昼下がりのドアの先 この団地は古いせいか、今時エレベーターもついていない。オートロックなんてもってのほか。この猛暑の中、その団地の五階まで瓶入りの水一箱を配達する私はもっと褒められていいと思う。
ようやく目当ての階に辿り着き、長い廊下を歩く。これで不在だったらどうしてやろうかと汗だくになりながら一番奥の部屋のインターホンを鳴らした。
……出ない。再度インターホンを鳴らす。……出ない。
いつもならすぐ出てくるのに今日に限って。この水を持って車まで戻るなんて勘弁してほしい。
今度は苛立ちを込めながら何度もボタンを押した。ピンポン、ピンポン、ピンポン。
深い溜息を吐きながら引き返そうとしたとき、ようやくガチャリという音がした。
「遅くなって大変申し訳ありません。手が離せなかったものですから」
度重なる配達で顔見知り程度になった青年が顔を出した。いつも、一房だけ長く明るい髪に奇抜だなと思いながら一瞬見惚れてしまう。
「助かりました。これ玄関に置けばいいですか?」
「いえ、私が」
ゆったりとした袖から覗く腕は普段から重いものを運んでいる私より力があるようには見えない。落として割られでもしたら面倒だ。
「大丈夫です。置きますね」
そう言って玄関に体を滑り込ませた。背後で団地特有の鉄の扉がバタンと閉まる音がした。
玄関はよく片付けられていて、靴箱の上には花まで飾られていた。見たことがない。何の花だろう。よく磨かれた床にそっと箱を置いて一息ついた。
「じゃ、これで失礼しま……」
「少々お待ちいただけますか」
「はあ……」
そう言い残すと奥へ引っ込んでしまった。何かここまでで不備でもあったのだろうかとそわそわしながら待つこと数分。
戻ってきた青年の手には麦茶の入ったグラスがあった。付いている水滴からよく冷えていることが窺える。
「お待たせいたしました。今日は暑いようですから。どうぞ」
顔見知り程度の人物が差し出す飲み物なんて何が入っているか分かったものではない。
分かったものではないけれど、ここまで蓄積した疲労と暑さの前にこの冷えた飲み物は魅力的過ぎた。
「……いただきます」
受け取って口をつけようとしたとき、手からグラスが滑り落ちた。
奇跡的にグラスをキャッチすることはできたものの、制服の前面は麦茶で染まっている。
「お怪我はありませんか?」
「大丈夫です。麦茶、すみませんでした。じゃ、これで失礼します」
ほとんど空になったグラスを返そうとしたその手が握られた。冷たい手。
「いけません。早く洗わなくては」
「でも今日の荷物はここで最後なんで帰ってすぐ洗えば……」
「でしたらなおのことです。この後お時間は?」
どうせ帰ってもダラダラして寝るくらいしか予定がない。
「……あります」
なにこの状況。
制服を洗ってもらうどころかシャワーまで借りてしまった。
今は「乾くまでどうぞ」と渡された部屋着で畳の上に座り、扇風機にあたって涼んでいる。
「シャワーまで借りちゃってすみません」
キッチンにいる青年の背中に声をかける。
「元々私がお出ししたお茶が原因ですから」
……そう、かな?
「それに」
青年は今は布団のない炬燵にたっぷり氷の入ったよく冷えた麦茶を置くと私の隣に座った。部屋着と同じ香りがする。
「こうしてお話してみたいと思っていましたから」
風が青年の髪を揺らす。あなたはどうですか? と言いたげに柔らかだけどどこか寂し気な視線が寄越される。
「私も……お話してみたいと思ってました……っ」
そう、いつもここに来るのを楽しみにしていた。苛立ったのは重さと暑さのせいだけじゃない。
私を抱き寄せる彼の腕は想像していたよりずっと力強くて、それでもやっぱり荷物は玄関まで私が運び込もうと思った。
人間界のとある一室のインターホンが鳴らされたことをD.D.D.が知らせる。
バルバトスは中庭の手入れをする手を止め、道具を片し、急いで魔法のドアを出現させた。
ドアの先は古ぼけた団地の一室になっていて、彼女の中ではバルバトスはここに住んでいることになっていた。勿論、人間として。
彼女が留学を終えて人間界へ帰っていったのは少し前のこと。今は元気にやっているらしい。
何の因果か、魔界での記憶をなくして。
もう二回目のインターホンが鳴らされた。
早くしないと帰ってしまうかもしれないといそいそとドアを潜ろうとしたところで思い直し、彼女が好きだった花を一輪手折る。
ピンポン、ピンポン、ピンポン。
根本は変わっていないらしく、昔、バルバトスの部屋のドアを同じようにノックされたことを思い出して苦笑した。
祈りにも似た願いを込めて靴箱の上の一輪挿しに花を挿し、部屋のドアを開けた。