彼は彼らの為に懸念する 猫山が入院する愛造病院へと足を運んだのは、まだ事態が収束したとは言えない一週間後のことだった。
阿黒のはっきりとした声が、彼の病室の沈黙を破る。
「俺はお前を許す」
ベッドの上で座る姿勢を許されている猫山は、目を逸らしたまま「許される道理も価値も無いよ」とこぼす。
「俺は鼠谷の理想を利用した。あいつは自分がどれだけの罪を犯してきたか気付いてなかった。俺は最初から分かってたのに、あいつを止める気なんか微塵も無かった。だから、俺が許されるなんて……お前に許されるなんておかしいだろ」
「当たり前だ」
ぶわりと放たれる空気はドライアイスのようだった。
目の前にいる相手は、胸の傷が塞がったばかりの入院患者。討ち取るなど容易い。それでも己の正義を貫く為に阿黒は自戒し、屹然と佇むことが出来た。そして、涙を我慢することも。
「あの時は、本気で殺そうと思った。何なら今だってやろうと思えばやれる。……でも、もう終わったんだ。鼠谷は帰ってこない。それなら俺の中にいるあいつには笑ったままでいてほしい。お前への憎しみを断ち切らないと、鼠谷との思い出が曇ってしまうんだ。だから、許す。猫山」
あまりにも凛々しい口調で名を呼ばれ、猫山はつい目を向けた。真っ直ぐな視線とかち合う。ああ、とせり上がってくる重苦しい感情と共に頷いた。俯き、震え、何度も頷いた。
猫山を見届けて病室を出た阿黒を待っていたのは、へにゃりと緩い顔付きで牛乳を飲む豊基だった。
「お疲れ」
「あいつが泣いてたら慰めてやってくれ」
「え、もう行くの?」
「仕事があるんでな」
一人と一匹の友の墓参りは済ませた。故郷を発つ。
豊基は、足早に去る阿黒の小さな背中を見送るしかないと思い――それが、ふと立ち止まる。
「イッツG。俺は猫山を許した。もし今度あいつが誰かに苦しめられた時は、誰かの理想の為に利用された時は、許した人間の責任としてあいつを助けるよ」
それだけ告げ、速い歩みが再開された。
「……ヤット、抱え込んじゃ駄目だよ。猫山と同じになっちゃうじゃんか」
その慰めが阿黒に届くとは思えなかったが、言わずにはいられなかった。
阿黒は、本当は知っていた。猫山を許した今、彼は敵ではない。彼を敵視し続けていればどれだけ楽だっただろう。吹っ切れるということは、真の罪人と向き合うこと。自分だ。自分達の為の理想郷を追い求める鼠谷の残酷な無邪気さに気付けなかった、己の不甲斐なさ。その許し方が分からない。
豊基はどんな風に自分と猫山を許すのだろう。狗凱はどんな風に自分と羊田を許すのだろう。
(俺は……どうやって自分と鼠谷を許せばいいんだろうな)
愛造病院を後にする。振り向かない。そう言い聞かせながらも、震える拳は誤魔化せない。
(なあ、鼠谷。きっと俺はこれからも信じたくないんだ。……お前が、人殺しに加担してたなんて)
自分は弱く、幼い人間だ。
「こっちの世界」に飛ばされてから初めての夜、彼らは狗凱の自宅に泊まっていた。
「……あれ? カントクはどうした?」
就寝前の入念な歯磨きが日課の阿黒は、ラーメンと同じく配給されていたらしい新品の使い捨て歯ブラシをごみ箱に捨てたところ、居間と呼ぶ場所に豊基だけが座り込んでいるのを見つけた。自宅の主はいない。
豊基は人差し指を上に向けた。
「多分二階行っちゃった」
そうか、と阿黒はそれ以上の興味を持たず、一応辺りを窺ってみる。
「流石に俺達の分の寝具は無いか」
「俺は雑魚寝でいいよー。屋根の下で寝られるだけマシだもん」
「イッツGほどじゃないが、俺も横になれるなら充分だ」
「こっちの世界」――狗凱曰く、「裏世界」と称することにしたこの異様な世界は、階級制が敷かれた完璧な衣食住が整っており、季節すら無意味なものとして排除されているようで、屋内だとしても寒さを全く感じさせない。前回の怪事件から約半年が過ぎ、本来の表世界では真冬の時期だが、今は毛布の一枚も要らずに過ごせる。
阿黒が明かりを消した途端、居間は真っ暗だ。あまりにも暗いのでカーテンの隙間から外を窺うと、夜の外出など不要だからと電力供給すら行われていないような、不気味な静けさがある。疎らに立つ街灯は見せかけなのかもしれない。
阿黒と豊基は付かず離れずといった位置に寝転がった。
阿黒の疲労感は凄まじく、しかし即座に眠りに落ちるはずもない。自分達はあまりにもたくさんの出来事と遭遇した。取り戻した日常を過ごしていたら、突然時間が巻き戻ったのか、あの時と同じ赤い光景を目の当たりにた途端、裏世界へと飛ばされた。タワーの前で級友達と再会し、そしてロボットにいきなり連れ去られた猫山。彼を助けなければ――こうして始まった奔走の先に待ち受ける結末の想像がつかず、きっとまだまだ難儀な次の日の訪れを考えただけでも自然と溜め息が漏れる。
溜め息が消えた後、不意に口を開いたのは豊基だった。
「ねえねえ、ヤット」
「何だ」
「カントクの様子おかしくない?」
けろっとした言い方には相応しくない、中々の話題だ。
しかし、阿黒はどこか理解が追いつかないような、幼い口調で返す。
「どうして?」
「だってさぁ、羊田の名前、全然出さないじゃん」
そう言われてから、思い返す。……確かに、映画制作は順調かと豊基から振られた時も、羊田と結びつけてもおかしくない、くすんだ赤い欠片を見つけた時も、狗凱の態度は微妙だった。何だか前回の怪事件の繰り返しだ。羊田に関して曖昧で、下手なりに隠しているような振る舞いが目立つ。
「前は自殺病だの朗読会だの色々あって、今回は変な世界に飛ばされて、てっきり俺、この半年間は二人で仲良く映画作りに勤しんでんだろなーって思ってた。でもずっと、はぐらかしてる気がするんだよなぁ」
「それは……まあ」
「俺的には猫山を助けるのが一番なわけで、お前らも協力してくれて有り難い限りよ。……でもさ、考えない? 前と同じ赤い光がパアッてなった時、羊ちゃんもいたじゃん。急すぎて、具体的な位置とかは、それどころじゃなかったからあんま覚えてないけど。でも、あの時のメンバーが校庭に揃ってただろ。だったら……」
「羊田だけがいないのはおかしい、か」
何の因果か、あの時のメンバーがタワーの前に集まり、再会を果たした。……羊田を除いて。
ここまで説明されてからようやく理解が追いついた、そんな自分がおかしいことを阿黒は客観視していた。以前の自分なら、疲れはあるにせよ、もっと頭が回ったような気がする。
それに――
「鼠谷は……死んだから、いなくても当然だけど」
表世界では死んだ人間が、裏世界では生きているかもしれないという可能性――心の中で思い続けているとしても、今はその名を出すべきではない。話題が逸れ、豊基を困らせるだけだ。分かっていながら、ぽつりと漏らしてしまった。
「うん、まあ、そゆこと」
案の定豊基は戸惑いを含む相槌を打った。しかし自分を戒めたらしい阿黒が黙り込んだ気配を感じ、続きを語る。
「俺達、そこそこ町を探索しただろ。でも羊ちゃん、見つかんない。ひょっとしたら景虎さんみたいにあっちの世界の記憶が曖昧な状態で、こっちの世界の住人になってるかもしんない。なのにカントク、未だに一言も言わないでしょ。羊田を捜したい、とかさ」
核心を突く言葉。そうだ。彼は彼女を捜そうという態度を一度も見せておらず、猫山がいるであろうタワーに入る為なら、中途半端ながらに密告までしようとしている。
「猫山救出より、羊田捜しの方がカントクらしいのにね」
ヒューヒューって言えないじゃん、と茶化しながらも豊基の懸念は十二分に伝わる。
しかし、阿黒は疲れを言い訳にしたい気持ちで、取り繕って応じる。
「俺達があいつらの仲について詮索するのは野暮ってもんだ。それに、彼女だけは巻き込まれずに済んで、あっちの世界で無事なのかもしれない」
「でもさぁ」
「猫山が連れ去られていくのを前にして何も出来なかった以上、今は猫山を助けることに尽力したいんだろう」
「……」
「ほら、あの通夜ぶるまいでもそうだった。最初は面倒臭がったわりに、お前に抱き着かれてからはずっと一緒に行動したじゃないか。それでお前達のおかげで俺は真相に辿り着くことが出来た。何だかんだ言ってあいつも義理堅い――」
「ヤット、大丈夫?」
と、切り込まれた阿黒は言葉に詰まり、迷いつつも緩々と上体を起こした。
「……何だ、いきなり」
「猫山のこと助けるのなんて、カントクもだけど、一番ヤット的にはそんな義理無いじゃん」
豊基は天井を見つめたまま、あっけらかんと言い切る。
「あいつ、俺がちゃんと話聞いてやれなかったせいで、何なら俺があいつとの約束忘れたせいで、俺以上の馬鹿やっちゃったし、猿渡先生のこととか考えたら、全部あいつが悪いってわけじゃないかもしんないけど……。それでもさ、鼠谷が自殺したなんて思えない、鼠谷の死の真相探ろうぜって真っ先に言い出したのは猫山で、でもその猫山が鼠谷の死に関わってたのには変わりないよ」
――俺の友達の、猫山が。
よっと豊基も体を起こし、隣を見る。暗闇ではあるが、二人の目は慣れていき、お互いの表情を薄らとだけ認識出来る。
無自覚なのだろう、普段なら隙など見せないはずの阿黒は、今にも泣き出しそうに顔を歪ませているようだった。
「鼠谷のスマホを手渡された時」
躊躇いながらも、阿黒は口を開く。
「俺は猫山を許そうと……許さなきゃいけないって、思ったんだ」
豊基は、小学生の頃の記憶をほとんど覚えていない。鼠谷と共に虐められていたという阿黒と関わった思い出は無いし、同じ朗読会に所属していたという羊田が、神の声によって苦しめられていたなどと気付かなかった。何より、理想に狂った友と語り明かした日々すらも忘れていた。薄情だが、いつも明るくて賑やかなお調子者は、クラスに、愛造小学校に、暗い部分があるとは考えられなかった。それくらいに豊基にとっての小学生時代は楽しく、そして薄っぺらいものだった。
それなのに、何故だか思う。今、目の前にいる彼は、鍛え上げられた肉体の持ち主や卓越したカンフー使いなどとは程遠い、小学四年生の小さな男の子に違いない。
「いつだったか……お前と一緒に猫山の見舞いに行ったな」
「うん」
胸にナイフを突き刺して倒れた猫山に、応急手当を施してくれた阿黒の真っ直ぐな瞳。豊基は、それをしっかりと覚えている。
「まだあの時の俺は、あいつに対して何か仕出かしてもおかしくない状態だったのに、お前は俺を信じて席を外してくれた。おかげで、少しだがあいつと話をすることが出来た。そして改めて言ったんだ、『俺はお前を許す』と」
阿黒は目を逸らし、問いかける。
「俺は……この世界で信用に値しないか?」
「や、ずっと信用してんだけどね」
信用の問題として捉えられてしまう予想はしていたので、豊基はキッパリと即答する。それから、自分なりの言葉で、以前と比べてどこか幼くなってしまった彼を気遣う。
「心配なんだよ、ヤットのこともカントクのことも。たまーに無理してるように見えるから。猫山助けるのに必死っていうより、そうでもしなきゃ他のことで頭がパンク寸前みたいな。それって結構不誠実なんだけど、まあ、こんな変な世界に飛ばされたからには、何かに縋ってないとやってけないし、段々参るのも当たり前だよなー」
呑気な口振りはある意味達観していた。マイペース――彼の性格を一言で表すには、とてつもなく相応しい。
思わず阿黒は笑みをこぼしてしまった。
「お前に心配されるなんて、俺も焼きが回ったな。……猫山がお前のことを羨ましがった気持ち、何となく分かる気がするよ」
「それ、褒めてますー?」
「褒めてるよ、心の底からな。それに感謝だって――」
言いかけた時、天井の方から何やら物音が聞こえた。床に置いた入れ物を探り、ガサゴソと中から取り出しては確認しているような振動が伝わる。
狗凱はここを自宅と言ったが、家具の少なさや映画制作に使う小道具からして実家という雰囲気ではないし、例えば自分達が知らない間に狗凱と羊田が共に暮らすような関係に至ったとしても、若い二人で住むには似つかわしくない、外観も内装も昔ながらの古民家で、格安の借家だろうと推測出来る。
そんな造りだから、物音も振動も下まで結構伝わるのだが、既に一階で眠っているかもしれない級友を慮って静かにするという考えは、あの男には無いのだろうか。無い気がする。
「……上で何をしてるんだ、カントクは」
「さあ? せっかくだから映画の参考資料になりそうなの撮りたくて、カメラでも探してんじゃないの」
「まさか。ロボットに連行されるだろ、そんな目立つような真似をしたら」
流石に裏世界のルールは叩き込まれた。狗凱だってそうだろう。だから今更、そんなことの為のカメラの確認なんて無意味なはずだ。
物音と振動が続く中、どうせ寝付けないので阿黒は室内をぼんやりと見渡す。
「改めて見ると、妙な部屋だな。カントクは本当にここで生活してたのか」
「変な臭いもするよね〜」
「お前の……いや……まあ、そうだな」
二人して、小学生の頃の図工の授業を思い出す。
換気をする程ではないにせよ、壁や床、天井に染みついて離れない、ニスやペンキの臭い。狗凱にとっては、そして恐らく羊田にとっても慣れたものかもしれないが、自主制作映画とは無縁の二人からしてみれば、家らしくなく、不自然で、寝付けない原因はこれもあるのかもしれない。
それに、こざっぱりとした室内。映画制作に使うであろう小道具などが壁際にまとめてありながら、家具の類いがあまりにも必要最低限しかない。きちんと物が整頓されているのは阿黒としては好印象だが、むしろ殺風景とも呼べる。わざわざ置く物が少ないから整頓に苦労しないだけかもしれない。これが裏世界であるが故の異質さなのか、表世界でもこうなのかは分からないが、どちらにせよ、まるで――
「遠いどっかに行く前の、身辺整理したみたいな部屋だね」
やはり豊基は素直だった。阿黒は躊躇ったものの、「ああ」と同調するしかなかった。
一人でだか二人でだかは知らないが、半年の間に愛造町から旅立ったような空気は、この部屋からも、そして狗凱自身からも漂わせている。いや、愛造町から発つという意味では、それは阿黒にも豊基にも言えることであり、あんな怪事件の後だから居残る方がおかしいだろう。けれど今の彼のまとう空気は、まるで愛造町に魂の半分だけを置いていってしまったような、死すら厭わないような、不安定な哀愁がある。
――あれが、同じ夢を見る人間と久しい再会を果たし、共にヒーロー映画を撮ると宣言した、前向きな人間の生き方なのだろうか?
それについて深入りするのを豊基は恐れたし、深入りしたいと思うほどの余裕は、今の阿黒にはもう無かった。
「イッツG。いい加減、寝よう。休めるうちに休んだ方が良い……」
「そうだな。おやすみ〜」
二階の方も静かになった為、それに乗じて就寝する。
一見ちゃらんぽらんだが聡い豊基のことだから、無理に話を切り上げた浅はかさなど看破さているだろうと阿黒は思う。けれどやはり聡い豊基は、それ以上言及せず、軽い調子の挨拶をしてすぐに瞼を閉じた。
沈黙の中、阿黒は、自分の鼓動の激しさがみっともなく世界中に晒されているような錯覚に陥った。
(俺は猫山を助ける。そう決めた。だけど、本当に……元の世界に帰りたいのか? カントクには羊田がいるはずだ。頻繁には会えないにしてもイッツGには猫山がいる。でも、じゃあ、俺は? もしもこの世界に死んだ鼠谷がいるなら……俺は……どうしたらいい?)
考え込み、寝相を変える。豊基に背を向ける。
「……鼠谷……」
その悲愴な呟きを、豊基は聞こえないふりをした。
そしてその夜、阿黒と豊基は夢を見た。
いつか死んだはずの、今や町長と謳われる彼が無邪気に遊びに誘ってくる、そんな短い悪夢。
豊基は朝っぱらから発狂して騒がしい。その面白いようにしか見えない彼の懸念など知らない狗凱は、使い物にならないと分かっていながら、使い慣れたハンドカメラで撮ることにした。
彼らがエンディングに辿り着くまで、もう少し。
完