魔界ソープオペラ『私のことをどうか忘れてください』
手紙をテーブルに置く。
魔界での留学生活は楽しかった。好きな人もいたし、その人から魔界で暮らすことを提案されたときはとても嬉しかった。嬉しかったのに踏み切れなくて、結果その手を離してしまった。種族の差、寿命の差、何よりも人間であるという引け目。踏み切る勇気がなかった。
人間界に帰った私は友人を通じて、今の夫となる人と知り合い、結婚して今に至る。平凡ながらも幸せに暮らしていけるはずだった。
結婚して約一年、あれ? と思うことが増えてきた。食事が不味いと作り直しをさせられ、家の中は全て常に綺麗にしろと些細な所までチェックされ、主婦なのだから家庭を守るべきと常に家にいるよう言いつけられ、同僚の奥様はこれくらい出来ていると比較され、何をしても文句を言われるようになった。辛いけどこれくらいこなせない私が悪いんだと思う。
人間界に帰ってもD.D.D.のチャットで彼らとのやり取りは続けていた。と言っても、たまに全体チャットで「元気にしてるよ」「そうか」というやり取りをする程度。人間界での生活を邪魔してはいけないと思っているのか、詳しく聞かれることもなかったし、私自身も余計なことを言って心配をかけたくなかった。
なのに、今日は体調が悪かったのもあって我慢できなくて、つい「つらい」と送ってしまった。送った直後に我に返ってすぐ消した。いつも通知はオフにしているようだし、授業中の時間だから誰も見ていないはず。その後、返信はなかったのでやっぱり誰も見ていなかったのだとホッとした。
そのままさっきから床に寝転がってぼんやりと外を眺めている。
庭に植えられたイチジクの木の下には落ちた果実が放置されて腐っている。最初の頃はあれでタルトを作ったりしたっけ。結婚してこの家に引っ越した時には既に植えられていた木。花言葉にあやかれるようにと伐採はしなかった。風がガサガサと葉を揺らす音だけが聞こえてくる。早くベッドのシーツ交換しなきゃ……また怒られる……と、のろのろと重い体を引きずって寝室に向かう。
寝室のドアを開けたそこにはなぜかバルバトスさんがいた。……え?
「こんにちは」
「お、おひさしぶりです……どうしてここに……?」
「チャットに『つらい』と書き込みが」
見られていた。来てくれたこともだけど、それ以上に誰かに気にかけてもらえるということ自体が久しぶりで嬉しかった。思わず抱き着いて長い時間泣いてしまったけど、その間ずっと背中を撫でてくれた。好きだった人。どうして手を放してしまったんだろうとこの日ほど後悔したことはなかった。
その日から、チャットへ「つらい」と書き込むことが「会いたい」の合図になった。
バルバトスさんは書き込んだその日のうちに我が家を訪れ、しばしの時間を一緒に過ごした。
彼にも執事の仕事があるのですぐに来るわけではなかったけど、必ず来てくれた。現れる場所はいつも寝室。一緒に何かをする日もあれば、何もしないで寄り添ってくれるだけの日もあった。
ある時は、
「あの……料理、まずくないですか……?」
「どのお料理も美味しいですよ。あの兄弟たちに羨ましがられそうです」
「お世辞とか、言わなくていいですから……」
「魔界で一緒に作ったときを含めて、あなたのお料理に一度も不味いと申し上げたことはないはずです。それに、不味いと思ったこともありません」
そうだった。それにそう言ってくれること自体が嬉しい。少し自信を取り戻した。
また、ある時は、
「でも……外に出てはいけないと言われてて……」
「なぜですか? 何か根拠でも?」
「まだ掃除も終わっていないし……他の人はこれくらいできてるって……」
「私から見ても十分に綺麗になさっているかと。それに、他の方を実際にご覧になったのですか?」
その通りだ。それに褒められたようで嬉しい。また少し自信を取り戻した。
こうして悪魔の手引きで少しずつ自信を取り戻してゆく日々が続いた。増していく愛と背徳を感じながら。
朝、朝食が不味いから作り直せと夫が言うので何か間違ったかな、と思い味見してみる。
「美味しくできてると思う。それに作り直すの勿体ないよ」
と言った次の瞬間片頬に熱が走った。次第にジンジンとしてきて、平手打ちされたのだとわかった。咄嗟に動けずに立ち尽くしていると、目の前の人間は何かを一通り喚いた後、さっさと出かけてしまった。……馬鹿馬鹿しい。もう、こんな生活いらない。
テーブルに手紙を置いて、チャットに書き込みをするとまっすぐ寝室へ向かう。人生で全く同じ文面の手紙を二回も書くなんて思わなかった。
寝室のドアを開けると、バルバトスさんは既に待っていた。
「おはようございます。こんな時間から珍しいですね」
「……昔、魔界で暮らしませんかって誘ってくれましたよね。あれ、まだ有効ですか?」
「はい、有効です。どうなさいましたか」
「私、魔界で暮らします。元気な時もそうじゃない時もあるかもしれないけど、ずっと傍にいさせてください」
「かしこまりました」
両腕が優しく私を包み込む。
「それと、皆様もあなたをお待ちしておりますよ」
嗚呼、ずっと誰からも返事がなかったのは知っていて黙っていたのか。
顔を上げて覗き込んだ瞳の奥に見えたのはようやく手に入れたという歓びともっと欲しいという欲。きっと私も同じ瞳をしているのだろう。ベッドに押し倒されながらされた口づけは今まで口にしたどんなものより甘美な味がした。シーツの海に沈みながら指輪を外し、投げ捨て、サイドテーブルの結婚式の写真をぱたんと伏せる。
背徳の果実は熟した。この果実が堕ちる先に受け止めてくれる手があるから私はこの先何も怖くない。