その花の行き先は、それから1.永浦百音の自室にて
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おつかれさまです。
お渡ししたいものがあるので会えませんか。
すぐ済みますので。
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トークアプリに打ち込んで未送信のその文字列を眺めたまま、うーーーーーんと思い切り眉を寄せて考え込んでいる親友・永浦百音の横顔を見ながら野村明日美はこっそり笑った。こんなすぐ後ろから覗き込まれていることに気付きもしないで。
ふと、悪戯心が湧いた。
見つめ続けられて穴でも開きそうなモネのスマホに指を伸ばし、送信を意味する紙飛行機マークをさっとタッチする。
「あっ! あーーーーっ!? えっもう、すーちゃん!? ちょっと勝手に、あ、え、どうしよ、送信取消ってどどどどうやって、」
「あ」
一人大騒ぎしてるモネにさっき送ったメッセージに既読がついたことを指差して教えた。
「えええー!? もう、すーちゃん!」
「だーってどんだけ悩むのよメッセージ一本送るのに。そんな悩む必要ないじゃん。さっきのアレ、渡すだけでしょ?」
「そうだけど……」
それでもまだ覚悟の決まってなかったモネが唇を尖らせていると、メッセージの着信音がして二人してスマホを覗き込んだ。
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今日は夜勤なので夕方5時前にそちらに寄ります。
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「シンプル〜」
揶揄うようにそう言うと、スマホの画面を睨んだままのモネの顔が険しい。
「もう〜モネったらまたそんな顰めっ面して! シワになっちゃったらどうするの! 先生来てくれるって言ってるんだからいいじゃん」
「それはそう、なんだけど……」
「あっそっか。彼女でもないのに? 手作りのお弁当なんて重いかな?って?」
「……すーちゃん、何でそんな楽しそうなの」
懸念しているであろうことを先回りして言葉にするとやはり図星だったのか、じとっとこちらを睨むモネがおかしくてクククと笑ってしまう。
どうしてこんなにお互い相手を気にかけているのが明白なのに決定打を打てずにいるのか。明日美にはとんと理解ができない。
だけど一方で、モネは自分が幸せになることが少し怖いみたいだと明日美は感覚として理解している。それは震災や津波が関係していることかもしれないし、そうではないかもしれない。流石にそんなことは聞けない。
明日美にわかるのは、モネはもっと幸せになっていいし、なるべきだと、それだけだった。だからその背中を押す。
「ほら、さっきみたいにクドクド説明すればいいじゃん!そしたら先生も納得して快く受け取ってくれるって!」
「え、クドクドってなに」
「えっとなんだっけ?……『今日作ったこのおかずの大半の原材料はこないだのマルシェの店番のバイト代としてもらった野菜で、本来半分は先生のものだったの。だけど先生が料理する暇がないからって全部わたしが貰っちゃって、だから先生もこれ食べる権利があると思う』……だっけ?」
昼からキッチンであれこれ料理していたモネが一人分を別に弁当箱に詰めていたのを見て、「もしかして菅波先生に渡すの?モネってば急に攻めるじゃん〜」と揶揄うと真面目な顔でクドクドと説明されたのだった。それは数日前、菅波に花を貰った経緯を聞かされたのによく似ていた。
「心配しなくても大丈夫。先生は喜んでもらってくれるって」
「……なんですーちゃんにそんなことわかるの?」
「わーかーりーまーす! わかってないのはモネと先生くらいよ」
「どういうこと?」
なんでわかんないかなぁと、明日美は小首を傾げたあと当たり前のことを言った。
「何の理由をいらないと思うけどね、好きな人に花を贈るのも、好きな人にお弁当作ってあげるのも」
モネはしばらく視線を彷徨わせて、違うからとまた小さな声で言ったけど、その頬は少し赤らんでいた。自覚が全くないわけでなさそうだと小さく笑った明日美は準備していたトートバッグを肩にかけた。
「じゃあわたし出かけるから。先生にちゃんと渡しなよ。……健闘を祈る」
すれ違いざまにモネの肩を励ますように軽く叩いて部屋を出た。
ありがとすーちゃん、と声が追いかけてきたので少しだけ振り返り、笑ってバイバイと手を振った。帰ってきたらいい報告が聞けますように。そう願って軽やかに階段を降りた。
2. 東成大学附属病院内休憩室にて
東成大学附属病院に勤める看護師、水口七瀬はスタッフ用休憩室でかがみ込み不自然な体勢で必死に手を伸ばしていた。休憩室のシンクと冷蔵庫の隙間に転がってしまったマリッジリングを拾うためである。普段は職場に着いて着替える時に外しているのだが今日に限ってうっかり忘れてしまい、申し送りの時に気付いて慌てて外してポケットにしまっていた。さらにそのことまですっかり忘れ、休憩中にいつもポケットに入れてるメモを確認しようと無造作に取り出したらリングまで飛び出し転がってしまってこの体勢、というわけだった。
やっぱりリングをつけるのは休日だけにしよう。そう心に誓いながらさらにぐいと腕を隙間に押し込むと指先が金属質のものに触れ、ちょいちょいと引き寄せてからやっとつまみ上げることができた。
はあとため息をつき、さっさと更衣室に行って指輪をしまってこようと立ち上がって部屋から出ようとすると、さっきまで無人だった休憩室に人がいることに気づいた。
シンク前はパーティーションで区切られているのでこちらには気付かれなかったんだろう。変な格好しているところを見られなくて良かったと内心でホッとしながら、向こうを向いて座っている白衣の男性の後ろ姿を見て、菅波先生だな、と認識した。
互いに夜勤が多く年が近いこともあって気安く話せる相手ではあるが、休憩中にまで同僚と話したくはないだろう。そう思って部屋から静かに出ようとしていたのに、視界に入ったものが信じられなくて動きを止めた。
(え……? お弁当………?)
数メートルの距離はあるがちょうど斜め後ろの位置に立ってるせいで菅波がテーブルの上に広げたものがよく見える。それは大きめのわっぱの弁当箱で、明らかに売り物ではなく、つまりは手作りの弁当だった。
(菅波先生が、お手製の、お弁当を………?)
こちらがあまりの衝撃でフリーズしているせいか、菅波も背後の気配に全く気付かずに弁当の蓋を開け律儀に手を合わせてから食べ始める。
(待って。こんな、わたししか見てない状況でこんな衝撃的なの、一人じゃ受け止めきれない…!え??? 良くて院内コンビニの売れ残りの弁当、お湯を入れたら呼び出されて伸びに伸びたカップ麺を悲しそうに啜ってるか、明け方に死んだ目で栄養補助食品を齧ってるのがデフォの菅波先生が、手づくりのお弁当?????? 無理無理無理、一人じゃ受け止めきれない、ほんと無理)
裸眼で両眼1.5と自慢気に自慢しては、この原始人が!とやっかまれてきた視力が弁当の中身まで把握してしまう。
炊き込みご飯、コロッケ、卵焼き、青菜と人参のの胡麻和え、ブロッコリーにミニトマト。
(いやーーーー完全に彼女弁当じゃん…! ちゃんと栄養を取ってほしいという愛が弁当から伝わるよー! あぁ…菅波先生にもついにそんなお相手が! 院内放送したいくらいの大ニュース!!!)
同じ年にこの大学病院に入ったという意味では同期で、ずっと菅波を見てきた水口だからこその衝撃であった。
菅波はそこそこモテるのにとんと恋愛絡みの話を聞かない稀有な外科医である。
押したら引く、匂わせても引く、というか匂わせた時点でめちゃめちゃ警戒される、という先輩看護師の話を聞いて大笑いしたことがあった。
そのとき再び菅波が手を合わせているのに気付いて慌てて静かに部屋を出た。あまりの衝撃で食べ初めから食べ終わるまで見てしまっていたことになる。誰もいない無人の廊下で思わず手すりを掴んでショックにふらつく自分の体を支えた。
「うぅ………誰かに言いたいっ!」
3. 東成大学附属病院廊下にて
いつしか日も暮れたようだった。この要塞のような大きな病院の中にいると時間の間隔が失われやすい。中村信弘は会議室から出て暗い廊下を歩きながら腕を伸ばして軽くストレッチをした。
向こうから菅波が歩いてくるのが見えて手を上げると、こちらの存在を認めた途端、条件反射のように眉を顰めたので苦笑する。
「……中村先生、なぜこちらに」
「いやー、急な部長会議入っちゃいましてね。診療所の方は今日の午後と明日は休診にさせてもらいました」
「あぁそうですか…。もう少し早く言ってもらえたら僕が今日中に向こう行って明日は開けましたのに」
「いやーそれもお願いしようかなって考えたんですけどね? シフト見たら菅波先生、超勤に次ぐ超勤じゃないですか。さすがにねぇ」
そんな状況下で休みを返上して診療所を開けようと自分から言い出すのだから真面目にも程がある。その誠実さは見込んだだけのことがあると毎度感嘆するが、時折心配になるのもまた事実だった。プライベートを犠牲にしすぎてないかと。
そういえばついさっきその彼のプライベートに関わる話を聞いたことを思い出してニンマリとした。念のため周りを見て誰もいないことを確認してから菅波の方に身を寄せる。
「……ところで菅波先生、彼女ができたとか」
「は? 」
素で聞き返してきた菅波の反応を見て首を捻る。
「あれ? フロア中の噂ですよ?」
「身に覚えがありませんし、人のプライベート噂するのやめてほしいんですが」
「じゃあ院内で手作り弁当を食べてたという話は」
「…………」
苛立たし気だった菅波の表情がすっと真顔に戻って目が泳ぎ出したのを見て、ふむとひとつ頷いた。
「なるほど、それは事実か。ちなみにそれ作ったの、永浦さん?」
これはカマをかけたようなものだった。彼に弁当を作ってくれそうな女性……と考えた時にパッと最初に思いついたのが永浦百音だったが、他に自分の知らない女性がいてもおかしくはない。……が、正解だったようだ。数秒固まったのち、何度か口籠る。
「…………いや、あの、結論だけ言えばそう、なんですが、これには色々事情がありまして、遡ると先週の日曜日に、」
「いやいや、遡らなくていいから。そうかー永浦さんの作った弁当を……えっ姫には俺から報告した方がいい感じ?」
「いやいや! 報告するようなことは何もないです! 本当に!」
血相を変えて否定する菅波を内心で面白がりながらわざとらしく訝し気に見る。
「何も、ない?」
「何も、ないです!」
「永浦さんには手は出してないと」
「出してません」
「絶対?」
「絶対」
「これからも?」
「…………………………」
ぐっと詰まって無言の菅波を見るともう我慢ができなくなって笑い出した。その背中をバンと叩く。
「僕、菅波先生のその正〜直なところ、大好きです」
サムズアップして見せるとまた嫌そうな表情で顔ごと背けられたがその耳が少し赤い。頑張れよというエールは心の中に留めた。これ以上嫌われては敵わない。それじゃ、と手をひらひらとさせて先に歩き出した。
まだどうにもなってないが、どうにかしたいと思ってるらしい。思いのほか正確な現在の立ち位置を知ってしまってまたニヤけそうな口元を隠した。
それにしたってさっきの表情といったら、と思い出しては何度もまた笑ってしまうのだった。
4.潮見湯にて
男女入れ替えの掃除を済ませた井上奈津がタオルで汗を拭いながら裏口からコミュニティスペースに戻ると、さっきまでそこにいなかった永浦百音がいた。
パタパタといったん入り口まで出て暖簾の架け替え、また中に戻るとモネは立ち尽くしたままスマホを見たり壁の時計を見たりしてソワソワとしている。
「モネちゃん、どうかした?」
「あ、奈津さん。菅波先生が仕事終わりにお弁当箱返しに来るって言ってたんですけど、わたしも病欠の方のサポートの仕事が急遽入っちゃって、そろそろ出かけなきゃいけないんですよね。一応メッセージは送ってるんですけど。仕事押してるのかな……」
「あらそうなの。じゃあ菅波先生来たら受け取っておくわね」
「すみません……じゃあ、そろそろ行こうかな」
名残惜しそうにもう一度スマホを確認してからモネが出て行くのを、いってらっしゃいと和かに見送った。
それから番台に入って腰を落ち着け、ふうと一息つくと入口の方からガタガタっと音がして顔を出したのは菅波だった。
「あら先生」
「あの、なが、あ、いやこんにちは。あの、永浦さんって」
菅波は挨拶もそこそこにコミュニティスペースにモネの姿を目で探している。
「モネちゃん、さっきまで先生のこと待ってたんですけど、ほんとにさっき出て行ったんですよ。そこで会いませんでした?」
「え、ほんとですか。じゃ、ちょっと追いかけてきます」
そう言った菅波はあっという間に踵を返して入り口から姿を消した。それにしてもさっき出て行ったばかりのモネと菅波が鉢合わせしなかったのは何故だろうと首を捻る。すると今度は通用口の方から靴を持ったモネが入ってきたので、ええっと声に出して驚いた。
「モネちゃん!? どうして? さっき行ったわよね?」
と問うとモネは少し恥ずかしそうに笑った。
「先生もしかしてコインランドリーの方に来てたりしてないかなって覗きに行ったんです。そしたらこっちに忘れ物したの思い出して」
そう言いながら、椅子の上に置きっぱなしだった紙袋を、これこれ、と言いながら手に取った。
「それよりモネちゃん、さっき菅波先生いらしたのよ」
「えっ」
「モネちゃんさっき出て行ったばかりなんですって言ったら追いかけてきますって言って」
「え! じゃあ私も追いかけてきます!」
そう言ってモネが今度は大慌てで出て行くのを唖然と見送る。ワンテンポ遅れて、気を付けて!と大きな声で声をかけたけど聞こえたかどうか。
予想外の展開にアワアワとしていつの間にか立ち上がっていたのに気付き、再び腰を落ち着けるとじわじわと腹の底からおかしさが湧いてきて一人で笑ってしまう。
(これじゃあ、まるで二人で追いかけっこだわ)
きっとあの二人の頭の中からはお弁当箱のことなんてすっぽり抜けてるんだろう。本当にお弁当箱を返すことだけが目的なら追いかけていかなくてもいいのに。そのことに気付くとますますおかしい。
(……ちょっとの時間でも会いたいのよね)
既知の感情に思いを馳せ、奈津の胸がキュンと鳴った。
「はあ、誰かに話したい…! スーちゃん、早く帰ってこないかなぁ…」
思わず独り言を口にしながら奈津は子供のように足をパタパタと動かした。
5.登米夢想/森林組合事務所にて
新田サヤカは森林組合事務所のいつもの席にどっかと座りながら渦中の新聞〈とめレター〉を手に取った。〈とめレター〉は登米を母体としたミニコミ誌のようなもので月一で発行されている。半分は広告のPR誌なので、そのあたりにあったら見るくらいの軽い存在感の地元紙である。
さっき飛び込んできた菅波が今部屋の隅で佐々木に抗議している件は把握しているが関わり合いはしたくなくて首をすくめ、あろうことか顔を隠すのにその新聞を広げていた。
「あのこれ、盗撮ですよね? 盗撮した写真を無断で新聞に掲載してる?……ちょっとどこから突っ込んだらいいかわからないんですけど……肖像権ってご存知ですか? これ、訴えたら確実に僕勝ちますよ???」
「いやいや先生、盗撮なんて人聞ぎわるいでしょー。ちょっど、ちょーっど、遠くから撮った写真ですよ? あと許可も永浦さんには貰っでます。ちょっどだけ永浦さんが写り込んでる写真、とめレターに載せでもいいがって。もう職員じゃないからね、名前も出しでないしね」
「永浦さんには許諾を求めたんですね? 僕は聞かれてませんけど???」
「いやぁ誰が先生の許可貰っだって言っでだよなぁ? 山崎さんだっけ? ちがう?」
「わだしじゃないですよぉ。広報の山岡さんじゃないですが?」
「あーーー山岡さんがぁ。あのひど、適当だがんなぁ……」
《有楽町マルシェにて登米夢想ブース大人気!》
その見出しの記事にはマルシェでどれほど売れ行きが良かったかという記事とともに2枚の写真が並んでいる。一枚は売り物を手に寄り添って満面の笑みの佐々木・里乃・みよ子のスリーショット。そしてもう一枚は菅波とモネがお揃いのエプロン付けて笑い合っているツーショットであった。その写真のキャプションには〈よねま診療所の菅波先生もお手伝いしてくれました!〉とある。
ほぼ髪に隠れて表情は見えないが明らかに楽しそうな様子が写真にも映しとられているモネの姿に安堵しつつ、そのモネに向かって笑んでいる菅波を見てサヤカは感慨を覚えた。
ニコリともしない、心を閉ざした青年だった頃を思い出しながら。
「写真の件は悪がったね、私がらも注意しておぐから」
一通り抗議したらしい菅波に目で合図して一緒に外に出た。サヤカに謝られてはもうこれ以上何も言えない菅波がまだ不満顔で隣を付いてくる。それはそうと、と立ち止まって長身の菅波を見上げた。
「先生、モネに花を買ってやりました?」
「え…………?」
返事がないので黙って見ていると、あ、いや、あの、と菅波が視線を彷徨わせる。
「……あの、それもまた、色々事情がありまして、」
「やっぱりそうが。あ、モネは誰から貰ったとも、貰ったのが自分だとも言いませんでしたけどね」
「え!?」
確かめられたらそれで良い。フフンと笑って踵を返して森林組合に戻ろうとすると菅波が追い縋ってくる。
「あの、永浦さんはサヤカさんに何を……」
「先生、女同士の会話には守秘義務ってやつがありましてね」
そう言って鼻先でドアを閉めてやった。
『サヤカさん、恋人でも夫でもない男性から花をもらったことある?』
『何だろね、この子は、藪から棒に。そりゃあるよ』
『その人はどうしてお花をくれたの?』
『そりゃあ私に惚れてるからに決まっでるさね。男が女に花を贈る理由が他にあんのかい?』