新しき日々 そこかしこに戦の燻りを残したまま、成都城では朝議が再開された。 年をまたいだ包囲に、陥落後の将兵たちによる略奪。 劉備は士気向上のために、陥落後の成都王宮の蔵の略奪を許可していたので成都城内は荒れに荒れた。 市政の人間への乱暴を最小限に防げたのは良かったが、真っ当な政治を再開できる状態とは言い難い。
連戦の疲労の上に金欠、新天地でのスタートは順風満帆とは言い難かったが、そうは言っても政治をしなければ定まるものも定まらない。 かくして、古参、荊州からの将官、益州からの新参、全て含めた者たちが一堂に集められた。
「と、いうわけで、論功行賞を行う」
劉備は座に腰をおろしたまま諸将百官らに告げた。部屋の最奥、二段ほど周囲より高まった位置に設置されている豪奢な座は、かつては劉璋が座っていたものだ。しかし今そこに座るのは新たな支配者たる劉備である。少し距離を置き劉備を挟む形で左に諸葛亮、右に法正が立っている。 重臣中の重臣が立つべきこの場所に、法正は今の今まで一度たりとも立った事はなかった。 一際高い場所から並み居る群臣達を見下ろすこの眺めのなんと壮観な事か。口角が上がりそうになるのをなんとか噛み締め、法正は劉備の言葉の続きを待った。
劉璋麾下の時代、朝議の進行は劉璋ではなく誰か他の者がやっていたような覚えがあるが、劉備はあくまで自身が率先して議題を進めることが常だった。 どちらのやり方が普通なのかは蜀を出たことのない法正には分からない。 劉備が話すのを聞くのは嫌いではない。 よって、やめさせる理由もなかった。
「まず、今回の入蜀において、最も功があったのは法元直だな。これには、皆異論はないだろう」
で、あろう。と法正は思っていたし、そう自負できるほど確かに命を懸けて尽力したのだが、終盤に馬超だなんだと妙な展開があったので一抹の不安は拭えなかった。 杞憂であったことにひとまず胸をなでおろし、法正は並み居る諸将百官を見渡した。 発言する者はない。 静まり返った堂内で、さらに劉備が静寂を破るように続けた。
「その元直には、蜀郡太守を任せようと思う。元より蜀の人間であるから、詳しい者に任せた方が良いだろう。合わせて揚武将軍に任ずる」
広い屋根の下で劉備の声が反響している。この人事については事前に劉備本人から打診されていた為改めて驚きはない。劉備の心変りが無かったことに安堵し、そのまま配下の主だった面々の表情を観察した。
まず張飛。並みいる諸将の先頭で屹立している。 どこにいようと決して埋没しまいという異彩は鎧を脱いでも変わらないらしい。 顎の周りにびっしり生え揃った虎髭に、官服の上からでも分かる筋肉隆々とした逞しい肢体。 何をするにつけ大仰な男だったが、劉備が話すときだけはいつも静かにしている。
そのことに法正はひどく感心した。 張飛にではない、そうさせるだけの劉備にだ。 やはり劉備はひとかどの人間だと思い、同時に憧れを抱いた。 これこそ英雄のなせる業である。 とはいえ、法正は上昇志向は強いが己の立ち位置や力量というものは弁えているので、劉備の立場を狙う気などはさらさらない。 自分には自分に合った仕事があるものなのだ、というのが法正の生き方だ。
その別人のように押し黙っている張飛だが、法正の処遇を聞いて些かつまらなそうな顔をした。 不満というほどではないが、思う所はあるようだ。 権謀術策などとは対極にいるような男だとは思うが、いかんせん主君の劉備の絶大な信頼がある。 何に引っかかっているのか分からないが、とりあえず関係を改善する努力は急務だろう。 あまり法正の得意な性質の人間ではなさそうだが、必要とあれば仕方がない。
続いて隣に立つ馬超。張飛と違って端正な造形をしているが、同じくらいに人目を引いた。 羌族の血が混じるせいなのか、浅黒い肌に光を吸い込む漆黒の髪。 晴天の珍しい成都の人間は比較的日に焼けないので、馬超の健康的な肌色はよく目立つ。降ってきたばかりの頃はやや風変わりな装束をしていたが、今日ばかりは漢風の官服に身を包んでいる。そんな馬超だが、劉備の言葉を聞いてもその整った顔に特に変化は見られなかった。
そもそも、仏頂面にしている事が多いので表情は探りにくい、と法正は思う。 名家の生まれで名声もあるが、如何せん劉備軍としては新参故、どのみち大した影響力はないだろう。 どうにも名家の人間というものが気にくわないので、法正にとっては都合が良い。
ついでに並び立つ馬岱を見た。 馬超の従兄弟に当たるらしく外見も似通った雰囲気をしているが、背丈は一回り小さい。 馬超と対照的に常に柔和な表情だが、それがかえって法正には読みにくい相手に思われた。
やはり、今日も薄っすら微笑み、とくに心情の機微は感じられない。 不意に、一瞬視線が交差したような気がしたが、馬岱は特に反応をしなかった。 気のせいだったと決め込み、機会があれば探りを入れておこうと心に留めた。
少しさがって、黄忠と厳顔。 老将同士気が合ったのか、厳顔が降ってより一緒に居る姿をよく見かける。 老いるとどうも人間は似通ってくるらしい。 一見するとまるで双子のような爺二人だ。
皺に隠された黄忠の表情に特に変化はないようだが、厳顔は明らかに不快そうに白髭を揺らした。 が、それは法正の予想の範囲内である。 厳顔は元々劉備軍の誘致に反対をしていた為、劉備に降った今でも内通者たる法正のことを良くは思っていないのだろう。 戦場で死んでくれれば幸いだったが、こうなった以上は言っても仕方のないことだ。 今更改善の関係は難しいだろうから、せめて衝突を避けることとしよう。 仲の良い黄忠も感化される可能性が高いのが多少問題か。
同じく、魏延と趙雲が立っている。魏延は特に何も感じていない風だ。 あまり政治に興味がない男のように感じられたが、法正自身はこの男にはかなり興味がある。 叩き上げの軍人のようで、確かに外見は武骨さが極まっている印象だ。 背は劉備軍古参面子の中原人に比べれば低いが、それでも法正より頭一つは高い。
荊州より劉備軍へ加わった為劉備軍での戦歴は中程度だが、劉備はこの男を気に入っている印象を受ける。 成都攻略の軍議においても、何度か魏延に意見を求める場面を法正は見てきた。
逆に諸葛亮とはなんとなくそりがあわない風だ。 現状、何がどうということはなかったが、魏延の提言等にあまり良い感想を抱いてないことはなんとなく肌で感じる。 大体のことにおいて劉備は諸葛亮を信頼し、諸葛亮は劉備の意向を汲んで行動をする。 その良く信頼関係を築いた二人の意見が相違するのは珍しい。 あまりに未知数な存在ではあったが、奇貨居くべしの例もある。 今回の処遇に対しては可もなく不可もなく、というより特に感慨も無いらしいのは、むしろやりやすいと法正は思った。
一方の趙雲も、法正には少し気になる男ではあった。 横に並ぶ魏延より目線が高い。 無頼な印象の強い劉備軍の面子の中では非常に男前だ、が、馬超のように華やかさがないのが逆に不思議だ。 整っているが故に、良く言えば場に溶け込む、悪く言えば埋没するような所がある。 古参将の中では位がかなり低いが、主騎という役柄もあってか劉備とは非常に懇意の関係にあるらしい。 関羽、張飛に継ぐ信頼を得ているといっても差し支えはなさそうだ。 故に、位が低いからと言って捨ておくなんてことは愚か者のすることだ。
趙雲は劉備の言にやや笑みを浮かべて頷いた。 どちらかと言えば好意的に受け止めたようだ。 これは法正の予想に反し、少し驚いた。 主騎という職務上、趙雲は既存の軍師たる諸葛亮と近しい関係にあったはずだ。 法正が諸葛亮を差し置き第一功に数えられるのは、趙雲にしては面白くないのではないかと予想したがそうではなかったらしい。
しかしこのことは法正にとっては朗報にほかならなかった。 逆に諸葛亮と仲が悪いらしい魏延は、自分に対して少なくとも悪意を持っていない。 良い傾向だ、と思わず緩みそうな口元をなんとか引き締める。
そして最後に、法正から見て劉備の向かい側に立つ、無駄に丈高い男を盗み見た。諸葛亮、字を孔明。龐統が戦死した今、劉備軍の軍師と言えば奴だ。 つまり、法正にとって最大の競合相手と言えるだろう。 龐統に代わって前線に呼ばれる以前から、諸葛亮のことは劉備からよく聞かされていた。 劉備の言う「若くて綺麗な男」の説明に、正直法正は軍師ではなく情人として置いているのか?と訝りもしたが、実際に会ってみると劉備の表現は確かに的を得ている。
年は劉備と父子ほど離れているし、法正と比べてもさらに5歳ほど年少だった。 下手な武将どもより背が高いが、その整った顔、色の白さ、痩せぎすな身体の線から、あまり威圧感はなく細面な印象が勝る。 その外見、声、立ち居振る舞い、そしてなによりその発言の内容から清廉という言葉が似合う男だった。 劉備はこの全てを内包して「綺麗」と表現したらしい。
正直に言って、法正はこの男が苦手だ。 単に政敵足りうるからという話ではなく、性質の問題だ。 自慢にもならないが、法正は品行の良い人間ではない自覚がある。 飢饉に見舞われた故郷を捨ててより、時節に恵まれず、何をしてものし上がってやるという野心ばかりを育ててきた。 出世欲だけはない、報復欲求を孕んだその野心こそが法正の原動力なのだ。 このいかにも真面目で、品行方正な男と合わないのは自明の理である。
法正の見てきた限り、諸葛亮は常人離れした軍才があるというわけではない。 入蜀して劉備軍と合流するまでの諸葛亮の軍の動かし方に、冴えわたる様な用兵というものは特になかった。 かと言って何か落ち度があるわけでもなく、軍の資質を良く理解し十二分に発揮させる、無駄のない進軍だった。 その印象そのままに、優等生な軍師だと法正は認識した。
その諸葛亮が法正の想像の遥か上をいったのは、馬超の一件である。 馬超への対処をどうするか全軍決めあぐねていた時に、ちゃっかり独自に馬超と内通し、降伏させてしまった。 それまで単に優等生だと思っていた諸葛亮に、完全に出し抜かれた。 独断専行だと糾弾しようかとも思ったが、法正が逡巡する間もなく劉備は受け入れてしまった。以来、法正はこの男をただ優等生なだけの男ではなく、自分の想像を超える信頼が劉備と諸葛亮の間にはあるのだと認識を改めるに至った。
「して、次にだが……諸葛孔明を軍師将軍に任じ、合わせて左将軍府事とし、私の政治を支えてもらう」
劉備の布令に、諸葛亮は恭しく頭を下げた。 軍師将軍に、左将軍府事――どちらも雑号で、明らかに法正の位の方が上だが、後者が少し気になる。 左将軍とは劉備のことで、劉備の発言そのままに、側近として相談役にするという意志だろうか。 法正の戴いた蜀郡太守と違って独自の権限は少ないだろうが……。
しかし、法正が位の上では上回ったことには間違いない。 このまま順調に劉備の信頼を得ていけば、法正は政治の実権を握れるだろう。 その為に出来ることは何でもやろう、と法正はほんの少しだけ、口の端を吊り上げた。 堂内では、劉備の論功行賞を発する声が続いていた。
趙雲はそれから2日間左将軍府へは顔を出さなかった。 毎日来ていた男が急に現れず宮中内で姿も見えないとなると、孔明に感づかれるのではという可能性を考えての事だ。 代わりに馬岱が折を見て進捗を伝えに来た。 馬岱も流石に四六時中左将軍府に詰めているわけにはいかず、その間は信頼できる兵を置いているらしかった。 その者らには周りに怪しげな者が出入りしていないかの警戒も、同時に任せている。
「なんとか形にはなって来た感じはしますよ。なんとかね」
宮城からほど近い場所に借りている趙雲の屋敷へ、訪ねてきた馬岱が苦笑めいて言う。 衣服はなんだか埃っぽい。 聞くまでもなく、未だに片付けに難航しているのが察せられる。
「そんな事で政務に入れるのだろうか」
言いながら趙雲は白湯を含んだ。 馬岱の分も、勿論机上に用意してある。
「逆ですよ。仕事をしながらだから、なかなか片付かないのです」
「なるほどな」
左将軍府で落ち着いて仕事が出来る日はまだまだ先になりそうだ。 孔明はともかく、他の面子は仕事に集中出来るのだろうか。
「本題ですが、やはり軍師殿の奥方様の行方は依然として知れずという事の様です」
「そうか……」
ここまで来ると、仮にこちらへ向かっているのだとしても時間がかかり過ぎている。 道中で何かあったとしか思えない。 もしそうでないのなら……
「私は一度荊州へ行って、様子を見て来ようかと思う」
「本当に荊州まで?そんな所まで行かれるおつもりですか」
「道中見つかればそれで良いが、見つからなかったとしても、何があったのか調べたい」
窓の外を仰ぎ見た。 陽が傾き、そろそろ夕暮れが近い頃合いだ。 宮城でも、大半の者が帰路に着いているだろう。
「なるほど。しかし、荊州までとなると日数がかかりますね」
「そうだな。私の一存の範疇を超える。だから、私は殿に許可を頂いてこようと思う。元々私に話を振ったのは殿だから、許可は頂けるだろう」
だと良いですが……と言った所で、馬岱がふと思い出したように続けた。
「ここ数日で、法太守のものとみられる斥候は見つかっていません。」
法太守とは法正のことに他ならない。 そう言えばそんな話もあったのだった。
「ふぅん、もう諦めたかな」
趙雲とて、法正が本気で孔明に害を為そうと思っているとは考えていない。
「元々そんな本気で調べていたわけではないのかも。見つかれば儲けもの、というよりは……」
「というよりは?」
「調べずにはいられない性分なのでしょうね。そうだとすれば、あの人も何儀な人だ」
そう言って馬岱は苦笑した。 馬岱のよくする、何かを隠したような笑い方だ。 劉備配下の人間で、あまりこういう表情をする者はいない。 孔明とも少し違う、と趙雲は思っている。
「どういう事だ?」
「ままの意味ですよ。生まれつきなのか、今迄の苦労がそうさせるのか、常に周りを把握しておかないと不安なんです」
「そうだとすれば、確かに難儀だな。常に気苦労がありそうだ」
私には真似できそうにないと言うと、馬岱はどこか痛ましそうに微笑んだ。
「長生きできると良いですけどね」
翌朝、朝議が済んだ頃を見計らって、趙雲は劉備を訪ねた。 劉備は珍しく宮城内の私邸に戻り、息子の劉禅を遊ばせている。
人好きな劉備は、日中も常に誰かと会っている事が多く、あまり早い時間に私邸に戻らない。 劉禅の面倒を見るのも珍しい事だった。 劉禅に愛情をかけることは、長坂で生き別れた他の子供達に対しての自責の念があるからだろうか、というのは趙雲の推測に過ぎない。
「殿、お寛ぎのところ失礼致します」
「ああ、子龍だな。どうしたこんな所まで」
「子龍!」
趙雲を見つけるや、劉禅が趙雲に駆け寄ってくる。 成都侵攻の前後でバタバタして、趙雲も劉禅に会うのはかなり久々のことだった。 最後に見たときよりも劉禅はずっと大きくなっており、どことなく劉備に似てきた風がある。 それでもまだまだいとけない子供ではあるのだが、この頃の幼子の成長は早い。
「ご子息様、お久しゅうございます。大きくなられましたね」
趙雲は劉禅に視線を合わせるように膝を折り、拱手をして挨拶した。 劉禅ははちきれんばかりに破顔する。 その様子を微笑ましく見ていると、劉禅の後ろには彼より幾らか年長に見える少女が立っている。 この年代は女のほうが成長が早いため、もしかすると同い年程度かもしれない。 ともかく趙雲の初めて見る娘である。
「こちらは?」
趙雲は横に立つ劉備に尋ねた。
「益徳んとこの一番上の娘だ」
「益徳殿の」
「また赤ん坊が産まれたろう? そっちの育児があろうから、良くこうやってこっちで遊ばせてるんだ」
そう言えば確かに、張飛はそんな事を言っていた気がする。 産まれたのが趙雲や張飛が出征後の成都を包囲している合間で、その後もバタついてすっかり皆忘れている。 とはいえ、張飛にとっては既に三人目の子供であった。
「男女七つにして同席せず、なんて言うが私はこういう時は助け合ってナンボだと思う」
「お優しい心掛けですね」
「と、言っても私が面倒みているわけじゃないんだけどな、アッハハ」
劉禅つきの侍従や宮女たちが、一緒に面倒を見ているらしい。 少し離れた所からこちらを見守る者の中には、今は亡き劉備の夫人付きだった女達の顔もあった。 長坂の逃避行を共に越えた者達は、劉備にとってもなかば身内のようなものになっている。
娘の大きな瞳が趙雲を見つめ、しばし目が合う。
「お初にお目にかかります。将軍様の事は父よりよく聞かされております」
張飛の娘が恭しく礼をした。 張飛の子とは思えない、幼いながら聡明さを感じる立ち振る舞いだ。 間違いなく奥方の教育の賜物だろう。 大きな瞳、軽く波打つ御髪。 張飛の妻は昔に見た事があるばかりだが、顔も髪の色も間違いなく母譲りに違いない。
「それは嬉しい。しかし益徳殿は私をどう言っているのだろう。なんだか怖いな」
「そうですね、イイ男であると」
なんだそれは。思わず嘆息する。なんと答えたものか。
「ロクな事を言わないな、君の父は」
「しかし父の戯言でなくて、良かったと思ってます」
そう言うと、少女はニッコリ笑った。 なんとなく性格は、というより度胸のようなものが父譲りかもしれない気がして趙雲は少し怖い。
「スマンが、二人は向こうで遊んでくれ」
劉備が子供たち二人に言った。 宮女たちにも目で合図を送る。
「はい。それでは将軍様、失礼します」
「分かりました父上。子龍、今度は一緒に遊ばうぞ!」
「はい、また機会がありましたら」
二人は連れたって、別室へと消えていった。 仲が良いようで微笑ましい。
「禅はまだまだ子どもだな。益徳んとこの子の方がしっかりしてる」
しっかりというより、ちゃっかりな予感はしたが、趙雲は言わずにおいた。 劉備は近くにあった小椅子にどっしりと腰掛ける。
「さあ話を聞こうか」
劉備に促され、趙雲は立ったまま本題に入った。
「はい、実は荊州まで行こうと思うので許可を頂けませんか?」
「んん、荊州? それはまた急だな。なんでまた?」
「孔明殿の事で」
「ああ〜……」
「殿は内実をご存知だったのですか?」
趙雲はずっと気になっていた事を尋ねた。 手持ち無沙汰に髭を弄びながら、劉備が答える。
「いや、ハッキリとは聞いちゃいないよ。ただ家庭のことで障りがあるから暫く動けないような旨を婉曲に伝えてきた」
「なるほど……」
それで自分にも曖昧な伝え方だったのか、と趙雲は合点がいった。 勿論、他人が話す事ではないという思慮もあってだろうが。
「だが家庭といっても孔明んとこは妻が一人だけで子もいないだろ。兄の諸葛瑾の事なら外交問題に発展しうるから、アイツは隠さず言うだろう」
つまり、言わずとも劉備は大体の事を察していたらしい。 こういう方面の機微は軍師にも勝る劉備だった。 少し逡巡して、劉備は続けた。
「妻と離縁しそうっていう話かい?」
「いえ、そうではない……と思います。ただ行方しれずなのです。孔明殿の奥方が」
「そりゃあもっと大変だ。孔明はもっと慌てるべきじゃないのか」
「孔明殿はご実家に帰られたように思っているようです」
劉備は顔を顰める。 趙雲は、孔明から聞かされた話をかいつまんで話した。
「ふーん、なるほどな。それを確かめに行ってくれるなら、私もぜひ頼みたい所だ。行ってくれるか子龍」
「勿論です、ありがとうございます!」
「適当に荊州へのついでの用事を探しとくとするか。そうすればお前も行きやすかろう」
「重ね重ね、感謝いたします」
趙雲が頭を下げると、劉備は気まずそうに頭を掻いた。
「私は結果的にアイツから二人の学友を奪った。更に妻までとなったら今度こそ孔明に顔向けできなくなっちまう」
趙雲はハッと顔を上げた。 まさか劉備がそんな事を考えたいた事を、趙雲はこの時初めて知った。 劉備は神妙な顔をして、趙雲の目をじっと見つめている。
「だからな、何としても見つけてきて欲しいと願っている」
「――分かりました」
劉備の為にも黄氏を見つけ出さなければ。 せめて、ことの決着をつけたい。 遠くから子どもたちのはしゃぐ声を聞きながら、趙雲は劉備邸を足早に去った。
趙雲が劉備の私邸を後にし、馬岱へ報告に行こうかという時に、話しかけるものがあった。 引かれるようにして声の元へ顔を向ける。 法正である。 決して人通りの少なくない道の、たまたま喧騒の途切れる場所に、狙い定めたかのようにして現れたので、少なからず趙雲は驚いた。
「これは趙将軍、ご機嫌麗しゅう。この様な場所で偶然でございますな」
「法太守、こちらこそ」
法正の拱手に、返す形で拱手をした。 こんな時に……と思ったが、偶然かどうかは分からない。 尾行がいるとは思わなかったが、警戒もしていなかったのは事実だ。 大通りの喧騒が遠く聞こえる。
「殿のお屋敷の方から来られましたね? 私邸まで行かれるとは火急の用でもありましたか」
早速の詮索である。 さしもの趙雲も明け透けに会話、というわけにはいかない。
「それ程の事でもございません。ご子息様にもご挨拶をと思い、こちらまで赴いたに過ぎませぬ」
嘘がうまくなったな、と我ながら思った。 知らぬ顔をして、さりげなく法正の表情をうかがう。
「まことに? 諸葛殿の件ではありますまいか?」
何故それを――と言いかけて、口を噤む。 法正が鎌をかけているだけかもしれない。
「さてどうでしょう」
曖昧な趙雲の返答に、法正の片眉がほんの少し跳ねた。 それから、なんと返すか少し迷った風な様子を挟んで呟く。
「……私には不思議だ」
「はて?」
背の低い法正が、覗き込むような視線で趙雲の表情を観察している。
「どうして貴方はそこまであの人を庇われる」
「――なんのことですか」
平静を装いつつ、息が止まる様な心地が一瞬趙雲を襲った。 悟られない程度に息を吐く。 この者がどこまで知っていて、どこから鎌をかけているだけなのか分からない。 武官の自分が、まるで問答のような真似をしているのがひどく不似合いだ、と思った。
「いや、ただ純粋にそう思っただけです」
法正は、事実疑問に思っているようだった。 なにが引っかかっているのか趙雲には分からない。 あまり下手に聞き出そうとすると、藪の蛇をつつくだけな気がして、こちらからは動けない。
なおも法正は無遠慮に趙雲を観察している。 以前のようなさり気なさを捨てたのは、趙雲が親諸葛亮派だと見做したためなのか。あるいはやはり、純粋に疑問を解明しようとしているためなのか。
「あなたが分からない」
再度呟く。 言って聞かせるというより、言葉が漏れたという具合だった。
「まだ知り合って間もないのですから、無理もないでしょう」
遠慮のない法正の視線が緩み、趙雲はやっと人心地着いたように言った。
「……そうでしょうね。私はあなたを見誤っていたのかもしれない。純粋に貴殿を知りたく思う」
見誤った、と言うのはどういう意味か。 ちらりと引っかかったが趙雲だったが、無難に会話を続ける事に専念した。
「これから知る機会があるでしょう。ともに同じ主を戴く身なのですから」
「もっとゆっくり話す場が必要なようですな」
「それは構いませんが、何度諸葛軍師の事を訊かれても、私には答えようがありませんぞ」
趙雲の対応に、法正は目を眇めた。 何を考えているか、その表情から趙雲は察することは出来ない。
「私がどうか致しましたか?」
突如、法正でも、趙雲でもない声がかかる。 二人は一斉に声の方を向いた。
「蜀郡太守と将軍殿ともあろう方が供もつれずこの様な場所で立ち話とは、感心しませんね」
挿絵梨音(あっすぅ)
孔明だった。いつもの通りの黒の鶴氅衣だが、手にはなにやら荷物を抱えており、どこかへ向かうものと思われた。 自身で言う割に本人も供を連れていなかったが、ここでそれを指摘するのも無粋である。 なにより、法正との会話が切れてありがたかった。
孔明の向こうでは、ポツリポツリと人が行き交っている。 こちらに注目する者はいないようだ。
「孔明殿……」
自然と趙雲は呟いていた。 孔明の視線が、涼やかに趙雲へと注がれる。
「ご機嫌麗しゅう」
手が塞がっている孔明は、拱手の代わりに軽く一礼してみせた初めに趙雲に、続いて法正に。
「なにか私の名前が聞こえたような気がして声を掛けましたが、お邪魔でしたでしょうか」
孔明にしてはらしくなく、詰問するような強い口調で訊いてくる。 法正は何か言い返そうかと一瞬逡巡する様子を見せたが、やがて呑み込んで、更に一拍置いてから答えた。
「趙将軍と食事でも、という話をしていただけです」
多分に言葉を選んだ表現だったが、概ね間違いではない。 法正でも一応作り笑いは出来るらしい。 返す孔明は、ニコリともしていなかった。
「そうですか。ならば私はやはりお邪魔だった様ですね」
「いえ、もう話は終わりましたので。私はここで失礼致します」
法正が拱手をするので、趙雲も慌てて返した。 荷物を抱えた孔明はただそれをじっと見ていた。 法正の消えていく道の先に簡素な車があるのに気が付く。 法正は供回りをつけていないわけではないらしい。
「会話に水を差してしまったようで、すみませんね」
法正の姿が完全に消えたあたりで、孔明が口を開いた。 語気は幾らか落ち着いている。
「いえ、話の切り上げ方に困っていたので、むしろ助かりました」
「そうですか」
孔明の視線は、軽く検分する様子で彷徨っている。 柔らかい風が孔明の細い鬢を揺らす。
「こんな所で偶然ですね。荷物をお持ちしましょう。どちらまで?」
「こんな所、殿に会いに行く以外に通りますか? 距離もないので結構です」
それは違いない。 再び強めた語気は、つまり、趙雲は劉備に何用だったのだと問いたいものらしい。
「ああ、それはそうでしょうな、ええと……」
孔明の目がジロリと趙雲をねめつける。 無理にはぐらかして逃げる事も出来るが……。
「私はてっきり、荊州へ向かう許可を貰いに来たのではないかと思いましたが」
「えっ」
「左将軍府へ姿を現さなくなって数日、そろそろでは無いかという気がしましたが、杞憂であったようですね」
ここまで気付かれていては、誤魔化した所で何になる。 趙雲は白状してすべてを話すことに決めた。
「貴方は人の心でも読めるのですか? 怖いなぁ」
趙雲がようやく観念したのを見て、孔明もやれやれといった風に息を吐いた。
「読めていればこんな苦労はしてませんよ……。貴方の事だから、そんな事だろうと思いました。ここで合ったのは偶然ですけどね」
時間まで読まれていたのなら、それこそ恐怖だ。
「全く、貴方は……」
孔明は中途半端に言葉を切って、背後を見た。 特に何事もなく、ちらほらと人が歩いている光景が見える。
「……場所を変えて話をしたいのですが」
「え?」
「嫌とは言わせませんよ。ここで逃したら貴方は荊州へ向かうでしょう」
逃げるとは言葉の悪い。 しかしバツの悪い趙雲に反論の権利などなかった。
「構いません……が、殿の元へ向かう所だったのでは?」
「とりあえずの税収支の概算を出してみたので持っていこうと思っていただけです。急ぎではありませんので」
はあそうですか、と言いながら趙雲は孔明から荷物を奪った。 布に包まれた竹簡だろうか、意外に重い。 お世辞にも裕福とは言えない劉備軍なので、紙ではなく竹簡を何度も削って使い回ししている。
「道中持ちます」
趙雲の言葉を聞いて、孔明はなんとも表し難い顔をした。 ほんの少しだが優位を取り戻したようで、してやったりと趙雲は思った。
孔明が趙雲を誘って辿り着いたのは、街中の飯屋だった。 劉備の私邸からさほど遠くない。 下卑たとは言わないまでも、あくまで庶民的な店じまいが、孔明とはなんとなく釣り合わない。 孔明が何やら店員と話すと、路面に開かれた座席ではなく、御簾を隔てた店の奥に案内された。 中には個室が幾つか用意されているらしいが、それぞれの入り口は離され独立している。 御簾の中へ一歩はいると、それだけで表の喧騒がぐっと遠くなった。
店員は個室の一つへと二人を通した。 床には一面に筵が引いてあり、靴を脱いで上がる部屋のようだ。 趙雲と孔明が部屋に上がると、店員は御簾の向こうへ消えていった。 注文はどうするのだろうと思えば、呼び出し用の紐が天井から下がっているのが見えた。
「コレを引くと表の鐘が鳴るんです」
趙雲が紐を観察しているのに気付いたのか、孔明が紐を指で示しながら説明をした。
「なるほど、よく出来ている」
孔明が奥座に座るのを見て、趙雲も机を挟んで向かいにある座へ腰を下ろした。 部屋は三方を壁に囲まれ、内一面の外に面する壁の天井近くに明かり取りと換気の為であろう格子窓があるばかりで、薄暗い。 今は灯されていないが、部屋の隅や机上に燭台が置いてある。 日暮れにはこれを使わないと、恐らく手元も見えない薄暗さになるだろう。 残る一面は入り口に使う部分のみ空いていて、部屋へ入った後で孔明が御簾を下ろした為に、部屋はほぼ密室だった。 この様な部屋があるようには、表からあまり見えない。
「ここへは良く来るのですか?」
机の端には竹簡が巻かれて置いてある。恐らく料理の品書きであろうが、孔明は見向きもしていなかった。
「いいえ、初めて来ました」
「本当に? その割には勝手知ったる様でしたが」
「以前に費禕に聞いて覚えていました。店の間取り等も全て費禕から聞いていたので、大体は」
人に一度聴いた程度で、とは思ったがこの男の記憶力の凄さを常人の通りに測るのは良くない。 それ以前に、趙雲には気になる点があった。
「ひい?」
「ああ……、すみません。左将軍府に偶に顔を見せる子です。元から益州に住んでる子で、この様なあまり人に知られないような事も良く知っていて、面白い子ですよ。頭も良い」
「……左将軍府はいつから子供が出入りする場所に?」
少なくとも、趙雲が左将軍府に行った日にはそんな姿は見えなかった。
「董允の友達なので、董允と一緒に片付けを手伝ってくれています」
「董允というと、董和殿のご子息の」
「勤勉な子で、父君の仕事の手伝いをしたいと。費禕の方は付き合わされてる形ですね」
董和とは、孔明と共に左将軍府で働いている男の名だと、流石に趙雲も知っている。その息子が父親の手伝いの為に顔を出しているのは趙雲も見ていた。
「そうですね、貴方は一日しか来られてないから存じ上げないのでしたね」
嫌味なのか本心なのか、趙雲には判断しかねた。しかし良く良く考えてみれば、入蜀してこの方慌ただしい毎日を送っている孔明が、城下の飯屋に来る暇などある筈が無い。 それにしても子供のくせにこんな場所を知っている費禕という少年は一体何者なのだろう。 あまり素行の良い子供とは言えなさそうだと思った。
「さて、本題に入りましょうか」
孔明の声が一段下がり、趙雲も自ずと居住まいを正した。
「殿にはなんと申し上げたのですか」
孔明は机上で手を組んだ姿勢で詰問を始めた。 荷物を持っていた為か、今日はその白い手に羽扇は握られていない。
「荊州に行きたいから許可を頂きたいと……」
「その理由としては」
「貴方の事を話しました。勝手な振る舞いは申し訳ないと思いますが、元々私は殿から言われて貴方に会いに行ったわけですし」
「……そう言われればそうでしたね」
孔明は軽く息を吐いた。 この時間、趙雲達以外に個室の客はいないようで、立ち込めるような静寂の中では息遣いでさえ良く響いた。 表の遠い喧騒が、尚更静寂を濃くしている。
「私が言うまいと、殿は大雑把には把握されてるようでした」
「……そうですか。殿には隠し事は出来ませんね。そして、殿はなんと」
「是非行って欲しいと」
「…………」
孔明から学友達を奪った事を劉備が気に病んでいるとまでは、流石に言わずに置いた。 孔明が明後日の方向を見る。 視線の先には格子窓があり、光に照らされて埃がきらめいている。
「殿には、私から話しておきます」
「それは」
「言ったはずです。何もしないで下さいと」
孔明の視線が再び趙雲へと戻る。 責めるような、懇願するような瞳に趙雲は一瞬気圧されたが、ここで引いてはならない。
「正直に謝ります。しかし、私は私の意志で動いているに過ぎません」
「なんですかそれは」
「私がやりたいからしている。別に貴方に迷惑をかける訳ではないから、貴方に責められる言われもないはずだ」
「迷惑です、とハッキリ伝えた方が良かったですか?」
「その迷惑とは、申し訳ないとか、バツが悪いとか、そういうたぐいの話であって、何か本当に困るわけではないでしょう」
夫人が見つかるのは、孔明にとって吉報でありこそすれ、困る事でないはずだ。
「…………」
「完全に私がやりたくてやってるに過ぎない。貴方は別に気にする必要はないんだ」
孔明はあからさまに言葉を探している。 軍議中でもこの様な孔明を拝める機会はそう無いだろう。
「……厚顔を承知で言いますが、貴方は、その……私に好意があるからそんな事をするのですか?」
「ん?」
「……私の気を惹こうというつもりなら、辞めてほしいのですが」
思わぬ話の方向で、趙雲もなんとなく視線を反らした。
「それ違う。いや、違わないが、別に私は点数を稼ごうとしてそんな事をしてはいません」
孔明は胡乱な様子で、眇めた目で趙雲を見ている。
「もっと単純に、貴方が困っているのを見たくないとか、負担を除いてやりたいとか、そういう事です」
「…………」
「貴方が哀しんでいるのを見たくないのです。報われたいと思ってはいませんが、否定だけはされたくない」
孔明は黙っている。
「それだけはお許し頂けまいか」
これは、趙雲の本心だった。 河岸で孔明に拒絶されたあの日から、趙雲は報われたいとは思わなくなった。 思えなくなった、という方が正しいかもしれない。 その前からどうにか気持ちを成就させたいと切実に思っていたわけではなかったが、あの日自分の想いは孔明に受け入れられるどころか、むしろ彼を追い詰めるものだと知った。 あの日の夜、軽率な己を呪って趙雲は一晩眠れなかった。 尚香が呉に帰り、心がざわついていたせいもあろう。
その後益州攻略を経て、思いもがけず孔明が自分へ歩み寄る姿勢を見せた。 彼なりに自分との関係を修復しようとしてくれているらしい。 そう気づき、不甲斐なさがたまらなかったが、ただ拒絶されるばかりではなかった事で生きた心地がしたのもまた事実であった。
孔明は、自分に好意を抱いているらしい男を許容する事にしたようだ。 それで良い、己が報われる必要はない。 ただ孔明が健やかであるよう努める、それがそれからの趙雲の指針になった。 好意を既に知られてしまっていたのも、そうなってしまうとむしろ気が軽くさせた。
また新たな形で自分と孔明は関係を築いていける。 この関係は終生平行線を辿るだろうが、それで構わない。 構わない……と思っていたが、ここに来て孔明が再び拒絶を見せ始めた。 答えて欲しいとは望まないから、せめて否定だけはしないで欲しい。 もしここで拒絶されれば、二度と関係を、少なくともこの様に二人きりで話すような間柄にはなれないだろうという絶望が、ひしひしと趙雲の背中に忍び寄った。
「…………」
孔明は相変わらず黙っている。 孔明も趙雲も目を伏せ、机をじっと見た。 気まずい沈黙をなんとか破りたいが、下手な事をいって取り返しのつかない事態になることだけは避けたい。 表から微かに聞こえる雑踏が妙に場違いだった。
「私は、」
孔明がようやく声を発するまでの時間は、実際には数十秒であったろう。 趙雲にはひどく長い、まるで永遠な時間にさえ感じられた。 孔明の声は妙に震えている。
「……私も、貴方の事が好きです」
「…………え、?」
顔をあげると、孔明は泣き出しそうな顔をしていた。
「貴方と同じ意味の好き、だと思います」
「……………………」
なんだって?死刑宣告を待っていたはずだが、返ってきたのは予想外の、むしろまるで正反対と言って良い言葉だった。 都合が良すぎて夢を見ている……とは流石に思わなかったが、何か隠された意味があるのだろうかの悶々として言葉も発せない内に、孔明は更に続けた。
「貴方に好意を告げられたあの日も、あの日より前から、本当は貴方の事が好きでした」
隠された意味があるわけでも、趙雲が意味を履き違えているわけでもなさそうだ。 しかし、ならば、尚更、趙雲には上手く飲み込めない。
「……いや、そんな、だってあの日貴方は、」
「酷い事を言って、申し訳ないとは思います。ですが、あの時の私にはあれが精一杯でした」
伏せた孔明の瞳が揺れている。
「今も本当は、言うべきではなかったかと、今まさに悩んでいるところです」
「ならば、なぜ」
何故今になって。 怒っているわけではないが、自然と強い口調になった。 孔明の顔は尚も伏せられたままだ。 まるで詰問しているようだ……と趙雲は思った。 孔明を追い詰める事は趙雲の本意ではない。
いつの間にか浮いていた腰を落とし、趙雲は長く息を吐いた。
「……すいません、問答のように答えを求める事では無いですよね」
趙雲は努めて落ち着いた口調で言った。 微かに上を向いた孔明の眼に視点を合わせ、その奥の真意を計るようにじっと見つめる。 孔明は少し驚いたような顔をした。
「……貴方という御人は」
「なんです?」
「何故そんなに優しくできるのだろうと、つくづく思います。貴方には私を問い質す権利がある」
「貴方には喜びだけを与えたいんだと、告げたと思いますが」
今度は孔明が、何かを探るように趙雲を見つめた。 孔明と、これほど熱心に見つめ合った事は嘗てなかったかもしれない。 喧騒から離れた密室。 条件は充分である筈なのに、まるで色っぽい雰囲気にならないのは、却って我々らしいかもしれないなと趙雲は思った。 一応、互いに想い合っている仲ではあるらしいのだが。
「……貴方はいつも私に優しくして下さるのに、私は怖れてばかりでした」
孔明は視線を外さないまま話し始めた。
「怖れ?」
「何故、と貴方は問いました。答えましょう。私は……怖かった、否、怖いのです」
孔明の瞳が揺らぐ。 怖れというのは比喩や誇張ではないらしかった。
「私が怖ろしいのですか」
「それは正しくて、間違いでもあります。私は……」
そこで初めて孔明は視線を外した。 にわかに机上に組んだ己の手に視点を落とす。
「この未知なる感情も、それを起こさせる貴方も、この感情を抱いてしまう己の罪深さも、この想いがどこに行き着くのかも……全てが怖くてたまりません」
組まれた孔明の白い手が微かに震えている様に見えた。 思い返せば、江岸で趙雲を拒絶したあの日、孔明の姿は怯える子どものようではなかったか。 孔明はこれほど思い詰めていたのに、あの日一時の感情に流されて却って怯えさせてしまった。 趙雲は己の行動を悔いたが、後の祭りとはこの事だ。 せめて震えを止められないかと、そっと組まれた孔明の両手の上に右手を重ねた。
「ならば、何故今言おうと思ったのですか。今も、怖ろしいななら……」
出来る限り優しく声に出した。 孔明は、重ねられた趙雲の手を一瞥し、それから視線を上げて趙雲の眼を見た。
「思えば、……私は恋なんてものを知らなかったし、貴方に対する身を切られるような感情を、妻に抱いたこともありませんでした」
孔明の確信に触れる話をしている、と思った。 ほんの少しだけ、重ねた右手に力を込めた。
「それでも、私にとって妻が大切な存在であることに変わりはありません。尊重して、守っていきたい、家族なのです」
趙雲は息を呑んだ。 妻もおらず、若かりし頃に故郷に親兄弟を置いてきた趙雲と違って、孔明には家族がいるのだ。 それは、趙雲が理解し考慮すべき点だとはわかっていた。
「だから、貴方には私の妻……家族には踏み込まないで欲しい。身勝手なのは承知していますが、どちらの世界もそれぞれ、私には……」
重ねていた右手を外すと、孔明は縋るような顔で趙雲の右手を目で追った。 そんな表情をさせられる程度には求められていると思えば、どんな事も受け入れられそうだと感じる。
「身勝手などではありません」
趙雲は、孔明が自身の妻を尊重して大切にしたいと思っている事は知っていたし、そんな孔明だからこそ惹かれたのだ。 そんな孔明の柔らかくて繊細な部分を趙雲が侵す権利などない。
「孔明殿、承知致しました。……お望みの通り、私は奥方の捜索から手を引きます」
胸の前で拱手をし、一礼をして続ける。
「しかし、殿に捜索をすると言った手前、何もしないわけにもいきません。私の代わりに馬岱を行かせるのはどうですか」
孔明は、明らかに安堵した様子を滲ませた。
「私も貴方に動かれたくないばかりに意固地になっていた気がします。お願いしましょう、馬岱殿が承諾すればですが」
「それはそうだ」
苦笑する。 馬岱の意思を確認せねば始まらない。
「……なにか頼みますか。何も頼まずに出て行くのも申し訳ないですからね」
孔明はようやく机の隅に追いやられていた品書きを手に取った。
「そうですね……では、なにか湯でも」
腹は空いていない。 急な事の連続で胸がいっぱいなせいかもしれなかった。
品書きを読む孔明の様子を観察していると、視線に気付いたらしい孔明がこちらを見て、フッと微笑む。 今迄に無いことで、趙雲は正直面食らった。 見たことのない笑い方だった。
孔明は再び視線を下に落とすと、言葉を紡ぎ始める。
「繰り返しになりますが、私はまだ……怖いというのが本音です。どう、するのが正解なのでしょうね……」
自分達の関係について言っているのであろう事はすぐに分かった。実際、趙雲もどうするのが正解なのかなど分からない。 男同士で、身分的な事を言えば上下関係にある。 市井の男女のように祝福される関係では無いだけは、考えるまでもなく分かった。
「とりあえずは、何もしなくて良いのではないでしょうか。お互い恋の炎に身を焦がす様な年齢でもありますまい」
趙雲の答えに孔明は少し眉根を開いて驚いたが、すぐに穏やかな微笑みに変わった。
「そうですね……」
肩の荷が降りたかのように、孔明は微笑う。 今はこれで充分だ。 料理の品目を読み連ねる孔明の細い声を、満たされた気持ちで聞いている。
正直に言えば上背ばかりで痩せたこの男を、抱けるものなら抱いてしまいたいと思っていた。 少なくとも、無垢で純粋な気持ちばかりでこの男を想っているわけではない。 孔明は自分の感情を「貴方と同じ」といったが、果たしてどうだろう。 そもそもそちらの気が薄そうな、というより最早似合わないような男だ。 実際、細君との間に子はいない。
それに、孔明はこの感情や関係を怖いという。 その気持ちが分からないでもない趙雲だったので、無理にこの関係を進めようとは思わなかった。
この気高い男が自分にしか見せない表情がある。 自分の好意を受け入れられている。 それ以上に大事なことなどあるだろうか。 そう穏やかに思える程度には、趙雲は歳を重ねていた。