江南の姫君 突然、孫権からの急な遣いがやって来た。あまりに急な事だったので、劉備軍内は一時騒然とした。
「随分と急なことよ。また荊州の返還について申し立てて来たのではあるまいか?」
そう関羽が言うのも最もな話。先日劉備と孫権で荊州四郡の統治については話し合ったものの、孫権を始め孫権軍の諸将等は納得していない事を劉備軍の全員が知っている。
「周瑜が死んだから、当分は静かにしてるだろうと思ったんだがなぁ……」
先頃急死した周瑜は、劉備軍に対しては戦も辞さぬという気風もあった過激派だった。過激派の筆頭であった周瑜が死ぬと、次に軍の中心となった魯粛は一変して穏健派である。そんな事もあり、暫くは孫権軍との交渉も落ち着くだろうと、劉備軍の誰もが期待を込めて予測していたのだ。
しかしこうやって予見が外れて孫権からの急使がやって来た今、いつまでもああだこうだ言っても埒が明かない。
「待たしておくのも悪い。孔明、悪いが一緒に来てくれ。」
「ご随意に」
劉備は参謀たる孔明をつれて、急使との面会に臨む事とした。
「劉皇叔におかれましては、ご健勝そうで何よりでございます」
遣いとして訪れた男は一見して分かる程には身分の高そうな男で、使い走りとして寄越されたわけではなさそうだった。
「前置きは結構だ」
劉備はあしらうように手を振った。劉備という男は、今の身分になってもどうしたってこの類の社交辞令が好きになれないらしい。
「悪いが、早い所本題を頼む」
劉備の振る舞いに、使いの男は軽く面食らった様だった。側で見ている孔明は、失礼であると劉備をたしなめる事などしない。こちらのペースに持っていく事が、外交の場では何より有効だからだ。勿論、劉備は狙ってやっているわけではないだろうが。
「ではお言葉に甘え申し上げます。実は此度、劉皇叔は奥方を亡くされたと聞き及びました」
「む、むう……? 確かにそうだが」
事実、劉備は長年連れ添った妻を甘夫人を亡くしたばかりだった。もう一人の妻の糜夫人は、とうに亡くなっている。故に、劉備は今男やもめの状態だった。
「お悔やみ申し上げます」
「それは……わざわざ忝ない」
劉備の隣で聞いていた孔明は、口角の上がった口元を手にした羽扇で隠している。孫権が何と言って寄越したか、諸葛亮には既に見当がついてる。まぁ、外交の常套手段という奴だ。
「しかし皇叔が独り身というのも残念な事。そこで呉主は皇叔に一つ縁談を用意されたのでございます」
「えっ縁談!?」
やはり、と孔明は笑いが漏れそうになるのを堪えた。縁談の相手が誰なのかも少し考えれば予想がつく。だが孔明はあえて気配を殺して成り行きを見守っている。
「はい、呉主は自身の妹君をば皇叔の細君としてどうかとお考えであります」
「そ、孫権殿のいもうとー!?」
孔明は奥歯を噛み締めて笑いを堪える。ここでもやはり気持ちの良いくらい予想は大当り。孔明が凄いのではなく、少し考えれば思い付く様な事なのだ。
「し、しかし孫権殿の妹とあれば、私とはあまりに年が釣り合わぬというものでは……?」
孫権は孔明の一歳年少。その孫権の妹とあれば更に若い。既に五十を数えた劉備には、些か年が離れすぎていると考えるのが当然だった。しかしそんな事は勿論承知済みとばかりに、遣いの男は笑って返す。
「いやいや、皇叔が相手ならばそこらの若い男より遥かに良き相手と心得ております」
「し、しかしなぁ……」
劉備とて、これが純粋な結婚話ではなく、孫劉の同盟強化のための政略婚だとは分かっている。しかしそれにしたって、あまりに世代が違いすぎるのではないか。自分はともかく相手が可哀想であるし、世間の目も気になる。
劉備はちらと傍らの孔明に視線を送る。どうしたら良い?の意思表示だ。
「良きお話とは思いますが、少し考える時間も頂きたく思います。今日の所は一先ずこれにて。宿を用意させておきました故、そちらでごゆるりとお休みなされませ」
孔明も慣れたもので、予め脳内で用意していた台詞を話す。遣いの男も、ならばとにこやかに言われた通りに部屋を出ていく。それにしてもいつ宿を用意させたのか……良く気が付くこの若者に、劉備も頭が下がる思いである。
「孔明っ!!」
遣いの男の姿が見えなくなるや否や、劉備は孔明に飛び付く。
「縁談だとさ!? それも相手は孫権の妹だ!」
「ええ、私も聞いていましたから、存じておりますよ」
孔明はやんわりと己の肩を掴む劉備の手を外す。
「ど、どうしたら良いのだ!?」
「結婚なさるのは殿です。臣たる私がどうこういう事ではございませぬ」
「意地悪言いなさんな。お前の意見を聞かせてくれ」
劉備の哀願に孔明も思わず苦笑する。
「どちらかと言えば、なさる方がよろしいかと思いますよ」
「どちらかと言えば……? それは、軍師としての意見か?」
「仰せの通りでございます。しかし殿を想う臣としましては、お勧め致しかねます」
「ほう、なんで?」
「常識外の年齢差の政略婚が良いとは流石に。そして呉主の妹君と言えば、風変わりな姫君と聞き及んでおりますし……」
「風変わり!?」
「男勝りで、侍女にも武装させていると」
劉備の顔がさっと青ざめる。
「そんな姫だとは……。嫁のやり手が無いってんで、私に押し付けようと言うのではあるまいな」
「……では、殿は縁談を受けるお気持ちはあるのですか?」
「え、うーん……。我らの同盟の為には受け入れるべきとは……」
「流石劉備様。それでこそ我等がご主君」
孔明はにっこり微笑んでみせた。優しく微笑んではいるが、それが劉備に有無を言わせない無言の圧力になっている。
「こういう時の為に笑顔を出し惜しみしているんだろう、お前という奴は」
劉備は両手を挙げて、お手上げの姿勢。孔明はまたも苦笑した。
仮にも劉備の親族となれば、護衛任務は勿論趙雲の管轄だった。
主家や軍師の安全を守るのが趙雲の仕事である。そんな趙雲のもとへ、劉備の元へ嫁入りする花嫁を護衛する命が下るのは、当然と言えば当然であった。
孫権の妹――孫尚香は、供を連れて荊州へと南下してくる。婚前に劉備と会う事も無い。双方共に政略婚と承知の上であるため、そんな事はいちいち必要ではなかった。趙雲にはその道中を護衛せよと言うのである。流石に武人だけを遣わすのも余りに武骨過ぎやしないかということで、趙雲及び麾下の兵士数名の他に文官の者が多数連れ添う運びとなった。呉にも一時滞在していたという事で、文官の頭数として龐統も名を連ねている。
「良くお出でくださいました、士元殿。そして趙将軍」
趙雲達一行を出迎えたのは呉の重鎮・魯粛であった。柔和な雰囲気を醸しつつ、やる時はやる剛毅な所もある男である。周瑜死後の現在、孫権軍の軍事の大権はこの魯粛に任されている。今回の縁談の件にも間違いなく関わっている。
「こちらこそお久しゅうございますな、都督殿」
「そちらもご健勝そうでなにより。妹君は既に用意が出来ておりますとの由」
「そうですか。あちらに馬車を用意させておりますので」
趙雲が言うと魯粛は慌てて手を振る。
「いやいやそんな、そちらでわざわざ用意なされたとは恐縮な……」
「劉左将軍のお計らいです」
実際は孔明の発案だったのだがこの際は良いだろう。
「私が馬車なんて。嫌よそんな退屈な」
「はい、そうです。妹君は馬車より馬を操るのがお好きで……え?」
「えっ?」
いつのまにか、二人のすぐ傍に娘が一人立っていた。赤茶の髪に、青い瞳。周りの者とは明らかに一線を画すその特異な容貌。背丈は小さいが良く鍛えられているのか、些か露出の多い服から伸びる白い手足は、引き締まっていて実に健康的だ。外見の特徴を足していけば、他の者とは間違えようがない、一人の人間が浮かび上がる。
「もしや、呉妹君であらせられますか」
そうとしかありえないと思いつつ、信じられない様な気持ちで趙雲は問う。今から他家へ嫁入りしようという姫が、こんな軽装でろくに飾り立てもせず、家臣の前に現れようとは。飾り立てていないどころか、尚香の格好は良家の子女とは思えない軽装ぶりである。
「そうよ、私が尚香。貴方は?」
未だ幼さの残る顔に見合う高い声。口調もまた深窓の令嬢とは思えない、たおやかさとはかけ離れたものである。市井の娘子よりもよっぽど勝気な印象さえする。
「ええと、私は劉玄徳が家臣、趙子竜と申します」
趙雲はとりあえず拱手をして礼をしてみせた。
「へえ、貴方が趙子竜……。聞いた事あるわ。で、趙将軍。私は馬車には乗らない。愛馬に乗っていくから心配いらないから」
「へっ……?」
馬車に乗らずに馬に乗る気なのか?聞き間違えかと思ったが、魯粛が呆れ顔で尚香を止めにかかっている辺り、そうではないようだ。本気で馬に乗って行くつもりらしい。
「相変わらずだねぇ、妹君は」
「龐統殿?」
「お姫様扱いされるのが大嫌いなお方なんだ。おまけに頑固。ここは大人しく、やりたい様にやらせてやるのが良いね」
「しかし……、それでは殿に怒られてしまいませんか?」
「殿ならこういう娘だと承知済みさ。だから問題ない」
「は、はぁ……」
龐統がそう言うならばと趙雲も承諾するしかない。
尚香は宣言通り自身の愛馬であるらしい馬を用意させ、ヒラリと跨がった。尚香の侍女の女達も同様に、用意してあったらしい馬の背に次々と乗っていく。
趙雲としては正直馬車を護衛するだけの方がよっぽど楽なのだが、口で言うだけはあり尚香はなかなかの乗馬技術があるようなので、大人しく周りを囲むだけにした。
そもそも馬での移動はほんの僅かで、あとは専ら船を使う事になる。尚香も、船に乗る事については黙って趙雲の指示に従った。
流石に船の中では幾分か大人しかったが、趙雲は始終尚香の見える位置を陣取った。尚香の護衛のため……というよりは、尚香を監視するためといった方が近いかもしれない。
この娘は何をしだすか分からない。出会って数刻に過ぎないが、既にそういう印象が趙雲の中で出来上がっている。しかし喜ばしい事に、取り立てて何も起きないまま船は目的地に着いた。
「あの港が目的地?」
船の切っ先に立った尚香が河岸を指差して言う。その先には既に迎えの一帯が趙雲達の船の到着を待っていた。
「はい、そうです。下船の準備をそろそろ……」
尚香は聞いているのかいないのか、さっさと侍女達の方へ行ってしまった。自由奔放な事この上ない。
「お、孔明も来てるねえ」
龐統の言を聞いて陸を見ると、確かに兵達の中に黒い道衣を羽織った孔明の姿が見えた。反射的に手を振りそうになったが、振り替えしてくれそうもないので咄嗟に手を下ろした。そんなこんなで船は無事に着岸した。
「では呉妹君を……」
と言いかける間に、趙雲の前をサッと小さな影が通りすぎた。まさかとは思ったが案の定尚香である。船内の誰よりも早く船をかけ降りた。かえすがえすも、姫の身分の者のやる事ではない。
「よっと。お出迎えありがとう」
突如現れた小娘の姿に、流石の孔明も驚きを禁じ得ない様子だ。
「貴女は?」
「じゃあ逆に訊くけど、貴方達は誰を待っていたって言うの?」
「……まさか、孫姫であらせられますか?」
いかにもと、尚香は得意満面な笑みで頷いた。目を白黒させた孔明は二の句が継げないでいる。噂は聞いていたが、まさかこれ程までとは。おまけに聞いていた年より若干幼くも見える。ただでさえ劉備とは常識外の年齢差だというのに、余計夫婦に見えそうにない。
一、二回咳払いをしてから、気を取り直して切り出した。
「……これは失礼致しました。私は劉備軍の軍師・諸葛孔明と申します」
一度頭を下げてから、孔明は奥に待たせている馬車を羽扇で指し示した。経済的に余裕のない劉備軍がなけなしの豪華な車だ。
「あちらに馬車を用意させてございますので、どうぞ」
「馬車は結構よ。馬を連れてきたから」
はい?と孔明が問い返す前に、船から馬が下ろされてくる。確かに名馬だ。江南では中々手に入るまい……と思わず観察をしてしまう。馬を牽いているのもまた、男ではない。尚香の侍女だろうか、尚香と同じく男の様な軽装をしている。何から何まで、孔明には予想外の光景だった。
「孔明、孔明。ここは姫の言う通りに」
ゆったりと船を降りて来た龐統が、いつの間にやら孔明の隣に来て言った。
「士元……」
「言い出したら聞かないんだ、あのお姫様は」
龐統は声を抑えずに言うが、言われた尚香の方も気を害した素振りもない。むしろ、分かった?とでも言わんばかりの顔だ。
「……分かりました。お好きな様に」
「ええ、ありがとう」
尚香は承諾を得るや、颯爽と騎乗する。流石になれたもの、そこらの男より身軽であるのばかりは孔明も少し感服した。
「孔明殿……」
その頃やっと船を降りてきた趙雲がおずおずと話しかける。
「子龍殿。あの、向こうからあのご様子で?」
「いかにも」
「…………」
孔明は頭を抱えた。趙雲も正直、頭が痛い。
「何をなさるか予想がつきません。お手数ですが、目を離さずよく見張っておいて下さい」
「はい、そのつもりですが……」
「何か?」
「いや、孔明殿でも予想がつかない事もあるのだなと思いまして」
趙雲がくすりと笑うと、孔明は軽く顔をしかめた。
「ああいう手合いの人間は、一番分かりません」
あまり真面目に言うものだから、思わず笑って返しそうになったが、尚香が今にも出発せんとしているのが見えて、慌てて後を追う。趙雲が急いで馬に乗ると、周りの者達もバタバタと出発し始めた。孔明と龐統は、行列の後ろの方をゆっくりと進んだ。
「呉妹君、勝手に進まれては危ないですよ」
趙雲が尚香に追い付いて言う。尚香も馬の扱いはなかなかだが、それでも趙雲には敵うべくもない。
「私をお嬢様扱いするのはやめて欲しいわね」
「ですが、これからは劉備様の正妻となられるお方です。万が一何かあれば困りますので」
趙雲が言うと、尚香は途端に不機嫌になって急に馬を急がせた。一歩遅れて趙雲も追う。あっさり趙雲に追い付かれたのがまた癪に触ったのか、尚香は更に速度をあげる。勿論趙雲も合わせるように速度を上げた。
その繰り返しで、予定よりあっという間に宮殿へと着いた。だが、後続はほとんど脱落している。
「や、やるわね……」
息を切らした尚香が趙雲を睨みつける。趙雲の方は特に疲れた様子もない。尚香とはやはり鍛え方が違うのだ。
「呉妹君、勝手に駆けさせては後続はついて来れません。以後はこの様な勝手な真似は……」
「わ、分かったわよ」
渋々という雰囲気は隠せていなかったが、こうも自分との実力差を見せつけられては反抗する気も失せるらしい。後続の到着を待ちつつ尚香の息が整うのを待つ。
「あれ、子龍。もう着いたのか? 予定より随分と早いな」
思いがけない声。驚いて周囲を見渡すといつもより多少着飾った劉備が、こちらに歩いて来る。張飛と関羽の二人も一緒だった。
「劉備様」
「りゅうび?」
騎上したままの尚香がピクリと反応する。劉備も尚香の方に気付いた。
「ん、誰だその女の子」
「ッ!」
「姫様! 我々を置いていくなんてあんまりですわ!」
間の悪い事に、今になって後続がチラホラ現れ始めた。尚香の侍女達の姿も見える。
「姫様って、まさかこの娘ッ子がかあ!?」
たまげたと言わんばかりに張飛が言うと、すかさず尚香は即座に噛みついた。
「何が娘っ子よ! 私が孫尚香。文句ある?」
想定外の凄い剣幕に、張飛はもちろん劉備も関羽もたじろいだ。容貌魁偉と言って差し支えない外見の張飛に対してこの物言いとは、見上げた度胸ではある。内心、この光景が面白くなってきた趙雲であった。
「ほー……。話には聞いてたけどこれ程とは」
次に口を開いた劉備にも、尚香は思いっきり睨み付けた。
「どうせ男勝りのじゃじゃ馬って言うんでしょう。ふん、言っておくけどね、私はアンタの妻になった気なんて全然ないから!!」
「なっ……」
こればっかりは、一同も呆気にとられる。趙雲も思わず絶句した。仮にも嫁入りに遠路はるばるやって来た娘が切る啖呵ではない。
そんな周囲の茫然ぶりにも意も介さず、尚香の気炎は凄まじかった。
「ここならうるさいお兄様がいないからちょっと来てやったってだけよ! そういう事!」
言い終わるや、尚香はまた馬を進ませる。趙雲達は皆ポカンとして尚香の後ろ姿を見送る他無い。
「ちょっと! 私の住まいにだれか案内しなさいよ!」
尚香の怒号に、下仕えの女達が慌てて先導を始める。そのまま尚香は侍女達を連れて、去って行ってしまった。
「…………」
嵐が去った静けさか、誰も言葉を発せずにいる。結婚の為に劉備軍へ来たのに、妻になった気は無いときた。あまりの事態に皆々顔を見合わせている。その頃ようやく、遅れていた孔明と龐統が到着し沈黙を破った。
「あんまり急ぐのはやめて欲しいねぇ。馬を操るのは得意じゃないんだ」
「皆様お待たせしてすみません。……ん?」
二人とも、場のただならぬ空気を敏感に感じ取った。
「如何したのです、押し黙って顔を突き合わせて。殿までいらっしゃる。それに孫姫は何処へ?」
「……孔明……」
ようやく口を開いたのは劉備だった。アンタに嫁いだつもりはないとまで言われてしまった、婿どのである。周りの者等も、なんと声をかけるべきか分からないくらい、面目を潰されている。
「いやあ、あの娘噂で聞いてた以上だな。次兄じゃなく長兄に似たな、あれは」
「お会いになられたのですね? 私も同感でございます。して、その娘子は?」
「行っちまったよ」
劉備は宮城の奥の方を指さした。尚香の寝所として用意された一室がそちらにあるのは、孔明も話し合いに加わったので知っている。そうは言っても想定外の遭遇だったとはいえ、結婚相手を前にして立ち去ったとは釈然としない。孔明も龐統も互いに顔を見合わせた。
「おまけに私の妻になったつもりは無いんだと」
「えっ?」
「口うるさい兄がいないから来てやったんだそうだ」
孔明は絶句した。一方で龐統は多少予想はしていたのか、ヤレヤレといった表情だ。
「……はぁ、まぁこの際それでも構いませんか」
「えっ」
暫く間を置いて孔明が次に発した言葉に、一同は唖然とした。劉備と龐統だけが、うんうんと頷いている。
「形だけでも結婚が出来てれば構わないと思うね、うん」
「正直な話、こんなオヤジと結婚させられちゃたまったもんじゃないだろうからなぁ~」
そんな事で良いのか?と三人を除く皆が一瞬思った事だろう。だが主君と軍師二人が口を揃えてこう言っているのだ。それで良いんだろうと、なんとなく納得した空気が流れた。
「とは言え、建前上でも殿の妻君として振舞って頂く必要があります故、勝手な行動は許されません」
「だな。子龍!」
「はっ、ここに」
「お守りを頼むぞ」
「御意……えっ?」
打って変わって今度は皆揃えたようにうんうんと頷いている。この空気は最早覆せない。趙雲は尚香の監視役を押し付けられてしまった。
「ついて来ないでよ!」
思った通りというか、尚香の反応はあまりに趙雲の予想通りだった。歓迎されるとは思っていないが、こうもけんもほろろな態度をされると護衛もままならない。
「護衛として、貴女の側を離れるわけにはいけないのです」
「だからってもうちょっとやり方があるでしょう!? こんな常に視界の中にいるなんて、女の子に対して失礼だとは思わないの」
こんなはしたない恰好をして、馬を乗り回りしてるのに何が女の子だ……と思うのは仕方がないというものだ。だがここで言い返しては余計反発をくらうだけだろう。何をしでかすか分からない反面、上手く扱えば御しやすそうな所は助かる。趙雲はただ黙々と任務をこなすのみ。
「これが私の仕事ですので」
仕事だと割り切ってしまえば、何と言われようが我慢できる。趙雲は仕事の出来る男である。
「哀しいわね、仕事人間は。そんなんじゃ恋人も出来ないでしょう」
「…………」
「もしかして、私の事が気になったり?」
「なっ……!」
……平常心平常心。この娘の調子に流されてはいけない。向こうもわざと趙雲が怒りそうな事を言っているのだ。
「ご主君の妻君にその様な事、万が一にもございません」
「妻君じゃないってば!!」
尚香は子どもの様に頬を膨らまして拗ねる。こういう所は、微笑ましくて不覚にも可愛い。よく見れば顔も充分に綺麗な造りをしているのだが、妻にとなったらやはりどうであろう。とは言えそれはあくまで趙雲の嗜好の問題である。
実の所趙雲としては、なんだかんだで劉備とは似合いなのではないかと思う面もある。勿論、主君の妻君としてはもっと落ち着いた才女が相応しいのだろうが、単純に劉備の雰囲気に合う様な気がした。劉備も生まれのせいか、令嬢というよりは元気でどこか庶民的な女を好むのだ。
「でも正直同情するわよ。こんなじゃじゃ馬のお守りなんてさせられてね」
「……その様な事は」
「本当だったら、もっと自由に時間を使えたのに。貴方モテそうだし、残念ね」
「……その様な事は……」
「あらあら嘘が下手なこと。その分じゃ凄い女泣かせだったりして!」
尚香の高い笑い声がこめかみに響くが、気づかないフリをした。確かに趙雲は嘘をついたが、それはモテる云々ではない。時間を制約されるのが歯痒いという方だ。決して楽をしたいわけではないが、尚香を一日中見張るというのは流石に骨が折れる。護衛には慣れているつもりだったが、こんなに長い時間女性につくのは流石に経験が無い。女性相手では勝手が違う。
……そう、趙雲もやはり女性相手に気後れしているのだ。いかに仕事と割り切っても、完全に割り切れる筈がない。
「かっこいいし背が高いし、モテるわよねー」
なおも尚香はからかうように言い連ねている。
「……ご想像にお任せします」
それでも一言、二言なにか言ったが、趙雲が乗って来ないと分かると、やがて尚香はつまらなそうにため息をついた。かと思った次の瞬間には顔を輝かせて趙雲の顔を覗きこむ。
「ねぇ、暇なら武芸の稽古つけてくれない?」
「え?」
「どうせ私についてなきゃいけないなら時間を有効に使いましょうよ。私もそれなら文句無いし」
主君の妻君に武芸の稽古をつける武将がどこにいる。これ以上じゃじゃ馬ぶりに拍車をかけるのもどうかと思われた。
「妻君におかれましては、詩歌管弦のタシナミをですね……」
「するわけないでしょ!!」
小柄を投げられた。が、当然趙雲はなんなくかわした。一応こんな女らしい物を持っていた事にむしろ趙雲は驚いた。髪を結う以上、男でも携帯する者は多いのだが。
「流石の反応ね、この距離でかわすなんて。お願い! 稽古つけてよ!」
「私の立場もあります。何卒ご勘弁を」
「お願いってばぁ~!」
「……仲が宜しいようで何よりでございます」
「きゃあっ! いきなり何よ!」
趙雲も驚いた。いつの間にか孔明がすぐ後ろに立っていたのだ。
「軍……孔明殿」
ようやく最近字で呼ぶ事にも慣れてきた。呼ばれた孔明の方は、横目で趙雲を見ながら小さく頭を下げた。
「殿に言われて参りました。姫君に手習いをつけて差し上げろと」
どうやら尚香の考えそうな事は、劉備にもお見通しだったらしい。武芸の稽古等を始める前に、先に課題を押し付けてしまおうという算段のようだ。
「それで孔明殿をわざわざ?」
「相手が姫である以上、教える人間が誰でも良いというわけにはまいりません。そもそも、我が軍には学がある者が少ないし……」
孔明はどうして私が、と言わんばかりにため息をついた。孔明とてやらなければならない仕事があったろう。
「龐統殿は……」
「彼は師には向きますまい」
納得。孔明にひけをとらない才子ではあったが、勤務態度はお世辞にも立派とは言えない。
「で、何なのよ手習いって」
「書でも読もうと考えておりましたが、お望みとあれば楽器でも」
「孔明殿は……何かお弾きになられるので?」
「琴ならば手慰み程度に」
士たる者、楽器の一つはこなせないとならない。とは言え、孔明が何か爪弾く姿を趙雲は一度も見た事が無い。故に驚いた。それに何より孔明が楽を好むというのが意外でもある。暇な時は書を読んでいる姿しか思い付かない。最も、この男に潰すほどの暇があるとは思えないのもまた然りだった。
「そんなに意外ですか? 私が楽器を扱うのが」
よほど顔に出ていたのだろうか。孔明は怪訝さと憮然さがない交ぜになった様な表情で趙雲を見た。
「確かに私は風流人とは程遠いですが、これでも釣りも嗜みます」
「釣り……」
太公望のイメージが重なるのか、琴よりは幾分か孔明に似合う気がする。
「……って、姫君は?」
「えっ?」
二人が話し込んでいるうちに、渦中の孫尚香は忽然と姿を消していた。
「私を無視して話すんだから、ザマーミロだわ」
孔明と趙雲を撒いた尚香は、行く宛もなく宮殿内をさまよっていた。まだ宮殿内の地理は頭に入ってないので、とりあえず人目につかなそうな道を選んでぶらぶらしている。
「手習いなんて、こりごり」
建業にいた頃から勉強や楽器は嫌いだった。男勝りと言われても、野原を駆け回る方がずっと好きだった。大体、何のためにそんな事をしなければならないのか分からない。結婚のため?男を喜ばせるため?そんなの糞喰らえである。そんな事のために、したくも無いことを強要されるなんてごめんだ。
イライラしながら前を進んでいると、刹那バランスを崩した。植林の中を掻き分けて進んでいた時の事である。つい木の根に足を取られて、なんとか前に倒れまいとした所逆に後ろに倒れてしまい、盛大に尻餅をついた。
「痛ったーっ!」
「誰かいるのか?」
しまった、誰かに見つかってしまった。このまま隠れて侵入者と勘違いされて攻撃でもされたら敵わない。孫尚香は潔く植木から身を現す。
「私よ、孫尚香よ! 剣なんて向けたらただじゃおかないから」
しかし、尚香が顔を上げた先には武装した兵などいなかった。そこには思いもがけない人物が一人――劉備である。劉備が一人で庭先に筵をひいて、縄を編んでいる。
――縄?俄には信じがたいが、尚香にはそうとしか見えなかった。
挿絵梨音(あっすぅ)
「ああ、孫家の姫さんか」
「……何をしてるの?」
思わず、尚香は訊いていた。
「見ての通り、縄を編んでるのさ」
それは分かる。問題なのは劉備のような身分の者は普通、縄は編まないという事である。そんな事は身分の低い百姓風情がやる事だ。尚香に至っては、実際に人間が縄を編んでいる姿を見る事すら、初めてだった。
「なんでそんな事をしているの?」
「趣味だな」
劉備は平然と答える。喋っている間も休まず動かされる手は、驚く程に器用だった。こうして会話をしている間にもちょっとずつ縄が出来上がっていく。
「趣味? そんな浅ましい真似が趣味なんて」
「女だてらに馬を乗るのが趣味ってのと、おかしさではどっこいだと思うがね」
「なんですって!」
「はは、冗談冗談。私自身これが仮にも一城の主のやる事じゃあないと思うさ」
劉備がカラカラと笑うので、尚香もサッと立ち上った怒気のやり場に困る。仕方がないので怒りはひっこめた。
「でもたまにはこうやって、何も背負ってない身軽な頃の真似をすると、楽になるんだよ」
「何も背負ってない……身軽な頃……」
尚香も知っている。劉備は身分も家柄も財も土地も無い庶民の上がりだと。多くの者は、それを理由に劉備を嘲った。だが尚香は――少しそんな身分に興味があった。尚香もたまに思う事がある。庶民の娘に産まれていれば、もっと自由にやりたい事をやれたのだろうかと。
「その頃って、どんな感じだったの?」
「聞きたいか? 別にどこにでも転がっている、つまらない身の上さ」
「聞きたい」
どこにでも転がっているというそれに、尚香は触れた事が無かった。手指が覚えているのか、劉備の視線がこちらに向いていても縄が出来上がっていくのを、尚香は純粋に凄いと思った。
「じゃあ立ち話もなんだから、こっちに来て座ったらどうだ?」
劉備は自身の座る筵を示した。劉備が少しつめれば、筵はもう一人座るのには充分な大きさだった。
「ん」
尚香は言われた通り劉備の隣に腰をおろす。地べたに筵を敷いただけの状態に座る事も、尚香にはあまり経験の無い事だった。
「この筵も私の手作りなんだぞー?」
「えっ、凄い。器用なのね」
「まぁ仕事だったからな!」
劉備はまた、口を大きく開けてカラカラと笑う。異性とこんな隣り合わせに座るのは、兄達や周瑜以来だった。最近では兄ですら体温の感じる距離に座る事はない。劉備は兄達や周瑜にも、全然似ていない。それなのに何故か懐かしく、落ち着いて感じられるのが不思議だった。
「あっ、あんな所に」
「殿とご一緒の様ですね」
趙雲と孔明の二人は消えた尚香を探して、暫く捜索を続けていた。それがまさか劉備の所にいたとは。なるほど、なかなか見付からないわけだと二人は顔を見合わせた。
「あんなに殿を嫌ってらっしゃる風でしたのに、何やら楽しげに会話をされてますね……」
二人は茂みの奥に身を潜ませて尚香達の様子を観察する。筵に仲良く腰かけてなにか話しているようだ。会話の内容は聞こえないが、時折笑い声が聞こえてくる。
「……このまま、そっとしておきましょうか」
その微笑ましい光景を壊すのは、趙雲には憚られた。
「ですが貴方の仕事は姫君の護衛なのでは」
「あっ……。ならば、ここから二人を見守ります!」
「……では私は帰って良いですかね。仕事に戻ります」
「えっ」
確かに護衛の趙雲はともかく、勉強をみる筈だった孔明はこの状態ではいかんともしがたい。
「いつ会話を終えられるか分からない事ですし、ここでお待ちになっては?」
「……当分終わりそうにないのですが」
とは言いつつ、孔明は上げかけた腰を再び下ろした。一緒にここにいてくれるらしい。最近は少し、孔明にも打ち解けられたんじゃないかと思っている。
「……なんですか?」
「え?」
「ヘラヘラなさっているので」
ヘラヘラなさるという言い方も珍しい。とにかく顔に出ていたらしいので、奥歯を噛み締めた。
「何を話しているんでしょうかねえ」
「お二人の共通の話題など、思い付きませんが……」
本当は、どんな内容でもどうでも良かった。尚香と劉備が仲良さげに話している姿が見れるだけで、趙雲は嬉しい。