居場所 目下、劉備軍は大宴会中であった。荊州南郡は決して豊かな土壌ではなかったが、それでも用意出来るあらゆる嗜好品を集めた、劉備軍として出来る限りの豪華絢爛な宴だった。宴の主賓は張松。益州牧劉璋に仕える参謀だと聞いている。
「さぁ遠慮は要りませぬぞ張松殿。貴方の為に用意した宴だ。心行くまで楽しんでくだされ」
劉備軍の頭領たる劉備自らが、直々に張松の相手をしている。劉備の隣に座る小男が件の張松だ。背が低く歯を突き出した様な不恰好な容姿だが、眼光は鋭く、頭の方はかなりキレそうだと窺えた。
「仁君と評判の劉皇叔にこの様な歓待、感謝の言葉もございません」
張松は、事実この宴を楽しんでいる様だ。劉備もその他の諸将も、本心から張松を歓待しているというのが伝わるのだろう。もっとも、諸将達は酒が飲めるのなら何でも良いというのが本心で、宴の主旨はなんだって良いのだという事は、流石の張松にも分からないようだ。
劉備とは反対側の張松の隣席には軍師の龐統が座っている。こちらも張松に劣らずの醜男だったが、張松よりもずっと人好きのする顔をしている点で得をしている。龐統も劉備と同じく、楽し気に張松と酒を酌み交わしている。龐統もかなり社交的な性格で、人との距離を縮めるのが頗る上手い。劉備と龐統に挟まれたらどの様な気難し屋でも気を許すに違いない。
しかしはて、もう一人の軍師はどこだろうかと部屋を見回すと件の人は劉備達とは少し離れた場所に座っているのを見つけた。いつも宴の席ではろくに食事をしてない印象だが、今日はいつも以上に料理に手をつけていないようだ。盃を持ち口に運ぶそぶりはしているが、実際にはほとんど口にしていない。
もう一人の軍師たる龐統とは全て真逆にした様な人だ、と思う。諸葛孔明という人は、背が高くスラリとした体つきで顔も随分小綺麗な印象だ。しかしながら性格は社交的とは言い難く、宴の場でも騒いでいる様子を見た事が無い。
ただそれは私的な場での話であって、本気でこの人の口を開かせたら敵う者はいない、という話である。先の赤壁の戦いの折、一人呉の地へと説客に行き、孫権を開戦に踏み切らせたばかりか、遥かに戦力に劣る劉備軍と同等な同盟を取り付けた事が、この人の能力を物語っているだろう。
しかしそんな諸葛孔明とはいえ、宴において普段は劉備の近くに座っていたのではなかったか。今日は劉備の席とも遠くあまりに目立たない場所に座っているな……等と考えていると、おもむろに諸葛亮は立ち上がった。
どうしたのだろうとその姿を目で追っていると、そのままひっそりと部屋を抜けていく。それはあまりに静かで、諸葛亮が消えた事に気付く者すらほとんどいない。どこに行くのだろうと思うと同時に、自分も自然と後を追っていた。
「お一人で出られては危のうございませぬか」
黒衣の背中に声をかけると、諸葛亮はハッとしてこちらを振り返った。付けられている事に全く気が付いていなかった様だ。これではあまりに無防備がすぎるのではないだろうか。普段諸葛亮を護衛している趙雲はいかに苦労しているだろうと、お節介ともいえる同情が頭をよぎる。
「これは……関平殿」
諸葛亮は関平の顔を見るとホッとした様に息を吐いた。刺客だとでも思ったのだろうか。
「こんな時にご自分の執務室へ? 宴の最中に仕事とは異な事を」
どこに行くのだろうと後をつけたが、なんの事はない、自身の執務室であった。
「張松殿の話の裏を取りたいと思いまして」
「裏を取る?」
「張松殿が本当に我が軍に協力する気があるのか。張松殿が漏らした言葉が真実かどうか、確かめたいのです」
そう言えば張松は会話の端々で成都の収益はどうの、益州への道のりがどうの、益州についての情報を口走っていた様に思われる。口走っていた……というよりは、龐統に引き出される形で話していた? 今思えば、そういう話は大体龐統との会話中で話していた様な気がする。
「龐統殿が情報を引き出し、諸葛亮殿が裏を取る……という分担なのですか?」
だから諸葛亮はいつでも場を抜けられる場所に座っていたのか。
「察しが良いことで。流石は髭殿のご子息であられる。本心から我等に協力する気でないなら、酒の席であろうとそんな事は言いますまい」
諸葛亮は、関平にとっては義父に当たる関羽の事を、その外見の特徴から髭殿と呼んだ。立派な髭が自慢の関羽の方も、そう呼ばれる事が満更でもないらしいのを関平は知っている。
「とは言え、一人で抜けられるのは流石に軽率でございましょう。張松が我々に協力する気があるか不明な今こそ、気をつけなければ」
刺客を放っていないとも言い切れない。そうでなくても間者はどこに潜んでいるか分からないのだ。真面目に言ったつもりなのだが、しかし諸葛亮は聞き流すかの様な態度で返した。
「宮中内の部屋を少し移動するだけの事を、些か大袈裟にございますな」
「貴方は御身の大切さが分かっておられない」
「ふふ、これは趙将軍の様な事をおっしゃる」
諸葛亮は皮肉めいた笑み混じりに言った。
「それは褒め言葉と受け取って良いのでしょうか?」
「褒め言葉? そんなつもりはありませんでしたが、そう思うならばご自由に」
言いながら、諸葛亮は執務室の戸を開けた。関平の方を振り替える。
「入らないのですか?」
「えっ、よろしいのですか」
「私を護衛して下さるのでしょう?」
思ってもなかった事だ。諸葛亮がそう言うのならこの機会を失う手はない。関平は言われるままに、室内へと足を踏み入れた。
執務室は、関平が思っていたよりずっと雑然としていた。この軍師の事だから、部屋はさぞ綺麗にしているのだろうと思ったがその予測は大いに外れた。調度品は少ないのに、比べてやたらと書物が多い。壁に据え付けられた本棚には所狭しと書物が詰められている。
「すいません、汚くて。人を呼ぶ予定では無かったので」
諸葛亮は慌ただしく散らばった荷物を片付けて関平の座る場所をなんとか用意してから、自信は部屋に一つ据え置いてある机の奥に座った。机上にも幾つかの書物が置かれている。中を見ていると、一番上に置かれているのは地図のようだ。
「少し前に綺麗にしたばかりなんですがね、趙将軍が来た際に。仕事に精が入ると周りに目が向かなくていけない」
言い訳がましく諸葛亮が呟いている。その内容から趙雲がこの部屋に来る事があるのだと関平は知った。趙雲は孔明の主騎であるから、ありえない事でもない。
「趙雲殿は、この事をご存じなので?」
「この事とは?」
「こうやって宴を抜けて執務室に一人で戻る事」
「先も言いましたが、このくらいの事でいちいち大袈裟です」
つまり、伝えてないという事か。
「心配されますよ。貴方の主騎なのですから」
「彼は主騎という役職ではありますが、『私の』というわけではありません。主騎とは軍師個人につくわけではありませんから」
確かに、主騎とは主君や主君の妻子、軍師などを護衛する直属の親衛隊の様なものである。しかし劉備の妻子がそう出歩くわけでもないし、劉備にはなんだかんだで義弟達のどちらかがついている。従って自然と趙雲の護衛対称は諸葛亮に限定された。
よくよく考えれば龐統も同じ軍師なのだが、どちらがより護衛が必要そうかと言えば答えは明白なため、軍内では「趙雲は諸葛亮の主騎」として通っている。
そんな事を知らないのは本人達ばかりと言う事か。そんな関平の意も知らず諸葛亮は続ける。
「それに今護衛すべきは殿のはず。私の事を心配している場合ではないでしょう」
どこか決め付けた風に言った。釈然としないものはあったが、結果関平が代わりに今此処にこうして居るのだから、文句は言うまい。
関平が返さずにいると、諸葛亮は色々な竹簡を広げて中を確認していく。これが「裏を取る」作業なのだろうか。
「益州は閉鎖的な地域で、情報は伝わって来にくいと聞いていますが」
「ええ、受け身でいても何も入って来ません。だから私や士元は積極的に益州へ細作を送っています。とは言えそれも全て正しい情報か分からないからこそ、比較して検討する必要がありますが」
「えっ、そんな事をなさっていたのですか?」
「張松云々に関わらず、我が軍は元々益州攻略を考えていましたので」
初耳だ。いや、最終的にそこを目指すという事は分かっているのだが、諸葛亮達が既に動き出していた事を知らなかった。
「先に、呉から諸葛瑾殿が参られたでしょう」
「ええ、その様ですね」
関平はその時面会はしなかったのだが、そう話は聞いていた。諸葛瑾は諸葛亮の兄のはずだが、あえて他人行儀に言っているのだろう。
「その時、呉主からの伝言を預かって来ていたのですよ。曰く、『いつになったら益州を獲るのか』と」
「ああ、なるほど……」
以前に荊州の利権について会合を行った際、劉備は孫権に「益州を獲ったら荊州南郡を返還する」と約束してある。孫権はその催促をしたのだろう。そういう事もあって、そろそろ本格的に益州攻略を考えねばなるまい……そういう流れになっていたのか。そんな時に張松が現れるとは、まさに渡りに船だったという事らしい。
諸葛亮は黙々と作業を続けている。関平は邪魔にならないよう、静かにその様子を見守っていた。
あまり普段は眺める機会の無い、軍師の姿形を目で辿る。嫌味なく綺麗だな、と思う。容貌はさる事ながら、そのしゃんと伸びた背筋や、整った髪、糊の通った衣服。そして独特の清廉な雰囲気。諸葛亮が自分にも他人にも厳しくあろうとする意識の表れであると思う。
実は関平は、自分には無い諸葛亮独特の澄んだ印象には一種の憧れを抱いている。元々関平は諸葛亮には好意的だった。
まず初めに主君劉備が新たに軍師を連れてくるとなった際、年齢の若いのを聞いて関平はそれだけで嬉しかった。劉備軍には関平と同世代の者は少ない。故に、年近い仲間というだけで諸葛亮には親近感が沸いていた。
実際会ってみてより関平は諸葛亮の事を好きになった。自分と気が合いそうだとは思わなかったが、年の割りに落ち着いた雰囲気、年上の諸将等に物怖じしない態度が関平にはかっこよく映った。
しかし関平が好意的に思ったそれらの特徴は、年長者からは悉く疎まれるものだったらしい。古参の将達からは生意気だとか可愛いげが無い、と言って嫌われていた。敬愛する義父の関羽すらも同様に諸葛亮を貶めるのを聞いて、関平は悲しかった。
最初に諸葛亮に打ち解けたのは、劉備を除けば趙雲だったように思う。護衛を担当する立場であるから、一緒に過ごす時間も長い。当然といえば当然だったろう。関平は基本的には関羽と共に行動するため、趙雲や諸葛亮に会う機会は意外と少ない。故に久々に二人を見かけて、何があったのだろうかと驚いたくらいだ。
しかし良く良く観察してみれば、二人は職務に滞りない程度に打ち解けたとはいえ、やはり二人の間には少し距離があったように思う。関平はそれに気付いて少し安心した。そうして初めて諸葛亮と最初に仲良くなるのは自分が良いなんて、子供っぽい事を考えていたのだとその時自覚した。
そうは言っても如何せん、関平は諸葛亮と接する機会は少ない。ろくに話す機会さえ無いというのが実状だった。そんな関平に趙雲との接触の機会を与えたのは、他でもない趙雲であった。
「関平、丁度良い所に来たな」
関平はその日はたまたま宮中にいた。その上関羽はその日は外に出払っており関平は暇を持て余していた。そうは言っても呉からの使者が来ているという話だったので、あまり羽目を外すわけにもいかず、結局関平は手持ち無沙汰で辺りをうろついていた。趙雲に声を掛けられたのはそんな折だった。
「おや、趙雲殿」
向こうの方で趙雲が大きく手を振っているのが見える。関平は真っ直ぐ趙雲の元へ駆け寄った。暇を持て余している関平と対照的に、趙雲は鎧を身に付け腰には剣を佩き、いかにも仕事中という風情だ。周りにも歩哨の兵がうろついており、厳重とは言わないまでもそれなりの警備が敷かれている現場らしいのは分かった。
「もしや、ここで呉の使者との会談が行われているのですか?」
関平はすぐそばの屋敷を指さした。
「ああ、そうだ。諸葛瑾殿と劉備さまが会っておられる」
「では趙雲殿はその警備を」
「その通りだ。だから今ここから動けなくてな。代わりに少し頼まれてくれないか?」
頼み事と聞いて正直気は乗らなかったが、どうせ暇だから構うまい。
「何の用なのです?」
「会談がそろそろ終わりそうだと、軍師殿に伝えて来て欲しいのだ。ああ、孔明殿の方だが」
「軍師殿!?」
予想外の申し出に、関平の体は跳ねた。
「加減が悪くて執務室でお休みになられている。もしかしたら寝ているかもしれないが……」
「お任せ下さい。私が行って参ります」
「そうか? では悪いが頼んだぞ」
趙雲は申し訳なさそうに言ったが、むしろ感謝したい気分だった。
関平は、かつて今まで私的な場で諸葛亮と話した事がない。勿論、執務室を訪ねた事すら無かった。それがこんな正々堂々と赴ける日が来るなんて。関平は弾むような足取りで諸葛亮がいるという執務室へ向かった。
「もしもし、軍師殿?」
戸を叩いて中の諸葛亮を呼ぶ。しかし一向に返事が来る気配がない。幾度となく叩いてみても、いっこうになしのつぶてだ。中に入ろうかとも考えたが、趙雲はもしかしたら寝ているかもしれないと言っていた。そういう場に突然現れるのは失礼だろう。特に諸葛亮は、なんとなくそういう事を嫌いそうだった。
しかしこのまま反応がないのでは埒が明かないのもまた事実。仕方ない、失礼を承知で中へ入ろうかと思った瞬間、ガラリと音を立てて眼前の扉が開いた。
「すいません。起きています」
中から諸葛亮が顔を出した。そして関平は、諸葛亮の顔を見てハッと息をのんだ。ひどく青白い……死人の様な顔色だった。誰が見たって病人だ。そう言えば趙雲は、加減が悪くて休んでると言ったのを思い出した。
「ぐ、軍師殿……。まだ寝てらした方が良いのではないですか?」
「……貴方は髭殿のご子息の、関平殿でございましたね」
「いかにも」
名を覚えられていたのは嬉しいが、今はそんな事に浮かれている場合ではない。
「貴方は私を起こしに来たのではないのですか?」
「そうですがしかし、その顔色を見ては」
「私の顔色が悪いのはいつもの事です。それに少し眠りましたから、大丈夫」
大丈夫なわけがない。そうは思ったが、諸葛亮の有無を言わせない態度に圧倒されて留める事も叶わなかった。
結局諸葛亮は、そのまま劉備達の元へと向かった。後を追い物陰から見る分には顔色は幾らか戻ったように見える。しかしそれも、諸葛亮が気丈に振る舞っているからに違いない。心配をすると同時に、体調が悪くても仕事を投げ出さない、そんな諸葛亮の真面目な姿勢にまた関平は好意を抱いた。
しかし、いつもこんな無理をしてはいつか倒れる。それから関平は以前より一層諸葛亮の動向を気にする様になった。ちゃんと休んでいるのか、そう心配するようになったのだ。
確認作業が終わったというので、関平は諸葛亮と共に宴の部屋へと戻る事にした。しかし諸葛亮は部屋には入ろうとしない。内側から見えるか見えないかの所で、身振り手振り何かの合図を送っている。何をしているのだろうかと思っていたら、間もなく龐統が出てきた。予め段取りを踏んでいたのだろう。
「おや、関平殿もおられたか」
些か呂律の覚束ない声で龐統が言った。随分と酒臭い。相当酔いが回っているように見えた。無類の酒好きの龐統は、例え裏に目的がある宴であろうと本気で飲むらしい。それでも発言自体に淀みが無いようなのは、流石というほかなかった。
挿絵梨音(あっすぅ)
「士元……話に齟齬はありません。一応比較結果を記しておきました」
「いや、孔明が言うなら信じるさ。とにかく、張松殿は嘘はついていないわけだな」
「今はそうでも、今後どう転ぶか分かりません。引き出せる情報は引き出しておいて下さい」
諸葛亮は室内で気持ちよく劉備と酒を飲んでいるであろう張松の方角を見て言った。ここからでは張松の姿はちょうど死角になっており、見る事は適わない。勿論、向こうからもこちらが見えないという事だが。
「任せな。酒飲みながら出来る仕事なら叶ったりだな」
龐統は手を振りながら、再び宴の中へ戻っていく。簡単な様に言うが、彼以外の者にはなかなか真似の出来ない芸当だろう。
龐統への報告も終わり、諸葛亮も宴へ戻るというので関平もそれに従おうとした所、新たに近付いてくる人影がある。趙雲だった。
「趙雲殿、御苦労様です」
趙雲は確か今回は宴に参加せず、周辺警護を任されていたはずだった。相変わらず颯爽としていて、絵になるなと思う。関平より十は年長の筈だが、溌溂としている。
「ああ、関平か。孔明殿、今までどちらにいらしました? お姿が見えなかったですが」
ほら来た、と関平は思った。が、孔明の方はどこ吹く風の体である。
「自分の執務室に少し用があっただけです」
「お一人で出歩かれるのはやめて下さい。今警備は宴の場に集中してますから、ここから離れるのは危ないです」
「一人ではありません。関平殿が護衛をしてくれました」
「えっ」
急に自分に話をふられて驚いた。趙雲が怪訝な顔で関平を見る。
「本当か?」
「ああ、はい。確かに執務室で軍師殿と一緒におりました」
嘘ではないから問題無かろう。しかし趙雲はどこか不満げな様子だった。趙雲のこんな表情は珍しい。
「私の事は大丈夫ですから、今はご主君の警護に集中して下さい」
「……はい、承りました」
言葉とは裏腹に、趙雲は不満そうな表情のままだった。
それから暫くの間も、劉備軍の日常は張松を中心に回った。劉備は張松と長い時間話し合っていたようだが、龐統とはそれ以上だったろう。その話し合いには時折諸葛亮も加わったが、基本的には龐統一人が任されているらしい。
どうも同じ軍師とは言っても、龐統と諸葛亮は仕事を分けているようである。龐統が軍事方面だとしたら、諸葛亮は政治方面に尽力しているらしい。張松がいる間も、そちらの対応は龐統に一任し、諸葛亮は荊州の安定に終始した。
「関平殿」
それから数日したとある日、諸葛亮が話しかけて来た。しばしば目で追っているのが気付かれたであろうかとヒヤリとする。あの日以来、諸葛亮が基本的に拠点としている臨蒸城に足を運ぶ機会がある時は、いつもその姿を探していた。もし顔色が悪ければ、ちゃんと一言「休め」と申し上げるのだなどという、お節介のためだった。大抵は見る機会がないか、遠くから見守っているだけなので気付かれていないと思っていたので関平は焦った。
「これは、軍師殿……。何用でございましょうか」
「そんなに恐縮なさらずとも。私がそんなに怖いですか?」
自分が見ていた事が気付かれたのではないかとハラハラする様子を、怯えているのだと勘違いしたらしい。変な勘違いだなと思ったが、劉備軍の中には諸葛亮が何を考えているか分からなくて怖い、と漏らす者もいると聞いたことがある。
「そんなつもりはありませんでした。所で何用でしょうか」
「武陵の南に堰がございましょう? そこを見に行きたいのですが、一人で行くとまた怒られます」
武陵の堰といえば、最近崩壊して水の被害が出ているというのは関平の耳にも入ってきていた。その状態を確認しに行きたいのだろう。
「護衛するなら構いませんが、趙雲殿は?」
「趙将軍? 事ある毎にあの人の名を出しますね。私がいちいち彼の許可をとる必要があるわけでも無しに」
本人ははそう思っているのだろうが、諸葛亮がどこか行く時は趙雲がついていくものと本人以外の皆が思っている。
「それならば構いません。軍師殿、馬は?」
「乗れます。貴方程ではないかもしれませんが」
「私もまだまだ。趙雲殿に比べたら雲泥の差です」
諸葛亮の眉根が不機嫌そうにピクリと動いた。
「だから何故、あの人なのです」
苛々を隠しもしない口調で言った。趙雲の話を出されるのがそんなに不快なのだろうか。それなりに関係は良好だと思っていたのだが、思い違いだったのかもしれないと関平は思った。
それから、関平はしばしば諸葛亮の護衛に立つ事になった。たまたま諸葛亮と関平が一緒にいる所を劉備に見られた事がある。その時関平は、劉備に出来るだけ諸葛亮の傍につくよう頼まれたのだった。
「子龍は当分俺達につく。その間頼まれてくれるか関平」
「え、そうなのですか?」
「来賓がいる間は普段でもカッコつけてないとないとって事でな」
「はあ、なるほど」
「そういう事で頼んだぞ。雲長にも言っておくからさ」
趙雲は主騎だ。主騎として一番優先して守らなければならないのは、当然主君の劉備である。来賓がいる場合は劉備の傍につく事が多くなり、結果として軍師の護衛に付く機会が減るのは当然のなりゆきだと言えよう。
趙雲が護衛につかない事に、諸葛亮は何も不満はなさそうだった。代わりに関平が護衛についても嫌な顔はしない。とりあえず拒まれる事が無かった事に関平は安堵した。そうしてしばらく諸葛亮と一緒に過ごすうちに、いくらか心の距離を縮める事が出来たのではないかと関平は思っている。なんと言っても諸葛亮と関平は年が近い。打ち解けやすいのはその点は大きかっただろう。
今日も関平は諸葛亮を護衛していた。とは言え、執務室で仕事をしている諸葛亮を見守るだけの仕事である。しかも良く晴れた早秋の昼下がり、実に平和的な一日だと言えた。それでも益州攻略を前にどことなく軍全体の空気が緊張している。故に、宮城内とは言え護衛は欠かせないのであった。
「……軍師殿」
「なんです?」
関平の声に反応して諸葛亮は筆を置いた。その視線が机上を離れ、出入口付近に立つ関平へ移る。関平も諸葛亮の顔を見た。そしてその顔をみてやはりと確信する。顔色が悪い。この責任感の強い軍師は、また無理をしているに違いない。
「こちらへ来て下さい。そして横に……」
関平は執務室の出入り口とは違う、奥の扉を示した。扉の奥は簡易な牀台が設置されており、仮眠や休息が摂れるようになっている。関平は数回ここへ執務室に出入りするうちに其の事を知っていた。関平が初めてこの部屋へ諸葛亮を呼びにやって来た時も、恐らく諸葛亮はそこで休んでいたのだろう。
「どうしてそんな事を言うのです?」
諸葛亮はかすかに険を込めて返した。
「貴方を思うが故ですよ、軍師殿」
「嫌だと言ったら?」
「力付くでも……と言いたい所ですが、そこまでする勇気は私にはありません」
関平の言葉に孔明は困った様に笑った。そして腰をあげてゆっくりと立ち上がる。墨染の上衣が翻るのを関平は黙って見ていた。
「一人にさせて下さい」
関平の言葉に従う気になったらしい。奥の部屋へ移動するのか見届けないうちに、関平は執務室を出た。諸葛亮が一人でゆっくり出来るようにとの配慮の為だ。幸運にも執務室には出入口は一つしかなく、出入口の扉の前に居れば護衛にはなるだろう。
関平は執務室の扉に背中を預けて座り込んだ。護衛というのも暇なものである。諸葛亮と会話がしていられるのならまだ楽しくもあるのだが。とは言え、真面目な軍師は執務時間中におしゃべりに花を咲かせるような事はしないのだが。
「んっ?」
扉に体重を掛けて一息つき、なんとなく周囲を見渡すと廊下の曲がり角に人影が在るのが目に入った。向こうもこちらの視線に気づいたらしく、こちらへ向けて手招きをしてくる。誰だろうかと思って目を凝らすと、なんとその人影は趙雲だった。関平は慌てて立ち上がった。
「趙雲殿、何用ですか。今軍師殿のお部屋を護衛している所なのですが」
音をたてないように気を配りつつ、関平は早足で趙雲の元へ走った。曲がり角の向こうにも誰もおらず、辺りはひっそりとしている。趙雲は関平の到着を見ると人の良さそうな顔で笑った。
「分かっている。だから来たのだ」
「と、言いますと?」
「代わってやろう」
「代わるって……軍師殿の護衛をですか?」
「そうだ」
「そうは言っても、趙雲殿はご主君の護衛なのでは?」
「そうだったのだが、今日はもう良いと言われてな」
「なればこそ、趙雲殿こそお休みなされ。代わって頂かなくても大丈夫ですから」
関平は事実疲れてなどいなかったし、それに代わりたいとも思わなかった。劉備からも直々に諸葛亮を護衛するよう命じられている。諸葛亮にしても護衛をしてくれるのは関平だと思っているはずだ。仕事を途中で投げ出す様な真似はしたくない。
「強情だな」
趙雲は眉根を下げて笑っている。
「すいません」
「もう一度言う。『代われ』」
背筋につっと、冷たいものが襲う。代われと言った声だけがいつもより明らかに数段低かった。趙雲のこんな声は嘗て聞いた事は無い。――いや、思い返せば記憶にはあった。戦の前の興奮している時、稀に趙雲はこんな声を出す。恐らく戦場でもそうなのだろうが、関平にはそれを向けられた事はない。関平と趙雲は敵対する事が無かったから。
普段人を威圧する性格ではない分、趙雲のその声は関平を畏縮させるのに充分だった。しかし、だからこそ関平もムキになった。
「な、何度言っても同じです……」
戦々恐々として趙雲の顔を仰ぎ見ると、趙雲は先程までとなんら変わりなく、困った様な笑顔を浮かべている。思わず拍子抜けする程にいつも通りの趙雲だった。
「仕方ないな、ここは引こう」
ホッとして意識せずに安堵の息が漏れる。首根を押さえられているような緊張感だった。
「ところで――」
「はい?」
「さっき部屋で孔明殿と何を言い合っていた?」
「さっき……?」
何の話だろう。諸葛亮に休息をとった方が良いと忠告したくらいで、特にこれといった会話はしていない気がするが。
「いや、すまん。変な事を聞いた」
関平が答える前に趙雲は言った。もしかして諸葛亮を心配しているのだろうか、と関平は気付いた。劉備軍内にも諸葛亮に対し苦手意識や悪感情を持っている人間は多い。自分の代わりに護衛についたのがそんな男だったらと、心配になるのも無理はない。趙雲は関平が諸葛亮に対し辛辣に当たっているのではないかと心配なのだ、きっと。だからこそ、無理にでも護衛を代わろうとしたのに違いない。
これこそが主騎だ――と、関平は思った。ただ単に敵から護るだけでない、人間関係にまで気を使う……素晴らしいではないか。しかし、関平は趙雲の心配するような輩ではない。関平は趙雲と同じ、むしろ諸葛亮を護ろうという人間である。その点に関してだけは、安心をしてもらいたかった。
「趙雲殿、私は貴方と同じです。貴方と同じ想いです」
「え?」
「私も、負けませんよ」
諸葛亮が早く皆に認められるように。それまでは絶対に屈したりしない。何故ならそれが正しいと思うから。例え敬愛する義父に言われようと、こればかりは曲げる事は出来ない。
「そうか――」
関平の言葉を聞いた趙雲は複雑そうな雰囲気で笑った。趙雲は薄く笑みを浮かべている事が多いが、その笑顔から感情を読み取る事は難しい。今の笑顔は特にそうだった。
「ならば私も負けない、とだけ言っておこうか」
趙雲にしては消極的な物言いだった。もっと歯切れの良い返事が来るだろうと期待していた関平は、正直な所少し肩透かしをくらった気分になった。
「では頑張れよ、関平」
関平のうやむやした気分を払わないまま、趙雲は元来た方向の曲がり角の向こう側に去っていく。どうしたんだろう――関平は首を傾げた。なんだかいつもの趙雲らしくなかったが、到底自分には心理を測れそうにはないとも関平は思った。
昨日の会談は特に長かった。趙雲はこっそりと両腕を伸ばして息を吐いた。ついでに空を見ると、太陽は未だ東側に位置し、空はまだ青よりも白みがかっている。張松が荊州へやってきて以来、張松と龐統は毎日の様に密談を交わしていたが、今日に限っては始まる前からどこか緊張した空気を纏っていた。しかも今日は劉備も、それに加えていつもは同席しない孔明も密談に参加するのだと聞いている。
今日こそ結論が出るのかもしれない、そう考えて趙雲は改めて居住まいを正した。我ら劉備軍と手を組み益州攻略への協力を正式に張松に内約させる。元々張松は劉備に協力する意欲を明らかにはしているが、詳しい協力内容はまだ確固たる文言としては提示されていない。とうとう本日それが決まるのではないかと、趙雲は予想している。
密談は宮城内の一角で行われている。警備しやすいよう、あえて角部屋の小さな部屋が選ばれた。警備を担当するのは、勿論趙雲とその他に趙雲直属の部下が数名。いずれも実力、人格共に趙雲の信頼にうる兵士達だ。関平はいない。趙雲隊が警備するのだから当然だった。ただそれだけの事で優越感を覚えてしまう自分の小物さに内心呆れる。
「あ、お疲れ様です、孔明殿」
「ああ、子龍殿……おはようございます」
こちらから話しかけると孔明はしっかりと返答をしてくれる。だが、少し素っ気ない様な気がするのは気のせいだろうか。ここ最近顔を合わせていなかったので、仕方のない事かもしれない。挨拶もそこそこに孔明は吸い込まれるようにして部屋の内へと入っていった。劉備を初めとして、他の面子達も同じように室内へ収まり会談は始まった。
こうなってしまえば、あとはひたすら周りを警戒するのが趙雲の役目である。中の会話を盗み聞こうなどとは思わない。趙雲は、仕事に関しては孔明や龐統に完全に信頼を置いている。早く終わると良いのだが、と趙雲は青空を眺めて一人ごちた。
それからどの位の時間が過ぎただろうか。空を見上げると太陽はちょうど真上に位置している。思ったほどは時間は掛からなかった、いや掛かったのだろうか。そろそろ空腹を覚えてくる頃合いだったが、ちょうどそんな折に劉備がご機嫌な様子で部屋から出てくるのが見えた。もう話は済んだのだろうか。趙雲は劉備の元へ足早に駆け寄った。
「殿、お疲れ様です」
「ああ、子龍か。ちょいと頼まれてくんないかな?」
「はい? なんでしょう」
「張松殿が益州にお戻りになる。州境まで送ってやって欲しいんだ」
「……今からですか?」
「そう、今からだ。善は急げで一刻も早く根回しをしてくれるのだと。……ああ、交渉は成立だ」
劉備は目一杯破顔してみせた。良かった、と心から思う。肩の力が抜けるように感じた。ただ、張松の護衛に州境まで行かなければならないのが予想外だった。
趙雲は劉備の後方をチラリと見やる。部屋から劉備以外の面子がちょうど退室してくる所だった。一際背の高い、黒い人影。趙雲の視線には気付かないまま、孔明は行ってしまった。それを寂しい、等と思うのは流石に図々しいというものか。孔明も、今この瞬間から益州攻略の為これまで以上に忙しい日を過ごす事になるのだろう。せめて無理だけはしないで欲しいと願い、趙雲は張松の元へと向かった。
「張松殿、この趙子龍が州境まで供を勤めます」
いつの間にか張松は劉備の傍に立っていた。
「おお、これはこれは。かたじけない」
張松は拱手を掲げ頭を下げた。趙雲も合わせるように拱手を返す。
「いえ、お気にせず。張松殿の御身は私がお守り申し上げます」
趙雲も益州攻略のために力を尽くしたいと本気で思っている。軍師でもなく、将として位も高くない趙雲に出来る事は少ないが、せめて出来る事をしようと心に決めた。
「おう、お疲れだったな子龍」
無事に張松を州境まで送り終え、趙雲が戻って来られたのは数日後の事であった。急いで帰ってきたつもりだったが、それでもこれが限界だったのだ。
趙雲が州都の公安へと帰りついた頃には、早くも微かに戦前の緊張した空気が流れ始めていた。いつでも益州へ迎える為になのか、軍の編制の確認があらゆる所で行われている。趙雲の目の前に座る劉備だけは、切り取られた様に独自の空気を纏っている。どんな時でも劉備は変わらない。
「趙子龍、ただいま帰還いたしました」
「おお、子龍。無事帰ったか」
「張松殿は無事益州へ向かわれました」
「そうか、ご苦労だったな」
そう言って劉備は、ふわりと人の好い笑顔を向けた。ああ、この笑顔のために頑張ったのだ思わせられる微笑み。この笑顔に魅せられて劉備について行くと決意した者もいるだろう。
「私はこれからどうすれば良いでしょうか」
「今まで通りの業務に戻ってくれ。……というと、尚香さんのお守りだな。後は必要な時に孔明か龐統の護衛か」
「……え?」
「ん、なんか問題か?」
「いえ、皆軍の起こす準備に忙しくしている様ですのに、私は良いのでしょうか」
趙雲は護衛、警備の仕事が主だとはいえ、一軍を担う将の端くれである。戦となれば、当然前線で槍を奮う機会もある。遠征の準備に参加をしなくて良いのかと疑問に思うのは、おかしな事ではないだろう。
「ああ、構わないんだ。今度の遠征には荊州組だけを連れて行く事に決まってな。だからお前や義弟達はお留守番。今まで通りの仕事をしてくれれば問題ない」
「そうなのですか……。では孔明殿も?」
「孔明がいなかったら誰が荊州の政治を見るってんだ。荊州の事はあいつが一番良く知ってるよ。遠征には龐統を連れていく」
確かに劉備の言う通りであった。軍事に関しては龐統が信任されているようであるし、孔明を荊州に残して龐統を遠征に連れて行くのは自然な流れとも言えた。
「……あの、関平は」
「関平? 雲長について行くんじゃないのか。雲長には江陵へ行ってもらう。孫権への牽制のためにな」
劉備はそれ以上は続けなかった。当然、孔明護衛の任は関平から解かれたという事であろうか。劉備はさも当然に――というより、趙雲の心情など考えもつかぬようだ。つまり、以前の通り趙雲が主騎に戻る事が当たり前の事として扱われている。
趙雲はそれ以上は何も言わずに部屋を後にした。そしてそのままの脚で関羽の元へと向かう。関羽は未だ州都たる公安に滞在しているという話は帰城の際に聞いていた。関羽の軍が居ると聞かされていた場所へ向かうと、確かに関羽は居たが何やら忙しそうだ。今まさに出立の準備を進めている所らしく、兵士達に何かと指示を出している。関羽直属の兵達は皆、恐らく此度の江陵行きに従うのだろう。
「おお、子龍ではないか。いつ戻ってきたのだ。お前が拙者の軍に来るとは珍しいな」
関羽は趙雲に気付くと、親しげにこちらへ声を掛けてくる。趙雲も相当長身な方だが、関羽は更に高い。近い距離に立つと軽く仰ぐ姿勢になる。自慢の美髯は今日も艶めいている。
「江陵へ行かれるそうですね。劉備様から伺いました」
「うむ、碧眼児への牽制の為にな」
碧眼児とは孫権の事だ。瞳が碧いという特異な外見であったためそう呼ぶ者もいる。妹の尚香も青みがかった瞳をしているが、家系なのだろうか。流石に尚香の事をその様に呼称する人間は、劉備軍には居なかったが。
「行く前にお会いできて良かったです。また暫くお会いできないでしょうから」
「うむ、そうだな。次会う時まで互いに息災でいよう。関平にも会っていってくれ」
「はい……」
趙雲は兵士の群れの中から関平の姿を探す。関平はさほど遠くない場所にいた。趙雲はそちらへ向かう。ここへ来た一番の理由は、関羽というよりむしろ関平に会う事だった。
「ああ、趙雲殿。張松殿をお送りになられていたと聞いていましたが、お戻りだったのですね」
「関平。聞いたぞ、雲長殿と共に江陵へ行くそうだな」
「はい、趙雲殿もお気をつけて」
「あ、ああ……」
関平はニコニコと笑いかける。その笑顔に一切の他意は感じられなかった。なんだか腑に落ちない態度なのだが。
「こ、孔明殿の事は……」
「孔明って、諸葛軍師の事ですか? こちらに残られると聞きましたが」
「いや、そうなんだが、主騎としての役目は?」
「はい、趙雲殿に役目をお返ししますね。少しの間だけでも楽しかったです。軍師殿のお役に立てて」
「…………」
「軍師殿は我が軍にとって必要な存在です。力になって差し上げて下さい」
ああ、なんだ。ストンと、ひっかかっていたものがあるべき場所へやっと落ちたような感覚に見舞われる。それに気付くと、次は急に恥ずかしさが込み上げて来た。しばしの別れの前の暇乞いだというのに、趙雲は今すぐこの場を離れたくて仕方がない。
「あ、ああ。では怪我の無いようにな、関平」
「はい、趙雲殿も御息災で」
屈託なく微笑む関平の笑顔がまた、趙雲にはいたたまれなくて趙雲は逃げるようにしてその場を立ち去った。
空はもう薄暗くなり始めているというのに、その部屋は未だに灯りが燈っていなかった。城に仕える者の多くは帰り支度を既に始めているか、もしくは既に帰ってしまっている。古代の一日は明るい時間帯に偏っている。灯りが乏しい為に、古代の中国人はまだ薄暗いうちに朝議を始め、陽が暮れる前に仕事を終える。
しかし孔明に限っては、陽が暮れるまで仕事を続けるのが専らの常だった。孔明の護衛をする機会が多かった趙雲は知っている。
窓から光の漏れない部屋を見て、無人だろうかと一瞬思ったが趙雲は構わず扉へと向かった。きっと、いる。不思議な事に、趙雲はそう確信していた。
果たして孔明は部屋にいた。趙雲が戸を叩くと、すぐさま返事の声がある。周囲は静寂に包まれており、その声は良く通った。聞き間違えるはずの無い孔明の声。
「――誰ですか?」
「私です、趙子龍です」
「――子龍殿? どうしたのですか」
ゆっくりと扉が開かれる。扉の先の薄暗い部屋の入口には、孔明が立っていた。趙雲よりほんの少しだけ低い目線。こんなに近くで顔を見合わせるのは久々だった。ずっとこうしたかったのだと、何故気付かなかったのだと思うくらい強く胸をついた。伏し目がちな孔明の睫毛が微かに揺れる。こんなに睫毛が長かったのだと、今の今まで知らなかった。
「灯りもつけないで……」
思わず口をついたが、油の節約のためにギリギリまで火を燈さないのだと知っていた。決して裕福では無かった隆中時代の暮らしの生活が抜けないのか、今の立場になっても孔明は驚く程に贅沢を嫌う。黒いを衣を纏った孔明の身体の輪郭が、闇に混じって朧げに見える。
「私に何かご用で?」
孔明は趙雲の話には取り合わなかった。語気に少し苛立ちを感じる。それに気付くと趙雲の胸は痛んだ。
「これからまた、貴方の護衛につく事になりましたので。それだけなんですが、一言挨拶でもしようかと」
微かに孔明の肩が揺れた、気がした。
「そうですか……よろしくお願いします」
身体の反応に反して、言葉は素っ気ないものだった。まるで以前の、出会ったばかりの頃に戻ったようだ。少し顔を合わせていなかっただけで、こんなに心の距離が離れてしまうものなのだろうか。それとも、打ち解けたと思っていたのは趙雲の勝手な思い込みだったのか。もしかすると心当たりは無いが、怒らせるような事をしてしまったのだろうか。
「……すいません」
意図せず漏れた言葉は、謝罪の言葉だった。
「え?」
怪訝な表情で孔明は趙雲を見返した。薄く肩に落ちた後れ毛が、風に吹かれて揺らぐのを趙雲は見ていた。
「関平の方が良かったでしょうか。」
「なに? 関平殿?」
「もしそうなら今からでも劉備様に申し上げて役目を代わって頂きます」
「そんな事は一言も申し上げておりませんが」
「なら、誰でも良い。私が嫌ならば誰にでも――」
「その様な事はっ!」
思いがけない孔明の大声に言葉の続きは掻き消された。こんな風に孔明の大声を聞いたのは、呉から戻った次の朝以来かもしれない。
そうだ、あの日も趙雲は孔明に詰め寄って、怒らせてしまったのだった。そして今日もまた、同じように孔明を苛立たせてしまった。こんなつもりではなかったのに――。孔明を怒らせたいなんて、ほんの少しも、思っていないのに。
「……言ってないと言ってるではないですか」
「……すいません」
驚く程に弱い声が出た。不思議な事に、孔明の方も負けないくらい声が震えている。
「……何故、その様な事を言うのです」
「忘れて下さい、先ほどの言葉は」
「何故と訊いているのです。答えて下さい」
孔明には珍しく余裕のない詰問する様な声だった。趙雲は項垂れていた頭を上げ、孔明の表情を見てハッとした。どうしてそんな泣き出しそうな顔をしているのだろうか。それほど酷い事を言ってしまったのかと、趙雲の胸は鷲掴みにされた様に痛む。本当に、裏目裏目に結果が出る。孔明といると、どうしてかこういう後悔ばかりをしている気がする。
「とりたてて理由があるわけでは」
「理由もなくその様な事を? 貴方はそんな人ではないでしょう」
絞り出すように孔明が言った。一応信頼はされていたらしい。その信頼は震えるほどに嬉しかったが、趙雲は孔明の思う様な男ではない。
そう――違うのだ。自分が道ならぬ想いを孔明に対し抱いている事に、趙雲は気付いてしまった。しかもそれは周りに勝手に敵愾心を抱いてしまう程に強い。異常だ。こんな自分は、孔明の傍に相応しくないのではないか。傍にいてはいけないのではないか。
そう、自戒の声が頭の中で警鐘を鳴らしている。しかしその声よりも強く欲望が勝った。
「…………」
趙雲は答えない。嫉妬したのだ、などと言えるわけがない。
貴方の傍にいたいと、その一言があまりに重い。
「……貴方は、私の気持ちを考えた事があるのですか」
孔明の気持ち? それは勿論考えた。考えたからこそ、本当の事は言えない。言えるはずが無かった。
「……お役御免になるのかと不安だったのかもしれません。関平に仕事を奪われたかなと思ったから」
少し自嘲気味に笑って、ほんの少し冗談好きな男を装って趙雲は言った。決して嘘ではない。嘘では無いが、込めた想いはかなり外見を繕った。だが孔明はその嘘に納得したらしかった。
「……そんな事。主騎は、貴方でしょう」
呆れたと言わんばかりに孔明の口からため息が漏れる。辺りはますます暗く、部屋の端は既に見通しが利かない程になっていた。
暗闇に飲まれる。孔明の顔も既に判別しがたくなっている。
「そうでしょうか」
「……少なくとも、皆はそう思っているようです」
皆はそう……か。喜ぶべきなのかどうなのか。今の趙雲には分からなかった。