干天の慈雨 雲の多い夏の成都では纏まった雨が降ることは珍しくないにしても、今日の雨は特別だった。成都へ向かうには眼前に揺蕩う沱江を越えねばならぬのだが、生憎この近くで唯一の橋は数年前に落とされており、近隣の住人は専ら渡し船を使って対岸へ移動するらしい。
しかし今宵の大雨の前ではそれも叶いそうになかった。元々橋があった場所であるが故に船は一様に小型で、水嵩が増し高波に揺れる沱江の上を渡るに耐え得るものではない。貴重な現金収入の機会として普段は積極的に呼び込みをする俄船頭たちも、船を岸に揚げる作業で手一杯という所であった。
「沱江を越えるつもりなのかい」
雨に打たれながら呆然と引き揚げ作業を眺めていると、こちらに気付いた船頭の一人が声を掛けてきた。
「ええ、成都へ行きたいんです」
「今日はもう出る船は無いよ。諦めて一晩待ったほうが良い。水嵩が引かなきゃ、明日もどうなるか分からんがな」
それは困る。路銀にさほど余裕がなく、出来れば1日でも早く成都に到着したいのだ。
「どのくらい先へ行けば橋はありますか?」
「橋?ずっと南下した先にあるらしいが、それなら雨が止むのを待った方が早いだろうな」
渡し賃のアテが無くなるのを危惧して言ってる風でもない。どちらにせよ数日を要するならば、遠回りせずここで待った方が賢明と言えそうだった。
「あれが完成すれば一番だけどな」
男は顎をしゃくって雨で霞む向こう側を示した。言われるままにそちらを見ると剥き出しの橋の足場だけが点々と水中に連なり立っており、また岸辺には乱雑に木材が積まれているのが分かった。橋の建設途中なのだろう、という事は分かった。
「元々あそこには橋があったんだ。それを立て直している所ではあるんだが……、完成はいつになるか分かったもんじゃない」
「橋はどうして無くなったんです?」
「兵士たちが落としていったのよ。劉皇叔の軍が成都に向かってくるって時に、前の殿様が落とすよう命じたらしい」
「なるほど……」
敵軍の進路を食い止めるために橋を焼くというのは良く聞く話ではある。周辺住民にとっては堪ったものではないが、相手が益州牧では意見をするわけにもいかなかっただろう。
「橋の建設は何故滞っている?」
ふと、妙に高い所から雨音に混ざって声が落ちて来た。振り向くと、背の高い男がいつの間にやらすぐ後ろに立っていた。深く被った笠で顔は見えないが、己ではなく船頭に訊いたものらしい事は質問の内容から分かる。
男は続けて問うた。
「半年前には着手されていた筈だが。軍がその為にやった来ただろう」
「ああ、そりゃ詳しい事は分からねぇが、なんでも責任者が捕まったらしいよ。そのせいで工事が止まらざるを得なくなったらしい」
「捕まった……?」
「どんな罪状かは知らんがね。お偉方の揉め事だろう。何でも良いから早く再開してもらいたいもんだ」
「ふぅん……」
男はそう言い残し、雨粒を意にも介さず工事現場跡の方へ向かって行った。そうしてそのまま辺りを伺っている。
「とにかく小僧、今日は諦めな。さっさと今夜の宿でも探した方が良い」
船頭の言う事も最もだ。本来今時分の季節ならば野宿でも構わないのだが、今宵の雨ではそうもいかない。旅程はまだ続く以上、風邪を引いている場合ではないのだ。
「村に宿はありますか?」
すぐそばの村を指差して訊く。船頭は当然この村の人間だろう。
「成都への通り道だからね、あるにはあるがそう数は無い。小僧の前にも渡河を諦めて戻った奴等が居たから空きは少ないと思うぞ」
「それは大変だ」
謝辞もほどほどに村へ踵を返す。全身とっくに濡れ鼠で、服を乾かし暖を取らねば体調を崩しかねない。びちゃびちゃと不快な音を立てる革靴を宥めすかして、急いで屋根の下へと向かった。
「本当に部屋はそこしか空いてないんですか?」
「そうだよ。この大雨で今日はどこもいっぱいなのさ」
宿のおかみが嘘を言っていない事は、屋敷の奥から聞こえる雑踏や人いきれから分かる。この大雨で足止めをくらった旅人達が皆こぞって宿を取ったがために、村に唯一の宿は残り一室を除いて満室だった。
ならばその部屋に泊まれば良い話ではあるが、宿で一番上等な客室と言われては二つ返事で借りるというわけにも行かない。一応値段を聞いてみたところ、払えなくはないがこの先の旅程に大いに不安が生じる、現実的ではない金額だった。
「うう……」
「子どもをこんな雨空に曝すのも忍びないけどねぇ、こっちも商売だからね」
おかみを恨む気はない。人生この方ままなったことのほうが少ないのだ。仕方がない、どこかの軒先をこっそり借りよう。そう決めて引き返そうとした瞬間、暗い影がサッと下りてきた。
「すまない、部屋は空いているか?」
影はふいに現れた男が灯りの光を遮ったせいだった。随分背の高い男だ。上背があるだけでなく、体付きががっしりとしており、厚みがある。腰に剣を履いているので武人なのだと分かるが、ずぶ濡れであるとはいえ整った身形をしている為に無頼の印象はない。
「残り一室空いてはいるけどね」
そう言っておかみはこちらを見た。
「この子が借りようとしている所だったのよ」
「む?」
男がこちらを見た。なんとなく既視感が生まれてよくよく観察してみれば、先程河岸で会った男であった。笠は流石に屋内へ入る前に外したらしく、今度はバッチリ目があった。
「ああ、そうだったのか……」
「あ、いや、オレは」
「良ければ相室というわけにはいかないだろうか?」
「えっ?」
「そりゃあ良い!」
こちらが応える前におかみがパチンと手を叩いて言った。
「空いてる部屋はこの宿で一番広い部屋でね、二人でも充分さね。床と長椅子があるから二人でも寝れるよ」
「それは重畳。床は君に譲る」
「えっと」
「宿賃は折半……、いやこちらが後から来た身だ。六割出す」
「お願いします」
渡りに船とはこの事だ。いや、船には乗れなかったのだが。
「じゃあ決まりだね。料金は先払い、払った後に部屋へ案内するよ」
おかみがそう言うと、男は躊躇いもせず宣言通り六割分の銭を出した。正直宿を出ようとしていた所だったために四割負担は申し訳なくもあったのだが、男が懐から取り出した財布には明らかに銭が詰まっている。ここは黙って四割に甘んじさせて頂くことにしよう。
「はい、確かに確認したよ。鍵を取ってくるからちょっとお待ちよ」
おかみが奥の部屋へと消えていくと、男はそそくさと懐から手ぬぐいを取り出した。身体を拭くのかと思ったが、そのまま拭き始めたのは腰に佩いている剣だった。見るからに装飾の豊かな素晴らしい剣だ。これほど見事なものは田舎暮らしのこの身ではそうそうお目にかかれない。
この様な値の張りそうな品を堂々と腰から提げていたのではおちおち一人で外も歩けないのではないかと思ったが、相当な命知らずでもない限り目の前の男から物を奪おうとする輩もいないだろう。男は、逞しい体躯をしているのは勿論だったが、身のこなし等から只者ではない雰囲気をしている。
剣を拭こうとしたは良いが、手ぬぐいまで濡れきっており殆ど意味をなさなかったようだ。男は仕方なく手ぬぐいを再び懐にしまい、そしてその一部始終を見られていた事に気付くと、照れ臭そうにはにかんで声を発した。
「とんだ大雨だな。すっかり濡れ鼠だよ」
「ええ、オレも本当は今日中に河を渡るつもりだったんですが、この雨では」
「まだ幼いのに旅をしているのか?」
「十五です。もう元服してます」
「ああ、これはすまない。私も家を出たのはその頃だったが、旅行ではあるまい?」
「成都へ向かうところです」
「何の用で」
「軍に入るために」
素直にそう答えると男の目の色がスッと変わる。妙な緊張感が生まれたところで、ちょうどおかみが鍵を携えて戻って来た。
「さあさあ、こっちだよ。ついてきて。なかなか良い部屋だからね、驚くかもよ」
「それはありがたい」
いつの間にか、拍子抜けするほど男の雰囲気は完全に元に戻っていた。夢でも見ていたかのような錯覚さえ覚えるが、そんなハズはない。おかみと和気あいあい会話をしている広い背中を観察して、薄く汗の滲んだ右手をぎゅっと握りこむ。
まだ武人と称するには年齢が若すぎる事は承知しているが、それでも村の子どもでは一番の剣の遣い手だった。相対した人間が武の心得があるかくらいはすぐに分かる。男は間違いなく相当な遣い手だ。先程の反応を見るところ、恐らく軍の人間だろう。ここでこうして出会ったのも何かの縁かもしれない。
「さあここだよ」
おかみが案内したのは長い廊下の突き当りの部屋だった。周囲の扉からはざわざわと喧騒が伝わり、おかみの言う通り満室であるのが窺える。
おかみが手の内の鍵を使って扉を開ける。大言するだけありなかなかの広さの部屋で、確かに布団の敷かれた床と、人が寝そべる事が出来そうな長椅子もある。とは言え丈高い男が寝るには見るからに窮屈そうであり、床は譲ろうと密かに決めた。
部屋の奥にはなんと小型ながら竈があり、そばにはしっかり薪も積まれている。小さな鍋が備え付けられており、湯を沸かす程度ならこれでまかなえそうだった。
「薪は自由に使って良いからね」
「なるほど、これは確かに良い部屋だ」
男の言う通り、本来であればこれほど上等な部屋にはとても泊まれないだろうと思った。
「手ぬぐいも一枚ずつ貸すから、明日の朝にはちゃんと返しとくれよ」
「随分親切な宿だな」
「この部屋の客だけ特別さ」
そう言って部屋の鍵と清潔な手ぬぐいを二枚男に渡すと、おかみは早々と部屋を出ていった。
「早速火をつけるか」
男は慣れた手付きで薪に火を点けた。良い身形をしている割には妙に手慣れている。
「すまないが服を脱いでも構わないか?君も乾かした方が良いだろう」
「どうぞ、じゃあオレも遠慮なく」
初対面の人間を前にして裸体を晒すなど通常ならあり得ない事だが、その様な綺麗事を並べている場合でもない。濡れそぼった服を脱ぎ、手ぬぐいを腰に巻いてから脱いだ服を絞る。多少床が濡れたがどうせ竈の熱でじきに乾くだろう。
男の方も躊躇いなく服を脱いで長椅子の上に並べていた。第一印象の通り大変に逞しい体躯はしていたのだが、それ以上に全身に渡る傷痕に驚かされる。まじまじと見ていると、視線に気付いた男が困ったように顔を上げて言った。
「すまない、やはり見て気持ちの良いものではないかな」
「あ、いや、すいませんこちらこそ」
「人に肌を見せる機会がそう無いのでな……やはりそういう反応になるか……」
男は妙に気落ちしている。
「妻子はいないんですか」
妻や子がいれば自然と見せる機会には恵まれるだろうとの想いから訊くと、意外な答えがすぐに返ってきた。
「結婚はしていないな」
「へえ……」
稼ぎが充分にあり、背も高く良く見れば顔だって随分整っている。それだけ条件が揃っていて何故と思ったが、初対面でそこまで訊くのも流石に失礼だろうと感じ、代わりに別の事を尋ねた。
「やはり戦場で負った傷なんですか」
何気なく探りを入れると、男はすんでの間黙ってこちらを観察してから答えた。
「私が軍人だと?」
「姿を見れば大体。そうでなければ、金持ちの用心棒か食客かという所でしょう」
また例の怖い視線を向けられるかと思ったが、存外柔和な表情で返してくる。
「まあ私が商売人という方が無理はあるだろうな。確かにどれも戦で負った傷だ」
軍にいる限り綺麗な身体で居られようとは思ってはいないが、男の場合はこれだけの傷を負ってよく今も生きているなと思わせる程だ。余程の修羅場を掻い潜ったのだろう。
「すまないが、これ以上の詳しい素性は機密があって話せない」
「名前も訊いてはいけませんか」
一晩一緒に過ごす仲だ、名前も知らないでは却って不都合がある。男は一瞬逡巡したが、沈黙など無かったようにサラリと答えた。
「私の事は子龍と呼んでくれ」
姓名ではないだろうから、字か、もしかすると偽名を使われたかもしれない。だとしてもそれをなじる謂れもこちらにはなかった。
「子龍さんですか。オレは秦統と云います。字はないのでそのまま秦統と呼んでください」
「元服を済ませて、まだ字が無い?」
「両親が死んでしまったもので。おいおい自分で決めるつもりです」
そう答えると、男はこちらを表情をじっと窺ってくる。
「……それで軍に入ろうというのか」
「はい、まあ、親戚の家に弟共々厄介になってたんですが、いつまでも世話になるわけには行かないと思って」
「なるほど……私とは逆だな。私は家を継ぐには兄さえいれば充分だと考えて家を出て軍に入ったんだ。もう三十年は昔の事だがな」
子龍と名乗る男は、そう答えてすっと遠くを見つめている。年齢がおおよそ分かったが、年齢のわりには随分と若く見えるな、とその横顔を見て思った。
そのまま明後日の方向を見続けているので何かと思えば、窓の外を見ているようだった。視線の先を合わせると建物の合間を縫って沱江がちらりと姿を現しているのが見える。あの剥き出しの柱の姿もそこに在った。
「明日は船に乗れると良いのだが」
「子龍さんも船に乗るんですか?」
「ああ、私も成都へ戻る予定だ」
「そうですか。なんとかなると良いですね」
そう言っているうちに、雨が小振りになっている事に気が付く。このまま止んで波が落ち着いてくれる事を祈る他ない。
「服が乾いたら飯を食いに出ないか。確か隣が飯屋だったはずだ」
「良いですね」
バタバタとして後回しになっていたが、確かに腹が減っている。外は雨の為に暗いがまだ存外遅い時間ではない。まだしばらくの間は店は閉まらないだろう。
竈の中でパチパチと音を立てて燃える火を見つめながら服が乾くのを二人で待った。
宿屋に隣接する飯屋はこじんまりとした佇まいではあったが、中へ入ると思いの外賑わっている。大雨で家に閉じ込められていた村人達が、小康状態に入ったのを見てこぞって夕飯を食べに来たのだろうか。大半の卓は既に埋まっており、我々は厨房に面した長机の席を選ぶしかなかった。
「いらっしゃい」
小太りの店主が皿を磨きながら話しかけてくる。
「今からでも注文できる品はあるか?」
「鯰の羹だったらすぐ出せるよ。あと饅頭」
「じゃあそれらを一つずつ」
子龍がそういうのに被せて「もう一つずつ」と付け加えた。
「鯰はそこの沱江で捕れたものか?」
「そうだよ、この村では良く食べるんだ」
「沱江と言えば、橋の工事は進んでいないようだな。いつ頃からああなんだ?」
子龍は河岸で船頭に訊いていた事と同じ様な事を尋ねた。
「一月ほど前から急にパッタリだ。さっさと完成させて欲しいがね」
「何があったんだ?」
その答えは知っているのではと思っていると、やはり同じ答えがすぐに返ってきた。
「成都の方から派遣されて来た責任者が捕まったって話だよ」
「捕まった? どんな罪状で」
子龍は初めて知ったかのような顔で続きを促す。
「ここに飯を食いに来ていた人夫たちが言うには税のちょろまかしって話だったな。ただそんなつまらない罪状のわりに蜀郡太守の遣いが直々に捕まえに来たってんで、きな臭いと噂だったよ」
「蜀郡太守……」
子龍は神妙に呟くと、それ以降は質問をやめて俯いた。その後泥臭い羹を啜っている間も押し黙ったままだった。
翌朝目覚めると、昨夜の土砂降りが嘘かのような快晴だった。先に目覚めていたらしい子龍は既に出掛け支度を済ませており、窓から河の様子を眺めている所だった。
「おはようございます」
「おはよう。床を譲って貰えたお陰でよく眠れた」
「それは良かった。河の様子はどうです?」
「水嵩は相変わらずだが波は大人しいな。これなら船を出せるのではないかな」
子龍に倣って河の方を見ると確かに波は落ち着いており、ちらほら作業をしている船頭たちの姿も見えた。
「ならさっさと出掛けないと」
「ああ。船に乗る前に昨夜の店で朝食を摂ろう。奢ってやるから」
「良いんですか?」
「昨夜も言った通り男やもめで金を使うアテもないからな」
そこまで言うならこちらとて断る謂れは無い。
軽く朝食を済ませてから昨日も通った河岸へ向かうと、船が幾つか既に川面に浮かんでいた。
「やあ小僧、良かったな。船が出せそうだぞ」
話しかけて来たのは昨日も会話をした船頭だった。
「この人と二人なんだけど、もう出してもらえます?」
「ああ構わないさ、乗りな」
船頭に促されるまま、子龍と二人で小船に乗り込んだ。多くても大人五人が限界といった小さい船で、船頭と我々の三人だけでもそれほど余裕がない。
船頭は立ったまま棹を差し、ゆっくりと船は対岸を離れた。動き出してみると流石に水嵩の増した川面は揺れたが、それでも身の危険を感じるほどではない。水面からむっとした空気が湧き立ち、早朝と言えども既に汗ばむ陽気だった。
「秦統、対岸に着いたらどうするつもりだ」
対面に座った子龍が訊いてくる。明るい陽のもとで見ると改めて見栄えの良い男だと思った。
「とりあえずまっすぐ成都へ向かうつもりですけど」
「成都に着いてアテはあるのか」
「いや、特には」
「今は農繁期で募兵はしていない。勿論希望すれば受け入れられるが、広く募兵をしている時期と違って数日待たされるぞ」
「そうなんですか」
そういうものなのか。確かに今は戦もしておらず、わざわざ募集はしていないだろう。必要以上に兵を集めても報酬や兵糧が嵩むだけだからだ。
己の財布の具合を思い出す。ギリギリで到着する分の旅費しか持ってきていないため、物価の高い大都市で数日を凌げるか心許ない。
「お前が良ければ私が色々とりなしてやる」
「え、良いのですか」
言うまでもなく有り難い申し出だったが、なんだか何から何まで面倒をかけている気がする。
「構わない。ただ、成都へ戻る前に寄る場所があるから一日、二日到着は遅れるぞ」
「それは勿論構いませんが……」
成都についてからの保証があるなら、その道程の日数が数日増える程度なんでもない。
「なら決まりだな。対岸へ着いたら私について来い。近隣の村に用がある」
「橋の工事について調査するんですか?」
昨日から気になっていた事を尋ねてみる。守秘義務があると突っぱねられるかと思ったが、子龍は片眉を上げただけだった。
「そうではあるが、そうじゃないとも言える」
「と、言うと?」
「私が調べているのは人事についてだ。人事というか摘発の事実だな。橋の責任者についてはその一環に過ぎない」
そう言えば、建築の責任者は突如として捕まったのだと言っていた。
「次に行く村でもそういう噂があるんですか」
「いや、人と待ち合わせをしているだけだ」
「そうですか……」
子龍がなんの為に村へ来ていたかは分かったが、それでも随分解せない事がある。
「いつもこういう仕事をしてるんですか」
職業軍人であるらしいが、いまいち軍人らしくない仕事をしている気がする。
「そうではない。こんな細作のような事は今回限りだ。いつもは成都城内で護衛の仕事か雑用ばかりやっている」
「雑用……」
弟と二度と会えないまま戦場の塵と消えるかもしれないと覚悟を決めて村を出たのだが、なんだか少し肩透かしを喰らった気分になる。
こちらの反応を察したらしい子龍がカラカラと笑って続けた。
「戦のない時の軍人などそんなものだ。とは言え、私は戦の時もそうそう前線へはいかない。そういう役回りでな」
「そうなんですか。不満でしょう、自分だけ残って留守番ばかりさせられていたら」
「いいや?」
子龍はニコリと笑いながら続けた。
「私はこの仕事を天職だと思っている。守る方が得意なんだ」
虚勢を張っている風には微塵も見えず、子龍は本気で己の立場をそこだと信じて揺らぎないようだった。そこまでして言い切られると却って恰好よく見えてくる。それになにより、子龍に守ると言われたならば男だろうと悪い気はしないだろうな、とも思った。
「随分自分のことを語ってくれるんですね」
詳しい素性は明かせないのだと昨夜は釘を刺された筈だったが。
「面倒を見ると決めた以上、隠す必要もない」
「確かに」
暗に身内だと認められたようで少し面映い。
そうこうしている内に船は対岸へと辿り着いた。こちらにも河岸から少し離れた所に幾つか家屋が点在しているが、人が生活のために使っているものではないようだ。橋が落ち、船が行き来するようになってから急造で作られた休憩所のようなものらしい。朝が早いせいか今はまだ誰の姿も見えなかった。
下船するや子龍はそれらの建物には当然目もくれず、躊躇いなく歩き出した。目的地までの地図は頭に入っているらしい。谷あいのなんとか馬車が一台通れるかどうかといった細い道を進んでいく。最もこの様な道の悪さでは歩いたほうが早いだろうが。
小高い丘を登り切ると下り坂の先は完全に開けた大地が待っていた。益州全体の盆地の中でも特に大きな成都平野だ。その平らな地平線の比較的近くに小さな街が見え、更に奥にも微かに城壁が見える。この距離から見えるとなると成都城しか考えられない。
「あれが成都ですか」
この遠さでも、いや遠さだからこそ、その大きさを思い知らされる。
「ああそうだな。だがその前にあちらの街に寄るぞ」
そう言って子龍は小さな街の方を指差した。あそこまでなら小一時間歩けばすぐに着けるだろう。朝早く出発したものの、とっくに頂点へ昇りきった太陽が我々の背中を焼いており、そろそろ休息を取らねば体力がもたない。ちらりと横目に見ると流石に子龍はまだ余力がありそうだ。
体力温存のため余計な会話は控え黙々と足を進める。その間も子龍は目的地の方角を見つめながら、何かをずっと考えている風だ。調査している案件について考えているのだろうか。専門外の子龍がこうやって脚を運ぶくらいだから、あのようなきな臭い糾弾やら逮捕やらが成都城下では問題になってるのかもしれない。
せっせと歩を稼いだお陰か、体力が底を尽きる前になんとか街に辿り着いた。とにかくどこか屋根の下に入って一息つきたい。汗が体中から滝のように流れ出るのを肌で感じる。
「あそこの飯屋に入るぞ」
子龍は城門をくぐってすぐそばの飯屋を示した。こちらの思惑を察してくれたのかと申し訳なく思ったが、どうもそういう理由だけでもないようだ。あえて軒先の道に面した席を希望し、ドッカと椅子に腰を据えるとじいっと門を注視している。人と待ち合わせだと言っていたが、相手方もこの街の住人というわけではなく、こちらへ向かってくる所なのだろうか。
「待ち合わせの相手が通るんですか」
「いや、向こうは先にこの街へ着いている筈だ。私の方が足留めを食らったからな」
大雨で船が出なかった事を言っているのだろう。
「では何故門を見てるのです」
「門で待ち合わせる事にしているからだ。だが具体的な日時は決めていないから向こうが来るのを待つしかない」
「こんな軒先に居て大丈夫ですか。向こうもこうやって待っていたらお互い気付かないんじゃ」
子龍はサッとこちらを向いた。
「休まないとお前が倒れる」
「ああ、はい」
「何か飯と飲み物を食べると良い。私もこの暑さで炎天下に居るのは辛いからな」
やはりこちらを気遣っての判断でもあったらしい。なんだか会ったばかりの頃より砕けた印象になってきた気がするが、悪い気はしない。
「子龍さんも何か頼みますか」
「いや、向こうが来てから頼む。何も頼まずに座ってるのもまずいから、お前は遠慮するなよ」
「ではそうします」
子龍の言う事も最もであるので軽い軽食と白湯を頼んだ。
「それだけで足りるのか?」
給仕が運んできた料理を見て子龍が言う。
「この暑さですからあまり食べられませんよ」
「だが食わないと保たないぞ」
「分かってますが、無理に食べても体調が悪くなるってもんです」
そう返すと子龍が珍しく声を上げて笑った。正直笑える会話でもなかったと思うが。
「お前は意外と口が回るな」
「すみません」
「いや、謝らなくて良い。最近同じような事を言われてな、つい思い出して笑ってしまった」
「へえ、お友達ですか」
妻子は居ないと言っていたのを思い出した。
「いや、友人ではないが……」
「同じ軍の人?」
「軍……いや違うかな。仕事の仲間ではあるが、仲間というのは烏滸がましい気がする」
じゃあ上司なのかと思ったが、今しがた軍の人間ではないと返されたばかりだ。なんと表現したものか頭を捻る子龍を見て、軽い気持ちで質問した事を後悔する。
次の瞬間「あっ!」と言って子龍は立ち上がった。そしてそのまま声は出さずに門の方向へブンブンと手を振り始める。待ち人が遂に来たのかと門の方向へ視線を向けると、確かにこちらへと小走りに向かってくる人影が見えた。
「ああ、此処でございましたか」
「馬岱、待たせてすまなかったな、無事に合流出来てよかった」
「ええ、……貴方こそご壮健そうでなにより。して、そちらの子どもは?」
男はこちらの方へスッと指を向けた。男は、日除けの笠を目深に被った下の肌が浅黒く、よく見れば着ている服も一風変わったもので、純粋な漢の人間ではないらしい事が分かった。益州の南側に住むという南蛮族ともどうやら違うようだ。
「たまたま相席というわけでもございますまい」
男は暗い店内をさっと確認しながら続けた。店内は疎らな人の入りであり、空いている卓もちらほら見受けられる。視線がこちらに戻ってくると、表情こそ柔和だが目が笑っていない。己を警戒しているのは明らかだった。
「調査に行った村で知り合ってな。軍に入るために成都へ向かう道中だというので私が面倒を見る事にしたんだ」
「左様ですか」
「秦統といいます。子龍さんにはお世話になってます……?」
こんな時どんな風に挨拶をしたものか、経験が無いからよく分からない。たどたどしく言えば笠の男はパッと眉を開いたあと、すぐに怪訝そうな顔付きになった。
「短い間に随分打ち解けられたご様子。少し妬けますね。軍師殿も同じ事を思うと思いますよ」
「まさか、こども相手に」
子龍は苦笑して返した。二人の共通の知人についての話題だとは分かったが、「軍師」などと呼ばれる人間は成都にはせいぜい二人しかいないはずだ。一人は左将軍府事の諸葛亮、もう一人は蜀郡太守の法正だ。田舎者の自分でもこの二人の名前くらいは知っているが……いやしかし、そんなまさかだ。そうしてふと、この数日の内のどこかで「蜀郡太守」の名を聞いた気がすると思い出した。
「とにかく何か飯でも食べないか」
「生憎ですが昼餉を食べて間もないのです。私は気にせず頂いてください」
そんなやり取りをして二人は席についた。
「馬岱の方は首尾はどうだった?」
注文した料理を頬張りながら子龍が切り出した。
「予想通りですよ。過去に遺恨のあるものには罪を、恩のある者には優遇を。小さな事から徹底してますよ。しかも事後処理までちゃんと済ませている。傍からは何があったか分かっても文句は付け辛い」
「なるほどな」
「私達が来て良かったです。職権がある程度あるものじゃないと関係者の口を割らせるのも一苦労でしょう」
「しかし、成都近郊はそうでも離れるとそこまで手は回らなかったようだぞ」
「と言いますれば」
「私が調査した村では責任者が捕縛されてから工事が完全に中断し、今もそのまま捨て置かれていた。この事を槍玉に挙げれば向こうも体裁が悪いはずだ」
話しながらだというのに、子龍は驚くべき速さで皿を空にした。
「おお、それであれば糾弾が叶いますか」
「いや、そこまではしないだろう。素行に問題あれど法太守を失う事は出来ない。これ以上するなと釘を差すに留まるだろうな」
「そうですか……」
そう言って馬岱と呼ばれていた男は深く嘆息した。そしてそのまま懐から竹簡を取り出し、机上に置いた。
「私はもう少し調べてみます。調査結果はここに纏めてありますので成都へお待ち帰り頂けますか」
「相分かった。すまないな、頼んだぞ馬岱」
「こちらこそ。趙将軍に遠くの担当を任せてしまいましたし、このくらいは」
「病み上がりのお前に負担は強いれない。それに、お前をあまりこき使うと馬超から文句が来るからな」
ははは、と軽い調子で子龍が笑う。
「病み上がりなどと大袈裟な。ときに、成都へはすぐ発たれますか」
「悩むところだな」
子龍がこちらを一瞥した。
「馬を用意してございます。一頭だけですが、子どもであれば共に乗せて走れるでしょう」
「気が利くな、流石馬岱だ。ならばすぐに出よう。馬であればなんとか今日中に着ける」
「では馬の所まで案内致します」
馬岱が立ち上がるので我々も従うように立ち上がった。会計を済ませ、馬岱が先導するままに連れたって歩き出す。
「秦統、馬に乗ったことはあるか」
隣歩く子龍が問い掛けてくる。
「無いです。村では馬は曳くものだったので」
「そうか、では初めてになるな。その内乗り方を教えてやろう」
背の高い子龍の顔を見ようとすると陽の光がまぶしく、目が眩む。
「子龍さん」
「なんだ?」
「あなたは……将軍だったんですか」
問うと子龍は苦笑しただけで答えない。
「馬超って気軽に呼んでましたけど、西涼の錦馬超でしょう。それに、趙将軍って呼ばれてた。……あなたは趙雲将軍ですか? あの長坂の英雄の」
「英雄とは随分大それた呼ばれ方だ」
子龍は、趙雲は、またも苦笑はしたが否定はしなかった。
「あなたは……」
「子龍は字だ。字までは知らなかったようだな」
「申し訳ありません、まさかそんな偉い御方とは思わず色々と失礼な事を……」
「偉いのは私ではなく劉左将軍だ。私にその様に謙る必要はない」
「しかし」
「お前の後見をしてやろうというのは、私にも都合が良いからだ。お前にとっても都合が良い。お互いに利がある」
「都合が良い?」
「お前には弟が一人在るだけで他に肉親はいない、そうだな? 縁者がいないのは私にとっては都合が良いのだ」
そう言って趙雲は笑った。言葉の割に悪巧みをしている表情には見えなかった。
「先程話されていたのは蜀郡太守様の事ですね? 何かその件と関係がありますか」
「なんだ、怖くなったか? 権力者の大人達の策謀に巻き込まれるのは嫌か」
試すようなことを言って、趙雲はこちらの顔をじっと見つめてくる。
「怖いといえば怖いです。私がお役に立てるとは思えませんし。役に立てるのであればなんなりと」
そう返すと、趙雲は機嫌良さげに笑い声を上げた。
「よく言った、それでこそ男だ」
そうして頭を撫でられる。汗をかいているので恥ずかしかったが、昔父親にそうやって撫でられたことを俄に思い出し、懐かしさに胸が詰まって何も言えない。
「だが安心して良いぞ、お前を今回の案件に関わらせようというんじゃない」
「そうですか」
見栄を切ったものの、そう言われるとホッとする。
「また別の……私個人の問題だな」
個人の問題? 詳しく聞き返す前に趙雲の脚がピタリと止まって、慌てて前に向き直る。前を歩いていた馬岱が振り返ってこちらを見ていた。そしてその側には厩舎が見える。
「趙将軍のお目は確かですね、確かに胆力の有りそうな少年だ」
馬岱はこちらの会話の一部始終を聞いていたようだ。
「改めて紹介させて頂きましょう、私は馬孟起が配下の将、馬岱と申します。以降お見知りおきを」
そう言って拱手を掲げてくる。
「いや、そんな、オレなんかにそんなご丁寧に」
「長い付き合いになるかもしれませんのでね」
馬岱はニコリと微笑んでみせる。こちらを警戒している様子はもう見えなかった。
「趙将軍、この中に用意した馬があります」
「そうか、助かる」
馬岱は厩舎の管理をしているらしい男に一言声をかけ、中から一頭の芦毛の馬を曳いて戻って来た。随分と立派な馬だ。村で荷を引いたり田を耕していた馬とは体格が違う。
「趙将軍、この馬岱あなたのお考えが大体分かりました」
「ほう?」
「早く成都へ戻って劉皇叔や軍師殿にご紹介致しませんと」
馬岱はニヤリと笑った。
「そうだな、どっちみち早く調査結果を報告せねばならないし、な!」
と言うが早いか、趙雲は己の脚力と腕力だけで馬の背に飛び乗った。
「秦統、準備は良いか? 馬岱、すまないが後ろから支えてやってくれ」
「お安い御用です」
後ろ背に馬岱に回り込まれ、腰を抱かれる。趙雲と馬岱は声を掛け合って息を合わせ、馬岱が胴体を持ち上げるのと同時に趙雲に腕を引かれ、意識の追いつかないままいつの間にやら趙雲の背中側の馬上に収まっていた。
「私の背に掴まれ。もし座りが悪くなって馬から落ちそうになったらすぐに言うんだぞ」
「は、はい。分かりました」
言われた通り趙雲の背を、というより腰に手を回して上体を固定する。触れた部分から体温が伝わり熱さに驚いたが、馬が走り出せばそんな事を気にしている余裕もないだろう。
「趙将軍、秦統殿、お気をつけて」
馬岱が小さく頭を下げたので、こちらも慌てて下げ返す。
「さあ行くぞ秦統。この国の中枢に会わせてやる」
趙雲が馬の腹を蹴ると、我々を乗せた馬は弾かれたように大地を駆け出した。
蜀郡太守の法正が、自身が受けた過去の遺恨や恩徳に報いようと恣意的な人事采配を行っている事は、周りから讒訴されるまでもなく分かっていた。いつの間にか己が任命していた者が罷免されていたり、そしてまた知らない人間が役についていたり、官吏の名前が変わっている事に気づかないでいるほうが無理がある。正直なところ戦後処理に追われてとりあえずに任官をしていた事も否めない上、本来の権限は太守たる法正側にあるとはいえど、何か問題が生じたわけでもなく、理由もなく首を挿げ替える謂れもなかった筈だ。
少し調べれば異動の指示は元をたどれば全て法正に集約され、そしてそんな事をした理由としては劉璋配下の時代に遺恨があったためともすぐに判断がついた。両者に因縁めいたものがあったのかと初めて知るものが大半で、益州士には益州士同士で色々あるらしい。
目に見えて実害は出ていないとはいえ、法による秩序を軽んずるような勝手な行為は許されるべきではない。どうすべきかと対応をこまねいている内に衆人の推知する所となり、ほうぼうからその件について具申されるまでに至った次第である。
こうなると己一人で内々に処するわけにもいかない。時期を見て主君たる劉備に話してみると、どうやら劉備の方にも垂れ込んだ者が幾人かいたようで、劉備も頭を悩ませている所だった。
「いかがいたしますか、殿」
「うーん、法正は入蜀の最大功労者だし、面と向かって注意はし辛いな、正直なとこ」
「殿……」
落胆した声は見せたが正直劉備の気持ちは痛いほど分かった。劉備軍が蜀を得る事が出来たのは、蜀で生まれ育ち、内通をしてくれた法正の働きがあってこそだ。その部分を頼った実績がある以上、全て過去に流して気持ち新たに仕えよというのも流石に憚られる。
「ほら、漢の太祖もやっただろう、法三章。国の興りの頃は賞罰についてはガバガバくらいが良いって奴」
「秦の法が厳しかったからこそ得点稼ぎに使えたのですよ、アレは。しかも太祖はその後儒教を導入して新たな決まりを作っていますから」
「うーんそうかあ……」
劉備はガシガシと頭を掻きむしった。
「しかし獄死させた奴もいるって話だから流石にそろそろおいたが過ぎる。どうにか辞めさせたい」
「そうですね、官吏達からの反感も無視できなくなって来ています」
「この蜀を豊かにしたいと思っているのは間違いないんだ、法正も。お前の行いが国の為にならないんだと説けば聞く耳持つかもしれん」
劉備の言う通り法正とて無駄に国を荒らしたいとは決して思っていないだろう。劉備と、そしてこの益州の発展に尽力したいという気持ちは己と法正とで相違はないと確信がある。
「攻められそうな点がないか色々探ってみましょうか」
「そうだな、とりあえず状況を把握しなけりゃ打開策も浮かばない。敵を知り、己を知ればなんとやらだ」
「承知致しました。法正の手が及んだであろう所を探らせてみます」
劉備は頷いたが、それでも難しい表情を崩していない。
「とはいえ蜀郡太守の不正について調べろと言っても難しかろうな。報復を恐れて動けない者も当然いるだろう」
「確かに、調査を任せる者は厳選する必要があるでしょう」
「そう言えば、馬超の隊がこの夏の兵役免除になっていたな。頼んでみてはどうだ」
馬超か。劉備直々の命令だと言えば馬超とてしぶしぶ従うだろうが、何かと目立つ男である。依頼するなら馬岱の方が適任だろう。
「あとは子龍にも声をかけてみると良い。子龍なら信頼は置けるし、大体なんでも卒無くこなしてくれる」
「はあ」
劉備の発言には概ね同意なのだが、劉備にとっても良くも悪くも便利な男なのだなと思った。その男を一番振り回しているのは己なので何も言えないが。
「承知しました。両名に話をしてみます」
「うむ、頼んだぞ孔明」
劉備はニッカリと破顔してこちらの肩を強く叩いた。
人払いをした個室で待って程なくすると、廊下の方から足音が聞こえて顔を上げる。重い足音と軽い足音の二人分だ。すわ人違いかと思ったが、部屋の入り口には確かに待ち人の姿があった。
「趙子龍ただいま戻りました。入ってよろしいか」
こちらも立ち上がって入室を促す。
「恙無く帰都出来たようでなによりです。どうぞ中へ」
調査を依頼し成都を発たせてから既に一週間以上は経過している。元から白いわけではなかった肌が出発前より更に幾らか日に焼けたようだ。精悍な印象が増した気がして新鮮な気持ちを味わうと同時に、その変化に幾日か顔を合わせていなかった事実を改めて実感させられる。
気になる点としてもう一つ、何故だか子どもを一人後ろに伴っている。趙雲は戦場以外では供をつれている事はほとんどなく、ましてやそれが子どもだった事は己の知る限り一度もなかった。キョロキョロと物珍しそうに辺りを伺い、見るからに場馴れしていないのが見て取れるため、余計に気になる。
ふと少年と目があった。恐縮した様子で慌てて頭を下げられた。左将軍府にも董允や費禕が出入りしていることもあるが、顔に見覚えのない点から彼等の仲間というわけでもないようだった。最も、痩せてよく日に焼けた姿から城に出入りするような子ども達とは見るからに印象が異なっている。
趙雲がその少年の方を振り返った。
「これから私は軍師殿と二人で話す事がある。外で少し待っていてくれ」
「了解しました」
そうして少年を扉の外に置いたまま、趙雲は手ずから扉を閉めた。人払いをしているため召人の類も誰もいないのだ。扉が完全に閉まり切ると中は密室になり、密談をするには具合が良い。室外の音も遠く部屋の中は二人の衣擦れの音以外は殆ど静寂だった。
「早速ですがこちらが報告書です。馬岱のを預かってきたので二つあります」
そう言って、発言の通り趙雲は二つの竹簡を机上に置いた。部屋の中央に置かれた机を挟み向かい合う形で二人とも席につく。
「ご足労痛み入ります」
「馬岱はもう少し探ってみると言っておりました」
「そうですか」
それはつまり首尾は今一つだったという事だろう。
「私の方はなんとか使えそうな情報を掴んだのですが、綿竹方面は今は交易に使っているわけでもないですし。決め手になるかは難しいところですね」
「そんな事はありませんよ。我が国の至上命令は曹魏の打倒、漢の再興です。その為には華北へ通じる道は整備されていなければならない。その点を蔑ろにするというのは、我が軍の存在意義の否定になります」
「なるほど、物は言いようというわけだ」
流石軍師殿だと続けて趙雲は笑った。
「将軍方が尽力下さったのですから、これから先は私が頑張りますよ」
「期待しております。して、私が不在の間に成都内て何か動きはありましたか?」
「いや……取り立ててお伝えすべき事は」
「そうですか。それならば良かった」
会話が一段落ついた気配を感じ、気になっていた事を切り出してみることにした。
「あなたの方には心境の変化がお有りになったようですね」
「なんのことです?」
「どうして急に子どもを連れて歩く気になったのですか」
「ああ……」
ちらりと入り口の方を一瞥して続ける。
「あれは私の息子です」
「……は!?」
「後で紹介するつもりだったのですが」
なんだって? 予想外の返答に驚きすぎて上手く息が吸えないのか、刹那頭が真っ白になって何も考えられなくなる。結果黙る形になったが趙雲の方が勝手に続けて告げた。
「養子にするつもりでしてね。なのであなたと殿に会わせようと」
「よ、養子……」
なるほど、そういうことか。合点がいってやっと頭が回り始めた。ひとまず深呼吸をして胸を落ち着かせた。
「驚くだろうとは思っていましたが、予想以上で私が驚いています」
なんてことを言って趙雲が目を瞬かせる。
「成都を出て暫く経って、久々に会えたと思ったら、子どもだなんて……まさか実はと思うでしょう」
「ああ、そういう……」
納得したとばかりの表情をされて、恥ずかしい勘違いをしたものだと俄に顔が熱くなる。しかしこの勘違いは仕方がないのではなかろうか。そうは思っても居たたまれなさに思わず羽扇で顔を強く扇いだ。
「そんな不誠実な男だと思われたとは、心外ですな」
「今はともかく昔の事など分かりません」
「はは、これは手厳しい」
いっそ一思いに笑い飛ばしてくれたほうが救われる。出会ってこの方十年弱、子の存在を隠し切っていたのならば却って大したものだがと今更思った。
「しかし、それにしたって何故急に?」
「いや、それが……急ではないんですよ。以前より嫁を取らぬならせめて養子を迎えろと殿に再三言われておりまして……」
趙雲は所在なさげに視線をそっとずらした。
正直、そんな事を言われていた事を初めて知った。常識的に考えれば当然言われてしかるべきで、その発想に至らなかった己が浅慮だったという話だ。ただしこの件に関しては本当に、趙雲自ら悟らせない努力をしていたのもまた事実だろう。
その事実を知らされた今なんと返すべきか言葉が見つからない。その選択をこの男にさせたのが己の存在故だと考える事は自惚れではあるまい。勿論、その他の理由もあったかもしれないが。
「旅先の村で偶然知り合いましてね。軍に入るため成都を目指していると言うので、これも何かの巡り合わせではないかと」
こちらの思惑を察したのかどうか、趙雲の方から率先して話題を提供してくる。
「両親を亡くしいつまでも親戚の世話になれないからと決断したそうですよ。故郷に弟がいるらしいので、直にそちらも呼び寄せるつもりです」
「それは……殊勝な子ですね。しかしいきなり二児の父親になるのですか」
「そういう事になりますか。最も、弟の世話は自分が見るからと本人は言っていますが」
「ますます殊勝な子だ」
言葉は悪いが趙雲は幸運な拾い物をしたという感想が強い。だんだんと羨ましい気がしてきた。
「確かにそういう手もありますね……」
「そういう手?」
「養子ですよ。私もその選択肢を考えるべきか……」
妻の黄氏は子を欲しがっているが、そう簡単に叶えられるものではない。養子を迎えてしまえるなら色々な意味で気苦労が無くなり、楽になれる気がする。
悪くない案だと思ったが趙雲はとんでもない、という表情をした。
「あなたには奥方がいらっしゃる。それにまだまだお若い」
「それを……あなたが言うんですか、私に」
「私だってあなたの子が見たい」
「…………」
当然のような顔で言われて却ってこちらが言葉に詰まる。
「あなたが私をどう思っているのか、よく分からなくなります。その……好意の方向性というか」
同僚や友人へ向ける好意を向けられているわけではないとは分かっているが、なんとも爽やかな感情を向けられているようで戸惑いが生じる。自分ばかりが執着しているのではないかと思う事は度々あった。
「ふむ?」
「我々は男同士ですし? ……こういう事をいうのは確かに不毛かもしれませんけども……」
「あなたが赦すなら私はあなたを抱きたいですよ」
「……え!?」
「でも本当に、別にそうじゃないなら構わないんです」
「へ、へえ。そうなんですか」
なんとも間の抜けた返事をしてしまった。
どうしてそんな事を何でもないように言えてしまえるのだと非難めいた気持ちが一拍遅れて湧き上がったが、趙雲は表情こそ平素通りだったが目が微塵も笑っておらず、何も言えなくなってしまった。
「子どもが外にいる事ですし今はやめませんか」
「あ、ええ、その通りですね」
人払いはしてあるとはいえ、昼間の勤務時間に宮城でする話題ではなかった。私が抱かれるのか……、確かにこの屈強な男を抱くなど想像もつかないが……などと、ぐるぐると回る思考を一先ず押し込める。
「中へ入れても良いですか。挨拶をさせたいので」
趙雲が問うてくる。さっきの今で頭の切り替えが随分早い男だと密かに感心した。
「ええ、構いませんが」
「ありがとうございます」
趙雲は速やかに立ち上がり扉を開いて少年を招き入れた。先程の会話を聞かれていたらどうしようかと一瞬ヒヤリとしたものの、表情を見る限りその心配は必要なさそうだった。
「中に入って軍師殿にご挨拶を」
養父に言われ恐る恐る入室した少年は、明らかに緊張している様子でこちらまで何故だかソワソワしてしまう。
「お初にお目にかかります、秦統と申します」
「今後は趙統という事になりますかね」
趙統の隣に立った趙雲が補足した。こちらも椅子から立ち上がり、机の横を抜けて趙統の目の前へと移動した。
「はじめまして、私は諸葛孔明、劉左将軍の側近として政治の統括をしています。年は幾つになりますか」
「十五です」
「ご両親が亡くなったとのことで……苦労しましたね。亡くなったのはいつ頃?」
「母は弟を産んで産後の肥立ちが悪く、そのまま……。父は先の戦の折に亡くなりました」
「それは……兵士として?」
「そうです」
なんということだ。咄嗟に趙雲の方を窺うが特段驚いた様子のない所を見るに、彼には既知の事実だったらしい。既に父子で話し合ったであろう事柄を己が掘り返すのは不粋かとは思ったが、それでも確かめずにはいられず口が開いた。
「あなたは……構わないのですか。趙将軍の家に入るのは」
「父の仇かもしれないからですか?」
「そう、ですね。少なくとも我々の侵攻が無ければご尊父は……」
「父は徴兵に応じて従軍しただけで、特に先の益州牧様に恩義があったわけじゃない。劉皇叔の統治になって治安が良くなったと皆言ってます。劉皇叔の事も、配下の方の事も恨む気持ちなどありません」
「左様ですか……」
「そもそも、恨みがあるなら成都に来ようとなどしません」
確かに趙統の言う通りだ。軍に入るために成都へ向かっている途上で知り合ったのだと趙雲は言っていた。
「……ならば安心しました。私は趙将軍とも親しくさせて頂いてます。今後も何かとお世話になるかもしれませんので、よろしくお願いします」
出来うる限りの笑みを作ってそう言うと、趙統はパチパチと目を瞬かせてみせた。そして顔をじっと見つめられる。何かおかしな事でも言っただろうか?
「恐れながら軍師様と趙将軍はご友人ですか?」
「え?」
趙統は妙な事を尋ねてきた。友人、か。問われて考えてみたが、もっと相応しい名前の関係がある気がする。
「友人という言葉に当てはまるかは難しいですね」
「そうですか……」
本人の前で否定するのは如何なものかという気はしたが、事実我々の関係は友人とは言い難かった。友人に絶対向けない感情を向けられていることはつい先刻確認したばかりであるし……。
しかし何故そんな事を? やはり先程の我々の会話が聞かれていたのかと危惧したが、趙統は納得した表情を少し見せたばかりでそれ以上の詮索はしてこない。ではどんな関係なのだと更に追求されるかとも身構えたが、そんな事もなかった。
「そう言えば軍師殿」
趙雲が若干の強い語気で挿し込んできた。
「趙統には実は字がまだ無くてですね」
「字が無い?」
趙雲ではなく趙統の方を見ると、確かに彼は頷いてみせた。字を決める時期は人それぞれだが、元服まで済ませて尚決まってないとなると珍しい。一人親である父に決めてもらうつもりだったのかと咄嗟に気付き、本人に問う事は止めておいた。
そんな事を考えている間に趙雲が更に続けた。
「自分で決めるつもりだそうですが、軍師殿も少し考えてみてやって頂けませんか」
「私が?」
「最終的には本人が決めるとして、何か助言や案を下さると助かります」
またも趙統の顔を窺ってみると、やはり頷いて肯定の意を示した。
「確かに、頭の良い方の意見を頂けるとオレとしても助かります」
「そうですか……。あなたがそう言うのならば考えてみましょう」
「ありがとうございます」
破顔一笑して趙統は勢い良く頭を下げた。宮殿に出入りする子どもたちに比べると感情の表現がより素直で、見ていてなんだか眩しい想いがする。
「では、このまま殿の所にも行って参ります」
趙雲が息子の肩に手を置いて言った。
「ああ、そうですか。調査資料の方は私の方で先に内容を確認してから、その後で私の口から申し上げるとお伝え下さい」
「了解しました」
そして一礼すると、趙統の肩を抱いたまま部屋の外へと向かって行く。多少は緊張が和らいだ風だった趙統だったが、この部屋へ入って来た以上の緊張に襲われているらしい。ぎこちない歩みで部屋を後にするその背中を見送り、思わず笑みが零れた。
「字か……」
孔明には子どもがいない。更に兄弟姉妹と離れて暮らしているために、甥や姪の名前や字を考えるような機会は今まで一切無い人生だった。命名について意見を乞われるのが初めてなせいか、なんだか心が浮ついて落ち着かない。しかし決してそれは嫌な感覚ではなかった。
法正の事を早々に決着をつけて、字の事を考えよう。孔明は椅子に腰を下ろし、改めて手の内の資料に目を落とした。