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    新しき日々 そこかしこに戦の燻りを残したまま、成都城では朝議が再開された。 年をまたいだ包囲に、陥落後の将兵たちによる略奪。 劉備は士気向上のために、陥落後の成都王宮の蔵の略奪を許可していたので成都城内は荒れに荒れた。 市政の人間への乱暴を最小限に防げたのは良かったが、真っ当な政治を再開できる状態とは言い難い。
     連戦の疲労の上に金欠、新天地でのスタートは順風満帆とは言い難かったが、そうは言っても政治をしなければ定まるものも定まらない。 かくして、古参、荊州からの将官、益州からの新参、全て含めた者たちが一堂に集められた。
    「と、いうわけで、論功行賞を行う」
     劉備は座に腰をおろしたまま諸将百官らに告げた。部屋の最奥、二段ほど周囲より高まった位置に設置されている豪奢な座は、かつては劉璋が座っていたものだ。しかし今そこに座るのは新たな支配者たる劉備である。少し距離を置き劉備を挟む形で左に諸葛亮、右に法正が立っている。 重臣中の重臣が立つべきこの場所に、法正は今の今まで一度たりとも立った事はなかった。 一際高い場所から並み居る群臣達を見下ろすこの眺めのなんと壮観な事か。口角が上がりそうになるのをなんとか噛み締め、法正は劉備の言葉の続きを待った。
     劉璋麾下の時代、朝議の進行は劉璋ではなく誰か他の者がやっていたような覚えがあるが、劉備はあくまで自身が率先して議題を進めることが常だった。 どちらのやり方が普通なのかは蜀を出たことのない法正には分からない。 劉備が話すのを聞くのは嫌いではない。 よって、やめさせる理由もなかった。
    「まず、今回の入蜀において、最も功があったのは法元直だな。これには、皆異論はないだろう」
     で、あろう。と法正は思っていたし、そう自負できるほど確かに命を懸けて尽力したのだが、終盤に馬超だなんだと妙な展開があったので一抹の不安は拭えなかった。 杞憂であったことにひとまず胸をなでおろし、法正は並み居る諸将百官を見渡した。 発言する者はない。 静まり返った堂内で、さらに劉備が静寂を破るように続けた。
    「その元直には、蜀郡太守を任せようと思う。元より蜀の人間であるから、詳しい者に任せた方が良いだろう。合わせて揚武将軍に任ずる」
     広い屋根の下で劉備の声が反響している。この人事については事前に劉備本人から打診されていた為改めて驚きはない。劉備の心変りが無かったことに安堵し、そのまま配下の主だった面々の表情を観察した。
     まず張飛。並みいる諸将の先頭で屹立している。 どこにいようと決して埋没しまいという異彩は鎧を脱いでも変わらないらしい。 顎の周りにびっしり生え揃った虎髭に、官服の上からでも分かる筋肉隆々とした逞しい肢体。 何をするにつけ大仰な男だったが、劉備が話すときだけはいつも静かにしている。
     そのことに法正はひどく感心した。 張飛にではない、そうさせるだけの劉備にだ。 やはり劉備はひとかどの人間だと思い、同時に憧れを抱いた。 これこそ英雄のなせる業である。 とはいえ、法正は上昇志向は強いが己の立ち位置や力量というものは弁えているので、劉備の立場を狙う気などはさらさらない。 自分には自分に合った仕事があるものなのだ、というのが法正の生き方だ。
     その別人のように押し黙っている張飛だが、法正の処遇を聞いて些かつまらなそうな顔をした。 不満というほどではないが、思う所はあるようだ。 権謀術策などとは対極にいるような男だとは思うが、いかんせん主君の劉備の絶大な信頼がある。 何に引っかかっているのか分からないが、とりあえず関係を改善する努力は急務だろう。 あまり法正の得意な性質の人間ではなさそうだが、必要とあれば仕方がない。
     続いて隣に立つ馬超。張飛と違って端正な造形をしているが、同じくらいに人目を引いた。 羌族の血が混じるせいなのか、浅黒い肌に光を吸い込む漆黒の髪。 晴天の珍しい成都の人間は比較的日に焼けないので、馬超の健康的な肌色はよく目立つ。降ってきたばかりの頃はやや風変わりな装束をしていたが、今日ばかりは漢風の官服に身を包んでいる。そんな馬超だが、劉備の言葉を聞いてもその整った顔に特に変化は見られなかった。
     そもそも、仏頂面にしている事が多いので表情は探りにくい、と法正は思う。 名家の生まれで名声もあるが、如何せん劉備軍としては新参故、どのみち大した影響力はないだろう。 どうにも名家の人間というものが気にくわないので、法正にとっては都合が良い。
     ついでに並び立つ馬岱を見た。 馬超の従兄弟に当たるらしく外見も似通った雰囲気をしているが、背丈は一回り小さい。 馬超と対照的に常に柔和な表情だが、それがかえって法正には読みにくい相手に思われた。
     やはり、今日も薄っすら微笑み、とくに心情の機微は感じられない。 不意に、一瞬視線が交差したような気がしたが、馬岱は特に反応をしなかった。 気のせいだったと決め込み、機会があれば探りを入れておこうと心に留めた。
     少しさがって、黄忠と厳顔。 老将同士気が合ったのか、厳顔が降ってより一緒に居る姿をよく見かける。 老いるとどうも人間は似通ってくるらしい。 一見するとまるで双子のような爺二人だ。
     皺に隠された黄忠の表情に特に変化はないようだが、厳顔は明らかに不快そうに白髭を揺らした。 が、それは法正の予想の範囲内である。 厳顔は元々劉備軍の誘致に反対をしていた為、劉備に降った今でも内通者たる法正のことを良くは思っていないのだろう。 戦場で死んでくれれば幸いだったが、こうなった以上は言っても仕方のないことだ。 今更改善の関係は難しいだろうから、せめて衝突を避けることとしよう。 仲の良い黄忠も感化される可能性が高いのが多少問題か。
     同じく、魏延と趙雲が立っている。魏延は特に何も感じていない風だ。 あまり政治に興味がない男のように感じられたが、法正自身はこの男にはかなり興味がある。 叩き上げの軍人のようで、確かに外見は武骨さが極まっている印象だ。 背は劉備軍古参面子の中原人に比べれば低いが、それでも法正より頭一つは高い。
     荊州より劉備軍へ加わった為劉備軍での戦歴は中程度だが、劉備はこの男を気に入っている印象を受ける。 成都攻略の軍議においても、何度か魏延に意見を求める場面を法正は見てきた。
     逆に諸葛亮とはなんとなくそりがあわない風だ。 現状、何がどうということはなかったが、魏延の提言等にあまり良い感想を抱いてないことはなんとなく肌で感じる。 大体のことにおいて劉備は諸葛亮を信頼し、諸葛亮は劉備の意向を汲んで行動をする。 その良く信頼関係を築いた二人の意見が相違するのは珍しい。 あまりに未知数な存在ではあったが、奇貨居くべしの例もある。 今回の処遇に対しては可もなく不可もなく、というより特に感慨も無いらしいのは、むしろやりやすいと法正は思った。
     一方の趙雲も、法正には少し気になる男ではあった。 横に並ぶ魏延より目線が高い。 無頼な印象の強い劉備軍の面子の中では非常に男前だ、が、馬超のように華やかさがないのが逆に不思議だ。 整っているが故に、良く言えば場に溶け込む、悪く言えば埋没するような所がある。 古参将の中では位がかなり低いが、主騎という役柄もあってか劉備とは非常に懇意の関係にあるらしい。 関羽、張飛に継ぐ信頼を得ているといっても差し支えはなさそうだ。 故に、位が低いからと言って捨ておくなんてことは愚か者のすることだ。
     趙雲は劉備の言にやや笑みを浮かべて頷いた。 どちらかと言えば好意的に受け止めたようだ。 これは法正の予想に反し、少し驚いた。 主騎という職務上、趙雲は既存の軍師たる諸葛亮と近しい関係にあったはずだ。 法正が諸葛亮を差し置き第一功に数えられるのは、趙雲にしては面白くないのではないかと予想したがそうではなかったらしい。
     しかしこのことは法正にとっては朗報にほかならなかった。 逆に諸葛亮と仲が悪いらしい魏延は、自分に対して少なくとも悪意を持っていない。 良い傾向だ、と思わず緩みそうな口元をなんとか引き締める。
     そして最後に、法正から見て劉備の向かい側に立つ、無駄に丈高い男を盗み見た。諸葛亮、字を孔明。龐統が戦死した今、劉備軍の軍師と言えば奴だ。 つまり、法正にとって最大の競合相手と言えるだろう。 龐統に代わって前線に呼ばれる以前から、諸葛亮のことは劉備からよく聞かされていた。 劉備の言う「若くて綺麗な男」の説明に、正直法正は軍師ではなく情人として置いているのか?と訝りもしたが、実際に会ってみると劉備の表現は確かに的を得ている。
     年は劉備と父子ほど離れているし、法正と比べてもさらに5歳ほど年少だった。 下手な武将どもより背が高いが、その整った顔、色の白さ、痩せぎすな身体の線から、あまり威圧感はなく細面な印象が勝る。 その外見、声、立ち居振る舞い、そしてなによりその発言の内容から清廉という言葉が似合う男だった。 劉備はこの全てを内包して「綺麗」と表現したらしい。
     正直に言って、法正はこの男が苦手だ。 単に政敵足りうるからという話ではなく、性質の問題だ。 自慢にもならないが、法正は品行の良い人間ではない自覚がある。 飢饉に見舞われた故郷を捨ててより、時節に恵まれず、何をしてものし上がってやるという野心ばかりを育ててきた。 出世欲だけはない、報復欲求を孕んだその野心こそが法正の原動力なのだ。 このいかにも真面目で、品行方正な男と合わないのは自明の理である。
     法正の見てきた限り、諸葛亮は常人離れした軍才があるというわけではない。 入蜀して劉備軍と合流するまでの諸葛亮の軍の動かし方に、冴えわたる様な用兵というものは特になかった。 かと言って何か落ち度があるわけでもなく、軍の資質を良く理解し十二分に発揮させる、無駄のない進軍だった。 その印象そのままに、優等生な軍師だと法正は認識した。
     その諸葛亮が法正の想像の遥か上をいったのは、馬超の一件である。 馬超への対処をどうするか全軍決めあぐねていた時に、ちゃっかり独自に馬超と内通し、降伏させてしまった。 それまで単に優等生だと思っていた諸葛亮に、完全に出し抜かれた。 独断専行だと糾弾しようかとも思ったが、法正が逡巡する間もなく劉備は受け入れてしまった。以来、法正はこの男をただ優等生なだけの男ではなく、自分の想像を超える信頼が劉備と諸葛亮の間にはあるのだと認識を改めるに至った。
    「して、次にだが……諸葛孔明を軍師将軍に任じ、合わせて左将軍府事とし、私の政治を支えてもらう」
     劉備の布令に、諸葛亮は恭しく頭を下げた。 軍師将軍に、左将軍府事――どちらも雑号で、明らかに法正の位の方が上だが、後者が少し気になる。 左将軍とは劉備のことで、劉備の発言そのままに、側近として相談役にするという意志だろうか。 法正の戴いた蜀郡太守と違って独自の権限は少ないだろうが……。
     しかし、法正が位の上では上回ったことには間違いない。 このまま順調に劉備の信頼を得ていけば、法正は政治の実権を握れるだろう。 その為に出来ることは何でもやろう、と法正はほんの少しだけ、口の端を吊り上げた。 堂内では、劉備の論功行賞を発する声が続いていた。


     劉備自室前。まだ後宮にまで手が回っていないため、劉備は蜀の家臣が使っていただろう部屋に間借りしている。 論功行賞を終え皆が解散となってしばらく後、趙雲は劉備のもとを訪れていた。 劉備に意見したい者は他にも多かろうと踏んで時間を空けたのだが、やはり先客がいたようだ。
    「左将軍閣下は法太守とずっとお話し込んでおられます」
     劉備付きの召人に部屋の前で止められる。 扉は締め切られ、部屋の中を窺い知ることはできない。扉は厚く室内の音を聞き取ることも叶わなかった。
    「法……というと、法正殿か。話し始めてどのくらいになる?」
    「朝議を終えられ、そのまま面会に入られまして、ずっとでございます」
    「なに、そんなに長くか……」
    「はい。趙将軍以外にも幾人か来られましたが、皆さまお帰りになられました」
     趙雲なりに時間を置いてみたが、それでもまだ足りなかったらしい。 それにしても朝議を終えて既に四刻半は経っているところを見ると、単に論功行賞の謝辞を述べているというわけではないようだ。 いつ終わるのか皆目見当もつかない。 ここでただ待っているわけにもいかないので引き返そうと思ったその時、折よく部屋から法正が出てきた。
     扉より顔を出した刹那両者の視線が交差する。 趙雲よりずっと背が低いため、法正が見上げる形になった。 法正のぎょろりとした丸い目が趙雲を捕らえる。
    「おや、趙将軍」
    「法、太守」
     そう言えばもう法正は太守なのだった。 劉備の家臣の中でもとびきり高位だ。
    「まだ呼ばれなれませんな」
     恐縮そうな事を言う割には、自負がにじみ出るような表情で法正は笑っている。 それを見ると、今迄の劉備軍にはいなかった人柄だなと趙雲は思う。 それが嫌だというわけではなかったが、物珍しさがあった。
    「お待たせさせてしまったのなら申し訳ない。殿ならご在室です」
    「いえ、私は今来たばかりなので」
    「さようですか。それはそうと、翊軍将軍へのご就任おめでとうございます」
     法正は拱手して頭を下げた。 慌てて趙雲も呼応するかのように頭を下げる。
    「私などより、太守殿こそおめでとうございます」
    「いやはや身分不相応にて忝い。しかしめでたい事には間違いない。どうです、是非今度祝いの酒でも」
    「はあ」
     戦地で見る法正はどこかピリピリしているような印象があったため、思わぬ酒の誘いに趙雲は困惑した。 とても張飛のように酒が飲めれば誰とでも、という風にも見えない。 趙雲の困惑に法正も敏感に察したのか、間を改めるように咳払いをした。
    「将軍は今迄殿の主騎でいらっしゃったとかで。前任の軍師の方々とも間近に接する機会が多かったでしょう。私も同じように将軍と誼を通じたいのです」
     法正はニコリ、というよりニヤリと笑った。 ちらりときな臭さが見え隠れする。 とは言え同じ主を戴く者同士、親睦を深めるに越したことはない。
    「そう、ですか。それはこちらとしても是非お願いしたいくらいです」
    「その言葉がなにより。近いうちに一席設けましょう。ああそうだ、将軍からも殿に口添え頂けませんか?」
    「口添え?なんでしょう?」
    「殿はもう一国の主と言っても過言ではない。是非良きご伴侶を得られますようにと」
     要するに再婚の要請だ。 法正が長々と何を話していたのかは、十分すぎるくらい分かった。
     辞去の挨拶もほどほどに法正と別れると、趙雲は早速扉を開けて室内へと入った。中に入ると劉備は部屋の奥にある長椅子に座っているのがすぐに分かった。 傍に机を伴った腰掛もあり、その上には飲み物が用意されている。 法正と話すのにはそちらを使ったのだろう。何気なく器の中を確認すると、残っている水量が随分違う。量が減っているのは劉備側の器だった。
    「おお、子龍か。好きに座れ。悪いが私も楽にさせてもらう」
     劉備はどっしりと体重をかけるように座っている。 人と会う姿勢ではないが、劉備と趙雲の仲で今更気にはしないし、むしろその気軽さが趙雲には嬉しい。
    「それでは、遠慮なく」
     趙雲は一礼して、恐らく法正が座っていただろう席についた。 腰掛は二つある。 一方は劉備が座っていたに違いない。
    「すまんな、朝から色々あってすっかり疲れてしまった」
     確かに、劉備の呟きには疲労の色がにじみ出ている。
    「益州入りしてより初の朝議、お疲れになられるのも無理はございません」
    「まだ人事についてしか片付いてないけどなあ……。金もないし、大変なのはこれからだよ、色々と」
     劉備は、頭巾の上から頭をポリポリと掻いた。
    「殿におかれましては……、ご再婚をお考えなのでしょうか?」
     背中を預けていた劉備が、ガバリと背を上げて趙雲の顔をまじまじと見た。
    「法正に聞いたか?」
    「貴方からも良く言ってくれと頼まれました」
     大きく一つため息をつくと、劉備は再びドサリと背もたれに体を預けた。
    「アイツ凄いガツガツ来るんだよな……。そういう男も嫌いじゃないが、今迄のうちの軍にはいない性質だから変な感じがする」
     自分と同じようなことを劉備が思っているらしいのに、趙雲は少し笑った。 嫌いじゃないがまだ戸惑う面もあるということだ。
    「まぁ私も曲がりなりにも一国一城の主になったわけだし、今迄のように、のらりくらりとしているわけにもいかないだろうな……」
     劉備は虚空を見つめている。 劉備も、趙雲他古参の部下全てが、それを目指してきたに違いないのに、いざなってみると寂寥の想いを禁じ得ないのは何故だろう。
     趙雲も劉備につられてなんとなく窓の外を眺めてみた。 既に陽は登り切り、窓から燦燦と光が注いでいる。 不意に孫尚香と歩いた光の庭の記憶が脳裏によぎった。 柔らかな陽光に赤い髪が透けて煌めく様を、まるで今目の前にある光景のように思い出せた。
    「先の奥方は……最後幸せだと笑って呉に帰られていきました」
     伝えなければ、と不意に気持ちがこみ上げて、いつのまにか趙雲は呟いていた。 劉備に視線を戻すと劉備の方もいつの間にか趙雲を見ていて、微かに微笑んでいた。
    「そうか」
     劉備は少し哀し気に、それでいて包み込むような深さを秘めた声で、続きを促す。 それと同じく深い瞳で趙雲を視る。 元々趙雲などにはおおよそ測りえる事の出来ない器の大きな人間だったが、こんな目をする人だったろうか、とも思った。
    「殿によろしく伝えるよう、私にも何度も……」
     どう伝えて良いのか、趙雲は探るように言うしかなかった。
    「うん、孔明からも聞いた。良い子だな。私には勿体無いくらいの子だった。だからこれで良かったかもしれない」
     切ない事を言う。しかし、二人が生涯寄り添って生きていけると、本気で信じた者は皆無だったろう。 それは劉備と尚香、本人たちにとっても例外ではなかった。 勿論趙雲にも。
    「一時でもあの子の夫であれた事は、私にとっての誉れだな。だからこそ、私は前に進まないといけない。私を夫にした事が、あの子にとって恥と思われないように」
     そんな事あるものかと趙雲は思ったが、そんなことは劉備だってわかっているのだ。 これは劉備が、自分への発破とするものだ。 劉備は長椅子から背を起こし背伸びをした。
    「よし、法正の言う通り、嫁さん貰うか」
     先ほどまでの空気を吹き飛ばすような快活さで劉備は破顔する。 趙雲の良く知る劉備らしい表情だった。
    「良い嫁さん貰って子どもを作るのも、私にとっちゃ立派な仕事だ。阿斗はいるが、私の子にしちゃ大人し過ぎて心配だからな」
    「大人しいという事は、良き教育があれば立派に大成できるという事でしょう」
    「ハハ、だと良いが希望的観測過ぎやしないかね。阿斗を可愛がってる子龍には悪いがな」
     劉備の言う通り、趙雲は長坂で阿斗を単騎救出して以来、単に主の嫡子というだけではなく阿斗を可愛がっている。 主騎という職務上良く一緒にいたせいも多分にあるだろう。 その趙雲をしても決して阿斗は英才の素質があるようにはみえなかった。 だが、この世の英雄たち全てが神童として生まれたわけではない。 正しき者が導いてやれば名君になれるだろうと思うのは、決して趙雲の希望というだけではないだろう。 良くも悪くも、少し大人しい普通の子という話なのだった。
    「私には捨てて逃げた娘も、戦場で亡くした妻もいる。今度こそ誠意ある夫になろう。それは一国の主としての責任でもあると思う」
     劉備は不意に立ち上がったかと思うと、趙雲と机を挟んで向かいにある椅子に座りなおした。 二人の距離が縮まる。
    「だから、私はもうお前に無理に嫁を貰えとは言わんよ」
    「へっ!?」
     突然話が自分に及んだことに驚き、趙雲は背筋を伸ばした。 その趙雲を見て劉備はささやかに笑う。
    「お前は私の軍の中でも随分と誠実な男だし、私はそういうお前を気に入っている」
    「それは、なんとも過分なお言葉ですが……」
    「再三言っても嫁をとらんのは、何か事情があるんだろう。以前はなんとなく意欲が無いから結婚しないという感じだったから、私も随分と口を酸っぱくして言ったが、最近は違うな」
     その問いかけには答えることはできず、趙雲は押し黙った。 しかし劉備は趙雲の無言を気にした様子はなかった。
    「想う相手がいるならそれを貰えば良いとは思うんだが……、まあ、そこに立ち入るのは無粋が過ぎるってもんだ」
    「劉備殿……」
    「私はお前を不実な男にしたくないんだ。せめてお前は、心の欲する所に従うと良い。だが後継ぎがいないってのも寂しいから、養子は貰えよ。私も良いツテを探してみよう」
     臣下として、ありあまる温情を受けていると思う。 趙雲はなんと言って返せば良いか分からなかった。
    「……ありがとうございます」
    「ん、いいってことだ。それより、お前の話をしよう」
    「?」
    「法正に頼まれてここに来たってわけじゃあるまい?」
    「ああ……」
     すっかり忘れていた。 趙雲は論功行賞の件で、劉備と話をしに来たのであった。
    「翊軍将軍に任じて頂き、ありがとうございます」
    「お礼言われるほどの役職じゃないだろう。遅すぎたくらいだし、あまり言ってくれるな」
    「兵の移譲はいかがすれば。将軍職となれば、兵士の数も揃えなければならぬと思うのですが、いかんせん不慣れで」
     趙雲は今でも直属の兵士を所有してはいるが、任務の主が護衛であったため、一部隊とするには少ない。 前線に参加する場合は、その都度遊軍として置かれている兵を組み込んでいたが、今後もそうするわけにはいかないだろう。
    「益徳と孔明にでも相談して、一部融通して貰うと良い。足りない分は、益州兵から動かそう」
    「私としては今迄の直轄兵以外は、全て益州兵で良いと思っているのですが」
     劉備が片眉を上げた。
    「荊州からの兵士は要らないか? 全て新兵となると調練が面倒だぞ」
    「私自身大がかりな隊を率するのは初めてですし、兵も初めてくらいで丁度良いのではないかと思っています」
    「ふ~ん、まぁ、お前が良いなら良いが。では兵をどこから出すかは私の方から法正や孔明と話して決めよう」
     劉備はなんとなく納得していないようだったが、新兵の調練を率先してやるというならありがたいと考え直したようだ。
    「ありがとうございます。……して、主騎としての仕事は」
    「軍としての規模も大きくなったことだし、新たに親衛隊と近衛兵を作ろうと思っている。法正や孔明とも関わるだろうから、両者と話し合って決めようと思っているぞ」
    「それでは私は完全にお役御免ということですか」
     そう趙雲が言うと、劉備は面食らったように目を見開いた。
    「おいおい嫌な言い方をするなぁ、お前らしくもない。将軍として昇格した自覚はあるか? 一応栄転だと思うんだが……、それともそんなに主騎の仕事が好きかね」
    「正直に言うと、攻めるより守る方が得意だとは最近自覚してきております」
     もののふとしてどうなのか、とは思わないでもないが。
    「うちには守りを忘れた益徳のようなのもいるから、そういうのも良いんじゃないか。孔明なんかもその手だな、お前と同じだ」
    「そうでしょうか?」
    「別に孔明が軍師として劣ってると思ったことはないが、龐統や法正っていう別の軍師を見ると、そう感じるな。孔明はあまりガンガン攻める手を好まない感じはする。一発逆転より負けない戦が得意な奴だ」
     趙雲は自らは軍師の優劣や種別を図る事はしてこなかったし、しようとしなかった為、そういうものなのかと思った。 戦争より政治の方が好きなのか、くらいは察しているが、攻め方がどうこうというのはあまり気にしてこなかった。 劉備はやはり人を見る目は、他に比べて卓越していると感じる。 そしてこれからは将軍になる以上、もっと作戦の意図を自分なりに考えてみようと決めた。
    「まぁ、それはいいとして……」
     劉備は一度座りなおして続ける。
    「軍の規模が大きくなると、私の目の届かない場所も増える。そういう場所はやはり信頼の置ける者に任せたい」
     趙雲の左肩に、柔らかく劉備の手が置かれる。
    「お前が主騎の仕事を好きと言ってくれるのは有難いんだが、将としてもお前の力が必要なんだ」
     じんわりと肩に劉備の体温を感じる。 家臣冥利に尽きる、とはこのことかもしれない。
    「……不躾な事を申し上げました」
    「いや、実際嬉しかったよ私は。今後もそういう機会があればお前に頼もう」
    「御意に」
     趙雲は拱手をして立ち上がった。
    「兵の準備が出来るまでは、孔明のお守りでもしてな」
    「え?」
    「主騎の仕事したいんだろ?」
    「そうですが……」
    「実を言うとだな。孔明の奴最近困りごとがあるようだから、面倒みてやって欲しいのよ」
    「そうなんですか……、分かりました」
     困りごととはなんだろう。尋ねるべきかと思ったが、劉備の表情はそれを望んでいないような気がした。 深く礼をして、趙雲は静かに退室した。


     そう言えば孔明はどこで仕事をしているんだろう。 今朝の事を思い返してみる。 劉備の論功行賞を劉備の隣で粛々と聞いていた揚武将軍、左将軍府事に任命されていたと思う。 朝議が終わった後は、確かに忙しそうに部屋を出ていった気がしないでもない。
     孔明は時間や仕事の進捗にはかなり厳密だが、普段の歩行自体はゆったりとしているので今覚えばいつにないことである。 困りごととやらの所為なのだろうか。
     自分に相談してくれれば良いのにと思ったが、そう言えば趙雲と孔明は今度はゆっくり話し合おうという事になっていたのだった。 そのせいで自分に話しづらいのであれば、本末転倒な気がしないでもない。 もしかすると、劉備が適当に休めという意味で言った冗談の可能性も捨てきれないでいる。
     ともかく、まごついていても仕方が無いので趙雲は孔明を求めてうろつき回ることにした。
    「子龍! どこ言ってたんだおめぇよう」
     趙雲が宮城を歩く、というより迷っていると、不意に声をかける者がいる。 特徴的な声で聞き間違えるはずもない。 案の定、過ぎた曲がり角の向こうから、虎髭の張飛がのしのしと早足で向かって来た。
    「これは益徳殿、ごきげんよう。私なら今しがたまで殿の元におりましたが」
    「兄者のとこか、道理で見つからねぇわけだ」
    「私をお探しでしたか? それは失礼を」
    「いや、大した事じゃねえんだが……」
     豪放磊落を体現したような張飛にしては珍しく、言い辛そうに虎髭を掻いて視線を彷徨わせる。 らしくないことに何だろうと身構えてしまう。
    「子龍、お前、法正と一緒に酒を飲む約束したか?」
     突拍子もない問いだが、張飛の口からとなるとそうおかしな事にも思えないのは長年の付き合いのせいだろう。
    「したと言えばしたような。しないと言えばしていなような」
    「なんだそりゃ、ハッキリしねえな」
    「今度一緒にどうでしょう、と言われて、良いですね是非と返しましたが、それだけですね」
     社交辞令と言えば、そうとも断じてしまえるような応接である。 特に具体的な約束をしたわけではないので、答えが曖昧になるのも仕方がない。
    「法正はオレに、お前も来るから卓を囲もうと誘ってきやがったぞ」
     法正には社交辞令のつもりがなかったらしい事に、ほんの少し驚きもしつつ。 とは言うものの、そう思われていたとしても特に問題があるわけではない。
    「へえ、まぁそういう機会があるなら私は構いませんが。なんとお答えしたんですか?」
    「予定次第で今度答えるってな」
    「随分らしくない返しをされましたね……」
     おかしいというより、妙に感心してしまった。 年を取って幾らか丸く穏やかになってきた面はあったが、それでも張飛は一か百かの男という印象が強い。 流石の張飛も、曖昧に濁すという芸当が出来たのか。
    「自分でもそう思うぜ。本当にお前が来るのか信用できなかったし……、うーん、お前も来るならまぁ良いか……」
    「益徳殿が酒の誘いを悩まれるとは珍しい」
    「なんとなーくあの法正って奴、好きになれねーんだわ、オレ」
    「おや、そうなんですか」
     張飛の人の好き嫌いが激しいのは今に始まったことではないので、驚きはしない。
    「益徳殿はあまり軍師という存在がお好きじゃないようだから」
    「うーん、そういう事じゃない気がすんだよなぁ……軍師だからって感じじゃねーんだわ」
     分かるような、分からないような。 当の本人が掴めていないものを、趙雲が掴めるはずもなく。
    「オレは龐統の奴の事は好きだったぜ。それに、打算な事ばっかり言うのがつまらなかった諸葛の奴も、今になって意外とそう打算的な事ばっかりじゃねえなって思ってる」
    「へえ?」
    「なんでだろうなァ。法正と見てると、不思議とそう思えてくんだ」
    「殿もおっしゃってましたが、法正殿は今迄うちの軍にいなかった風な人間だから、まだ違和感があるんでしょう」
    「兄者もか? そういうもんかねぇ」
     恐らく、張飛も法正の出世欲や承認欲求の強い面に戸惑っているのだ。 今迄の劉備軍は小規模で、立場争いがあるどころか常に人手不足が悩みの種だった。 だから、まだ国として各々の立場の上下を認識する状況に慣れていない。 そして法正は、新たなる劉備軍の象徴とも言えるだろう。
    「法正殿へは、私が答えておきましょう。私と交えて三者でと」
    「そうしてくれや。うまい酒を用意してくれってな」
     やっと張飛らしい口ぶりが戻ってきて、思わず笑みがこぼれる。
    「いいですよ、伝えておきます。ところで、孔明殿がどこで仕事なさってるかご存じないですか?」
    「諸葛の奴の? う~ん知らねえな、左将軍府? って奴はどこで開府するって話だっけか」
    「張飛殿もご存知ありませんか。困りましたね……」
    「私が存じております」
     どこから現れたか、馬岱がいつの間にか二人の間に立っていた。
    「わっ! 馬岱」
    「てめぇこの野郎、いつの間に……」
     例によって気配を消すのが上手い男だ。 二人の驚きを意に介さず、馬岱は淡々と話を進める。
    「左将軍府は西の塔にて開府の準備が進められておりますよ」
    「西の塔か……、と言われてもピンと来ないわけだが。馬岱は詳しいんだな」
     趙雲に限らず、劉備軍の人間は未だ成都城の構造を記憶するに至っていない。 張飛を見てみると、やはりと云うかさっぱりという顔をしている。
    「私と馬超の二人は他に恃む方もそう居らず、諸葛軍師の居場所はしっかり把握しておかなければと思っておりましたもので」
     張飛と趙雲を前に他に恃む者も無いとは、良く言えたものだ。 張飛の気に障るのじゃないかと趙雲は心配したが、逆にこの物おじしない態度は張飛の好むところだったらしい。張飛は豪快に破顔して言った。
    「おうおう、大した口ぶりだな。何ならいつでも酒の相手してやると、お前の所の若様に伝えとけ。ただし、酒の用意はそっち持ちだけどな」
    「お伝えします。嗜む程度の量ですが、西の果てから運ばれた葡萄酒の備蓄があります」
    「そりゃあ良い」
     丸くまとまって良かった。 馬超と張飛でどういう話をするのか想像もつかなかったが、馬岱もいればどうにかなるだろう。 馬岱と張飛の会話がひと段落つくと、再び馬岱は趙雲に向き直った。
    「趙将軍、私で良ければ案内しましょうか」
    「良いのか? そうして貰えると助かるのだが」
    「ええ、構いませんよ」
     他にアテもないので、馬岱についていくことに決めた。似たような構造の連なる宮城内を、躊躇いなく馬岱はスルスルと進んでいく。 西へ行くほど建物が増えていく印象を受ける。 今になって気付いたが逆側の東側は厩舎は調練場が固まっていた。 つまり、西を政務、東を軍事とする構造になっているようだ。さらに西の方には小さな屋根が連なっているのが見える。どうやら街があるらしい。
    「すまないな馬岱。何か用があってあそこにいたんじゃないのか」
    「用があるとすれば、貴方を探していたことです」
     馬岱は歩を緩めないままに答えた。
    「私を? 何か用だったか」
    「先ほども言いましたが、我々西涼勢が恃む相手は現状諸葛軍師しかおりません。ひいては貴方も同士だと思っています」
    「同士とは……」
    「貴方は諸葛軍師と争う立場には決してならないでしょう?」
    「……それを再確認してどうする?」
     一旦脚を止めて、馬岱は振り返った。
    「お気に障りましたのならすいません。ですが、私としてはだからこそ貴方を信用できてありがたい」
    「さっきから何を言っている? 敵対だとか、信用するだとか」
     趙雲が問うと、馬岱は首を動かさずに目だけを動かして辺りを見回した。趙雲もつられて辺りを見たが、 人の気配はまるでしない。 まだ手入れの行き届いてない空白の区画だ。
    「張将軍ともお話されていましたでしょう? 法正殿です」
    「法正?」
     今日は随分と良く聞く名だな、と趙雲は思った。 論功行賞の最行賞、一躍客将から劉備軍の二番手に躍り出たと言っても過言ではない相手だ。 話題に上がるのも無理からぬ話であるが。
    「あの人が功名心の強い人間だとは承知しておきながら、何故そう落ち着いていられるのです」
     常に穏やかな態度を貫いている馬岱にしては、妙に語気が荒い。ただことではないと感じ、さすがの趙雲も居住まいを正して続きを促した。
    「どういうことだ?」
    「法正殿と諸葛軍師は立場を競合する相手です。だから、諸葛軍師を失墜させようとしていますよ、法正殿は」
    「なんだと?」
    「やたらと積極的に周りの将と懇ろになろうとしてるのは、要は根回しです。自らの陣営を厚くしようとしている。生憎私と従兄上にはお呼びはかかりませんでしたが」
     そう言うと馬岱は肩をすくめた。
    「となると、私や張飛殿を酒に誘ったのも……」
    「お二人はピンと来ていらっしゃらなかったのが可哀想な点ですが、そういうことですね。趙将軍相手にはいくらやっても徒労ということを知らなかったのが第二に可哀想な所ですが」
     そう言って馬岱はやっと顔を綻ばせた。 趙雲としてはなんとも面白くない展開ではあったが。 思わずため息がこぼれるのも仕方がない。
    「新たな国を起こそうという時に、内部抗争などなんて無駄なことを」
     と言いつつも、趙雲も法正の口ぶりに何やらきな臭いものを感じたのは事実だ。 法正が功名心の強い男だという事も十分認識している。 しかし、誰かを落としてめてまでとは、流石に思っていなかった。それも孔明を。
    「だからこそですよ。新参の法正殿にとっては、勤続年数で負けている諸葛軍師を超えるには、建国の功労者になるのが一番早い。だからこそ食い気味にと言える速さで動いています」
     馬岱は再び歩みを始めたので、趙雲もそれに従う。 奥へ進むと微かに人の気配を感じ始める。 それでもまだ周りに人影は見えてこない。
    「……ですが、失墜というのは流石に言葉が過ぎました。優位に立っておきたいが為に先手必勝で動いている、という所でしょうか」
    「まあ、兵法の定石ではあるな」
     戦を制するには機先を制するべし。
    「不躾を覚悟で申しますと、劉備軍の皆さんは今迄身内ばかりの軍で政争などされてなかったのでしょう」
    「まあ、一部不和などはあったが……」
     孔明が軍師として迎えられたばかりの頃は、趙雲を初め諸将は皆孔明に対し懐疑的だった。 だが、それとこれとは状況が違うというのは流石に趙雲も分かる。 かつての劉備軍のそれは政争などと言うには程遠く、単に信用の問題だった。
    「人が増え、権力が分散すると、人は争うものです」
     心なしか馬岱の声が沈む。 ああそうか、馬超はかつて同胞としていた韓遂と離間したが為に、故郷を追われたのだった。 趙雲らが鈍感すぎるだけでなく、恐らく馬岱も過敏になっているのではないか。 そうは思ったが、馬岱の心の傷を抉るような発言は憚られる。
    「しかし馬岱、私はそれでも構わないかと思うよ」
     代わりに純粋な自身の気持ちを述べた。 趙雲の発言に再び馬岱は足を止める。
    「まさか」
    「そのまさかだ。法正殿が我が軍の第一軍師になれば、孔明殿は成都で静かに政治に集中出来るという事だろう?」
    「……そうなりますか」
    「私はそれでも良いんじゃないかと思っている。あの人は多分、戦争より政治向きだろうから」
     劉備だって言っていたのだ、 ガンガン攻めるのが得意な軍師じゃないと。 どこか完璧主義なきらいもあるし、仕事を任されすぎないくらいが丁度良いのではないか、とすら思えてしまう。
    「…………」
     しばしの沈黙の後、馬岱は大げさにため息を吐いた。
    「馬岱一生の不覚。流石私などより軍師を良く見ておられる。あなたがそういう発言をすること、微塵にも予想しておりませんでした」
    「なんか悪かったな」
    「いえ、私の読みの浅さです。ですが、これを聞けば気持ちが変わると思いますよ。法正殿は諸葛軍師に監視をつけております」
    「――なに?」
     それはなんとも穏やかじゃない。 趙雲の反応に馬岱は微かに満足したようだが、それを表立って顔に出すほど愚かではない。
    「そこまでやってるのか、あの人は。どうやって気付いた」
    「左将軍府の周りを哨戒がてら散歩していたら、怪しい人影がいたので捕らえました」
     それはなんとも……。 簡単に言うが、武将にするには勿体無いくらい隠密の得意な馬岱ならではだろう。 趙雲はにわかに頭痛のする想いだった。
    「競合相手が気になるのは分かるが、そこまでするか。まだ国の安定していないこの時期に」
    「恐らく法正殿も当初はそこまでするつもりではなかったのかもしれません。ただ、ここ数日諸葛軍師が何やらよからぬ事態に巻き込まれているようなのを察知して――」
     劉備の言っていた「困りごと」だ。 劉備の冗談ではなかったことだけは一つ明らかになった。
    「私は殿から聞いたが、孔明殿は何か困った事になっているらしいな」
    「そのようです」
    「詳しい事は知っているか?」
    「私個人としては予想できておりますが……私の口からお答えすることではないでしょう。ご本人の口からお聞きになるべきです」
    「それはそうだ」
     馬岱は妙に嗅ぎまわる癖と能力があるようだが、ここぞという一線は踏み越えてこない。 それが分かっているからこそ、趙雲はこの男を信用できている。
    「ならば猶更急いで向かおう」
    「そうですね」
    お喋りをやめて、二人は早足で左将軍府へと向かった。
     果たして、成都城西部にそびえる塔の一階の一室に、孔明は居た。 元からここにあったものと、新たに孔明らが運び込んだものが雑多に紛れているのか、室内はひどく雑然としている。 入口が開け放たれたままなのは換気の為か、はたまた単に閉める余裕がないだけか。 決して狭くはないと思われる部屋だが、ろくに落ち着ける場所すら無いのはいかがなものかと趙雲は心配になる。
    「孔明殿?」
     呼びかけてみると、高く積まれた行李の塔の合間から孔明が顔を出した。 孔明は長身の部類の男な筈だが、荷物に覆われて大部分が隠れてしまっている。やっと全身が見えるようになると、いつもの黒染めの鶴氅衣は羽織っておらず、中衣に褲のみという簡素ないでたちだ。 勿論愛用の羽扇をたなびかせてはいない。 引っ越し作業の為、動きやすい服装にしているのだろう。
    「子龍殿……? どうしました」
     孔明は手に持っていた竹簡の束を床に直接置いた。 冠もつけておらず直接髪に巾を巻いている。
    「私もいますよ」
     趙雲の後ろから馬岱が顔を出す。趙雲より 一回り以上小さいので、真後ろに並ぶと馬岱の姿は完全に隠れてしまうのだ。
    「馬岱殿まで。何か御用ですか?」
    「用といえば用なんですが、それどころではなさそうですね」
     趙雲は辺りを見回して言った。 今日中にこのもの達をどうにかするのは無理だろう。一目でそう判断できる程度に室内は荷物で溢れている。
    「どうせ片付きませんし、急ぎの用なら先に聞きましょう」
     そう言えば荊州の頃も、孔明の部屋はさほど片付いていなかった。 部屋に対して荷物が多すぎる予感は既にある。 孔明の言も最もだと趙雲は納得したが、馬岱は予想外の言葉に少し面食らったようだ。 自他に厳しいこの軍師が部屋の片づけに関しては些か、というより随分無精だというのは、確かに知らないと驚くだろう。
    「片手間にする話ではないかと思われますが」
    「……? なんのことでしょうか」
    「単刀直入に言います。私は殿から貴方が何か困っているようだから、力になるよう言われて来ました」
     孔明の表情が俄かに厳しくなる。 これは間違いなく何か隠している。
    「詳細は聞かされていません。単にここの片づけが……という話ではなさそうですね」
    「……殿に言われて来たのなら仕方ありません。座れる間を作りますから、こちらへ来て座ってください」
     そう言い終わるや、孔明は辺りの行李や竹簡の束を乱雑にどけて、三人がなんとか座れるだけの隙間を作った。 床はまだ掃除が行き届いていないらしく、ザラザラと埃っぽい感触がするが、戦場よりはいくらかマシだ。
     三人は頭を突き合わせるような形で座った。 間近で見ると、孔明の細い鬢にも埃がかかっているのが見えた。 隣室からは相変わらず物音が聞こえてくる。 孔明と同じく、左将軍府仕えを任じられた者たちが片づけを続けているのだろう。 馬岱はともかく、背の高い趙雲と孔明が固まって座るとなんとも窮屈だ。 趙雲は早速話を再開した。
    「それで、孔明殿は何をお困りなのか」
    「…………」
     仕方ない、と言ったわりには孔明は語るべきか否か逡巡している。
    「そんなに私には言いたくありませんか」
     何故頼ってくれないのか、という想いが自然と語気を荒くした。
    「本当は他人に言うべき話ではないのです。私のごく個人的な事なので」
     返す形で孔明も強い口調で答える。 他人、という言葉に少なからず趙雲は傷ついた。 そうして次の言葉に躊躇しているうちに、代わりに馬岱が答えた。
    「お気持ち察しますが、だからこそ早急に解決すべきではありませんか。私は貴方に借りがあると思っています。それを返す機会ならば、是非お力添えさせて頂きたい」
     馬岱はなかなか話の誘導が上手い。 舌戦では敵なしと思われた孔明に対し、上手く流れを作っている。 借りを返す機会を早くくれ、と言われたら孔明も無下にはしにくかろう。 孔明は再度逡巡する表情を見せ、大きく嘆息し、二人に向き直った。
    「身内の恥と承知で言います。実は、私の妻の連絡が途絶え、行方が分からぬのです」
    「えっ」
    「なんと」
     とんだ一大事ではないか。 しかしこれでは趙雲を「他人」と称するのも無理はない。 夫妻の話となれば、それ以外全ての人間はまさしく他人だ。 とりわけ、二人には子はいないので。
    「黄夫人―でしたか。それはいつ頃から? 成都にはまだ入られていなかったと思いますが」
     当然ながら、将兵らの家族は行軍にはついてこない。 成都を無事攻略し幾らか落ち着いた今ようやく、ちらほらと荊州に残されていた家族たちが、夫や子供に呼ばれて益州入りをしている。 孔明の妻たる黄氏もまた、その例外ではなかったはずだが……。
    「そろそろ落ち着けるかと思い、先日荊州の自宅へ人を遣りました。それはもう十日ほど前の事です」
    「その者はなんと?」
    「我が家は蛻の殻で、無人だったという知らせが届きました」
    「……無人? それはおかしいですね。奥方様はどこへ行かれたんでしょう」
     馬岱の問いに孔明は答えなかった。 代わりに趙雲が考えを述べた。
    「案外荊州に残った者達から成都入城の話を聞いて、こちらへ向けて出発したのでは?」
    「念のため、その可能性も考えて各関所にらしき人間が通った場合は連絡するよう申し付けてあるのですが」
    「まだ連絡はない?」
     孔明は黙って頷いた。
    「関所の人間も単に見落としているだけかもしれませんよ。女性の脚ならまだ到着まで時間がかかるでしょう」
     そう言う馬岱自身が、自身の主張が頼りないことを知っている表情だ。 仮に家を既に発った後だとしても、それ以降なんの連絡もよこして来ないのはおかしい。 出先で何か不足の事態に巻き込まれたか、あるいは――
    「私は、妻はこちらに来る意志がないのだと思っております」
    「え?」
    「実家の方に帰ったのならば、それで私は良しとします」
     余りにも他人事のように淡々とした口調だった。 何がどうしてそうなったのか。 続ける言葉を探している間に、またも馬岱が先に答えた。
    「ご家庭の事に立ち入って申し訳なく思いますが、何かそう思うだけの予兆がおありに?」
     馬岱は遠回しに不仲かどうか聞いたのだと思われるが、以前より夫妻を知る趙雲は知っている。 孔明とその妻の黄氏の間に、取り立てて不和は無かった。 実際、趙雲は孔明自身の口から妻を慮る言葉を聞いている。 しかし、孔明の返答はその趙雲の心理を大いに裏切った。
    「あります」
    「まさか、なにをおっしゃるか孔明殿」
    「……ですがそれは私達の、というより妻の実家の問題ではありますが」
    「黄氏の? 黄氏というと確か……」
    「はい、かつての荊州太守劉表の後妻、蔡夫人の姪にあたります」
    「と、いうと?」
    「馬岱、私から説明しよう。先の荊州牧の劉表死後、重臣だった蔡瑁、これは蔡夫人の弟にあたるのだが、その者が曹操に降伏して、現在曹軍の高官として働いている」
     蔡瑁の顔は趙雲も知っている。 曹操軍が南下し、民を連れて南に逃げることを決めた日から、会うことはなかったが。
    「ああ、ご実家が今は曹操軍に……」
    「私は元々蔡家からは嫌われていました。自分達と共に劉表に仕えてくれると思って婚姻関係を結んでやったのに、長年仕官せず、蘆を出たと思ったら劉備軍の軍師として働き始めたので」
    「それが今や敵国の軍師ですか。それは難しい事態になったものですね……」
    「妻は隠しておりましたが、再三実家に戻るよう催促されていたようです」
     そんなことになっていたとは知らなかった。 なんとなく孔明が自身の妻に遠慮があるように感じていたのは、そういう理由のせいだったのかもしれない。 新野の頃より、孔明は随分身分不相応な女を妻にしたものだと言うものはいた。 だから趙雲とてその事情を知らないではなかったが、今の年になってまで禍根を残すほどとは夢にも思っていなかった。
    「それで、私が遠く出征している内に、今度こそ実家に戻ったのかもしれません」
    「…………」
     趙雲は否定してやりたかったが、上手く言葉が見つからない。 隣に座る馬岱も、きっと同じ歯がゆさを抱えている。 正直、孔明の知らせを待たずに夫人が家を出たという説より、現実味がある。
    「私はまだしばらく探させようと思いますが、お二方の力を借りるまでもありません。心配して下さったようで申し訳ないですが……」
     孔明はもうこの話を終えようとしている。 そう察知した趙雲は、思わず制止の声を上げた。
    「まだ分かりません。やはり、どこかの路頭に迷われているかもしれない!」
    「子龍殿」
     微かに憐れみと、憔悴のにじむ瞳で孔明は趙雲を見る。
    「なんなら、私が荊州まで行って探しましょう」
    「何をバカなことを。この建国間もなくの安定していない時期に、そんな事をする時間がありますか?」
    「生憎ですが、私は兵の拡充が済むまで特にやる事もありません。その件で孔明殿に話がいくかもしれませんが、私は自由です」
     孔明はいかにもハッとしたような表情を見せた。 趙雲は今日所属が変更になったばかりであることを、思い出したらしい。 少しの間言い淀んで、結局諦めたように言った。
    「……そうだとしても、やめてください。これは私の個人的な問題ですから、貴方に任せるにしのびない。お願いします」
     断るというより懇願するような口調だった。
    「ですが」
    「貴方が良いと言っても、私が構うのです。ですので、この件はここまでということで」
    「…………」
     趙雲はなおも言い返そうかと思ったが、孔明の表情は既に覚悟を決めていた。 なんと言い募ろうと、恐らく折れることはないだろう。 隣の馬岱を見た。 馬岱は趙雲と視線を合わせると、小さく頷いた。
    「分かりました、軍師殿。我々はもうこの件に関わりません。代わりと言ってはなんですが、部屋の片づけを手伝いましょう。貴方が貴方個人の問題に時間と思考を割けるように」
     孔明は窺うように馬岱を見た。 何か他意が無いものか警戒したものと思われる。
    「……ありがとうございます。将軍方の手を借りられるなら千人力です」
     大仰な言葉の割に、歓迎しているとは思えない声色だ。 何故そこまで頑ななのだろうか、と趙雲は純粋に不思議に思った。
     孔明と趙雲、馬岱、そして孔明と共に左将軍府で政治をとることになる劉巴や董和、その息子の董允、他何人かの従者達で片付けは進められた。 孔明の言う通り、趙雲と馬岱の武将が入った事で力仕事は進んだが、門外漢の二人はいまいち何をどう置けばよいか分からず、作業は遅々として進まなかった。 それでも劉巴などは「お二人が来て下さらなかったら、一割も終わらなかった」などという。 あながち世辞でもなさそうだったので、二人は明日以降も手伝おうと決めた。
     そんな片づけのふとした折に、馬岱が例によって音も無くにじり寄り、趙雲に小声で訊いた。
    「趙雲将軍」
    「どうした、竹簡ならまとめて束にしておいてくれと聞いたが」
    「片付けの話じゃありません。将軍は本当にこのまま手を引くおつもりですか?」
    趙雲は、横目に孔明の様子を確認した。 董和となにやら棚の配置で揉めているらしく、暫くはこちらに意識は向かないだろう。 声を落として馬岱に答える。
    「いや、どうしようか悩んでいる。殿にも頼まれた事だから放っておくには忍びないのだが、本人にあそこまで拒まれてはな。ここの片付けもあるし」
    「片付けには西涼兵から幾人か手伝いを寄越します。趙雲将軍はその間に動かれますなら、私がその間左将軍府を護ります」
    「ふむ……じゃあ甘んじて私自ら探しに出ようか。しかし、それも後数日待ってからだ。数日経ってやはり音沙汰がないようなら私が行く」
    「分かりました。そうされて下さいますと、私も安心します」
    「こちらこそ、そうなった時は頼む」
    「お任せ下さい。なんなら馬超を呼んで参りましょう」
    「まさか」
     あの矜持の塊のような男が、この乱雑な部屋の片付けをするのか。 想像するとあまりに似合わなくて苦笑する。
    「冗談ですよ」
     さもありなん。 ちょうど孔明達の会話が一段落したようだったので、趙雲と馬岱は何事も無かったかのように静かに離れた。

     趙雲はそれから2日間左将軍府へは顔を出さなかった。 毎日来ていた男が急に現れず宮中内で姿も見えないとなると、孔明に感づかれるのではという可能性を考えての事だ。 代わりに馬岱が折を見て進捗を伝えに来た。 馬岱も流石に四六時中左将軍府に詰めているわけにはいかず、その間は信頼できる兵を置いているらしかった。 その者らには周りに怪しげな者が出入りしていないかの警戒も、同時に任せている。
    「なんとか形にはなって来た感じはしますよ。なんとかね」
     宮城からほど近い場所に借りている趙雲の屋敷へ、訪ねてきた馬岱が苦笑めいて言う。 衣服はなんだか埃っぽい。 聞くまでもなく、未だに片付けに難航しているのが察せられる。
    「そんな事で政務に入れるのだろうか」
     言いながら趙雲は白湯を含んだ。 馬岱の分も、勿論机上に用意してある。
    「逆ですよ。仕事をしながらだから、なかなか片付かないのです」
    「なるほどな」
     左将軍府で落ち着いて仕事が出来る日はまだまだ先になりそうだ。 孔明はともかく、他の面子は仕事に集中出来るのだろうか。
    「本題ですが、やはり軍師殿の奥方様の行方は依然として知れずという事の様です」
    「そうか……」
     ここまで来ると、仮にこちらへ向かっているのだとしても時間がかかり過ぎている。 道中で何かあったとしか思えない。 もしそうでないのなら……
    「私は一度荊州へ行って、様子を見て来ようかと思う」
    「本当に荊州まで?そんな所まで行かれるおつもりですか」
    「道中見つかればそれで良いが、見つからなかったとしても、何があったのか調べたい」
     窓の外を仰ぎ見た。 陽が傾き、そろそろ夕暮れが近い頃合いだ。 宮城でも、大半の者が帰路に着いているだろう。
    「なるほど。しかし、荊州までとなると日数がかかりますね」
    「そうだな。私の一存の範疇を超える。だから、私は殿に許可を頂いてこようと思う。元々私に話を振ったのは殿だから、許可は頂けるだろう」
     だと良いですが……と言った所で、馬岱がふと思い出したように続けた。
    「ここ数日で、法太守のものとみられる斥候は見つかっていません。」
     法太守とは法正のことに他ならない。 そう言えばそんな話もあったのだった。
    「ふぅん、もう諦めたかな」
     趙雲とて、法正が本気で孔明に害を為そうと思っているとは考えていない。
    「元々そんな本気で調べていたわけではないのかも。見つかれば儲けもの、というよりは……」
    「というよりは?」
    「調べずにはいられない性分なのでしょうね。そうだとすれば、あの人も何儀な人だ」
     そう言って馬岱は苦笑した。 馬岱のよくする、何かを隠したような笑い方だ。 劉備配下の人間で、あまりこういう表情をする者はいない。 孔明とも少し違う、と趙雲は思っている。
    「どういう事だ?」
    「ままの意味ですよ。生まれつきなのか、今迄の苦労がそうさせるのか、常に周りを把握しておかないと不安なんです」
    「そうだとすれば、確かに難儀だな。常に気苦労がありそうだ」
    私には真似できそうにないと言うと、馬岱はどこか痛ましそうに微笑んだ。
    「長生きできると良いですけどね」



     翌朝、朝議が済んだ頃を見計らって、趙雲は劉備を訪ねた。 劉備は珍しく宮城内の私邸に戻り、息子の劉禅を遊ばせている。
     人好きな劉備は、日中も常に誰かと会っている事が多く、あまり早い時間に私邸に戻らない。 劉禅の面倒を見るのも珍しい事だった。 劉禅に愛情をかけることは、長坂で生き別れた他の子供達に対しての自責の念があるからだろうか、というのは趙雲の推測に過ぎない。
    「殿、お寛ぎのところ失礼致します」
    「ああ、子龍だな。どうしたこんな所まで」
    「子龍!」
     趙雲を見つけるや、劉禅が趙雲に駆け寄ってくる。 成都侵攻の前後でバタバタして、趙雲も劉禅に会うのはかなり久々のことだった。 最後に見たときよりも劉禅はずっと大きくなっており、どことなく劉備に似てきた風がある。 それでもまだまだいとけない子供ではあるのだが、この頃の幼子の成長は早い。
    「ご子息様、お久しゅうございます。大きくなられましたね」
     趙雲は劉禅に視線を合わせるように膝を折り、拱手をして挨拶した。 劉禅ははちきれんばかりに破顔する。 その様子を微笑ましく見ていると、劉禅の後ろには彼より幾らか年長に見える少女が立っている。 この年代は女のほうが成長が早いため、もしかすると同い年程度かもしれない。 ともかく趙雲の初めて見る娘である。
    「こちらは?」
     趙雲は横に立つ劉備に尋ねた。
    「益徳んとこの一番上の娘だ」
    「益徳殿の」
    「また赤ん坊が産まれたろう? そっちの育児があろうから、良くこうやってこっちで遊ばせてるんだ」
     そう言えば確かに、張飛はそんな事を言っていた気がする。 産まれたのが趙雲や張飛が出征後の成都を包囲している合間で、その後もバタついてすっかり皆忘れている。 とはいえ、張飛にとっては既に三人目の子供であった。
    「男女七つにして同席せず、なんて言うが私はこういう時は助け合ってナンボだと思う」
    「お優しい心掛けですね」
    「と、言っても私が面倒みているわけじゃないんだけどな、アッハハ」
     劉禅つきの侍従や宮女たちが、一緒に面倒を見ているらしい。 少し離れた所からこちらを見守る者の中には、今は亡き劉備の夫人付きだった女達の顔もあった。 長坂の逃避行を共に越えた者達は、劉備にとってもなかば身内のようなものになっている。
     娘の大きな瞳が趙雲を見つめ、しばし目が合う。
    「お初にお目にかかります。将軍様の事は父よりよく聞かされております」
     張飛の娘が恭しく礼をした。 張飛の子とは思えない、幼いながら聡明さを感じる立ち振る舞いだ。 間違いなく奥方の教育の賜物だろう。 大きな瞳、軽く波打つ御髪。 張飛の妻は昔に見た事があるばかりだが、顔も髪の色も間違いなく母譲りに違いない。
    「それは嬉しい。しかし益徳殿は私をどう言っているのだろう。なんだか怖いな」
    「そうですね、イイ男であると」
     なんだそれは。思わず嘆息する。なんと答えたものか。
    「ロクな事を言わないな、君の父は」
    「しかし父の戯言でなくて、良かったと思ってます」
     そう言うと、少女はニッコリ笑った。 なんとなく性格は、というより度胸のようなものが父譲りかもしれない気がして趙雲は少し怖い。
    「スマンが、二人は向こうで遊んでくれ」
     劉備が子供たち二人に言った。 宮女たちにも目で合図を送る。
    「はい。それでは将軍様、失礼します」
    「分かりました父上。子龍、今度は一緒に遊ばうぞ!」
    「はい、また機会がありましたら」
     二人は連れたって、別室へと消えていった。 仲が良いようで微笑ましい。
    「禅はまだまだ子どもだな。益徳んとこの子の方がしっかりしてる」
     しっかりというより、ちゃっかりな予感はしたが、趙雲は言わずにおいた。 劉備は近くにあった小椅子にどっしりと腰掛ける。
    「さあ話を聞こうか」
     劉備に促され、趙雲は立ったまま本題に入った。
    「はい、実は荊州まで行こうと思うので許可を頂けませんか?」
    「んん、荊州? それはまた急だな。なんでまた?」
    「孔明殿の事で」
    「ああ〜……」
    「殿は内実をご存知だったのですか?」
     趙雲はずっと気になっていた事を尋ねた。 手持ち無沙汰に髭を弄びながら、劉備が答える。
    「いや、ハッキリとは聞いちゃいないよ。ただ家庭のことで障りがあるから暫く動けないような旨を婉曲に伝えてきた」
    「なるほど……」
     それで自分にも曖昧な伝え方だったのか、と趙雲は合点がいった。 勿論、他人が話す事ではないという思慮もあってだろうが。
    「だが家庭といっても孔明んとこは妻が一人だけで子もいないだろ。兄の諸葛瑾の事なら外交問題に発展しうるから、アイツは隠さず言うだろう」
     つまり、言わずとも劉備は大体の事を察していたらしい。 こういう方面の機微は軍師にも勝る劉備だった。 少し逡巡して、劉備は続けた。
    「妻と離縁しそうっていう話かい?」
    「いえ、そうではない……と思います。ただ行方しれずなのです。孔明殿の奥方が」
    「そりゃあもっと大変だ。孔明はもっと慌てるべきじゃないのか」
    「孔明殿はご実家に帰られたように思っているようです」
     劉備は顔を顰める。 趙雲は、孔明から聞かされた話をかいつまんで話した。
    「ふーん、なるほどな。それを確かめに行ってくれるなら、私もぜひ頼みたい所だ。行ってくれるか子龍」
    「勿論です、ありがとうございます!」
    「適当に荊州へのついでの用事を探しとくとするか。そうすればお前も行きやすかろう」
    「重ね重ね、感謝いたします」
     趙雲が頭を下げると、劉備は気まずそうに頭を掻いた。
    「私は結果的にアイツから二人の学友を奪った。更に妻までとなったら今度こそ孔明に顔向けできなくなっちまう」
     趙雲はハッと顔を上げた。 まさか劉備がそんな事を考えたいた事を、趙雲はこの時初めて知った。 劉備は神妙な顔をして、趙雲の目をじっと見つめている。
    「だからな、何としても見つけてきて欲しいと願っている」
    「――分かりました」
     劉備の為にも黄氏を見つけ出さなければ。 せめて、ことの決着をつけたい。 遠くから子どもたちのはしゃぐ声を聞きながら、趙雲は劉備邸を足早に去った。


     趙雲が劉備の私邸を後にし、馬岱へ報告に行こうかという時に、話しかけるものがあった。 引かれるようにして声の元へ顔を向ける。 法正である。 決して人通りの少なくない道の、たまたま喧騒の途切れる場所に、狙い定めたかのようにして現れたので、少なからず趙雲は驚いた。
    「これは趙将軍、ご機嫌麗しゅう。この様な場所で偶然でございますな」
    「法太守、こちらこそ」
     法正の拱手に、返す形で拱手をした。 こんな時に……と思ったが、偶然かどうかは分からない。 尾行がいるとは思わなかったが、警戒もしていなかったのは事実だ。 大通りの喧騒が遠く聞こえる。
    「殿のお屋敷の方から来られましたね? 私邸まで行かれるとは火急の用でもありましたか」
     早速の詮索である。 さしもの趙雲も明け透けに会話、というわけにはいかない。
    「それ程の事でもございません。ご子息様にもご挨拶をと思い、こちらまで赴いたに過ぎませぬ」
     嘘がうまくなったな、と我ながら思った。 知らぬ顔をして、さりげなく法正の表情をうかがう。
    「まことに? 諸葛殿の件ではありますまいか?」
     何故それを――と言いかけて、口を噤む。 法正が鎌をかけているだけかもしれない。
    「さてどうでしょう」
     曖昧な趙雲の返答に、法正の片眉がほんの少し跳ねた。 それから、なんと返すか少し迷った風な様子を挟んで呟く。
    「……私には不思議だ」
    「はて?」
     背の低い法正が、覗き込むような視線で趙雲の表情を観察している。
    「どうして貴方はそこまであの人を庇われる」
    「――なんのことですか」
     平静を装いつつ、息が止まる様な心地が一瞬趙雲を襲った。 悟られない程度に息を吐く。 この者がどこまで知っていて、どこから鎌をかけているだけなのか分からない。 武官の自分が、まるで問答のような真似をしているのがひどく不似合いだ、と思った。
    「いや、ただ純粋にそう思っただけです」
     法正は、事実疑問に思っているようだった。 なにが引っかかっているのか趙雲には分からない。 あまり下手に聞き出そうとすると、藪の蛇をつつくだけな気がして、こちらからは動けない。
     なおも法正は無遠慮に趙雲を観察している。 以前のようなさり気なさを捨てたのは、趙雲が親諸葛亮派だと見做したためなのか。あるいはやはり、純粋に疑問を解明しようとしているためなのか。
    「あなたが分からない」
     再度呟く。 言って聞かせるというより、言葉が漏れたという具合だった。
    「まだ知り合って間もないのですから、無理もないでしょう」
     遠慮のない法正の視線が緩み、趙雲はやっと人心地着いたように言った。
    「……そうでしょうね。私はあなたを見誤っていたのかもしれない。純粋に貴殿を知りたく思う」
     見誤った、と言うのはどういう意味か。 ちらりと引っかかったが趙雲だったが、無難に会話を続ける事に専念した。
    「これから知る機会があるでしょう。ともに同じ主を戴く身なのですから」
    「もっとゆっくり話す場が必要なようですな」
    「それは構いませんが、何度諸葛軍師の事を訊かれても、私には答えようがありませんぞ」
     趙雲の対応に、法正は目を眇めた。 何を考えているか、その表情から趙雲は察することは出来ない。
    「私がどうか致しましたか?」
     突如、法正でも、趙雲でもない声がかかる。 二人は一斉に声の方を向いた。
    「蜀郡太守と将軍殿ともあろう方が供もつれずこの様な場所で立ち話とは、感心しませんね」
    挿絵梨音(あっすぅ)
     孔明だった。いつもの通りの黒の鶴氅衣だが、手にはなにやら荷物を抱えており、どこかへ向かうものと思われた。 自身で言う割に本人も供を連れていなかったが、ここでそれを指摘するのも無粋である。 なにより、法正との会話が切れてありがたかった。
     孔明の向こうでは、ポツリポツリと人が行き交っている。 こちらに注目する者はいないようだ。
    「孔明殿……」
     自然と趙雲は呟いていた。 孔明の視線が、涼やかに趙雲へと注がれる。
    「ご機嫌麗しゅう」
     手が塞がっている孔明は、拱手の代わりに軽く一礼してみせた初めに趙雲に、続いて法正に。
    「なにか私の名前が聞こえたような気がして声を掛けましたが、お邪魔でしたでしょうか」
     孔明にしてはらしくなく、詰問するような強い口調で訊いてくる。 法正は何か言い返そうかと一瞬逡巡する様子を見せたが、やがて呑み込んで、更に一拍置いてから答えた。
    「趙将軍と食事でも、という話をしていただけです」
     多分に言葉を選んだ表現だったが、概ね間違いではない。 法正でも一応作り笑いは出来るらしい。 返す孔明は、ニコリともしていなかった。
    「そうですか。ならば私はやはりお邪魔だった様ですね」
    「いえ、もう話は終わりましたので。私はここで失礼致します」
     法正が拱手をするので、趙雲も慌てて返した。 荷物を抱えた孔明はただそれをじっと見ていた。 法正の消えていく道の先に簡素な車があるのに気が付く。 法正は供回りをつけていないわけではないらしい。
    「会話に水を差してしまったようで、すみませんね」
     法正の姿が完全に消えたあたりで、孔明が口を開いた。 語気は幾らか落ち着いている。
    「いえ、話の切り上げ方に困っていたので、むしろ助かりました」
    「そうですか」
     孔明の視線は、軽く検分する様子で彷徨っている。 柔らかい風が孔明の細い鬢を揺らす。
    「こんな所で偶然ですね。荷物をお持ちしましょう。どちらまで?」
    「こんな所、殿に会いに行く以外に通りますか? 距離もないので結構です」
     それは違いない。 再び強めた語気は、つまり、趙雲は劉備に何用だったのだと問いたいものらしい。
    「ああ、それはそうでしょうな、ええと……」
     孔明の目がジロリと趙雲をねめつける。 無理にはぐらかして逃げる事も出来るが……。
    「私はてっきり、荊州へ向かう許可を貰いに来たのではないかと思いましたが」
    「えっ」
    「左将軍府へ姿を現さなくなって数日、そろそろでは無いかという気がしましたが、杞憂であったようですね」
     ここまで気付かれていては、誤魔化した所で何になる。 趙雲は白状してすべてを話すことに決めた。
    「貴方は人の心でも読めるのですか? 怖いなぁ」
     趙雲がようやく観念したのを見て、孔明もやれやれといった風に息を吐いた。
    「読めていればこんな苦労はしてませんよ……。貴方の事だから、そんな事だろうと思いました。ここで合ったのは偶然ですけどね」
     時間まで読まれていたのなら、それこそ恐怖だ。
    「全く、貴方は……」
     孔明は中途半端に言葉を切って、背後を見た。 特に何事もなく、ちらほらと人が歩いている光景が見える。
    「……場所を変えて話をしたいのですが」
    「え?」
    「嫌とは言わせませんよ。ここで逃したら貴方は荊州へ向かうでしょう」
     逃げるとは言葉の悪い。 しかしバツの悪い趙雲に反論の権利などなかった。
    「構いません……が、殿の元へ向かう所だったのでは?」
    「とりあえずの税収支の概算を出してみたので持っていこうと思っていただけです。急ぎではありませんので」
     はあそうですか、と言いながら趙雲は孔明から荷物を奪った。 布に包まれた竹簡だろうか、意外に重い。 お世辞にも裕福とは言えない劉備軍なので、紙ではなく竹簡を何度も削って使い回ししている。
    「道中持ちます」
     趙雲の言葉を聞いて、孔明はなんとも表し難い顔をした。 ほんの少しだが優位を取り戻したようで、してやったりと趙雲は思った。



     孔明が趙雲を誘って辿り着いたのは、街中の飯屋だった。 劉備の私邸からさほど遠くない。 下卑たとは言わないまでも、あくまで庶民的な店じまいが、孔明とはなんとなく釣り合わない。 孔明が何やら店員と話すと、路面に開かれた座席ではなく、御簾を隔てた店の奥に案内された。 中には個室が幾つか用意されているらしいが、それぞれの入り口は離され独立している。 御簾の中へ一歩はいると、それだけで表の喧騒がぐっと遠くなった。
     店員は個室の一つへと二人を通した。 床には一面に筵が引いてあり、靴を脱いで上がる部屋のようだ。 趙雲と孔明が部屋に上がると、店員は御簾の向こうへ消えていった。 注文はどうするのだろうと思えば、呼び出し用の紐が天井から下がっているのが見えた。
    「コレを引くと表の鐘が鳴るんです」
     趙雲が紐を観察しているのに気付いたのか、孔明が紐を指で示しながら説明をした。
    「なるほど、よく出来ている」
     孔明が奥座に座るのを見て、趙雲も机を挟んで向かいにある座へ腰を下ろした。 部屋は三方を壁に囲まれ、内一面の外に面する壁の天井近くに明かり取りと換気の為であろう格子窓があるばかりで、薄暗い。 今は灯されていないが、部屋の隅や机上に燭台が置いてある。 日暮れにはこれを使わないと、恐らく手元も見えない薄暗さになるだろう。 残る一面は入り口に使う部分のみ空いていて、部屋へ入った後で孔明が御簾を下ろした為に、部屋はほぼ密室だった。 この様な部屋があるようには、表からあまり見えない。
    「ここへは良く来るのですか?」
     机の端には竹簡が巻かれて置いてある。恐らく料理の品書きであろうが、孔明は見向きもしていなかった。
    「いいえ、初めて来ました」
    「本当に? その割には勝手知ったる様でしたが」
    「以前に費禕に聞いて覚えていました。店の間取り等も全て費禕から聞いていたので、大体は」
     人に一度聴いた程度で、とは思ったがこの男の記憶力の凄さを常人の通りに測るのは良くない。 それ以前に、趙雲には気になる点があった。
    「ひい?」
    「ああ……、すみません。左将軍府に偶に顔を見せる子です。元から益州に住んでる子で、この様なあまり人に知られないような事も良く知っていて、面白い子ですよ。頭も良い」
    「……左将軍府はいつから子供が出入りする場所に?」
     少なくとも、趙雲が左将軍府に行った日にはそんな姿は見えなかった。
    「董允の友達なので、董允と一緒に片付けを手伝ってくれています」
    「董允というと、董和殿のご子息の」
    「勤勉な子で、父君の仕事の手伝いをしたいと。費禕の方は付き合わされてる形ですね」
     董和とは、孔明と共に左将軍府で働いている男の名だと、流石に趙雲も知っている。その息子が父親の手伝いの為に顔を出しているのは趙雲も見ていた。
    「そうですね、貴方は一日しか来られてないから存じ上げないのでしたね」
     嫌味なのか本心なのか、趙雲には判断しかねた。しかし良く良く考えてみれば、入蜀してこの方慌ただしい毎日を送っている孔明が、城下の飯屋に来る暇などある筈が無い。 それにしても子供のくせにこんな場所を知っている費禕という少年は一体何者なのだろう。 あまり素行の良い子供とは言えなさそうだと思った。
    「さて、本題に入りましょうか」
     孔明の声が一段下がり、趙雲も自ずと居住まいを正した。
    「殿にはなんと申し上げたのですか」
     孔明は机上で手を組んだ姿勢で詰問を始めた。 荷物を持っていた為か、今日はその白い手に羽扇は握られていない。
    「荊州に行きたいから許可を頂きたいと……」
    「その理由としては」
    「貴方の事を話しました。勝手な振る舞いは申し訳ないと思いますが、元々私は殿から言われて貴方に会いに行ったわけですし」
    「……そう言われればそうでしたね」
     孔明は軽く息を吐いた。 この時間、趙雲達以外に個室の客はいないようで、立ち込めるような静寂の中では息遣いでさえ良く響いた。 表の遠い喧騒が、尚更静寂を濃くしている。
    「私が言うまいと、殿は大雑把には把握されてるようでした」
    「……そうですか。殿には隠し事は出来ませんね。そして、殿はなんと」
    「是非行って欲しいと」
    「…………」
     孔明から学友達を奪った事を劉備が気に病んでいるとまでは、流石に言わずに置いた。 孔明が明後日の方向を見る。 視線の先には格子窓があり、光に照らされて埃がきらめいている。
    「殿には、私から話しておきます」
    「それは」
    「言ったはずです。何もしないで下さいと」
     孔明の視線が再び趙雲へと戻る。 責めるような、懇願するような瞳に趙雲は一瞬気圧されたが、ここで引いてはならない。
    「正直に謝ります。しかし、私は私の意志で動いているに過ぎません」
    「なんですかそれは」
    「私がやりたいからしている。別に貴方に迷惑をかける訳ではないから、貴方に責められる言われもないはずだ」
    「迷惑です、とハッキリ伝えた方が良かったですか?」
    「その迷惑とは、申し訳ないとか、バツが悪いとか、そういうたぐいの話であって、何か本当に困るわけではないでしょう」
     夫人が見つかるのは、孔明にとって吉報でありこそすれ、困る事でないはずだ。
    「…………」
    「完全に私がやりたくてやってるに過ぎない。貴方は別に気にする必要はないんだ」
     孔明はあからさまに言葉を探している。 軍議中でもこの様な孔明を拝める機会はそう無いだろう。
    「……厚顔を承知で言いますが、貴方は、その……私に好意があるからそんな事をするのですか?」
    「ん?」
    「……私の気を惹こうというつもりなら、辞めてほしいのですが」
     思わぬ話の方向で、趙雲もなんとなく視線を反らした。
    「それ違う。いや、違わないが、別に私は点数を稼ごうとしてそんな事をしてはいません」
     孔明は胡乱な様子で、眇めた目で趙雲を見ている。
    「もっと単純に、貴方が困っているのを見たくないとか、負担を除いてやりたいとか、そういう事です」
    「…………」
    「貴方が哀しんでいるのを見たくないのです。報われたいと思ってはいませんが、否定だけはされたくない」
     孔明は黙っている。
    「それだけはお許し頂けまいか」
     これは、趙雲の本心だった。 河岸で孔明に拒絶されたあの日から、趙雲は報われたいとは思わなくなった。 思えなくなった、という方が正しいかもしれない。 その前からどうにか気持ちを成就させたいと切実に思っていたわけではなかったが、あの日自分の想いは孔明に受け入れられるどころか、むしろ彼を追い詰めるものだと知った。 あの日の夜、軽率な己を呪って趙雲は一晩眠れなかった。 尚香が呉に帰り、心がざわついていたせいもあろう。
     その後益州攻略を経て、思いもがけず孔明が自分へ歩み寄る姿勢を見せた。 彼なりに自分との関係を修復しようとしてくれているらしい。 そう気づき、不甲斐なさがたまらなかったが、ただ拒絶されるばかりではなかった事で生きた心地がしたのもまた事実であった。
     孔明は、自分に好意を抱いているらしい男を許容する事にしたようだ。 それで良い、己が報われる必要はない。 ただ孔明が健やかであるよう努める、それがそれからの趙雲の指針になった。 好意を既に知られてしまっていたのも、そうなってしまうとむしろ気が軽くさせた。
     また新たな形で自分と孔明は関係を築いていける。 この関係は終生平行線を辿るだろうが、それで構わない。 構わない……と思っていたが、ここに来て孔明が再び拒絶を見せ始めた。 答えて欲しいとは望まないから、せめて否定だけはしないで欲しい。 もしここで拒絶されれば、二度と関係を、少なくともこの様に二人きりで話すような間柄にはなれないだろうという絶望が、ひしひしと趙雲の背中に忍び寄った。
    「…………」
     孔明は相変わらず黙っている。 孔明も趙雲も目を伏せ、机をじっと見た。 気まずい沈黙をなんとか破りたいが、下手な事をいって取り返しのつかない事態になることだけは避けたい。 表から微かに聞こえる雑踏が妙に場違いだった。
    「私は、」
     孔明がようやく声を発するまでの時間は、実際には数十秒であったろう。 趙雲にはひどく長い、まるで永遠な時間にさえ感じられた。 孔明の声は妙に震えている。
    「……私も、貴方の事が好きです」
    「…………え、?」
     顔をあげると、孔明は泣き出しそうな顔をしていた。
    「貴方と同じ意味の好き、だと思います」
    「……………………」
     なんだって?死刑宣告を待っていたはずだが、返ってきたのは予想外の、むしろまるで正反対と言って良い言葉だった。 都合が良すぎて夢を見ている……とは流石に思わなかったが、何か隠された意味があるのだろうかの悶々として言葉も発せない内に、孔明は更に続けた。
    「貴方に好意を告げられたあの日も、あの日より前から、本当は貴方の事が好きでした」
     隠された意味があるわけでも、趙雲が意味を履き違えているわけでもなさそうだ。 しかし、ならば、尚更、趙雲には上手く飲み込めない。
    「……いや、そんな、だってあの日貴方は、」
    「酷い事を言って、申し訳ないとは思います。ですが、あの時の私にはあれが精一杯でした」
     伏せた孔明の瞳が揺れている。
    「今も本当は、言うべきではなかったかと、今まさに悩んでいるところです」
    「ならば、なぜ」
     何故今になって。 怒っているわけではないが、自然と強い口調になった。 孔明の顔は尚も伏せられたままだ。 まるで詰問しているようだ……と趙雲は思った。 孔明を追い詰める事は趙雲の本意ではない。
     いつの間にか浮いていた腰を落とし、趙雲は長く息を吐いた。
    「……すいません、問答のように答えを求める事では無いですよね」
     趙雲は努めて落ち着いた口調で言った。 微かに上を向いた孔明の眼に視点を合わせ、その奥の真意を計るようにじっと見つめる。 孔明は少し驚いたような顔をした。
    「……貴方という御人は」
    「なんです?」
    「何故そんなに優しくできるのだろうと、つくづく思います。貴方には私を問い質す権利がある」
    「貴方には喜びだけを与えたいんだと、告げたと思いますが」
     今度は孔明が、何かを探るように趙雲を見つめた。 孔明と、これほど熱心に見つめ合った事は嘗てなかったかもしれない。 喧騒から離れた密室。 条件は充分である筈なのに、まるで色っぽい雰囲気にならないのは、却って我々らしいかもしれないなと趙雲は思った。 一応、互いに想い合っている仲ではあるらしいのだが。
    「……貴方はいつも私に優しくして下さるのに、私は怖れてばかりでした」
     孔明は視線を外さないまま話し始めた。
    「怖れ?」
    「何故、と貴方は問いました。答えましょう。私は……怖かった、否、怖いのです」
     孔明の瞳が揺らぐ。 怖れというのは比喩や誇張ではないらしかった。
    「私が怖ろしいのですか」
    「それは正しくて、間違いでもあります。私は……」
     そこで初めて孔明は視線を外した。 にわかに机上に組んだ己の手に視点を落とす。
    「この未知なる感情も、それを起こさせる貴方も、この感情を抱いてしまう己の罪深さも、この想いがどこに行き着くのかも……全てが怖くてたまりません」
     組まれた孔明の白い手が微かに震えている様に見えた。 思い返せば、江岸で趙雲を拒絶したあの日、孔明の姿は怯える子どものようではなかったか。 孔明はこれほど思い詰めていたのに、あの日一時の感情に流されて却って怯えさせてしまった。 趙雲は己の行動を悔いたが、後の祭りとはこの事だ。 せめて震えを止められないかと、そっと組まれた孔明の両手の上に右手を重ねた。
    「ならば、何故今言おうと思ったのですか。今も、怖ろしいななら……」
     出来る限り優しく声に出した。 孔明は、重ねられた趙雲の手を一瞥し、それから視線を上げて趙雲の眼を見た。
    「思えば、……私は恋なんてものを知らなかったし、貴方に対する身を切られるような感情を、妻に抱いたこともありませんでした」
     孔明の確信に触れる話をしている、と思った。 ほんの少しだけ、重ねた右手に力を込めた。
    「それでも、私にとって妻が大切な存在であることに変わりはありません。尊重して、守っていきたい、家族なのです」
     趙雲は息を呑んだ。 妻もおらず、若かりし頃に故郷に親兄弟を置いてきた趙雲と違って、孔明には家族がいるのだ。 それは、趙雲が理解し考慮すべき点だとはわかっていた。
    「だから、貴方には私の妻……家族には踏み込まないで欲しい。身勝手なのは承知していますが、どちらの世界もそれぞれ、私には……」
     重ねていた右手を外すと、孔明は縋るような顔で趙雲の右手を目で追った。 そんな表情をさせられる程度には求められていると思えば、どんな事も受け入れられそうだと感じる。
    「身勝手などではありません」
     趙雲は、孔明が自身の妻を尊重して大切にしたいと思っている事は知っていたし、そんな孔明だからこそ惹かれたのだ。 そんな孔明の柔らかくて繊細な部分を趙雲が侵す権利などない。
    「孔明殿、承知致しました。……お望みの通り、私は奥方の捜索から手を引きます」
     胸の前で拱手をし、一礼をして続ける。
    「しかし、殿に捜索をすると言った手前、何もしないわけにもいきません。私の代わりに馬岱を行かせるのはどうですか」
     孔明は、明らかに安堵した様子を滲ませた。
    「私も貴方に動かれたくないばかりに意固地になっていた気がします。お願いしましょう、馬岱殿が承諾すればですが」
    「それはそうだ」
     苦笑する。 馬岱の意思を確認せねば始まらない。
    「……なにか頼みますか。何も頼まずに出て行くのも申し訳ないですからね」
     孔明はようやく机の隅に追いやられていた品書きを手に取った。
    「そうですね……では、なにか湯でも」
     腹は空いていない。 急な事の連続で胸がいっぱいなせいかもしれなかった。
      品書きを読む孔明の様子を観察していると、視線に気付いたらしい孔明がこちらを見て、フッと微笑む。 今迄に無いことで、趙雲は正直面食らった。 見たことのない笑い方だった。
      孔明は再び視線を下に落とすと、言葉を紡ぎ始める。
    「繰り返しになりますが、私はまだ……怖いというのが本音です。どう、するのが正解なのでしょうね……」
     自分達の関係について言っているのであろう事はすぐに分かった。実際、趙雲もどうするのが正解なのかなど分からない。 男同士で、身分的な事を言えば上下関係にある。 市井の男女のように祝福される関係では無いだけは、考えるまでもなく分かった。
    「とりあえずは、何もしなくて良いのではないでしょうか。お互い恋の炎に身を焦がす様な年齢でもありますまい」
     趙雲の答えに孔明は少し眉根を開いて驚いたが、すぐに穏やかな微笑みに変わった。
    「そうですね……」
     肩の荷が降りたかのように、孔明は微笑う。 今はこれで充分だ。 料理の品目を読み連ねる孔明の細い声を、満たされた気持ちで聞いている。
     正直に言えば上背ばかりで痩せたこの男を、抱けるものなら抱いてしまいたいと思っていた。 少なくとも、無垢で純粋な気持ちばかりでこの男を想っているわけではない。 孔明は自分の感情を「貴方と同じ」といったが、果たしてどうだろう。 そもそもそちらの気が薄そうな、というより最早似合わないような男だ。 実際、細君との間に子はいない。
     それに、孔明はこの感情や関係を怖いという。 その気持ちが分からないでもない趙雲だったので、無理にこの関係を進めようとは思わなかった。
     この気高い男が自分にしか見せない表情がある。 自分の好意を受け入れられている。 それ以上に大事なことなどあるだろうか。 そう穏やかに思える程度には、趙雲は歳を重ねていた。


     飯店を出ても陽はまだ明るい。 趙雲と孔明は徒歩で官庁に戻る事にした。 とりあえず左将軍府に戻るかという道すがら、馬岱が慌ただしく駆けてくる。
    「軍師殿っ! 随分長くかかりましたな……おや趙将軍……?」
     息を荒げた馬岱が、怪訝な様子で趙雲を睨めつける。 馬岱が気を引いてるうちに趙雲が黄氏を捜索するという手筈だったので、馬岱が訝るのは無理もない。
    「色々あってな。ともかく、慌ててどうした?」
    「ああ、はい。そうなんです、軍師殿の奥方がお見えになられましたよ!」
    「えっ!?」
    「なにっ!?」
    「大変お疲れの様子ですので、左将軍府でお待ち頂いております」
    「そう、ですか……」
     孔明はちらりと趙雲を見やり、二人は刹那視線を交わした。
    「早くお会いになられたほうが」
    「分かりました、では……」
    「馬岱、我等は遠慮しよう。夫婦水入らずでお話されたいだろうから」
     え、と声にこそ出さなかったが、馬岱は驚いた様子で趙雲を、そして続けて孔明を観察した。 この妙に察しの良い男はそこで何かを察したのか、趙雲の言に従った。
    「分かりました。では趙将軍……我々は殿に報告に行きましょうか」
    「そうだな」
     途中飯店を経由したものの、劉備の屋敷から来たことを思うと、蜻蛉返りの形になるが仕方が無い。
    「それでは孔明殿、ごゆるりと……」
     孔明は趙雲の言葉にすぐには答えず、じっと趙雲の顔を見つめていた。
    「……分かりました。それでは失礼します」
     何か言いたげな間だけを残して、黒衣を翻し孔明は左将軍府へ向かった。
     孔明が去ったのを確認して、馬岱に向き直って会話を再開する。
    「奥方はどの様に現れたのだ?」
    「普通に正面からです。とはいえ成都城に入るまでは身を隠しながらの旅路であったようですが」
    「そうなのか」
     見つからなかったのは、やはり故意に人目を避けていたからなのか。 何かに巻き込まれたわけでは無かったのが何よりである。
    「お疲れでしたが怪我も無い様子でしたので、心配はなさそうです」
    「そうか……、それは良かった」
    「ところで将軍」
    「なんだ?」
    「なにかございましたか?」
     早速きた。 この男を誤魔化しきれるとは思ってはいなかったが。
    「まあ、そうだな。何かと心配してくれたお前くらいには良いだろうか」
     趙雲の言葉を聞いて、馬岱はニッコリと笑った。
    「口は固い方ですよ」
    「知っている。まあなんだ、想いが通じ合ったというか」
     馬岱の光を吸収するような黒い瞳が、瞬かれる。
    「この朝の内に一体何が……と、聞くのも野暮でしょうね」
     趙雲はそれには答えず、苦笑して見せた。
    「まあ分かってはいましたが、それにしても早い。私が役立つ暇もなかったとは弱りましたね」
    「ほう、分かっていた?」
    「私は軍師殿も将軍を想われていると信じてましたよ。出なければああも簡単に仲を応援するなんて言いません」
    「何故、そう思った?」
    「まあ、小さな『もしかして?』は幾つかありましたよ。でも、確信的な要因があったわけではありません。でも、私はそうだと信じてました」
     人の良い顔で馬岱は微笑む。 もしかすると馬岱は気を遣ってそう言っているだけかもしれないが、それこそ明らかにするのは野暮だ。 孔明と気持ちを確認しあえ、黄氏も無事だったのだ。 全てが良い方向に向かっている。 この高揚感をわざわざ濁す必要を趙雲は感じなかった。



     未だ乱雑とした左将軍府の室内の真ん中に置かれた小さな椅子に、黄氏は腰掛けていた。 旅装束は綻び汚れが目立つがただそれだけで、傷もなく特に乱れもない。 表情に疲労は見て取れたが、顔色は悪くない。 とりたてて、身体を心配する必要がなさそうで孔明はほっと胸を撫で下ろした。
     黄氏のそば少し後ろに、中年女が一人立っている。 孔明はその女を知っている。 黄家に使える女召人で、黄氏が孔明に嫁入りするまでは黄氏専属だった。 嫁入り後もついてきたがったが、召人を雇うほどの余裕が無かったために断ったのだ。 その後は本家で働いたが、何かにつけ黄氏に会いに来ていたから、孔明にとっても顔見知りだった。
     ここに居るという事は黄氏が荊州を離れるにあたってついてきたという事だろうか。 女も黄氏同様に、草臥れた旅装束に身をやつしていたが、特に怪我をしているような様子もない。
    「旦那様……」
     黄氏は部屋に入って来た孔明の姿を認めると、フラリと立ち上がった。 孔明は早足に妻の元へと駆け寄った。 思ったより血色が良い。
    「無事で何より。心配しましたよ」
    黄氏は女性にしては随分背が高かったが、それでも孔明と並ぶと頭半分程は小さい。 黄氏は上目で孔明の顔を見つめて、頭を下げた。
    「ごめんなさい、誰にも知られずに出るには連絡を送る事が出来ませんでした」
     しっかりと、そしてどことなく早口に黄氏は言う。言葉尻には疲労が垣間見えた。
    「……というと」
    「本家の方には黙って家を出ました。その後もずっと、見つからない様に遠回りを」
    「……それで、女性二人でここまで来たんですか。無事だったから良かったものを、随分と危ない真似をしたものだ」
     孔明は黄氏と、後ろに立つ女侍従を見て答えた。 左将軍府は多少は片付けが進んでいたので、少し距離をとって立つ事が出来る。
    「孔明様のお陰で路銀には困りませんでした。なので馬車を借り船を借り、余裕を持って進む事が出来たので、心配されるほど危ない旅ではありませんでしたよ」
     そうは言っても、と続けるには煤汚れた顔に光る目の力が強かった。 こんな目をする女性だっただろうかと孔明は一瞬怯む。
    「……後悔は、していませんか? 私は貴方が故郷と実家を捨てるほど、良き夫ではないように思いますが」
     黄氏は束の間逡巡してみせたが、あくまでその表情に翳りはなかった。 変わらず目には強い光が灯っている。 己が瞳の奥を見透かそうとしているのではと、孔明はそれとなく視線を外した。
    「孔明様、誰がなんと言おうと私の生きる場所はあなたのそばです」
    「…………」
    「皆私に淑女たれと求めましたが、貴方はそうではなかった。私は貴方のそばに生きる意味を見出しました」
     黄氏は立派に淑女であった。 ただ、黄氏は女だてらに勉強家で、更には発明を好むなど、良家の子女としては風変わりな一面もあった。 確かに、孔明はそれを制したことはない。 むしろそれを面白いと思い、同時に尊敬もした。
     それは、孔明自身若い頃に変わり者だと散々言われ続けたせいがあったかも知れない。 孔明が考えていた以上に、生き方を制限されて来た黄氏にとって、それは大きな事だったようだ。 孔明が黙っていると、ほんの少し苦笑を滲ませて黄氏が続けた。
    「それとも、孔明様は私が来ない方が良かったですか?」
    「まさか、そんな事は」
     孔明はとっさに頭を振った。 その答えに嘘偽りはない。
    「孔明様が嫌ではない限り、お傍に居させて下さい。出来うる限り良い伴侶であるよう努めてみせます」
     凛とした口調で言ってのける。 故郷と実家に別れを告げ、女だけの逃避行を経て、黄氏は同時に何かを捨ててきたようだ。 吹っ切れたと言う方が言葉が良いかもしれない。
     元々聡明で自立した意思のある女史ではあったが、それでも良家の子女らしく、夫をたて一歩引いた態度を取り続けていた。 彼女がそれを妻たらんとしていた為なのか、またはそう生きる事を求められ続けた結果なのか。
     黄氏は孔明のそばこそが生きる場所だと言ったが、今の彼女は最早孔明などおらずとも一人で強く生きていけそうな気概すら感じる。 元々、己が彼女にとって良き夫であるとは、孔明は思っていない。
    「まるで同志か戦友かと言う様な物言いだ」
     なんだかおかしくて、孔明はほんの少し笑った。反応するように、黄氏も微笑む。
    「我々は同志でございましょう」
     ハッとして、孔明は目の前の妻を見た。
    「……貴女は……」
    「私は貴方の力になりたいと思い、貴方を尊敬しております。厚顔ながら、貴方からも敬意を感じております。私達は良き夫婦関係を築けるだけの同志だと思うのは、私だけでしょうか」
    「…………」
     なんと答えたものか。 互いを尊敬して支え合おうと言うのは、まさしく良き伴侶として必要な事だろう。 間違いなく、孔明と黄氏は滞りなく今後もやっていけると思われた。
     しかしそこで、夫婦とは何かと考えさせられる。 妻ではない、それも自分と性を同じくする男に心の重要な部分を明け渡しておいて、こんな事を考えるのは狡いという自覚はあった。
     目の前の妻は、黄氏は、どういうつもりで言っているのか。 少なくとも孔明は、この聡明な女性が何も知らずにこんな事を言っている様には思えなかった。
    「私に、あなたの良き夫たる資格はありますかね」
     誤魔化すような発言しかできない。 妻の真意を探ろうと思った。 出来れば――このひとを傷付けたくはない。
    「妻を尊重し尊敬して下さる事以上に、何かを望めば罰が当たりますわ。しかもあなたを通して私は自分の力を世に活かせるかもしれない。女に産まれた以上、これほどの待遇がありますか」
    「……呉へ帰られた呉妹君は、殿を愛せた事が何より幸福なことだとおっしゃっていた」
    「そうでございますか。仲睦まじいご夫婦であらせられましたから……」
    「貴女にとっての、幸せとはなんだろうか」
     あくまで相手に言わせようとするのが卑怯だとは思ったが、返答によっては今後の生き方をもう一度考え直そうと思った。 だが……。
    「孔明様ともあろう御方が、女の幸せは男に愛される事にあるとでも思っていらっしゃるのですか?」
    「…………」
    「恋が人を幸せにする事は否定しませんが、それならば大恋愛に恵まれなかった人間は全て不幸なのですか?」
    「それは……、違うと思います」
    「私は幸せです。果報に過ぎるとすら思います。しかし私は強欲でございますので、貴方を支える事で自らの能力を世に活かしたいとも思っています。貴方がお許しくださるのなら」
    「それは勿論、願ってもないことです」
    「私は、幼き頃からこの乱世で何かを成したいと思っていました。しかし、年を取ってからは、女の身では難しいと悟りました。しかし幸運にも、私は支えになれるだけの立場にあります。それが、私の求めた幸福の道だと確信しております」
    「…………」
     確かに孔明は、この女性を聡明で立派だと思っていながら、やれ妻や女だという枠に当てはめていたのかもしれない。
     かつて尚香は、愛すべき人を愛せることが幸福だと言った。 だからと言って、それ以外の人間が不幸なのかと言えば、そうも言っていない。 それならばまた別の幸福を探せば良いのだ。
     孔明は少なからず愛とやらを見つけたので、そういう意味では幸運だった。 そうではなかった黄氏にも、別の形で幸福がある。彼女はそれを追えるだけの聡明さがあり、そしてこの旅をへて、覚悟も身につけたようだった。
    「誤解致しませぬよう申し上げますが、私は孔明様を愛しております。共に年を取り、支えたいと思うほどには、あなたを愛してます」
    「そうですね……。私も、あなたを愛している」
     妻と夫は、目を見つめてほほえみあった。
     そうだ、愛の形にも様々ある。 孔明にとって、黄氏は昔に別れた兄よりも、ずっと大切で慈しみたい家族だった。それはきっと、今後いくら年を重ねても変わらないだろう。
    「あとそれと、女の幸せというのも確かにあるのです。こんな私にも」
     黄氏は、ニコリと意味有りげに笑みを濃くした。
    「女の幸せ?」
    「ええ。貴方様の優秀な血を残すことは、この国にとっても価値のあることです」
    「…………」
     かつて黄氏がこれほど積極的に子を欲しがった事があっただろうか。 やはりこの旅を経て、黄氏は一皮もふた皮も剥けたのかもしれない。
    「……善処致します」
     声が細くなる。 自分はこんなに顔を赤くしているのに、黄氏は嬉しそうに笑っているので、この先自分はもしかしたら尻に敷かれてしまうのではと、少しだけ孔明は心配になった。
    「これからもよろしくお願いします、旦那様」
     黄氏は、折り目正しく頭を下げた。 薄汚れた恰好をしていても、やはり生まれの良さが滲み出ている。 黄氏は顔こそ美しくはなかったが、溢れでるような知性と気品を、孔明はとても美しいと思っていた。 黄氏が自分と趙雲との事に気付いているとは思わなかったが、それでもこの尊敬しうる女性を蔑ろにする真似だけは絶対にしまいと孔明は己に誓った。


    梨音(あっすぅ) Link Message Mute
    2021/01/03 22:33:40

    新しき日々

    サイトよりサルベージ。適宜修正済み。挿絵有。
    過去1長い話です。黄夫人の存在も好きなので大切にしたい。

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    • 2後日談(干天の慈雨)最近描けてなかったな~と思ったので小説の後日談を少し描いてみる。
      小説の続き書きたいとはずっと思ってるけど、普通に難しくて…時系列的には定軍山の戦いなんですけど、孔明多分お留守番だから…書きようが無いんだ…。
      梨音(あっすぅ)
    • 司馬懿って趣味あるのかな曹丕が物凄く美食や詩歌管弦を愛する趣味人なのに対して司馬懿って全然趣味とか無さそうだよな…と思ったので梨音(あっすぅ)
    • 干天の慈雨成都の外から始まるお話です梨音(あっすぅ)
    • 2こたつこたつは生産性下がるので我が家でも廃止しています梨音(あっすぅ)
    • 5レキソウお疲れ様でした~。表紙の不採用デザイン案もこの際なので載せます。梨音(あっすぅ)
    • 5【サンプル】「頓首再拝」2021/2/13 レキソウオンライン冬祭(ピクトスクエア内開催オンラインイベント)で頒布予定です

      「頓首再拝」
      全28P(表紙含)/A5/400円
      全年齢/オンデマンド印刷
      サークル名:あうりおん

      レキソウオンライン冬まつりで頒布します
      孔明と陸遜が文通する漫画です
      あんまり三国志してない平和なお話です
      CP要素なし
      一番最後のがサークルカットなのでよろしくお願いします
      梨音(あっすぅ)
    • 夏天の成都夏の成都の暑さに辟易する人々。
      手を変え品を変え成都の暑さにへばる劉備軍を描いてるので性癖なんだと思います。
      ラストに挿絵有。
      梨音(あっすぅ)
    • あけましておめでとうございます~。今年もよろしくお願いします。梨音(あっすぅ)
    • 天府の地へサイトよりサルベージ。適宜修正済み。挿絵有。
      馬超と馬岱の服装は羌族の民族衣装を参考にしてます。
      梨音(あっすぅ)
    • 3馬岱詰め以前RaiotというイラストSNSにアップしてた漫画のデータが残ってたので、改めて描き直しました。
      アップしようとしてただけかもしれない…。
      梨音(あっすぅ)
    • 別離の岸辺サイトよりサルベージ。適宜修正済み。挿絵有。
      短いですが転換点的なお話。
      梨音(あっすぅ)
    • 某月某日サイトよりサルベージ。適宜修正済み。挿絵有。
      一度やってみたかった作中作と言うべきか?作中人物の書く文章だけで進むお話が書けて楽しかったもの。
      自分的にはお気に入りの章。
      馬良と趙雲が仲良くしてるのをもっと書きたかったけど、馬良はもう趙雲と会うことはない…
      梨音(あっすぅ)
    • 陸遜の結婚陸遜と朱然のCPってなんて表記するの??(これはCPなのか?)

      陸遜の奥さんが孫策の娘だったという事は陸抗の母が孫策の娘という記述から分かるのですが、孫策の娘だと陸遜と年が結構離れてる…?
      呉主の姪にあたる女性を二番目以降の奥さんにするかな~と考えると、初婚の正室…?逆にそうなると陸遜結婚おそかったのか…?
      とまで想像して、若い頃山越討伐に忙しすぎて独身長かった陸遜良いなぁ~とか思いました。
      一人目の奥さんが子どもできなくて離縁…とかも良くある話なので、そんなんでも全然ありそうですけどね。
      夭逝した陸抗の兄は最初の奥さんが産んだ可能性もある。

      陸抗の母が孫策の娘というだけで大喬の娘か分からないけど、孫策は孫策で若くして亡くなったので、他に子供を産むような奥さんが居たのかな~と思ったので大喬であってほしい。
      しかし改めて考えて孫家に対して思う所もあったであろう陸家の陸遜が孫家のご令嬢と結婚したっていうのはエモいですよね。
      梨音(あっすぅ)
    • BOOTHに「軍師殿と私」の紙版を追加しました。安くない金額出して買うまでの事はないと思いますが、もし興味ある方がいらっしゃいましたらよろしくお願いします。

      https://gesusu.booth.pm/items/2589683
      梨音(あっすぅ)
    • 陽光煌々たりサイトよりサルベージ。適宜修正済み。挿絵有。
      オリキャラがそこそこでばります。
      私の脳内の龐徳公を上手く表現できませんでした。
      梨音(あっすぅ)
    • 4他勢力の人達(現パロ)原稿の息抜きに丁度良いんです…
      なんだか人のパーソナリティをネタにした漫画が多くて良くないなぁ…と思ったのですが、載せます
      関羽と張飛が現代人やってる姿が全然想像できなくて登場させられない
      曹丕はキラキラOLだとフォロワーに思われている
      梨音(あっすぅ)
    • 繰り返し見る夢サイトよりサルベージ。適宜修正済み。
      記憶からは失われていますが、タイトルお題をもとに書いたようです。
      一部孔明の一人称で進む部分があるなど、本編とは外れた番外編の様な扱いです。
      本編中で孔明が度々言っている「悪夢」の内容が主にコレです。
      梨音(あっすぅ)
    • 居場所サイトよりサルベージ。適宜修正済み。挿絵有。
      アンジャッシュ的な奴好きなんだろな過去の自分。
      梨音(あっすぅ)
    • 4性懲りもなく現パロ原稿の息抜きに描いてるつもりが楽しくて増えた奴。
      前髪と髭は偉大だなぁと思いました。
      梨音(あっすぅ)
    • 渇愛サイトよりサルベージ。適宜修正済み。挿絵有。
      サイト掲載時ずっと「喝愛」と誤字ってたんですが、「渇愛」が正しいです。
      初の孔明視点。
      梨音(あっすぅ)
    • 江南の姫君サイトよりサルベージ。適宜修正済み。挿絵有。
      この章については趙孔というより劉尚です。
      梨音(あっすぅ)
    • 2お香にまつわる四コマ以前もお香ネタのこの様な漫画描いた気もします…。孔明のイメージフレグランスはパチュリーだという事は延々と言っていきます。梨音(あっすぅ)
    • 聞こゆれどサイトよりサルベージ。サイト版より適宜修正済み。挿絵有。
      「聞く」というのは耳で聞くのと、香りを味わうのと両方いうそうです。
      梨音(あっすぅ)
    • 4現パロ(自分の)誕生日にはいつもやらないような事をやりたい!と思って描いたら楽しくなって続きも描いた現パロです。三国志のさの字も無いので閲覧注意。趙孔です。

      孔明は有能だが納期の融通とか一切認めない開発課のエースとして営業の間で有名になってるのを本人は知らない。孔明は経理課も似合うなー。サンドイッチ大きく描きすぎた。
      梨音(あっすぅ)
    • 窈窕たる淑女は何処サイトよりサルベージ。サイト版より適宜修正済み。挿絵有。
      「窈窕淑女」は詩経の窈窕の章がネタ元。
      桂陽の寡婦騒動はエンタメとして最高。
      梨音(あっすぅ)
    • 夢で逢いましょうサイトよりサルベージ。サイト版より適宜修正済み。挿絵有。
      改めて読むとなんだこの話は…ってなりますね
      梨音(あっすぅ)
    • 武器と仮面とすれ違いの興奮サイトよりサルベージ。文章適宜修正しています。紙媒体用に直してるのでWEBだとやや読みづらいかもしれません。
      作者の私自身が当時正真正銘若かったせいか、作中の孔明や趙雲の言動が妙に若いと云うか、軽いと云うか、そんな感じが強いのが少々気に入らないのですが、後半より彼らも実際若いしなと思って原文の雰囲気を残してます。
      今読むともうこの時点で無自覚に惚れてません?
      梨音(あっすぅ)
    • 一個上げ忘れてた↓梨音(あっすぅ)
    • 7小説本作る際の挿絵没絵です。1枚目だけ資料として描いた孫尚香。どの場面の絵かはご自由にお考え下さい。梨音(あっすぅ)
    • 4軍師殿持ち上げチャレンジクリスタ買ったので習作として描きました梨音(あっすぅ)
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