猛暑は続いている。荊州も故郷の常山に比べたら随分と温暖な気候だったが、益州はそれにもまして気温が高い。夏場などは鍛えている武人ですら辛いものがあった。冬にも作物が収穫できるのは非常に有利だが、この茹だるような夏を前にすると文句の一つも言いたくなった。
「あ〜〜頭いてえ」
ただでさえ苛々とする気候の中で、張飛のがなりは聞くだけで精神衛生に悪い。我慢しろと言いたいところだが、言って改める男ではないことは長い付き合いでよく知っている。
「飲み過ぎなんですよ」
吹き抜けの廊下の柱にもたれ掛かった張飛に言った。屋根があり、風の通りの良いこの廊下は、比較的涼のとれる穴場として二人の間では通っていた。
「良い酒が多くてついハメを外しすぎたな」
張飛は額に手を当てて唸った。張飛の言う通り、法正は随分と努力をしたのか昨夜の宴の酒はかなりの名品揃いだった。安い酒を量で楽しむ劉備軍の諸将にはたまらなかっただろう。酒好きの張飛は言わずもがなだ。
張飛は隙あらば酒を飲んでいるような男だが、その分酒には強かった。酔いはするが、あとには引かない体質なのだ。酔い潰れるほど飲んでも、翌日にはケロッとしている事もしばしばなのだが、その張飛をしてこの二日酔いとは。量は勿論度を超えたのだろうが、慣れぬ銘酒で悪酔いしたのかもしれない。
「お前は随分と元気そうじゃねぇか」
張飛は恨みがましい目で趙雲を睨む。
「節度ある飲み方をしましたからね。私ももう若くない事ですし」
「けっ。子龍もつまらない男になったなぁ」
趙雲は苦笑する。実の所そんな殊勝な心掛けなどでは全然無くて、ただ酔う気にならなかっただけだった。孔明と馬岱が意図的に除外された宴では、酒を楽しむ気持ちに到底なれない。しかし張飛にはこう言っておいた方が良いだろう。
そう言えば、馬岱の姿をここ最近まるで見てない事に気がついた。以前は頻繁に左将軍府に出入りしていて、こちらが会いに行かなくても顔を見る事ができていたのに。最後に言葉を交わしたとなると、更に以前まで記憶を遡らなければならなかった。昨日、馬岱ではなく馬超の方が左将軍府を訪問してきた事も、なにか理由があるのかもしれない。
馬超の訪問の目的はなんだったのだろう。昨日の頑なな態度からすれば、例え今日また同じ質問をしても素直に答えてくれるとは考えにくい。孔明の方に尋ねた方が早そうだが、馬超の意思を尊重して秘匿する事も考えられた。自分には聞かせられない話を、孔明と二人でしたいなどと云うので警戒したが、もしかすると身内に関わる内容だったのかもしれない。だとしても昨日のあの態度はいかがなものかと思うが。
「お、馬超じゃねえか。珍しいな」
張飛の言葉に驚いて、思想を打ち切り顔を上げる。張飛の言うとおり、馬超がなにやら荷物を抱えて通りを歩いているのが見えた。馬超は不遜な性格はしていても、勤務態度においては非常に真面目で、朝のこの時間はいつも西涼兵達を調練している。今の時間はいつも調練場にいるのが常の為、こんな所で姿を見かけるのは珍しい。
「馬超!」
趙雲は思わず声を掛けていた。呼び掛けられた馬超は、声の主の正体に気付くと見る見る間に顔を曇らせた。
「またお前か」
馬超は何故だか大量の果物を抱えている。余りにも不釣り合いで笑うよりも心配が先に出てしまう程だ。昨日の訪問について尋ねたかったのだが、意識は果物の方に向いてしまった。
「どうしたんだその果物は。手伝うか?」
馬超の両腕に抱えられた果物は、いくつかはこぼれ落ちそうになっている。
「おっ、うまそうだな。その桃一個くれねえか?」
張飛も趙雲の後をついてきたらしい。馬超の手の内の果物の中には、確かに桃も幾つかあった。
「なに?」
「食欲なくて朝飯あんまり食ってないんだよ」
まずい、と趙雲は瞬間的に思った。この物言いに馬超が苛つかないわけがない。何か上手いことこの場を宥められないかと思ったが、どうしたことか馬超はだんまりを決め込んでいる。昨日の馬超の態度から考えれば既に拒絶が返ってきていてもおかしくはないのだが、まさか本当に桃を譲るか悩んでいるのだろうか。馬超の表情は確かに言葉を探しているように見える。
「馬超、無理はするな」
なんとなく助け舟を出してしまった。趙雲は身内の人間には面倒みの良い男であった。
「……譲るのもやぶさかではないが」
「馬超!?」
まさか本当に譲ろうというのか。しかしどう見えも馬超の表情には、にこやかに譲ろうという気配はない。
「欲しければ私に勝ってみせろ。さすれば桃の一つ、くれてやる」
どうしてそうなる?断るか譲るかすれば話が早いのに、なぜそんな事を言うのか純粋に不思議だった。
「は? なんだよなんの勝負だよ」
流石の張飛も困惑しているように見える。
「何でも良いが、私も貴殿も武人。競うとすれば一つしかないと思うが」
「ほう?」
要するに、一騎打ちをしようというのであった。
「なるほど面白え。俺の矛とお前の槍、どっちが上かはっきりさせたかったんだ」
張飛もすっかりその気のようだ。二日酔いはどこにいったのだろう、と趙雲は思っていた。
「場所はここで良いか?すぐに荷物を置いて槍を取ってくる。逃げるなよ」
「ああ、良いぜ。俺もすぐに得物を持って戻ってくる!」
最早果物は置いてくるのか、と思ったが会話に入る機会がない。そう趙雲がまごついていると、一斉に二人の視線が趙雲に集まった。
「お前は見届け人だ!ここで待っていろ」
「観客がいねえと盛り上がらねぇからな!頼んだぞ子龍」
「……承知した」
この暑いのに一騎打ちなどする人間の気がしれない。
どこから聞きつけたのか、ただの通りには馬超と張飛の一騎打ちを見に来た観衆が集まっている。中には劉備の姿もあった。
「と、殿。こんな暑いのにこのような所で」
「益徳の奴が急いでるから何かと思えば、馬超と一騎打ちだ!と言うんでな。頭領として見届けないわけにはいかんよなぁ」
そばには阿斗と張飛の娘の姿も見える。劉備が見世物として楽しませるつもりで呼んだものらしい。場合によっては流血沙汰になるものが子供の娯楽になるのか疑問だが、乱世で生き抜く上の教えを説こうと言うのかもしれない。好意的に考えてみても、やはり娘に見せる必要はないのではないかと思う趙雲だった。
「どうして武人の皆さんは、肉体言語でしか会話ができないのですかね!」
思いもがけない声にハッとして振り返った。孔明だった。この様なバカげた場所が最も似合わない人間の出現に、趙雲は驚きを禁じえない。
「孔明殿、どうしてこのような場所に」
「馬将軍と張将軍が一騎打ちすると聞いてね」
そりゃあそうだろうが、孔明が二人の一騎打ちに興味津々とも思えない。もしそうなら、趙雲としては面白くのない事態だった。
「子龍殿は事の発端をご存知なのですか?」
「ええ、まあ。馬超が持ってた桃を益徳殿が一つ欲しいと言ったんですよ。そうしたら、自分に勝てたら譲ってやると……」
孔明は大仰にため息をついた。
「ほんと、どうして、普通に会話ができないのですかね」
孔明は妙に苛々している。流石に暑さのせいだとは思わなかったが、理由を察することは出来ない。
「でも、従兄上は楽しそうです」
「!」
いつの間にか側には馬岱が立っていた。
「馬岱、久しぶりだな」
記憶より痩せたように見えたが、顔色は悪くない。気配が希薄な所もいつも通りだった。
「お久しゅうございます、趙将軍」
「馬岱殿、大丈夫なのですか?」
孔明は、趙雲以上に馬岱の出現に驚いているようだった。
「はい、今日は久々に気分が良いのです。昨日早速塩をきかせた料理を食べたからですかね。やっぱり塩は元気になります」
「それなら、良かった」
二人は趙雲に通じない会話をしている。すぐに、昨日の馬超の訪問に関わる話だと気が付いた。
「塩?昨日の馬超の用件はそれですか?」
孔明はすぐには答えず、馬岱に視線を送った。趙雲の問いに答えたのは馬岱だった。
「正確には違います。私を含めた西涼兵達が暑さで体調を崩したので、兵役の免除を頼みに行ってもらったのです」
なるほど、そういう事だったのか。馬超が意固地になって語らないのも頷けた。誇り高いあの男が抵抗なく語れる内容ではない。
「暑気中りには塩を摂ると良いそうなので、塩をいくらか融通する事にしたのです」
今度は孔明が補足として告げた。塩の売買は左将軍府の管轄であることを、頻繁に出入りしている趙雲は知っている。実際に塩の運搬を手伝ったこともあった。
「そういう事でしたか。とにかく、馬岱が元気になったのなら良かった」
趙雲がそう言うと、馬岱はニコリと笑って返した。
「まだ本調子ではありませんけどね。それでも諸葛軍師のお陰で頑張れそうです」
「……その結果でこうなってるのですから、頭が痛いのですけど」
孔明の視線の先では、武器を携えた馬超と張飛が今にも闘いを始めようとしていた。観客の人数もいよいよ多くなり、会場と化した大通りは熱気に包まれていく。
「一騎打ちと塩の件で、なにか関係があるのですか?」
「塩を渡すのに条件を出したのです。もっと周りの武将や官吏と仲良くしてくださいとね」
「なるほど」
趙雲は思わず苦笑した。一聞すると子供の使いじゃあるまいしという条件だが、馬超には確かに必要な命令だと思える。
「馬超なりに交流を試みた結果がこれというわけか」
「まあ、そうなんでしょうね」
断るのは勿論孔明との条件に反するが、ただ渡すのでは足りないと馬超なりに考えたのだろう。仕事に対して真面目な馬超らしかった。桃を譲れと言われたとき、なんと返すかひどく逡巡していたのはこの為だったかと合点も行く。
「従兄上も張将軍も楽しそうですから、私はこれで悪くなかったと思いますよ」
馬岱の言う通り、睨み合う二人は表情こそ厳ついがどこか楽しげだった。趙雲はできる限り身内同士で打ち合いなどしたいとは思わないが、張飛はそうではない。馬超も張飛と同じく、純粋に武を競うのが楽しい性質なのだろう。一見するとまるで似ていない二人だが、意外と気の合う点もあったという事だ。これは確かに、馬超が一騎打ちを強要しなければ分からなかった事だった。一騎打ちの勝敗がどうあれ、試合の後の張飛と馬超の心の距離はぐっと近くなるだろう。
「馬岱殿は従兄君に甘過ぎます」
孔明は納得したくないらしい。すぐ腕力に訴える人間を孔明が苦手としている事は、趙雲は身に沁みて知っている。
「まあまあ。及第点はあげても良いでしょう」
宥めるつもりで言ったが、孔明にはジロリと睨まれた。
「さて、お二人はどちらが勝つと思われますか?」
馬岱が含みのある笑い方をして訊いてくる。
「それは勿論、益徳殿だろうな。私自身あの人に一度でも勝てると思った事はない」
趙雲は素直に答えた。孔明は不愉快そうに鼻を鳴らしたのみで、答えるつもりがないらしい。
「へえ……、将軍はそう思われますか」
「そういう馬岱は」
「当然、従兄上です」
その挑戦的にキラキラした瞳を見るに、身内故に肩を持っているとも思えない。馬岱は本気で馬超が勝つと信じているようだ。
「馬岱は、長坂での益徳殿の獅子奮迅ぶりを見てないからそう思えるのだな」
「それを言うなら、将軍こそ潼関での従兄上の活躍を見ていませんよね」
馬岱は間髪入れずに返してきた。全く譲る気がないらしい。互いに一刻視線をぶつけ合った後、やがてどちらからともなく笑い声が上がった。
「これは実際に見てみない事には結論が出ないな」
「そのようですね」
その朗らかに笑う姿を見る限り、馬岱は間違いなく元気を取り戻し始めている。やはり、いつもの顔が揃ってなければしっくり来ない。馬岱には元気になって貰わねばと、改めて趙雲は思った。
「軍師殿もどちらが勝つか、気になるでしょう?」
「どちらでも良いです!怪我人が出ないかだけを心配しています」
孔明は依然として憮然とした態度を貫いている。
「確かに、薬などを用意して置いたほうが良いでしょうか?」
「いや、そんな暇は無さそうだぞ」
金属がかち合う音が高く響いた。合わせるように歓声が上がる。一騎打ちがとうとう始まったようだ。
「大変だ、我々ももっと近くへ行こう」
「そうですね、ここからではよく見えません」
趙雲の提案に馬岱が頷く。観客が多く集まった結果、趙雲達は人垣の外に取り残される形になっていた。背の高い趙雲ならば此処からでも見えない事も無かったが、そうではない馬岱が居る事もあり、もっと近場でよく見たかった。
「ほら、孔明殿も行きましょう」
「嫌ですよ、危ないじゃありませんか」
「ご心配なさらず。貴方の事は私が守ると誓います」
強く孔明の手を引いた。孔明は一瞬驚いた顔をしたあと、趙雲の顔をまじまじと見た。そのまま黙っているのを良い事に、腰に手を廻して無理やり孔明を歩かせる。
「ならば、私は露払いをしましょう」
そう言って馬岱は人を掻き分けて中央に向かっていく。趙雲はその轍を進んでいる内に難なく最前列まで入る事ができた。
「いけいけ益徳!おっ、馬超もなかなかやるな〜」
どこからか、歓声に混じって劉備の声が聞こえて来た。相変わらず劉備の声は雑踏のなかでも良く通る。やはり聞こえていたのか、馬岱は負けじと声を張り上げ馬超へ声援を送っている。
乗り気でなかった孔明も、いざ目の前にすると決闘にすっかり目を奪われていた。確かに馬超と張飛の闘いは、それほどに苛烈で劇的だった。戦場での命の奪い合いを見慣れている趙雲から見ても……否、そんなものと比べること自体二人に失礼かもしれない。馬超と張飛の一騎打ちは、互いが全力を出し合うことで完成する遊興だった。
真夏の焼け付く日差しの中、人々が一所に固まり合うものだから余計に暑い。こちらは戦う二人を見ているだけだが、それでも汗が止まらなかった。隣に並んだ孔明と触れ合ったままの右肩がひどく熱い。けれども嫌な気持ちはまるで湧いてこなかった。馬超の槍の穂先に反射する光が時折眩しい。空は抜けるように青く広く澄んでいる。成都の夏も悪くないじゃないか、と思い直すのに時間はかからなかった。
挿絵梨音(あっすぅ)