夢で逢いましょう 軍師諸葛亮の予言通り、その夜長江は赤く染まった。呉軍の放った火計により曹操軍の大船団は一面の炎に包まれ、まるでそこにあった事が嘘かの様に灰燼と化した。 圧倒的な兵数を覆しての大勝利である。夜半だという事も忘れて、劉備軍は将兵の違いなく皆が勝利という甘美な酒に酔った。ただ一人――軍師・諸葛亮を除いては。
「曹軍を追撃します。指定通り各隊は急ぎ出陣して下さい」
あくまで冷静な指示。諸葛亮とて興奮していないわけではない、と趙雲は知っている。冷静な仮面を被りながらも、内心ではたぎる想いで一杯な筈だ。しかし、それを表に出す事は無い。周りが浮かれているからこそ、自分は冷静に指示を出し続けなければならない。諸葛亮はそう、己の役を決めている。そうしてその判断は、劉備軍にとっての最善なのであろう。諸葛亮の凛とした声に己が使命を思い出した将達は皆、弛んだ顔を引き締め、急ぎ足で陣を出て夜の闇の中へ消えて行った。
「孔明や、予め指示していた奴等は皆出てったよ」
こちらもやっと酔いが冷めてきた頃合いかという劉備が、薄い笑みを浮かべながら諸葛亮に近付いた。陣の至る場所に設置された松明の炎によって、劉備の顔がゆらゆらと照らし出されている。
「その冷静さにはまったく、頭が下がるね。お陰で今は私達が追う側、孟徳さんが追われる側なんだもの」
「私の力など、何の功績にもなっておりません」
「へえ、じゃあ誰のお陰だい?」
「江上にて曹軍を撃ち破った孫呉の軍。そして、殿の御徳の賜物にございます」
そう言って孔明は、その首をゆったりと劉備に向かって垂れた。
「おまけにヨイショが巧いと見える。ハハハ、全く大した軍師さんだ」
諸葛亮は「いえ」と微かに呟いて、ゆるく首を振ってみせる。劉備の方も笑い声こそたててはいるが、目はあまり笑っていない。
会話の端々で、視線が目の前に立つ諸葛亮から闇夜の方へと移る。他愛ない会話をしながらも、意識は前線にあるのは趙雲にも分かった。
諸葛亮を冷静冷静といいながらも、劉備の方も芯の方では驚く程に冷静である。冷めている、と言っても良いかもしれない。劉備自身も気付いているか分からないこのもう一人の劉備が、いつも危ない橋を渡りながらなんとか自身の命をを繋いできた。趙雲は勿論そんな劉備の深部まで分かってはいないが、己が主が時にそういう目をしている事を知っている。何か思案をしていらっしゃるのだろう、などと解釈している。
「んで、私達は何をすれば良い?」
劉備が自身と、趙雲を交互に指差しながら諸葛亮に問い掛けた。
「殿はこのまま本陣で待機を。まだこの先何が起こるか予期出来ませぬ故、本陣にて有事に備えて下さい」
「了解。んで、子龍はどうする?」
今度は趙雲だけを指差した。諸葛亮の視線が趙雲へと移り、思わず趙雲は緊張した。下船以降は何かとバタバタして、諸葛亮と再び言葉を交わすのはこれが初めてだった。松明の炎に合わせて諸葛亮の瞳が時折揺れる。
「将軍は、殿の護衛を」
短くそう言い切って、諸葛亮は再び視線を劉備に戻した。諸葛亮の応えがそっけないのは、今に始まった事ではない。いつもの事だ……そう分かっているのに、なんだか冷たくされた様な気がして、趙雲はなんだか哀しくなった。
――船上でのこと、怒っておられるのだろうか。
と、思うのも良く考えれば変な話だ。別に諸葛亮は怒っていたわけではないのだから。ではアレはなんだったのだろう、と思案して、最もピッタリくるのが
――幻滅。
考えなければ良かった。趙雲は余計気分が落ち込んだ。
「殿は今のうちにお休みになられませ」
「うん、そうしようかな。孔明はどうする?」
「私は自分の幕舎で前線からの報告を待ちます。いつどんな火急の報せがあるか分かりませぬ故」
諸葛亮は視線を伏せて軽く頭を下げた。そのまま退がろうとするのを劉備が制止した。
「待ちなよ孔明さん」
「……はぁ」
「アンタ呉から帰ってきてまだロクに休んじゃいないだろう。やっぱり私が起きておくから、アンタこそ休みなよ」
諸葛亮のやつれっぷりは劉備にも目に余るものがあったらしい。正直な所、今の諸葛亮は見るからに痛々しい痩せかたをしている。言われた方の諸葛亮は劉備の申し出が意外だったのか、目をパチパチとさせている。
「アンタ優秀だが、ちと自分の力を過信し過ぎるきらいがあるな。人間、休み無しじゃそうは保たないさ」
「いえしかし、主をおいて臣下が先に休むなど……」
「主だとか、臣下だとか、そんな固っ苦しいのは無し無し」
劉備がポンポンと、諸葛亮の肩を叩いた。諸葛亮はどうしたものかと、眉を下げて戸惑った表情をしている。
「じゃあこうしよう。命令だ、孔明。お前は今のうちに休息をとれ」
「殿……」
「軍師に倒れられちゃあ、軍全体が迷惑を被るからな」
ここまで言われては、流石の諸葛亮も返す言葉がない。
「承知致しました」
諸葛亮は高く拱手を掲げ、頭を深々と下げた。
「子龍」
次に劉備は趙雲の方に向き直った。
「は、はいっ」
「孔明の幕舎を警護してやんな」
その言葉に、頭を下げていた孔明が小さく反応した。
「……殿」
「うん?どうした孔明」
「私は大丈夫です故、警護など不要です」
キッパリ言い切った。今度は気のせいなどではない。確かに、冷たく言い放った。
「あ、うん……そうか?」
孔明の言い口に劉備も少々驚いている。
「では、暫し失礼致します……お二人とも」
今度こそ諸葛亮は、頭を下げて去って行く。黒衣の上着を纏っているためか、その姿はあっという間に闇の中に溶けて見えなくなった。
諸葛亮の姿が闇に消えるやいなや、諸葛亮の後ろ姿を見送っていた劉備はサッと趙雲へ視線を戻した。
「……子龍」
「はい」
「孔明と何かあった?」
痛い所をつかれた。劉備は人を見る目に関しては超一級のものを持っている。二人の間に微かに流れる微妙な空気を隠せる筈もなかった。
「いや、その……それが」
「喧嘩でもしたか?」
「そういうわけでは」
あの船上での出来事は喧嘩だったかと言われると、少し違う気がする。趙雲も諸葛亮も、言い争いをしていたわけではない。声を荒げた場面もあったが、諸葛亮曰く……別にそれを怒ったわけではないらしい。口論と言えば口論なのかもしれないが、喧嘩という表現にはしっくりこない。
「なんというか、少し気に障る事をしてしまったらしくて」
趙雲が言えるのは、結局これだけだった。
「気に障る事?」
「そうみたいです」
「んー、まぁそんな事は益徳の奴はいつもの事だがなぁ」
張飛と比べられても仕方がないのだが。張飛と諸葛亮は気が合う合わないの次元ではない。
「私の事を勘違いしていたと言うんです。思っていたのと違う、と」
「要するに、幻滅したって言われたんだな?」
「うっ」
やっぱり、幻滅、なのだろうか。趙雲は項垂れるしかない。
「なんだなんだ、何をやったんだお前は」
「それが自分でも良く分からないのです。もっと冷静な人だと思ってたとかなんとか……」
「乱暴でも働いたのか?」
趙雲は首を振った。暴力的な行動は何もしていない。些か興奮状態にあったかといえば、そうだが。
「子龍の事を信頼してたからこそ、落胆したのかもなぁ」
「信頼……ですか」
「幻滅は、信頼していないと出来ないだろう?」
確かに、それは道理だ。
「でもなぁ子龍」
「はい」
「人間って奴ぁ一度信頼した相手はな、裏切られたと思ってもどこかでやっぱり期待してるもんなのさ」
「はぁ……」
「と言う事はだ、子龍。信頼を取り戻すキッカケさえあれば、お前の株も持ち直せるってワケよ」
「……そういうものですか?」
「そうだ!」
劉備は小気味いいほどに言い切った。劉備は人間をその気にさせるのが上手い。なんだか趙雲もそういう気になってくる。
「分かりました。頑張ってみようと思います」
「そうそう、その調子だ」
「では、軍師殿の警護に行って参ります!」
「ああ、頼んだぞ!」
劉備の言葉に元気を取り戻した趙雲は、すっかりやる気になっていた。勢い良く劉備に頭を下げるや、諸葛亮の去って行った方角へと走り出した。その後ろ姿を劉備は手を振って見送る。
「誰か孔明の片腕になってやれる奴がいないとな……」
劉備は誰に言うでもなく、小さく呟いた。最近配下に加わったばかりの若い軍師が、周りの武将たちと上手く馴染めていない事は気付いていた。どんなに諸葛亮が優秀でも、周りが指示に従わないのでは意味がない。それなりに気が合うらしい趙雲が、片腕としての役目についてくれればと劉備は考えていた。知らぬ間に関係が悪化していたのは誤算だったが、まだ修復は可能だろうと思っている。
――家臣同士の仲を取り持つのも、軍の頭の仕事だな。
なかなか良い上司だなぁと頭を掻きながら、劉備は苦笑する。冷静な劉備は、それとなく家臣間の関係を取り持つのであった。
劉備軍の陣を張っている江夏の外れに位置する森は、未だ重たい闇に支配されていた。そんな闇の中で趙雲は、諸葛亮の幕舎の前に立っていた。目的は勿論警護のためである。諸葛亮に頼まれたわけでも、劉備に命じられたからでもない。趙雲自身の意志でずっとここに立っている。元々趙雲は劉備や劉備の家族を護衛する事が専らの仕事であるため、この様に立ちっぱなしなのも慣れたものだった。
――軍師殿は中でお休みになっているのだろうか。
あの諸葛亮の事だから、劉備には休むと言いながら実は仕事をしていた……と言う事も、あながちあり得なくはないと思った。ただこうやって幕舎の前で立っていると、その考えが杞憂だったと言う事は自ずから分かった。中の様子を確かめたわけでは勿論無い。万が一そんな事をしたと諸葛亮に露見した時は、今度こそ諸葛亮に軽蔑される恐れがある。諸葛亮は私生活に干渉されたくない性質だろうというのは趙雲の勝手な印象だが、間違ってもいないだろう。
しかし確かめずとも幕舎の中から光が漏れていないし、こうして長い時間立っていても物音一つ聞こえる事は無かった。ちゃんと諸葛亮は眠っているらしい。趙雲はその事に、一先ず安堵した。そして中で眠る人を起こす事が無い様、静かに警護を続けた。
「……将軍?」
夜もすっかり明けて空が白み始めた頃、諸葛亮が幕舎から出てきて第一声がそれだった。本当に驚いたらしく、目を見開いている。
「おはようございます、軍師殿」
趙雲はすかさず拱手をして挨拶をした。孔明が起きていた事はかなり前から気付いていた。中で物音がし始めていたからだ。諸葛亮は特に誰の手も借りずに朝の準備をしたらしいので、こうやって幕舎を出るまで趙雲には全く気が付いていなかったようだ。
幕舎から現れた姿はいつもの通りの格好で、寝起きという 事を全く感じさせなかった。髪も自分で結ったのだろうか、いつもと変わらず綺麗に結い上げられている。ただ、冠だけはまだ付けていなかった。
「……な、何かあったのですか!?」
驚きが冷めた諸葛亮の第二声がこの問いだったので、今度は趙雲が驚いた。何故大丈夫と言ったのにこの男は立っているんだと、てっきり嫌な顔をされると覚悟していただめだ。
しかし実際は違った。何かあったのではと不安になったらしい。その口調だけで思わずこちらが驚いてしまうくらい、切羽詰まった声だった。
「いえ、特には……」
思わず趙雲の方が戸惑ってしまう。
「そうなのですか……? ならば何故貴方はここに?」
諸葛亮は純粋に、分からないと言った表情で尋ねた。
「警護をと、思いまして」
「そうですか……」
諸葛亮は安堵したと言わんばかりに大きく息を吐いた。趙雲にはなんとなく腑に落ちない。
「何故その様な心配を?」
余計な質問だったかと言って後悔したが、諸葛亮は余り気にしている様子は無く答えた。
「いえ、何も無かったなら良いのです」
「しかし、随分と心配そうでしたので」
諸葛亮が案外気にしていない様だったので、趙雲は更に続けた。
「……夢を、見たので」
「夢?」
諸葛亮の口から夢とは、なんとなく意外な気がした。しかし諸葛亮だって一人の人間である以上、当然夢だって見る。
「夢に……貴方が出て来ました」
「え……わ、私がですか!?」
これまた予想外の答えである。
「だから虫の報せか、予知夢だったのではないかと思いました……」
ここでまた諸葛亮は大きくゆっくりと息を吐いた。そしてそこでやっと気付いた様に趙雲を見る。睨む、とまではいかないが、険しい表情には違いない。
「昨夜、警護は要らないと殿には申し上げた筈ですが」
「それはその……私の一存で立っておりました」
「貴方の?」
諸葛亮の顔は怪訝なものに変わった。取り繕う言葉もみつからないので、とりあえず黙っていた。暫くは諸葛亮も趙雲を鋭い眼光で見ていたが、ふと何か気が付いたらしく一瞬目を見開いた後、目を伏せ思案する様な表情でぽつりと呟いた。
「……貴方が此処に立っていたから、貴方が夢に出て来たのでしょうか……」
自問するような呟き。貴方とは言いつつ、趙雲に向かって言った風でもない。だが、その呟きは確実に趙雲には届いていた。
――私が軍師殿の事を考えていたから、軍師殿の夢に私が……。
古来より、相手を強く想えば夢の中で相手に逢いに行けると信じられてきた。つまり、夢に誰かが出てきたら、夢を見た方がその人物を想っているのではなく、向こうがこちらを想っているという事になる。ちなみに、これは恋愛関係に限った話ではない。家族や友人関係にでも適用されるし、相手の消息を心配するとか相手の無事を祈る、と言った場合にも使われる。
趙雲は間違いなくそのせいだと思った。ここに立っている間中、主に諸葛亮の事を考えていた。起きて己の姿を幕舎の傍に認めた時、きっと諸葛亮は怒るだろう。その後の対処はどうしようか、等とずっと頭を悩ませていた。
「申し訳ありません」
趙雲は素直に頭を下げた。己のせいで諸葛亮の夢に現れてしまったとしたら、なんとも恥ずかしいし申し訳ない。
「なんですか急に」
「勝手に軍師殿の夢に現れてしまいました」
趙雲が言うと、諸葛亮はなんとも複雑そうな表情をした。
「別に、謝る事では……」
「いや、謝らせて下さい。あの、私夢の中で何か失礼な事をしなかったでしょうか?」
一瞬ハッとした様な顔をした諸葛亮だったが、すぐにまた複雑そうな表情に戻った。趙雲に対し苛ついているわけではないようだが、かと言って気の良い感じもしない。諸葛亮の方も、なんと返したら良いか決めあぐねているらしい。夢に出てきてごめんなさいと突然言われて困るのは、当然と言えば当然だった。
「別に……」
問われてから少し間を置いた諸葛亮の返事は、随分tと短いものだった。
「本当ですか?」
「ええ、……はい」
返事の間が空いたのが妙に気になる。
「具体的には何をしていたのでしょうか、私」
諸葛亮の表情はさらに困惑の色を増した。
「夢の話ですので、具体的にと言われましても……」
「覚えている限りで良いのです」
趙雲が更に問い詰めると、いよいよ諸葛亮の顔は困惑げだ。何と言ったものか考えているらしい。諸葛亮が案外真面目に取り合ってくれているのは、正直趙雲としても意外だった。だがここで変に指摘して気を変えられてもいけない。
「私の前に現れて、そして……去って行かれました」
「……それだけ?」
諸葛亮は頷いた。
「何か話されてもいません」
一言も発せず諸葛亮の前に現れて、そして去った。一体何のための登場だったのかと展開の整合性を問いたい所ではあるが、往々にして夢とはそんなものである。夢に秩序だった物語を求める方がおかしい。それに何も言わずに去って行ったとなれば、なんとなく予兆的でもある。諸葛亮が起き抜けに驚くのも頷ける。
「ならば、良かったです」
趙雲はホッと息をついた。諸葛亮の方もやっと解放された事に安堵しているらしい。
「将軍。私はもう大丈夫ですから、次は将軍がお休みになられて下さい」
「え、私は……」
「一晩中立たれていたのでしょう? 殿には私から申し上げておきます故、お気にせず」
正直、休みたいというのが本音だった。趙雲も諸葛亮を迎えに行ってからろくに体を休められていない。劉備もそれを理解しているから、趙雲が休息をとったとして怒りはしないだろう。
「では、そうさせて頂きます」
体よくあしらわれた感はあったが、かと言って拒絶するのもおかしな話だ。趙雲は諸葛亮に一礼してから、趙雲にあてがわれている幕舎へとさがった。
気付けば趙雲は新野の郊外に立っていた。城門から少し行った先の畔道の真ん中。数人の兵士と一緒だった。とは言っても武装はしていない。剣だけは腰に履いているが、鎧は身に付けず市井に在っても目立たない装いだ。
城門の周りに開かれた市の方角からは絶えず賑やかな喧騒が聞こえ、更にその周りで遊ぶ子ども達の声がいっそう場の雰囲気を盛り上げている。市からある程度離れた場所にいる趙雲達にも、その賑やかな音は届いている……筈だった。
しかし実際には音はしない。入ってくるのは視覚的な情報だけで、賑やかな様子は目に入っても、それに似合うだけの音は耳に入ってこない。喧騒が聞こえないだけではない。他のどんなあらゆる音も、届いて来ないのだ。
しかし趙雲はそこでどんな音や声が交わされていたか、驚くほどに想像出来た。その時聞こえた筈の音を趙雲は知っている。確かに一度耳にした事がある。というよりは、この光景を体験した事がある。今見ている光景は、過去に確かに体験したいつかの記憶に違いなかった。季節は春。その頃の時季しては幾分か強い陽射しが降り注いでいる、麗らかな昼下がりであった。
本当の事を言えば、音と同様にどんな温度も趙雲の五感には伝わってはこない。それでもこの日が暖かな春であった事を趙雲は知っている。
その日趙雲は、出盧して新野の城に引っ越してくる新たな軍師を待っていた。無論、諸葛亮の事である。趙雲は諸葛亮を迎えに行くのと同時に、荷物運びを劉備から任されていた。兵を数人連れているのも、そういう理由からであった。
暫くその場で待っていると、道の向こうからやって来る人影が見えた。一人は背に荷物を背負い、一人は馬の手綱を牽いている二人とも若く、見るからに雰囲気の似た青年達だった。馬の背には荷物が色々と積まれているが、その量は大した量ではない。手綱を牽いている方の男が諸葛亮で、もう一人は諸葛亮の実弟の諸葛均である事をこの直後に趙雲は知ることになる。
その日初めて趙雲は諸葛亮に逢った。諸葛亮の顔は知らない。それでも劉備から事前に聞かされていた特徴から、この男だろうというのは分かった。
趙雲が軽く手を振って呼びかけると、向こうもそれに気付いて趙雲の方へ真っ直ぐ向かってきた。小走りで駆けてくる諸葛亮の姿が段々と大きくなる。そうして互いの顔が分かる距離にまで近付いた時、諸葛亮はにこりと趙雲に微笑みかけた。
――これは、夢か。
はたと気付いた。ただの回想かと思っていたが、どうやら違ったらしい。そう気付いた瞬間に映像は動くのを止め、諸葛亮の笑顔の光景のままで凍りついた。
――軍師殿は、この日私に微笑みかけたりなどしていない。
確かに趙雲の記憶通り、この日諸葛亮は趙雲に微笑みかけることはしていない。むしろこの時の出逢いからこのかた、一度たりとも笑顔らしい笑顔を見せた事もない。諸葛亮の無愛想は、初めて出会ったその日から始まっていた。
しかし趙雲はその日、諸葛亮の愛嬌の無さに不満を持ちはしなかった。初めて仕官する上に、趙雲ともこれが初対面なのである。
特に意識はしていなかったが、この方はきっと緊張しているのだろう――その時はそんな風に思ったのかもしれない。
諸葛亮の無愛想、そっけなさが趙雲の勘に触り始めたのは、諸葛亮の笑顔らしい笑顔を目撃してからの事である。徐庶といる時の諸葛亮の自然体の笑顔。その微笑みを知って初めて、趙雲は諸葛亮が自分に対し冷たい態度を取っていたのだと気付いた。
正確にいえば諸葛亮は趙雲に対し特別に不愛想だったわけではない。他の将に対しても同じ様な態度である事を鑑みれば、そういう意味では諸葛亮は公平だった。
それはともかく徐庶といる時の笑顔を見なければ、趙雲は諸葛亮に苦手意識を抱く事は無かった……と言えるかもしれない。勿論いずれにせよ、諸葛亮の周りと距離を取るような態度が目につく事態にはなったであろう。それでも苦手意識を強く持つような結果にはならなかったかもしれない。
そんな事が言えるのは、諸葛亮に対しその様な苦手意識を持っていた事を反省した今だからこそではあるが。
――こんな風に笑いかけられた事は無いなぁ。
止まったままの諸葛亮の笑顔を見て、趙雲は思う。趙雲の前ではいつも、諸葛亮は取り澄ましたような感情に乏しい顔をする。本当はこんな笑顔が出来るのに。そう考えて残念な気持ちと同時に、自分に距離を置かれている哀しさが胸中に湧いた。
いつかこんな笑顔を見せてくれる日が来るのだろうか。それがいつになるか全く予想はつかない。もしかするとそれは、ずっとずっと遠い未来……いや、永劫訪れないかもしれない。趙雲に出来る事は、少しでもその日が早く訪れるように、諸葛亮との距離を縮める努力だけだ。だから今は例え夢でも……笑顔を向けられた事を、感謝しなくてはならない。
――感謝します、軍師殿。夢で逢いに来てくれて。
挿絵梨音(あっすぅ)
「……あっ」
と言った次の瞬間目が覚めた。趙雲は幕舎の中に簡易的につくった寝台の上で横たわっていた。眼前に広がる幕舎の屋根は、確かに眠りに落ちる前に見ていたものと相違ない。
「やはり夢だったか……」
自然と呟いていた。趙雲は大きくて息を吐いて、寝返りをうつ。視界は明るい。趙雲が床に就いたのは明け方で、まさか一日以上眠っていたわけではないだろうから、眠りについていた時間はそう長くはなかったのだろう。睡眠時間は短かったが、体の疲れは取れた。いや、実際夢の事で頭がいっぱいで、疲れなんて頭になかった。
夢……。やはりあれは夢だったようだ。実際の過去と虚像が混じった夢。最後に見た諸葛亮の笑顔が脳裏に焼き付いて離れない。
――しかし、軍師殿が夢に……。
夢に現れる。それはすなわち、現実の諸葛亮が趙雲を想っていたという事になる……のか?それはあながち、ありえない事ではない。今朝諸葛亮が起きてまず始めに出会ったのは趙雲であるし、船でのあの一件からもそう時間は経っていない。奇しくも船上で軽くいさかいになったのだし、諸葛亮の思考に占める趙雲の割合は大きいと思う。良い方向にとは限らない、むしろ悪い方向である確率の方が高いのだが、それでも諸葛亮の思考に占める趙雲にの割合が大きいという事が重要に思えた。
良くあれ悪くあれ、諸葛亮が趙雲の事を考えているには違いない。その推論に達すると、なんとなくいても立ってもいられない。
趙雲は意味もなく寝台の上をゴロゴロしてみた。
この感情が喜びなのかと訊かれたら、そうだと答えるかもしれない。だがそれ以上に、妙な恥ずかしさがある。その事実を直視したい様なしたくない様な……。
暫くそうして意味もない行動を繰り返し続けたが、ふと我に帰って起き上がった。なんて年甲斐もない。冷静になって辺りを見回すと、寝台は見るに耐えないほどに乱れきっていた。ため息が出る。
趙雲は軽く寝台を整えて寝台を抜けると、軽い脱力感に襲われる。趙雲は暫く寝台にだらしなく腰掛けていた。それでもじっと座っていると、その後にじわじわと沸き起こる高揚感がある。先程の推論が頭いっぱいに満たされている。自然と諸葛亮に会いたい、と思った。と同時にもっと重要な事を思い出す。
――起きたのなら急いで戻らなくては!
いつまでも休んでいられれるお偉い身分ではない。趙雲は立ち上がって急いで身仕度にとりかかる。乱れた服を整えて鎧をつける、髪の巾を巻き直す。急ぎながらもいつもよりほんの少し念入りに。鎧を着るのに恰好つけても仕方がないのは分かっている。例え心の問題としても構わない。乱れた姿は見せたくないという一心だった。
これで良し!と思ったところで勢い良く幕舎をとび出す。いざ劉備と、恐らく諸葛亮もいる幕舎へ!という時に、突然声をかけられた。
「――将軍さま?」
まったく間の悪い事この上無い。こんな時に誰だと訝るような気持ちで声の方角へ顔を向けると、若い娘が三人固まるようにして立っている。何故女が陣営に?と一瞬疑問符を浮かべてからすぐに思い出した。
江夏の劉埼から劉備の軍に色々と支援の手が伸びており、それは武器や食料、衣服などの輜重から、食事を用意する人手までと多岐に渡っていた。下働きをする役目を負った者は女が多く、その構成は高齢の者から、目の前にいる様な妙齢の娘までと様々だった。当然名家の子女の様に洗練された美しさと教養を持つ女はおらず、誰もが下賤の出の者である。
それでも男ばかりの軍においては彼女らは良い清涼剤であり、兵士達は精神的にも彼女らに潤いを貰っている。ただし劉備に絶対に乱暴な真似をするなと固く戒められているので、兵士達は彼女らに手を出す事はない。……と表向きにはなっているが、実際の所はさあどうだか知らない。女に飢えているであろう男所帯に身を投じるのだから、向こうもそれなりの事を覚悟の上ではあろうが。むしろ女の方からという事もあるとの噂はきく。兵はともかく、それなりの身分のある将に見初められれば儲けもの、と思う女もあるかもしれない。勿論これらの女が全てがそんな事を考えているわけではないし、目の前の娘達がそうだと言いたいわけではない。
とりあえず彼女らはそうやって派遣されてきた女達の一部であろう。決して華やかとは言えない服を着ているが、彼女らに出来る最大のお洒落をしている感じである。要するに、市井の一般的な若い娘の体である。
「なにか?」
趙雲が尋ねると、娘達はお互いに顔を寄せ合い小声で囁きあいながら何か話し合っている。時折、クスクスと笑い声が漏れる。
「あなたが言いなさいよ」
「なんであたしが……」
断片的に耳に届く言葉からは、言わんとする事を予想も出来ない。娘達はキャッキャとになにやら楽しげな様子だ。
「……私に何か用なのか?」
出来るだけ早く済ませて欲しい。痺れを切らした趙雲がもう一度問うと、娘の中の一人が意を決めた風に一歩進み出て答えた。
「髪が……」
趙雲の頭上を指さしながら娘が言う。
「髪?」
言われて趙雲は自分の髪に手をやった。触っただけで分かる。ぐちゃぐちゃだ。そう言えば巾を巻いただけで、結い直していない。今まで横になっていて、しかもその後にむやみやたらと寝返りをうったのだから乱れていないはずがない。
かっこよく決めたつもりがとんだ見落としだ。このままだと大恥をかくのは必至だっただろう。寝起きからきちんとしていた諸葛亮には、侮蔑の目で見られたに違いない。危なかった……。
「すまない、ありがとう」
「あ、いえっ……その」
「ん?」
「良ければ……結って差し上げましょう……か?」
娘はもじもじと恥ずかしそうに提案する。趙雲は自分の髪を結うのがあまり得意ではないし、娘にやってもらった方が上手にしあがるだろう。向こうからこう言ってきているのだから、断る謂われも無い。
「頼めるか?」
「はいっ、喜んで!」
趙雲と娘達(残りの二人も何故かついて来た)は、腰を下ろすのに丁度良い切り株へと場所を移した。趙雲がその切り株に座ると、娘はおずおずとした手付きで髪を結い始めた。始めてしまえば流石に慣れているのか、手際よく髪を結い上げていく。思えば、こうやって女に髪を結ってもらうのも久々な気がする。
「先程は大変なご様子でございましたね」
傍に立つ女の一人が口を開いた。
「は?」
趙雲がそう返すと、女達は互いに顔を見合わせて不思議そうな顔をした。
「ご存知……ありませんか?」
「私は今まで休眠を摂っていた」
「あ、そうでございましたか」
道理で、と言う声が聞こえた気がするが、まぁいい。
「大変な様子とは? 何かあったのか」
「私達も詳しい事は存じ上げませんが、将軍方の間から何やら慌ただしいご様子でしたので」
なんと、趙雲が眠っている間に穏やかならざる事態が起きていたらしい。勿論趙雲は全くその事に気付いていなかった。
「今はもう落ち着いた様でございますが……」
「そうか……」
娘の言う通り、今は陣営にその様な不穏な空気は無い。あればさしもの趙雲とて気付いていただろう。しかし一体何があったのだろうか。
「悪い。すまんが、急いでくれんか?」
「はっ、はい!」
趙雲に急かされて、女は急いで髪を結い上げた。
「終わりました」
女に言われたと同時に、趙雲は立ち上がる。
「ありがとう」
一言礼を言い残し、劉備のいるであろう幕舎へと向かう。娘達の小さな歓声が聞こえたが、趙雲は振り返らずに先を急いだ。
「中に入ってよろしいでしょうか」
幕舎の入り口から大声で声をかけた。
「子龍か? 入って良いぞ」
劉備の返事を聞いて、趙雲は拱手をしながら幕舎の中へと入った。薄暗い幕舎の奥、中央に置かれた机の向こうに劉備は座っていた。傍らには予想通り諸葛亮が立っている。他に人の姿は無く、幕舎の中には二人だけだった。二人ともどこか疲れた様子で、幕舎には重苦しい空気が充満している。何事かあったかは、見るからに明らかである。
「殿……?」
「おう、身体は休められたか?」
「はい! 失礼しました、お忙しい時に……」
「あれ、なんだ知っていたのか?」
「具体的に何があったかまでは知らないのですが」
「ああ、そう……」
劉備は何か思案する様な顔をしてから、傍に立つ諸葛亮に声をかけた。
「孔明」
「はい」
「悪いけど、子龍に仔細を説明してやって」
「えっ?」
諸葛亮は驚いて答えた。何で私がとさも言わんばかりである。同様に、趙雲も内心驚いていた。
「私はちょっと寝るよ。色々と疲れたしさ。何かあったら起こして」
「は、はぁ……承知いたしました」
劉備はやれやれと大儀そうに腰を上げ、ヒラヒラ手を振りながら幕舎を出ていった。幕舎には諸葛亮と趙雲だけが残された。
沈黙。気まずい空気が流れる。趙雲が諸葛亮の方に目を向けると、思いがけなく諸葛亮と視線がかち合った。諸葛亮は目を反らしはしなかったが、面倒臭そうな顔をして趙雲を見た。
「何が、あったのでしょうか……?」
沈黙に耐えきれなくなった趙雲から問いかけた。
「貴方が退がられてから間もなく、孫軍の周都督が矢を受けて負傷したと伝令が入りました」
「え。周都督が、ですか?」
諸葛亮はコクリと頷いた。周瑜は船上で曹軍を討ち破った後、逃げる曹軍を追って上陸したと聞いている。劉備軍はそんな周瑜率いる孫呉の軍の輔佐……というよりは、乗っかっていると言った状況なのだ。江陵方面に向かったという話だったが、そこで負傷したのだろうか。
「孫軍は正直な話、主君の孫権より周都督を中心として動いています。その周都督が負傷したとなれば……」
「撤退、という事もあり得る……?」
もし孫軍が撤退となれば、劉備軍も追撃をやめざるを得ない。いかに敗軍の曹軍とはいえ、今の劉備軍にやられるほど弱ってはいない。そうなると荊州の支配権を曹操軍から奪う事が出来なくなる。折角の赤壁での大勝が延命に過ぎなくなり、地盤のない劉備軍にとってはジリ貧となってしまう。趙雲達はなんとしても、この機に荊州で領地を得なければならないのだ。
「結局、周都督はそれほど酷い傷ではなかったようです。孫軍はそのまま曹軍と江陵で対峙し続けているようです」
「あ、そうだったのですか」
「ですがその報が入るまでの間、我が軍はどうすべきか議論になりました。まず前線の我が軍の将を呼び戻さないとならないとか……色々……」
「成程、それで騒ぎになったと」
「ええ、どっと疲れました」
言い終わるや、諸葛亮は大きく長く溜め息をついた。本当に疲れているらしい。
「せっかくお休みになられた後だったのに、ご苦労様です」
「そうですね……」
眠りから覚めたばかりの諸葛亮は幾分か疲れの取れた顔をしていたが、今はまた疲れた顔に逆戻りしてる。
そもそも、諸葛亮は基本疲れた顔をしている事が多い。事実忙しいのだろうが、本人も詰め込んでしまう性格なのだろう。このままだといつか本当に倒れてしまう。元々丈夫な人間にも見えないし、この先も改善が無いならそうなってもおかしくはない。とはいえ、今はそこを追及している場合ではない。
「なぜ私を起こして下さらなかったのです。そんな時に私一人眠っていたなんて」
恥ずかしいやら、情けないやら。しかも諸葛亮の夢を見たからと言って、起床後も一人無為の時間を幕舎で過ごしていたなんて。
そう言えば夢。夢の事をすっかり失念していた。
「私達自身もどうすべきか判断つかなかったのです。無闇に騒ぎを広げるのも良くないと思ったので」
諸葛亮の弁明はもっともな話である。結局杞憂に終わったのだから、尚更諸葛亮の判断は正しかったといえる。
諸葛亮は更に続けて言う。
「それはそうと、前線に出ている我が軍の諸将等の帰陣は二、三日後になると思います。それなりに戦ったらすぐ帰ってくる様に伝えましたので」
「…………」
「将軍達が帰陣されたら、我が軍は荊州南郡の制圧に向かいます」
諸葛亮は次の戦についての説明を始めている。生憎趙雲の耳はほとんどその言葉を聞き流していた。
――そうか、そうだな。
趙雲は気付いた。諸葛亮は趙雲が夢を見ている間、ずっと忙しく立ち回っていた。眠っている趙雲の事など考える暇も無かったであろう。
というよりは、それ以前にそんな余裕はなかった筈である。ならば諸葛亮が趙雲の事を考えていた、という推論は全く成り立たない。趙雲が諸葛亮を夢に見たのは、諸葛亮が趙雲を想っていたからでもなんでもなかったのだ。自然とそういう結論に達する。
――そうだ、良く考えれば想った相手の夢に出るなんておかしな話じゃないか。
夢を見ていたのは趙雲の方だ。趙雲の方が諸葛亮の事を想って眠ったからであって、向こうは全くこちらの事など考えていなかった。夢に見たのは自分自身のせい。
そうだ、この考えの方がどう考えたって自然じゃないか。
「南郡制圧では、趙将軍にも一軍を率いて出陣して頂くつもりです……って、趙将軍?」
「あっ、えっと」
「……聞いていましたか?」
しまった、と後悔したが時既に遅し。なんとなくは一応聞いていたのだが、ほとんどが右から左へ抜けていった。細かい指示では無かったようだし、大丈夫だろう。趙雲は知っていた風をあくまで装う事にした。
――ん、待てよ?
再び、趙雲は気付いた。夢に見るのは、夢を見ている側の人間がその夢に現れた人物を想っていたから。その図式が成り立つとすれば、諸葛亮の夢に趙雲が出てきたのは?
諸葛亮が趙雲の事を考えていたから、夢に――
「ッ……」
「ど、どうかしましたか?」
趙雲の体がびくんと揺れて、諸葛亮思いがけずは驚いた。
「ああ、すいません。なんでもありません」
「そう、ですか? なら良いですけが、何か質問は?」
「はい?」
「何か私に訊いておきたい事はありませんか?」
訊きたい事……。それならある。あの夢、趙雲が現れたという諸葛亮の夢……。
「あの、昨夜の夢の事……」
「え?」
「私が現れたという夢の事ですが……」
「はぁ?」
何を訊いてくるんだこの男? そう言いたげに諸葛亮は思いっきり怪訝な顔をして趙雲を見た。無理もない。次の戦についての質問という意味で訊いたであろうに、戦の話からワンクッションも置かずに昨夜の夢の話など戸惑うに決まっている。それでも趙雲は構わず続けた。
「その夢についてお訊きしたいんですが」
「ちょ、ちょっと!待ってください」
「はい」
「質問というのは、そういう事ではないのですが……」
「でも私に訊きたい事はないかと」
「それになんなのですか。何故夢についてそこまで執着するんです……」
最後はほとんど呟きといった風で、声が小さくて良く聞き取れない。なのでさらに続けた。
「私は、一体どういう風に現れたんでしょうか」
諸葛亮の言葉を全く意に介さない趙雲の態度に諸葛亮は面喰らった。
「な、だから……貴方は……」
「お願いします」
趙雲があまりに真摯に言うので、諸葛亮も怒るに怒れないようだ。
「だから、それは今朝も言いましたが、ふっと現れて何も言わずに去って言ったんです。本当に、何も喋らなかったんですから……」
諸葛亮はあまりこの話題について語りたくないのか、語尾が非常に歯切れが悪い。だが趙雲はあえて気付かないフリをして、質問の手を緩めない。
「もっと具体的に教えて下さい」
「もう、なんなんですか、貴方は……」
諸葛亮の夢に現れた自分は何をしていたのか。それが分かれ諸葛亮の自分への印象とでも言えばいいか、意識?が分かるかもしれない。それはきっと、諸葛亮との距離を縮める助けとなる。趙雲はそう考えていた。故に必死である。
「お願いします、出来れば何をしていたのか逐一説明を……」
「…………」
だからこそ趙雲は諸葛亮の表情の変化に気付いていなかった。切羽詰まった表情で趙雲を睨み付けている事に。
「些細な事でも良いので少しでも……」
「…………」
「お願いします」
「い……」
「え?」
「いい加減にして下さい!」
突然の大音量が趙雲の鼓膜を襲った。趙雲は心臓が止まるんじゃないかと思う程に驚いた。
「なんなんですか貴方は! 人の夢をそんな詮索したりして」
「ぐ、軍し……」
「人の夢にまで踏み込んで来ないで下さい!」
今まで一度たりとも聞いた事の無い、諸葛亮の大声。怒号というよりは叫びに近かった。
「あ、あの……軍師殿……」
趙雲はこう口にするのが精一杯だった。一方の諸葛亮も言いたい事は言い切ったためか、これ以上叫ぶ事は無かった。しかし興奮が収まったわけではない。肩で大きく息をしながら、趙雲を睨み付けている。真っ赤な顔をして、瞳にはうっすら涙が張っていた。
――な、泣いてる!?
正確に言えば諸葛亮は泣いていたわけではなかった。ただ感情が高ぶっていただけなのだが、趙雲はかなり狼狽した。
「あ、あの……」
「もう質問はありませんね!」
諸葛亮が吐き捨てる様に言った。疑問ではなく断定の語気である。
「あ、えっ……」
趙雲は二の句が継げないでいる。そんな趙雲に口を挟む間も与えず諸葛亮は続けた。
「……失礼させて頂きます」
諸葛亮は趙雲を鋭い目付きで一瞥すると、さっきまでの興奮はどこへやら、いつも通り落ち着いた声で一言だけ言い残し、一礼をして幕舎の出入口へ向かう。落ち度の無い、完璧な退席の礼。それが余計趙雲にはに恐ろしく感じられた。
「軍師殿……!」
趙雲が慌てて諸葛亮を呼び止めるも、諸葛亮はほんの少しも反応を見せずに去っていく。まるで何も耳に入らなかったかの様だ。趙雲はどうする事も出来ずに、その場に立ち尽くした。
とうとう幕舎には、趙雲一人が残された。幕舎外の兵士達が発する大小様々な音がこの幕舎の中にまで届いてくる。他に聞こえる音と言えば、趙雲自身の鼓動が早鐘を打つ音だけだ。先程の驚きがまだおさまらない。
いや、単に驚きのせいだけではあるまい。諸葛亮を泣かせ、あまつさえ出ていかせてしまった。そのまさかの事態をどうすべきか、パニックに陥った為のドキドキである。
「どうすべきか……」
諸葛亮との距離を縮める手がかりになればと思って詮索したのが、完全に裏目に出てしまった。諸葛亮と距離を縮めるどころか、むしろ拡げてしまったではないか。趙雲はガックリと項垂れた。
やはり、調子に乗ってしつこく訊きすぎたのがまずかったのか。まさかあそこまで嫌がるとは思わなかったのだ。
……溜め息が出る。迂闊も迂闊。結局趙雲は諸葛亮の気持ちをまるで理解していなかったのだから。
「あ~、どうしてこうなるんだ……」
趙雲は頭を抱えて唸った。本当にどうしようもない。やってしまった以上時間は元に巻き戻せはしない。諸葛亮と和解できる日は、果たして来るのか。全く、どうしてこうなるのか。
「……おーいおい、それはこっちの台詞だってのー……」
頭を抱えている男がもう一人、劉備である。自室で休むと言って出ていったこの男だが、それはでまかせ。実際は幕舎を出た後もすぐ外から中の二人の様子をうかがっていたのだ。
外から聞き耳をする程度の事なので、二人の詳しい会話は劉備の耳には届いていない。しかし諸葛亮のあの、かつて聞いた事の無い様な大声は勿論劉備にも聞こえていた。諸葛亮がこんな大声を出したのには劉備も驚いた。その後すぐ早足に幕舎を飛び出していった諸葛亮だが、冷静に取り繕うとはしていたが劉備には分かる。あれは内心かなり動揺しているぞ、と。諸葛亮自身も大声をあげてしまった自分に驚いているようなのも、その背中から見て取れた。
――全く。一体諸葛亮をあそこまで怒らせるなんて、子龍の奴何やらかしたんだ……。
劉備の勝手なイメージかであるが、諸葛亮は常に冷静沈着。元々冷静な性格をしているが、更に自分を抑えて冷静さを保つ事を知っているし、本人もそうあろうと努力している節がある。そんな諸葛亮をああまでさせるには、むしろ逆にどうすれば出来るんだ……と趙雲に訊きたいくらいである。
――せっかく可愛い部下達の不和をそれとなーく取り持ってやろうと思ったのになぁ。
劉備は大きくため息をついて、そのままズルズルと腰を下ろした。このまま此処にいては、趙雲に見つかる恐れがある。そうは分かってはいるが、なんだか動く気にならない。自分がせっかく気を使ってやったのに無駄にしやがったんだ、構うものか、という気にさえなっている。
どうせ和解できなかったんだ。もう義理立てする必要もないさ。劉備はかなり破れかぶれな気持ちになっている。
――あの二人、気が合うと思ったんだがなぁ。
劉備は人を見る目には自信がある。……つもりだったのだが、当てが外れたか。少し自信喪失。
「なーんか疲れたし……、寝るか」
どっちみち今ここで悩んでいても仕方がない。劉備は立ち上がって尻の砂を払うと、疲れた足取りで自分用の幕舎へと帰って行った。