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    陽光煌々たり 劉備達が益州へと発つ日が来た。劉備に従い益州へ向かう事になったのは比較的新参な武将が多く、趙雲を初めとした新野時代からの将の多くは、孫権軍への牽制として荊州に残る事になっている。そして出発の直前、江陵の抑えとして早々と現地へ向かった関羽・関平親子を除いた居残り組は、見送りの為に集まっていた。趙雲も勿論その中の一人だ。
    「やあ、趙雲殿」
     劉備軍の軍師の一人龐統は、劉備に伴って益州へ向かう内の一人だった。旅装を整えた龐統が声をかけてきたのは、出発も目前に迫った刻の頃である。
    「龐統殿?」
    「実はね貴殿に頼み事があるのだが、良いかな」
     明るいうちに出来る限り進めるよう、出発は陽の昇りきらぬ未明に決まり、辺りはまだ薄暗い。趙雲は常人よりは遥かに夜目が利く方だが、それでも人の顔は朧気だった。すぐ傍ではためいているはずの劉旗の色も見えない。近くで声をかけられて、小柄な龐統をやっと視認する事ができた。
    「頼み事? 私にですか」
    「いや、それが自分で行くべき所をすっかり忘れていたわけで。ただ叔父上の元に手紙を届けて欲しいんだが」
    「叔父上というと……」
    「龐徳公と言えば分かるかな?出発前に挨拶に行こうと思ったんだが、何分向こうは田舎に引っ込んでおられるから会いに行くでも骨が折れる。代わりに手紙を書いたんで、それを届けて欲しいんだ」
     龐徳公。荊州の者なら余程の放蕩者でもない限り名を知っている有名な陰士だ。非常に学があるそうだが、前荊州牧の劉表に何度乞われても仕官しなかったという経歴がある。中華では立身出世に拘らず、才を隠して陰棲する者を妙にありがたがる傾向がある。勿論龐徳公も多分に漏れず人々の尊敬を集めているそうだが、劉表に仕官しなかったお陰で荊州が動乱を迎えた際も騒ぎに巻き込まれずに済んだのだという。確かに、そういう意味では先見の明があったといえよう。
    「その頼み自体は構わないのですが、今龐徳公はどちらに?襄陽におられるのでしたら難しいかと」
    「いや、いや、何も貴殿に細作紛いの真似をさせてまで手紙を渡して欲しいわけじゃない。叔父上はゴタゴタの前から襄陽を離れてひっそり田舎暮らしを楽しんでらっしゃるから」
    「ああ、それならば」
     本当にただのお使いの様だ。ならばと快諾し、龐統から絹に書かれた手紙を受けとる。
    「場所はまぁ、孔明にでも案内して貰ってくれ」
     龐統が言うやいなやの時に、劉備の声が響き渡る。劉備はさほど遠くない場所で多勢に囲まれていた。その人垣の中には、一際背の高い黒い影が見える。孔明だ。
    「そろそろ出発だ!隊列を組め!!」
    「おっと、時間のようだ。趙雲殿、すまないね」
    「あ、いえ」
     龐統を見送る間に、みるみるうちに隊列が組上がる。もう当分劉備にも、龐統にも会えない。そう思うとふっと胸に淋しさが生まれるも、すぐ側に立つ人の姿を見て、趙雲は顔を綻ばせる。
     ――孔明殿は一緒に荊州に残るのだ。ただそれだけで少しの淋しさは我慢出来る気がする。それに、長くても数年でまた会えるのだ。趙雲が援軍に派遣されるような事態になれば、もっと早くに再会できるだろう。
    見送るならば、笑顔の方が良い。趙雲は消えていく劉備達の一軍を笑顔で見送った。



     孔明は相変わらず、いや劉備達がいなくなってから余計に、仕事詰めの毎日のようだ。ただ最近では劉備の正室である孫尚香に手がかからなくなり、勉強をみるのもどこぞの学のある令嬢が代わったらしい。それでも龐統をはじめ、出払った官吏の空きを出来る限り自分の力で埋めようとしているようだ。いつも忙しそうで、正直話しかけるのも躊躇われる。話しかけたいとは思うのだが、仕事の障りになる事は避けたい。だが趙雲としても龐統の頼みだけは反故にするわけにもいかず、とうとう孔明が休憩をしている瞬間を見掛けて話を切り出した。
    「孔明殿、少しお時間をいただけますか?」
     孔明は散歩でもしていたのか、公安城の庭を通る小川の水面を覗き込みながら、供も連れずにつらつらと歩いていた。孔明の執務室まではさほどの距離もない。息抜きだったのか、ちょうど良い時に遭遇できて運が良い。もっとも、こうして会ったのは偶然でもなんでもなく、趙雲が例によって孔明に話しかける機会を探りに孔明の様子を見に訪れたからである。
    「子、龍殿」
     孔明は意外そうな面持ちで趙雲を見た。単に驚いたというよりは戸惑うような表情なので、一人で息抜きしてる所に悪かったかなと罪悪感があったが、趙雲とて用事があるのだから引くわけにもいかない。
    「少しお尋ねしたい事があるのですが、今よろしいですか?」
    「お尋ね……私にですか?なんでしょう」
    「龐徳公のお住まいを孔明殿ならご存知だと思いまして。その、手紙を頼まれたのです龐統殿より」
    「はぁ」
    「案内をして頂けると有り難いのですが」
     孔明のこめかみがピクンと跳ねる。
    「……申し訳ないのですが、仕事で忙しくて……」
     孔明は趙雲とは違う方角へ視線を彷徨わせている。ぼそぼそと煮え切らない様子で言い終わるその瞬間、その目が一瞬大きく開かれた。思わず趙雲も孔明の視線の先を見る。
    「そうです、私の代わりに季常に頼んだら良いかと」
     視線の先にいたのは、こちらへ歩いてくる馬良だった。その特徴的な白い眉の下には、見るからに柔和そうな顔が続く。実際、その印象のままに柔和な人柄だった。趙雲とは生憎今まで大した接点は無かったが。
    「え? 何ですかお二人とも」
     二人して自分を見ている事に、馬良の方も気付いたようだ。大声を出さなくても充分に会話が可能な距離にまで馬良は来ていた。
    「馬良殿も龐徳公のお住まいをご存じなのですか」
    「ええ、というか、昔二人で訪ねた事があります。ねぇ、季常。貴方は龐徳公の住まいの場所、まだ覚えていますか?」
    「え? ええ……。何回か訪ねましたから、近くまで行けば分かるでしょう。それがなにか?」
     突然に話題を振られて馬良は目を丸くしている。そう言えば孔明と馬良は出廬以前からの旧知の仲だという。孔明が昔良く通っていた場所を、馬良が知っているというのもおかしな話ではない。
    「ならば、馬良殿に……」
     本心からすれば孔明に案内してもらいたい……というか、正直最近接点が無かった孔明と久々に過ごせるんじゃないかと考えていたのだが、孔明の手が空かないというならば仕方がない。
    「え~と、あの、どういう事なのですか?」
    「趙将軍が、龐徳公の住まいへ案内して欲しいとの事です。生憎、私は手が空かないので……」
     チラリと、横目に趙雲を見る。
    「私の代わりに案内してくれませんか」
    「ああ、成る程そう言う事ですか! ええ、構いませんとも」
     馬良は人の良い笑みを返した。その笑顔に趙雲がささやかな罪悪感を抱いたのは言うまでもない。
    「いつがよろしいですか?」
    「手紙を預かっているので、早い方が良いと思います。馬良殿の都合がつく限り早めに……」
    「手紙ですか。ならば早速今日の午後にはいかがです? 私は特に急ぎの用事が無いので」
    「今日の? そちらが構わないのでしたら」
    「ではあと二刻ほどしたら正門で待ち合わせしましょう! 少し辺鄙な所にありますから、それでも大丈夫な準備をしてきて下さい」
     そう言い終わるや、馬良は朗らかに破顔した。どちらかと言えばあまり社交的ではない孔明が、馬良とは仲良く出来ている理由が、なんとなく分かる気がした趙雲だった。




     二人が城を出たのは昼過ぎだった筈なのだが、いつの間にやら辺りは薄暗くなり始めていた。とはいえ、上空は覆い被さる様に生い茂った木々で視界は通らず、ハッキリと太陽の姿を確認する事は出来ない。かろうじて道と言えそうな道を、二人は馬を進ませている。馬や人が通るばかりで、車などが通る事は無いのだろう。随分前からずっと、馬二頭がやっと通れるくらいの道幅の道が続いている。
     しかし二人は並んで進んではいなかった。こんな道が悪い場所ではおのずと馬術の差が出るため、どうしても馬良は遅れがちになる。趙雲の方は慣れたもので、振り替えって馬良を待つくらいの余裕を見せている。遠征の経験で文官が武将に劣るのは当たり前だが、馬良は趙雲に比べてずっと若い。差が出るのは仕方がない。
    「馬良殿、大丈夫ですか?」
    「申し訳ないです、足手まといになっているようで」
    馬良がなんとか追い上げてきて言った。馬を駆っているだけだが、本人も息が上がっている。
    「いいえ、私の無理を聞いて貰っているのですから。して、まだ先は長いのでしょうか」
    「まだもう少しですかね。暗くなる前につけば良いけど」
    「今日中に城へ戻るのは無理ですね……」
     趙雲は空を見上げた。太陽の位置はよく分からないが、もう夕暮れといって良い時間のはずだ。
    「そりゃそうです、龐徳公のお宅へ日帰りは無理ですよ。龐徳公に宿をお借りしましょう」
    「しかしいきなりその様な事、失礼なのでは」
    「向こうも承知でしょう、いつもの事ですから。昔訪ねた時も、突然行ってその場で宿を借りました」
     昔……。孔明と昔通ったといっていたが、その頃の事なのだろうか。
    「孔明殿と昔来られた際もこの道を?」
    「ええ。と言うか、他に道らしい道無いんですよね。だから久々に来ても道が分かるのです」
     なるほど、と思った。よくこの様な目印の無い道が分かるな、と内心不思議だったのである。
     馬良の宣言通り、龐徳公の庵につくには一時の時間を要した。日はほとんど沈みかけ、暗い森の中に赤い木漏れ日が落ちている。木々の隙間から射し込む夕陽が時折妙に眩しい。龐徳公の庵はその夕陽に照らし出されるように、ぽっかりと森の中に佇んでいた。
     庵の周りは趙雲がその気になれば馬で一越え出来そうな、申し訳程度の木の柵に囲まれ、これまた低い門に続いている。門から見たところ、建物が二つ並ぶように建てられ、その間を屋根つきの渡り廊下が結んでいる。家畜の臭いがするが、家畜の姿も声も聞こえない。もう宵だから小屋に入ってしまったのだろう。庭は庭と呼ぶにはあまりに森と同化しすぎている風情だったが、住み心地は悪くなさそうだ。
     もし、という馬良の大声の呼び掛けに、間もなくサッと一つの人影が舘から現れる。まだ幾分かあどけなさを残した青年だった。背は趙雲より頭二つぶんはゆうに小さく、馬良と門を挟んで向かい合ってもさらに低く見える。
    「私は馬季常。昔龐徳公に世話になった者です。今は劉左将軍の下で働いています。龐徳公に用があって急遽訪ねたのだが、ご在宅かな」
    「旦那様なら中に。して、そちらの方は?」
     青年はついと、切れ長の目を趙雲に向ける。
    「私は同じく趙子龍という。龐徳公には甥の龐士元殿から文を預かって来たのだと伝えて欲しい」
     青年は軽く頷いて舘の方へ戻っていった。そして再び顔を見せるまで、ほとんど時間は要さなかった様に思う。
    「旦那様がお通しになるようにと」
     青年が小さな門を開いたので、馬良と趙雲は馬を引いて中へと入った。
    「馬はこちらへ。お二人は中へどうぞ」
     実に手際よく、馬は青年に連れられて庭の奥へと消えていった。残された二人は促されるままに舘の内へと足を踏み入れる。
     中は外見以上に綺麗に整備されており、華美とは言わないまでも蕭奢な調度が置かれている。しかしそれも大豪族龐家の者が住むにしては、あまりにこじんまりとした装いだろう。
     奥へ入るとすぐに居間になっていて、中央には大きな几と、その周りには椅子が何脚か並べられている。その椅子の一つに、老年の男が一人で座っていた。室内には既に灯りが灯されていて、男の皺まで良く見える。宵闇の暗さに目が慣れていた趙雲には、油に灯された火さえ少し眩しい。
     部屋の奥には竈が設置してあり、厨でもあり暖をとる装置にもなっているらしい。竈には鍋がちょうどかけられている。夕餉の準備中だったのだろうか、室内は良い匂いで満たされていた。遠路を越えたばかりの趙雲には堪らない匂いだったが、グッと奥歯を噛んで意識をそちらから離す。
    「龐徳公、お久しぶりでございます。お変わりありませぬようで」
     隣の馬良が拱手をしたのを見て、慌てて趙雲も拱手を続けた。
    「季常、久しいな。相変わらず奇妙な眉をしておる、ふぉふぉ。そして趙――将軍かな。よくぞ参られましたな」
    「お初にお目にかかります、趙子龍と申します。益州へ向かわれた龐士元殿に頼まれ文を預かって参りました」
     趙雲は懐から件の文を取りだし、座ったままの龐徳公に手渡す。
    「わざわざこのために申し訳ありませんのう。今夜はごゆるりと泊まっていかれよ。食事もちょうど今作らせておった所でございましての。量がちと足りぬやもしれぬが、その時はまた作らせましょう」
    「急な訪問をしてしまいまして、申し訳ありません」
    「気に病む事はござらぬ。久々の客を、気のすむように歓待させて下され」
     言い終わるや、龐徳公はいかにも大老といった様子でふぉふぉ、と笑った。そのおおらかな雰囲気は確かに名士として尊敬を集めるのも頷けるようなものだった。
    「それでは、お言葉に甘えて」
     趙雲と馬良が荷を降ろし、ようやく席についた頃、青年が戻ってきて食事の用意を再開した。



     翌朝、趙雲は用意された暖かな寝具で爽やかに目をさました。昨夜あれから簡単な夕食を用意してもらい、馬良とは別々の客間をあてがわれた。客間自体は狭く、寝床と小几しかない簡素な部屋ではあるが、こんな小さな庵に良く二つも客間があるものだ。馬良が言う通り、ここへ訪ねてくる者は皆最低一泊するものだというなら、当然その為の準備をしているという事なのだろうか。
    「おはようございます、もうお目覚めですか?」
     コンコンと戸を叩く音と共に、遠慮がちな声が尋ねてくる。
    「ああ、起きている」
    「左様ですか。着替えと手拭いを用意致しましたので、中へ入っても?」
    「それは構わないが……」
     趙雲が答えると戸がゆっくりと開き、隙間から例の下男の青年が顔を覗かせた。手には布らしき物が幾つか握られている。昨晩の夕食の際も給仕はこの青年一人に任せられていたし、この庵には他に下仕えの者はいないのだろうか。
    「着替えなど無用だ。着てきた物を着る」
     現に趙雲は今旅装の上衣を脱ぎ、襦と褲だけになっている。旅先でいちいち服を替える等というのはよほど貴人がする事だ。そもそも庶民は日々の衣服すらずっと同じものを着続ける事もザラである。趙雲とて当然そのつもりだった。
    「龐徳公が是非にと言われたので遠慮は無用です。ここに泊まられた方は皆こうですので。着替えた方はお渡し下さい、洗います故」
     丁寧だかどこかぞんざいな感じのする口調だ。彼にしてみれば、こんなやりとりもいつもの事なのかもしれない。こうまで言われてなお固辞すればむしろ迷惑だろうか。趙雲は素直に替えの衣服を受け取り、早速着替える。着替えの最中も出ていかない辺り、やはりいい加減やり慣れた仕事なのだろうかと趙雲は苦笑した。
    「すまない」
     一言添えて脱いだ服を手渡す間、青年は意味ありげに趙雲の全身をチラチラと検分している。なんだろうかと問い質す前に、青年はさっさと出ていってしまった。「朝食の用意は済んでいます」の一言を残すことは忘れていなかったが。



     昨晩夕食を摂った居間の様な場所へ向かうと、確かに几上には箸と器が用意してあり、龐徳公も既に席についていた。もう食べ終った後なのだろうか、使用済みらしき器が並べられ、龐徳公自身は優雅に白湯を飲んでいる。
    「良く眠れましたかな、えぇと」
    「趙子龍です。お陰様でぐっすりと。衣服や食事まで厄介になりまして申し訳ありません」
     趙雲が拱手をして一礼すると、龐徳公はおおらかに笑い声をあげる。
    「ふぉふぉ、なになに。この様な暮らし故客人は貴重でしてな。折角だから構わせておくれ。して、食事はすまぬがそこの火にかけてある鍋から自分でよそってもらいましょう。それがうちの流儀でございましてな」
     龐徳公の示す先では、昨夜と同じく竃に鍋が掛けられている。言われた通り自ら器に鍋の中身をよそう。鍋の中身は雑炊で、焦げ付かない程度のささやかな火にかけられて昇った湯気が食欲を誘う。
    「頂きます。ところで、馬季常殿はいかに?」
    「太皓が言うには、声をかけても返事が無かった様ですな。まだ当分起きぬ事じゃろう」
     タイコウ?あの青年の事だろうか。
     行軍慣れした趙雲はともかく、慣れぬ遠路で馬良はかなり疲労困憊だったらしいのは、昨夜の様子から分かっていた。帰りもまた同じ道を戻る。その時までに体力を回復しておかなければならないので、今は好きなだけ寝かせておくに限る。
    「今日一日くらいゆっくりしていきなされ。出発は明日でも良い。貴殿に何か予定が無い限りは」
     龐徳公はニコニコとして言った。趙雲は今から帰路についても構わないのだが、馬良のためには今日一日休養に費やした方が良いかもしれない。数日かかると告げて来なかったのが気にかかるが、遠くまで人を訪ねるとは伝えてあるからなんとかなるだろう。
     馬良の方は大丈夫だろうかと思ったが、馬良自身は一日で帰れる場所じゃないと分かっていたのだから、その様に伝えてあるに違いない。何かあれば、事情を知る孔明が上手くとりなすだろうし。
    「では、お言葉に甘えましょう」
     雑炊は軽い塩味で、思ったよりも具が多い。山菜に紛れて肉も入っている。やはり家畜を飼っているのだろうか。趙雲が温い雑炊を頬張っている間、龐徳公は趙雲をにこにこと眺めている。
    「あの、何か?」
     じっと見られていては、流石に食事が喉を通りにくい。
    「いや、服の丈は短くないかと思いましてな。見た限り無理は無い様なので安心ですがね」
    「ああ、服ですか。問題ありません」
    「貴殿の様に上背がある客人は珍しい。孔明が着てた物を太皓に慌てて用意させました」
     太皓という青年が着替えた自分をじろじろ見ていたのは、こういう理由があったのか、と得心する。自分が今袖を通している服を、かつて孔明も着ていたというのはなんだか変な感じだ。
    「孔明殿も良くこちらへお出でになっていたと伺っております」
    「うむ、奴が若い頃は良くここへ顔を見せたものですのう。一度来たら、数週間近く滞在する日もあった」
     龐徳公は、目を細めて何かを思い描くような表情で語る。
    「離れが書庫になっておりましての、朝から晩までそこにいる事も多くて……。うちの書庫目当てに訪ねてくる客は多かれど、あそこまで熱心であった者もおるまい」
    「へえ、それほどまでに」
    「孔明は天涯孤独の身でした故、本を充分に買う余裕は無かったのです。だから、私は遠慮なくここの本を読むように言いました。……将軍は孔明と知り合いですかの」
     知り合い。なんと返すか、一瞬逡巡する。
    「同じ軍にて、顔を合わせる機会も多いのです。私の方が年長ですが、非常に尊敬できるお方であると」
    「ふぉふぉ、孔明は良き同僚を得たのう」
    「さようなことは」
     謙遜のつもりはなかった。
    「書庫を見ますか将軍殿。武の道の方には退屈なだけかもしれませぬが」
    「いえ、とても興味があります」
     若き日の孔明が通い、長い時間を過ごした場所。彼はここで何を見、何を想い、何を感じたのだろうか……とても気になった。そして出来れば、同じ気持ちになれたらと思う。
     外から邸を見た際、二つ建物があると思ったその片方が書庫だったらしい。つまり、生活空間と書庫がほとんど同じ規模……いや、もしかすると書庫の方が大きいかもしれない。趙雲は龐徳公に従い、二つの建物を繋ぐ渡り廊下を経て書庫へと入った。渡り廊下からは庭の向こうにある家畜小屋と、その周りで放し飼いにされている鶏の姿が見えた。その近くで太皓が洗濯物を干している。明け方渡した趙雲の旅装も綺麗に洗われていた。
    「どうぞ将軍。本も自由に触って下さって結構ですぞ」
     龐徳公に一礼した後、龐徳公によって開かれた扉の先の薄暗い室内へスルリと入り込む。中は思わず圧倒される程高い棚が均等に並べられ、どうやらその棚一つ一つに書物が詰まっているらしい。書は竹簡が多いが、紙や絹、中には石に刻まれた物まである。当然ながらこれほどの書の山に、かつて趙雲は囲まれた事は無かった。
    挿絵梨音(あっすぅ)
    「凄い量ですね……。良くこれ程までに集められたと思うほどの」
    「龐家に代々伝わる物と、後は自分で集めた物ですかな。徐州や司州から逃げてきた者から譲り受けた物が多い。世話をした礼に貰ったり、資金が要るから本と替えてくれと頼まれたり」
    「孔明殿は、これらを全て読まれたのでしょうか」
    「さて、私も奴が何を読んでいるのかまでは存じませぬ。しかし粗方目を通したのかもしれませんのう。驚くほど読むのが早いのですよ、孔明は。理解も早いが。しかしあるときから急に訪ねてくる頻度が減ったため、めぼしい物は読みきったのだと思います」
    「この量を……想像もつきません」
    「孔明は法家の書を好んで良く読んでいたように思います。それは何度か読んでいる所を見ましたからな。ほら、そこに」
     龐徳公が少し奥まった先にある棚の、丁度趙雲の目線辺りにある段を指差した。そこの棚を確認すると、『韓非子』と書かれた竹簡が集められた場所であるようだった。
     韓非子……趙雲も知っている、法家の韓非が著した書だ。秦の始皇帝をして「この書の作者に会えるなら死んでも良い」と言わしめた名著。それくらいの概要ならば趙雲とて知っているのだが、実際に通して読んだ事はなかった。
    「読んでみても良いですか?」
    「ええ、勿論。奥に行くと窓がありますが、そこに椅子と几もあります。庭で読んでも、部屋に戻って読んでも構いませぬが、孔明はいつもそこで読んでおりましたぞ」
     サッと趙雲の頬に朱が走る。
    「いや、そんなつもりでは」
    「孔明は不思議な子ですな。決して社交的なわけではないのに、どこか人を引き付ける魅力がある。勿論、姿形も整ってはいるが、そんな事ではない。だから私もあの子が可愛かったのだと思いますのう」
     孔明を「あの子」と呼ぶ龐徳公の目には、昔ここで本を読んでいた孔明の姿が見えているのだろう。
    懐かしそうに、何かを慈しむ優しい瞳だった。
    「何かあれば、なんでも太皓に言いつけるが良かろう」
     龐徳公はそう言い残し、去っていく。
     趙雲は韓非子の、壱と書かれた書を取り、奥へと進んだ。奥には龐徳公の言う通り窓際に小さな几と椅子が一組、ポツンと置かれている。薄暗い室内に柔らかな陽光が指しこみ、ちょうど几と椅子の辺りへと降り注いでいる。ここで若かりし日の孔明は本を読んでいたのか……。
     趙雲は椅子に腰を落としてそっと几を撫でると、埃一つ付いていない。太皓が毎日掃除をしているのだろう。柔らかな陽光の下で一人静かに書を読む痩身の青年。その光景はきっと厳かで美しいものだっただろうと、確信と共に趙雲は思った。



    「旦那様、将軍様をお連れ致しました」
     既に外は暗く、龐徳公も馬良も居間の席についていた。 その中へ趙雲を連れた太皓が入ってくる。趙雲は手に数巻の書を携えている。
    「すいません、待たせてしまいましたか」
     申し訳なさそうに一礼し、趙雲はいそいそと席についた。趙雲が席についた事を確認すると、太皓がすぐに配膳の用意を始める。やはり太皓以外に働く者の姿はない。
    「趙将軍、その竹簡は……」
     馬良が興味深げに趙雲の手の内を覗き込もうとする。
    「韓非子、ですかな?」
     龐徳公の問いに、趙雲は恥ずかしそうに頷いた。
    「韓非子?」
    「すいません、読みきれなくて、食後に部屋で読もうかと。いや、読もうと思えば読めるのだと思いますが、なにぶん理解しようと思うとなかなか進まず……」
    「ふぉふぉ、急がずともよいですぞ将軍殿。なんなら借りていっても良いのですぞ。返すのはいつでも良い」
    「よろしいのですか?  ……あ、いやしかし」
    「構わぬ構わぬ、ふぉふぉ」
    「ではありがたく」
    「趙将軍、韓非子を読んでいるのですか?」
     馬良の問いの途中で太皓が配膳を始めた。洗濯から家畜の世話から食事まで、いつ済ましているのだろうと思うほど働き者だ。
    「わぁ、美味しそうだ」
     馬良の興味は食事の方へ移ったらしく、趙雲は静かに安堵の息を漏らした。
     

     韓非子。内容の殆どは昔の逸話なのだが、その逸話を教訓にして、法家の教えを説いている。その教えは非人情で現実的だ。だが、確かに孔明のやり方に良く似ている。そして曹操のやり方にも似ている様に思う。孔明と曹操は政治の手法が似ているという事なのか。それは二人が法家の教えを重視しているからなのだろうか。韓非子を読むようになって、趙雲はそんなことを色々考えるになった。
     韓非子は既に一巡し、今はそれを書き移す作業に入っていた。一文字一文字書き写していると、単純に目で追うよりも色々と考えてしまう。空いた時間に読めるよう、書いた方の巻は懐に入れて常備していた。しかし改めて読み直していると、自分の字が汚いななんて苦笑したりする。趙雲は庭の隅にある亭の下で、自分で書いた方の韓非子を広げていた。
    「うわああぁぁあっ!」
    「っ!?」
     にわかに叫び声が聞こえて、反射的に趙雲は立ち上がった。近くで何かあったのだろうか。辺りを見渡すと、少し離れた先で人だかりが出来ているのが見えた。書を放り出した趙雲はその場を飛び出して、騒ぎの方へ走り出す。
    「どうした?」
    「あ、ち、趙将軍」
     兵士が数人集まり、うち一人が足の腱を抱えて呻いていた。一瞬怪我をしたのだろうかと思ったが、出血の痕跡はない。残りの兵士はおろおろとその周りを囲んでいた。
    「腱を傷めたのか?」
    「あ、いや、打ち合いをしていたらアイツが急に苦しみだして……」
     兵士の一人、手に棍というにはあまりに粗末な木の棒を持った男が答えた。倒れている男の側にも同じような棒が落ちている。趙雲は一瞬で理解した。つまり、兵士達が打ち合いと称して遊んでいた所、一人が足をくじいたという所だろう。
    「調練の時間以外に武芸の鍛練とは、素晴らしい事だがな。怪我をしないよう、最初に体をしっかり慣らせと指導は受けていないのか?」
    「す、すいません……」
     趙雲が兵士の腫れた足首にそっと触れると、触られた兵士は痛そうにウッと呻いた。しかし見た所骨に異常は無いようだ。骨が折れていた場合こんな痛がりようでは済まない。大人の男でも涙を流す程痛いというのは、趙雲の実体験による。
    「骨は大丈夫のようだな。挫いただけだ。どこの隊の者だ?」
    「り、劉封将軍です……」
     兵士の答えに趙雲は苦笑する。
    「ご子息か。もう少し兵に丁寧に指導するよう言っておかないとな。医務室に連れて行き、劉封隊と伝えよ。さすれば明日からの調練は免除になる」
    「は、はい!」
     ちゃんと指示を受けた事で、兵士達の動揺は落ち着いたようだ。一人が怪我人を背負い、皆がそれについていく。趙雲はやれやれとばかりに大きく息を吐くと、元いた場所へ引き返した。
     問題はむしろその先にあった。趙雲が韓非子を置いて残した所に誰かいる。しかもその誰かというのが孔明なのである。
     何故こんな所に……と考えて、以前孔明がここで書を読んでいた姿を見たことがあるのを思い出した。というよりも、孔明がここにいるのを見つけて、趙雲もこの場所を知ったのだった。孔明が来るのも当たり前と言えば当たり前である。
     孔明は、趙雲が座っていた所に腰を下ろし、几に広げられた例の韓非子を読んでいる。しかもかなり真剣な様子だ。趙雲が近くから見ているのにもまるで気付いていない。
     さてどうするか。「それは私のです」と声を掛けようか。それとも孔明がここを去るのを待つか。しかし趙雲が思っているよりも早く、孔明は手元の書から目を離した。それは趙雲が物陰に隠れる決断をするよりも早かったため、間抜けに立ち尽くしている趙雲の姿が、真正面に孔明の視界へと入った事だろう。
    「……子龍殿」
     驚いている。趙雲が真正面に突っ立っていたのを見れば、当然であろう。
    「……えっと、ご機嫌よう孔明殿」
    「いつからそこに」
     孔明とはどうも、妙に間が悪い時に出会う気がする。
    「それ、私のなんです」
     つい孔明の問いとは検討違いな事を答えた。取り合えずその事を伝えなければ、というより弁解しなければと必死に考えていた所以である。
    「あ、この韓非子。貴方のだったのですか? 申し訳ありません、つい書が無造作に置かれているので何かと思ったら……」
    「いや、別に構わないのですが。韓非子、お好きだそうで」
    「えっ?」
     口が滑った。余計な事をと悔やんだが後の祭りだった。
    「好きというか、良く読みましたね。ああもしや龐徳公から?」
     流石に孔明は察しが良い。今さら誤魔化そうとしても徒労に終わるだろうと思い、素直に答える事にした。
    「実はその通りなんです。それで私も興味を持ちまして……龐徳公にお借りして今書き写しているのです」
    「それ、で……?」
    「はい?」
    「いえ、何でも」
     孔明の目が一瞬趙雲を真っ直ぐに見据えて、そしてすぐに手元の書の方へ落とす。
    「ではこれは、貴方の字」
    「そうです。お見苦しくて申し訳ありません」
    「そんな事はありませんが……。何故そこまでして」
    「いつまでもお借りしている訳にはいかないでしょう」
    「いえ、そうではなく……」
     再び孔明の目が趙雲に戻る。だが、視線は趙雲の顔ではなく肩の辺りをさ迷っている。瞳が震えているのが分かった。
    「……何でもありません。忘れて下さい」
    「? は、はぁ……」
    「龐徳公はお元気でしたか?」
    「はい、とてもご壮健でした。馬季常殿も、以前と全く変わっていないと」
    「そうでしたか」
     孔明は目を伏せてふわりと笑った。今向かい合っていて初めて、孔明の雰囲気が和らいだ気がする。
    いや、ずっと前からそうだったかもしれない。ここ暫く趙雲と話すときはいつも、孔明は何やら張り詰めた空気を背負っていた。緊張感と言っても良い。長いこと忙しかったのだから、無理もないのかもしれないが。
    「孔明殿の事も……あ、いえ」
    「なんですか?」
    「いえ、暫く会ってないから懐かしいと」
    「……それだけですか? 先程の態度だと、他にも何かありそうですが」
    「いえ、そんな。気のせいかと」
    「そう隠されると余計気になります。もしや私の陰口でも?」
    「まさか」
    「ではなんですか? 教えて下さい」
    「……ならば、孔明殿が先程の続きを言って下さるなら」
    「え?」
    「先程いいかけた言葉の続きを教えて下さるならば、私も教えましょう」
    「――――」
     孔明は途端にハッとして口をつぐむ。半ば冗談のつもりで言ったは良いが、この孔明の反応に己の申し出を後悔した。「冗談ですから」と趙雲が撤回の言葉を言おうとした刹那、閉じていた孔明の口が開いた。
     ……愚かな事です。
     風にさえ書き消されそうな程か細い声だったが、趙雲の耳には確かにその様に届いた。
    「貴方が書き写してまで韓非子を読むのは……」
    「それは、いつまでも借りるわけにはいかないからと」
    「私の真似をして? と」
    「――――」
    「そう、言おうかと思いました」
     つまり趙雲をそう言ってからかうつもりだったが、直前になってやめたというわけか。趙雲はそう理解した……のだが、孔明の憮然とした表情を見て、なんとなくその結論には違和感を抱いた。憮然とした、というのは間違いかもしれない。少しふてくされたような、照れ隠しのような。白い頬には微かに朱が差している。しかし、趙雲としては図星に他ならないのだから驚愕である。
    「興味を持ったから」等という表現では生温いくらい、孔明の真似をしたかった。孔明が熱心に読んだ本だと知らなければ、この先一生読まなかった可能性もある。
     真似たというよりは、孔明の追体験をしたかったといった方が真実に近いかもしれない。孔明という一人間の人格形成に必要な要素を自分も取り入れたかった。やはり孔明に隠し事をするのは難しいらしいと、趙雲は観念する他なかった。
    「お恥ずかしながら、その通りです」
    「えっ」
    「貴方が読んだものを、私も読んでみたかった」
    「し……」
    「不愉快かもしれません。申し訳ありません」
    「不愉快なんて……事は……」
     孔明は顔を伏せていて、更に手に持った羽扇が邪魔をして表情が見えない。本当に不愉快に思ってないかどうかを顔から判断することは叶わなかった。
    「……で! 貴方が言おうとした事はなんなのです。龐徳公はなんと?」
     咄嗟に顔を上げた孔明が、急き立てる様に言った。確かに孔明が約束を果たしたのなら、趙雲も話すという条件だった。
    「貴方が魅力的な人であると」
    「えっ」
    「……龐徳公はそう、おっしゃられていました」
     本人不在の場でこんな話をしていたと、よりによって本人に話すのはひどく気恥ずかしい。だが、自分から提案した条件を破るわけにはいかない。
    「そ、そうですか……」
     双方居た堪れない空気が出来上がってしまった。孔明は不自然に羽扇をパタパタと仰いでいる。照れ隠しなのだろうか、顔も先程までよりずっと赤い。しかし趙雲の方も孔明の顔を直視出来ずにいるので、気付いていなかった。
    「……………」
     気まずい沈黙が暫くの間場を支配した後、ハッと何かを思い出した様子で孔明は顔をあげた。
    「いけない!」
    「えっ」
    「あ、失礼しました。用事を控えていた事を思い出しまして」
     韓非子に集中していながらふと顔をあげた瞬間も、恐らくその事を思い出しかからだったのだろう。眼前に趙雲がいたものだから、またそれを失念してしまったに違いない。
    「すいません」
     無意識に趙雲の口から謝罪の言葉が漏れていた。
    「何故、謝るのです?」
     孔明は怪訝な顔を返した。
    「私が時間を取らせてしまったのではないでしょうか?」
    「それはそうですが。でも悪いのは私です。そもそもこの書に気をとられた時点で、私が悪い」
    「いや、しかし」
    「謝らないで下さい。貴方は悪くない。悪いのはこの私なのですから――」
     語尾に吐息が混ざる。孔明は几から離れた。
    「いつも貴方は、私に謝ってばかりいるような気がします。でも、謝らないで下さい。むしろ心苦しいのです」
    「すいません」
     また、というのはお互いが思ったが、流石にそれを指摘するのも子供じみているので二人とも黙っていた。
    「行く所があったのです。私はこの辺で」
     孔明は趙雲の横を通り過ぎて、向こうへと歩き出した。
    「優しいのは、貴方の良い所だと思います」
     通り過ぎざま、孔明がぽつりと言い残した。だからこそ私は苦しいのだけれど――と続いた様に感じたのは、趙雲の気のせいかもしれない。
     
     
     
     「旦那様は、生憎お出掛けになっておられます」
     相変わらず下仕えのこの青年は、どこかぶっきらぼうな口調で趙雲を出迎えた。庭の方からは家畜の鳴き声が聞こえて来る。庵も以前と同様に、森に溶け込みそうな静謐さでそこに在った。だが今日はこの庵の主人は不在らしい。
    「そうか、残念だな。だが今日はこれを返しに来ただけだ。面と向かってお礼申し上げられないのは心苦しいが、代わりに礼を伝えておいてくれないか」
    趙雲は、借りていた韓非子を目の前の青年太皓に手渡した。
    「韓非子……」
     太皓はぽつりと、書名を口ずさんだ。
    「では私はこれにて」
    「お待ち下さい。今から帰られては道中で陽が暮れてしまうのではありませんか。外出中にお越しになった客を世話するよう、私は申し付けられております」
    「いや、今からなら日暮れ頃には着くだろう」
     今日は馬良を連れていない。趙雲一人の遠駆けだった為、前回よりも相当時間を短縮して到着する事が出来ていた。急げば陽が落ちる前に帰城する事も不可能では無い。
    「でも、馬が疲れているでしょう」
     しかし太皓は引き下がらなかった。
    「それほどでもない」
    「……韓非子以外にも、法家の書はございます」
     その言葉に、来た道を戻ろうとしていた身体が、ピタリと静止した。趙雲はゆっくりと振り返って太皓を見た。
    「……我々の話を聞いていたのか?」
    「いえ、旦那様に教えて頂きました。何故あの将軍様は韓非子を読まれているのでしょうと訊きましたら、諸葛孔明と申される方が法家の書を良く読んでいた事を教えたからだと」
     太皓は、さも当たり前かのように言った。
    「韓非子以外にも、そうか……私は分からない。教えてくれるか」
    「勿論。旦那様ならきっとそうなされたと思います」
     趙雲が苦笑を返すのも待たず、太皓は門を開けて真っ直ぐに書庫の方へ歩き始めた。趙雲も慌ててその後を追う。
    「孔明殿を知っているのか?」
    「お話だけは。私が旦那様に雇われた時には、孔明様はこちらにはあまりお出でにならなくなっていましたから。ですが、旦那様がたまにお話されるので存じております」
    「公はどんな話を? 優秀だったとか、変わっていたとか、そんな話だろうか」
     趙雲には、変わった魅力がある子だと言っていた。
    「いえ、字が私と同じであると」
    「同じ?」
    「とても明るい。私の知り合いにもそんな名と字を持つ子がいたと、旦那様は」
    「ああ……」
     字に使われた漢字の意味らしい。
    「その誼で、旦那様は私を本家からこちらに選んで下さいました。本家の仕事が嫌だったわけではありませんが、私はここの静かな暮らしが好きです。旦那様も尊敬できるお人柄です。だから、私は孔明様に一言お礼申し上げたい気持ちです」
     二人は、とうに書庫の前についていた。
    「ならば、私から伝えておこうか」
    「そうして下さると、ありがたいです」
     太皓は腰に掛けた鍵束から鍵を一つ選び、書庫の扉にかかった鍵を開けた。以前来た時は鍵はかかってなかった様に思うが、龐徳公不在の時はこうやって鍵をかけているのだろう。
    「前回から思っていたのだが、使用人は君だけなのか?」
    「いえ、半年ほど前にはもう一人お婆さんが働いていたんですけど、龐徳公よりも年上の人だったから、亡くなってしまったのです。料理などは、その人がやってたんですけども……」
    「そうか……」
    「旦那様は仕事が大変だろうと、新たに人を雇わねばならぬとおっしゃいますが、私は今の仕事に満足しています。だから、今のままで良い。私は旦那様に謝られる度、気を使われる度に却って苦しいのです」
    「苦しい?」
     趙雲にも身に覚えがあるような言葉だった。
    「私には過ぎた幸で、申し訳なく思います。そして、過ぎ足る幸を当たり前と思う様になるのが怖いのです。人にはその人に合った身の丈がございます。しかし、それを忘れるのが恐ろしい……。法家の徒もそう言いましょう? 過ぎ足る真似をした者は、報いを受けるのです」
    「過ぎ足る幸か……。それは誰が決めるのであろうか」
    「私は、それを己で理解していると思っております。ほら、そこに。あそこの棚の一帯が、全て法家の書にございます」
     太皓は扉から入ってすぐ左隣の棚を指差した。
    「ああ、そうか」
    「では、ごゆっくり。私は仕事に戻ります故、何かあれば呼んで下さい」
    「すまない、ありがとう」
     趙雲の言葉に、太皓は苦笑した様子で一礼し、書庫を出ていった。扉は開けたままだ。肌に微かに感じる程度で風が入ってくる。
     趙雲は一冊選んで書を手に取ると、再び書庫奥の几と椅子にかけた。今日もそこは柔らかい光に照らされている。ここはずっと永遠にそうであるかのように、緩やかに時間が流れていた。
     


     うららかな秋晴れの午後。普段はあまり日の当たる場所は好きではないのだが、今日ばかりは暖かな陽の光に誘われて庭先にまで出ていた。
     わざわざ室内の椅子を持ち出して室外まで運び出した。そこまでしたのも、少し働きすぎたかと己で反省した事に拠る。一度集中力が切れると、格段に作業効率が下がる事は分かっていた。それでも人より集中力はある方だと自負しているが、だからこそ一度気が散り始めると自分自身が嫌になる。
     そんな時、いつもは今作業している以外の案件をああでもないこうでもないと気にしてしまう事が多いのだが、今日は暖かな光に誘われてしまったのだ。こんな事は珍しい。余程疲れているのだろう、と自分では分析していた。最近働きづめだったから無理もない。
     そういうわけで、たまには突発的な欲望に従ってみるのも良いかと思った。休む時は潔く休んでしまうに限る。そうでもしないと結局頭が全然休めないのだという事も、嫌という程自分で理解している。
    「はぁ……」
     いざ休息に本でも読もうかとしていた孔明のもとに、分かりやすいため息が聞こえてきた。孔明はため息の主を探して、開いたばかりの書を閉じる。休息中に読書か、と同じ軍の者にはからかわれるが、孔明にとっては確かに本を読むのは楽しみなのである。あまりに集中し過ぎて仕事に戻れなくなる事があるのが、むしろ困った点ではあった。
    「公子ではありませんか」
     ため息の主はすぐに生け垣の向こうから現れた。現在益州へ遠征中で不在の、主君劉備の養子である劉封だった。
    「これは、……軍師殿」
     劉封は二度、声に驚きが見えた。誰かいた事にまず一度、そしてこんな所で書物を読んでいる事にもう一度、といった所であろう。しかもその人物だというのが、あまり外で優雅に本を読みそうにない人間故に一層……とは、孔明自身も自覚しているわけで。
    「いかがされました。何事かお悩みでも?」
     孔明は失礼の無いように、膝の上の本を椅子へ起き、自らは立ち上がって拱手で挨拶をする。
    「いや、悩みという程では。ただ自然と出てしまいました」
     若い公子はある程度の麾下の者には敬語を使う。実子の阿斗が生まれて自分の立場を不安に思う故であろうか、などというくちさがない噂もあった。
    「そうなるには理由がございましょう? 臣亮、不遜ながらお役に立てればと存じますが」
    「いやいや、軍師殿に知恵を頂く事にもございません。ただ、己の力不足に嫌気が差したと申しましょうか……」
    「……失礼でなければ伺っても?」
    「いやなに、昨日我が軍の兵に怪我をして調練を休む者がおりまして。どうも仲間内で鍛錬の真似事をして怪我をしたらしいのです」
    「はあ、それは」
     監督不行き届きだと言えばそれまでだが、その程度いちいち気にする事でもあるまい。孔明はとりあえず黙って続きを促した。
    「それが処置の対応も済み、上への対応も出来ておりましたので逆に不思議に思って調べてみれば、どうも子龍殿が全て指示して下さったようで」
     思いがけない名前の登場に、孔明は一瞬だけ息をのんだ。
    「ご自身の軍の監督もこなし、他軍の兵にまで目がいくとは流石と思います。それに比べて私は……」
     ここで劉封は再びはぁ、と大きく息をついた。これくらいの事で落胆する事もないだろう。となれば、恐らく普段から趙雲に対して想う所あったか、もしくは自身のいたらなさに余程気落ちしていたか、どちらかであろう。 趙雲に対しておこる劣等感の様な気持ちは、孔明にも良く分かった。
    「公子、貴方はまだお若い。趙将軍と同じに出来るわけではございません」
     若い、とは言ったが年は孔明とさほど違いが無い。
    「それは分かるのですが。何故でしょう、子龍殿は元々その様に出来る方の様な気がするのです」
    「そう思わせるのも、経験からですよ」
     内心孔明は劉封に同意していた。何故だろうか、趙雲にはそう思わせる様な所がある。しかしそこで素直に納得していては先に進まない。
    「そうでしょうか……。子龍殿は、なんというか私生活が想像出来ないというか、いつも立派に将軍してらっしゃるような所があります」
     これには思わず孔明も笑ってしまう。
    「それは、分からなくもないですが」
    「雲長殿もそうなのですが、子龍殿はまたそれとは違う印象です。そう言えば今日は私用でお出かけなさってるようですが……」
    「趙将軍が? 龐徳公の所に行かれたのかな……」
     後半は独り言のつもりだったが、劉封にもしかと聞こえていたらしい。
    「龐徳公? 何用でしょう」
    「さあ。書を、韓非子を借りていると本人がおっしゃってたので、それを返しにではないでしょうか」
    「子龍殿は、勉強もされるのですか……」
     劉封が再びため息つくのを見て、しまったと孔明は思った。
    「凄いな、韓非子ですか。そう言えば父も韓非子を読んでいた姿を前に見た事が」
    「私が読むよう、進言した事がございます」
     自分の行政理念の説明として読むように勧めた事があるのは事実だった。劉備はああ見えて文字を読むのが嫌いではないので、なかなか興味深そうに読んでいたのは孔明も知っている。
    「あ、なるほど。だから読んでいたのでしょうか。私も読まなければならないなあ……」
    「私のもので良ければお貸しいたしましょうか?」
    「良いのですか? 助かります。軍師殿のご自宅に?」
    「いえ、今ここに」
     孔明は、椅子に置いていた書をサッと手にとって劉封に差し出した。
    「ええっ、ちょうど読まれていたのですか? よろしいので?」
    「構いません。ふと……久々に読みたくなって手に取ったくらいなものなので。内容はもうほとんど覚えています」
    「そうですか、しかし高価な本なのでは」
    「いえ、これは私が自分で書写したものです」
     孔明はなにか、思い出すように空を仰いで微笑んだ。
    「何かあればまた、書き写せば良い話ですので。そういう作業も、嫌いではないのです」




    梨音(あっすぅ) Link Message Mute
    2020/12/06 20:27:23

    陽光煌々たり

    サイトよりサルベージ。適宜修正済み。挿絵有。
    オリキャラがそこそこでばります。
    私の脳内の龐徳公を上手く表現できませんでした。

    more...
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    • 2後日談(干天の慈雨)最近描けてなかったな~と思ったので小説の後日談を少し描いてみる。
      小説の続き書きたいとはずっと思ってるけど、普通に難しくて…時系列的には定軍山の戦いなんですけど、孔明多分お留守番だから…書きようが無いんだ…。
      梨音(あっすぅ)
    • 司馬懿って趣味あるのかな曹丕が物凄く美食や詩歌管弦を愛する趣味人なのに対して司馬懿って全然趣味とか無さそうだよな…と思ったので梨音(あっすぅ)
    • 干天の慈雨成都の外から始まるお話です梨音(あっすぅ)
    • 2こたつこたつは生産性下がるので我が家でも廃止しています梨音(あっすぅ)
    • 5レキソウお疲れ様でした~。表紙の不採用デザイン案もこの際なので載せます。梨音(あっすぅ)
    • 5【サンプル】「頓首再拝」2021/2/13 レキソウオンライン冬祭(ピクトスクエア内開催オンラインイベント)で頒布予定です

      「頓首再拝」
      全28P(表紙含)/A5/400円
      全年齢/オンデマンド印刷
      サークル名:あうりおん

      レキソウオンライン冬まつりで頒布します
      孔明と陸遜が文通する漫画です
      あんまり三国志してない平和なお話です
      CP要素なし
      一番最後のがサークルカットなのでよろしくお願いします
      梨音(あっすぅ)
    • 夏天の成都夏の成都の暑さに辟易する人々。
      手を変え品を変え成都の暑さにへばる劉備軍を描いてるので性癖なんだと思います。
      ラストに挿絵有。
      梨音(あっすぅ)
    • 新しき日々サイトよりサルベージ。適宜修正済み。挿絵有。
      過去1長い話です。黄夫人の存在も好きなので大切にしたい。
      梨音(あっすぅ)
    • あけましておめでとうございます~。今年もよろしくお願いします。梨音(あっすぅ)
    • 天府の地へサイトよりサルベージ。適宜修正済み。挿絵有。
      馬超と馬岱の服装は羌族の民族衣装を参考にしてます。
      梨音(あっすぅ)
    • 3馬岱詰め以前RaiotというイラストSNSにアップしてた漫画のデータが残ってたので、改めて描き直しました。
      アップしようとしてただけかもしれない…。
      梨音(あっすぅ)
    • 別離の岸辺サイトよりサルベージ。適宜修正済み。挿絵有。
      短いですが転換点的なお話。
      梨音(あっすぅ)
    • 某月某日サイトよりサルベージ。適宜修正済み。挿絵有。
      一度やってみたかった作中作と言うべきか?作中人物の書く文章だけで進むお話が書けて楽しかったもの。
      自分的にはお気に入りの章。
      馬良と趙雲が仲良くしてるのをもっと書きたかったけど、馬良はもう趙雲と会うことはない…
      梨音(あっすぅ)
    • 陸遜の結婚陸遜と朱然のCPってなんて表記するの??(これはCPなのか?)

      陸遜の奥さんが孫策の娘だったという事は陸抗の母が孫策の娘という記述から分かるのですが、孫策の娘だと陸遜と年が結構離れてる…?
      呉主の姪にあたる女性を二番目以降の奥さんにするかな~と考えると、初婚の正室…?逆にそうなると陸遜結婚おそかったのか…?
      とまで想像して、若い頃山越討伐に忙しすぎて独身長かった陸遜良いなぁ~とか思いました。
      一人目の奥さんが子どもできなくて離縁…とかも良くある話なので、そんなんでも全然ありそうですけどね。
      夭逝した陸抗の兄は最初の奥さんが産んだ可能性もある。

      陸抗の母が孫策の娘というだけで大喬の娘か分からないけど、孫策は孫策で若くして亡くなったので、他に子供を産むような奥さんが居たのかな~と思ったので大喬であってほしい。
      しかし改めて考えて孫家に対して思う所もあったであろう陸家の陸遜が孫家のご令嬢と結婚したっていうのはエモいですよね。
      梨音(あっすぅ)
    • BOOTHに「軍師殿と私」の紙版を追加しました。安くない金額出して買うまでの事はないと思いますが、もし興味ある方がいらっしゃいましたらよろしくお願いします。

      https://gesusu.booth.pm/items/2589683
      梨音(あっすぅ)
    • 4他勢力の人達(現パロ)原稿の息抜きに丁度良いんです…
      なんだか人のパーソナリティをネタにした漫画が多くて良くないなぁ…と思ったのですが、載せます
      関羽と張飛が現代人やってる姿が全然想像できなくて登場させられない
      曹丕はキラキラOLだとフォロワーに思われている
      梨音(あっすぅ)
    • 繰り返し見る夢サイトよりサルベージ。適宜修正済み。
      記憶からは失われていますが、タイトルお題をもとに書いたようです。
      一部孔明の一人称で進む部分があるなど、本編とは外れた番外編の様な扱いです。
      本編中で孔明が度々言っている「悪夢」の内容が主にコレです。
      梨音(あっすぅ)
    • 居場所サイトよりサルベージ。適宜修正済み。挿絵有。
      アンジャッシュ的な奴好きなんだろな過去の自分。
      梨音(あっすぅ)
    • 4性懲りもなく現パロ原稿の息抜きに描いてるつもりが楽しくて増えた奴。
      前髪と髭は偉大だなぁと思いました。
      梨音(あっすぅ)
    • 渇愛サイトよりサルベージ。適宜修正済み。挿絵有。
      サイト掲載時ずっと「喝愛」と誤字ってたんですが、「渇愛」が正しいです。
      初の孔明視点。
      梨音(あっすぅ)
    • 江南の姫君サイトよりサルベージ。適宜修正済み。挿絵有。
      この章については趙孔というより劉尚です。
      梨音(あっすぅ)
    • 2お香にまつわる四コマ以前もお香ネタのこの様な漫画描いた気もします…。孔明のイメージフレグランスはパチュリーだという事は延々と言っていきます。梨音(あっすぅ)
    • 聞こゆれどサイトよりサルベージ。サイト版より適宜修正済み。挿絵有。
      「聞く」というのは耳で聞くのと、香りを味わうのと両方いうそうです。
      梨音(あっすぅ)
    • 4現パロ(自分の)誕生日にはいつもやらないような事をやりたい!と思って描いたら楽しくなって続きも描いた現パロです。三国志のさの字も無いので閲覧注意。趙孔です。

      孔明は有能だが納期の融通とか一切認めない開発課のエースとして営業の間で有名になってるのを本人は知らない。孔明は経理課も似合うなー。サンドイッチ大きく描きすぎた。
      梨音(あっすぅ)
    • 窈窕たる淑女は何処サイトよりサルベージ。サイト版より適宜修正済み。挿絵有。
      「窈窕淑女」は詩経の窈窕の章がネタ元。
      桂陽の寡婦騒動はエンタメとして最高。
      梨音(あっすぅ)
    • 夢で逢いましょうサイトよりサルベージ。サイト版より適宜修正済み。挿絵有。
      改めて読むとなんだこの話は…ってなりますね
      梨音(あっすぅ)
    • 武器と仮面とすれ違いの興奮サイトよりサルベージ。文章適宜修正しています。紙媒体用に直してるのでWEBだとやや読みづらいかもしれません。
      作者の私自身が当時正真正銘若かったせいか、作中の孔明や趙雲の言動が妙に若いと云うか、軽いと云うか、そんな感じが強いのが少々気に入らないのですが、後半より彼らも実際若いしなと思って原文の雰囲気を残してます。
      今読むともうこの時点で無自覚に惚れてません?
      梨音(あっすぅ)
    • 一個上げ忘れてた↓梨音(あっすぅ)
    • 7小説本作る際の挿絵没絵です。1枚目だけ資料として描いた孫尚香。どの場面の絵かはご自由にお考え下さい。梨音(あっすぅ)
    • 4軍師殿持ち上げチャレンジクリスタ買ったので習作として描きました梨音(あっすぅ)
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