~と思ったので大喬であってほしい。
      しかし改めて考えて孫家に対して思う所もあったであろう陸家の陸遜が孫家のご令嬢と結婚したっていうのはエモいですよね。
      梨音(あっすぅ)
    • BOOTHに「軍師殿と私」の紙版を追加しました。安くない金額出して買うまでの事はないと思いますが、もし興味ある方がいらっしゃいましたらよろしくお願いします。

      https://gesusu.booth.pm/items/2589683
      梨音(あっすぅ)
    • 陽光煌々たりサイトよりサルベージ。適宜修正済み。挿絵有。
      オリキャラがそこそこでばります。
      私の脳内の龐徳公を上手く表現できませんでした。
      梨音(あっすぅ)
    • 4他勢力の人達(現パロ)原稿の息抜きに丁度良いんです…
      なんだか人のパーソナリティをネタにした漫画が多くて良くないなぁ…と思ったのですが、載せます
      関羽と張飛が現代人やってる姿が全然想像できなくて登場させられない
      曹丕はキラキラOLだとフォロワーに思われている
      梨音(あっすぅ)
    • 繰り返し見る夢サイトよりサルベージ。適宜修正済み。
      記憶からは失われていますが、タイトルお題をもとに書いたようです。
      一部孔明の一人称で進む部分があるなど、本編とは外れた番外編の様な扱いです。
      本編中で孔明が度々言っている「悪夢」の内容が主にコレです。
      梨音(あっすぅ)
    • 居場所サイトよりサルベージ。適宜修正済み。挿絵有。
      アンジャッシュ的な奴好きなんだろな過去の自分。
      梨音(あっすぅ)
    • 4性懲りもなく現パロ原稿の息抜きに描いてるつもりが楽しくて増えた奴。
      前髪と髭は偉大だなぁと思いました。
      梨音(あっすぅ)
    • 渇愛サイトよりサルベージ。適宜修正済み。挿絵有。
      サイト掲載時ずっと「喝愛」と誤字ってたんですが、「渇愛」が正しいです。
      初の孔明視点。
      梨音(あっすぅ)
    • 江南の姫君サイトよりサルベージ。適宜修正済み。挿絵有。
      この章については趙孔というより劉尚です。
      梨音(あっすぅ)
    • 2お香にまつわる四コマ以前もお香ネタのこの様な漫画描いた気もします…。孔明のイメージフレグランスはパチュリーだという事は延々と言っていきます。梨音(あっすぅ)
    • 聞こゆれどサイトよりサルベージ。サイト版より適宜修正済み。挿絵有。
      「聞く」というのは耳で聞くのと、香りを味わうのと両方いうそうです。
      梨音(あっすぅ)
    • 4現パロ(自分の)誕生日にはいつもやらないような事をやりたい!と思って描いたら楽しくなって続きも描いた現パロです。三国志のさの字も無いので閲覧注意。趙孔です。

      孔明は有能だが納期の融通とか一切認めない開発課のエースとして営業の間で有名になってるのを本人は知らない。孔明は経理課も似合うなー。サンドイッチ大きく描きすぎた。
      梨音(あっすぅ)
    • 夢で逢いましょうサイトよりサルベージ。サイト版より適宜修正済み。挿絵有。
      改めて読むとなんだこの話は…ってなりますね
      梨音(あっすぅ)
    • 武器と仮面とすれ違いの興奮サイトよりサルベージ。文章適宜修正しています。紙媒体用に直してるのでWEBだとやや読みづらいかもしれません。
      作者の私自身が当時正真正銘若かったせいか、作中の孔明や趙雲の言動が妙に若いと云うか、軽いと云うか、そんな感じが強いのが少々気に入らないのですが、後半より彼らも実際若いしなと思って原文の雰囲気を残してます。
      今読むともうこの時点で無自覚に惚れてません?
      梨音(あっすぅ)
    • 一個上げ忘れてた↓梨音(あっすぅ)
    • 7小説本作る際の挿絵没絵です。1枚目だけ資料として描いた孫尚香。どの場面の絵かはご自由にお考え下さい。梨音(あっすぅ)
    • 4軍師殿持ち上げチャレンジクリスタ買ったので習作として描きました梨音(あっすぅ)
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