prorrogação 長身のブラジル超人はきょろきょろと辺りを見回しながらホテルのエントランスに入ってきた。フロントに寄り、一般客にサインや写真撮影をねだられ、またラウンジやレストランを覗く。いつもならば待ち合わせには音速レベルで厳しい相手がこうも見つからない。珍しい話だ。
(全くどこで油売ってるんだ・・・)
顔をしかめつつも何軒目かのバーを覗いた辺りで顔見知りの従業員が駆け寄ってきた。
「ヒカルド様!良かった、いいところに!実は・・・」
ほとほと困り果てた体で頭二つ分近く低い位置から事情を説明される。その内容にブラジル正義超人は少しばかり天井を仰いだ。
「分かった、すぐに行く。迷惑かけてごめんな」
労いを口にすれば目に見えてほっとする従業員をよそにヒカルドは足早に歩き出した。
夜景の素晴らしい、値段もそれなりのバーラウンジの一角にロシア超人が陣取っていた。常日頃ならば相席した客達とも社交的に接し、下手なジョークで場を和ませ、如才なく親露感情の醸成に努める男だ。一般人のとっぴな質問にも辛抱強く付き合うので意外に人と打ち解けるのは早い。
が、今日は例外らしい。
(フギュウ・・・)
予想はしていたが機械超人は実に凶悪な形相で酒を煽っていた。殺しをやったことがあるのかと問われたら『それは素手でという意味か』とでも問い返してきそうな面構えに周囲の客達もすっかり引いている。
別に暴れたり悪事を働く訳ではない。こいつの稼ぎからしてツケを踏み倒すこともないだろう。が、日本人男性の平均身長を50cm以上上回る長身とファイトスタイルの都合上最低限とは言えみっちりついた筋肉はそれだけで怖い。あと、顔が怖い。
「飲み過ぎじゃねえのか、お前」
向かいの席に腰掛ければ天の助けとばかりにさっとオーダーを取りに来た従業員にオリーブや生ハムとルッコラ、あとカルパッチョなどとにかく早くできそうなものを頼む。断言してもいい、こいつ絶対空きっ腹のまま飲んだくれてやがる。
「・・・なんだ、ブラジル野郎か」
「なんだじゃねえだろ。週末のカポエラ教室の打ち合わせしたいつって呼び出したのお前じゃねえか」
性懲りもなく伸びる手からボトルをかっさらい烏龍茶を代わりに置き、肴の皿を並べていく。メインがウイスキーにウォッカ、チェイサーがビールとかこいつの動力源本気でアルコールか。
そもそもの目的を指摘すれば重心取り辛そうな頭がテーブルに突っ伏した。呻いてるのを見てそんなに激務だったのかと可哀想になる。そう言えば今日はデストもいない(当たり前だがこの面子でメシを食おうとすれば店選びの時点で難易度が跳ね上がる)し、大方仕事後時間潰しに一杯引っかけるつもりが深酒になってしまったのだろう。
「いいよ、明日早くに詰所に行く。あとは段取りの確認だけだ、それまでに酒抜いとけよ」
「Понятно(分かった)・・・」
少しは酔いが醒めたのかスマホを取り出して赤ら顔が情けなく溜息を付いた。WGPが中断してからこの方一時日本駐屯にあたりバディを組んだ際に移動手段を用立てて貰ったり他の超人を紹介して貰ったり、果てはロシア大使館での慰労会に招かれたりと何かと便宜を図って貰っていたので必要以上に責める気にはなれなかった。
「今回、社交辞令かも知れないけどファクトリー組も参加したがってたからな。伝説超人まで来ると肩が凝るからできれば遠慮したいが」
「交流してみれば良いじゃないか。気が合うと思うぞ」
「オレが?バカ言え」
飲んだくれの世迷い言をヒカルドは一笑に付した。これでも身の程は弁えているつもりだ。
「リングの上でなら負ける気はしねえが、あっちは全員いい所の坊ちゃんだろ。経験則で変なこと言って授業内容と矛盾したら悪いよ・・・そんなの、まず伝説超人達に失礼だ」
「尊敬してるんだな。伝説超人を」
「当たり前だろ?正義超人なんだから」
軽口に若干ムッとして返せばロシア超人が声に出さずに笑った。薄気味悪いぞテメエ。
せっせとピザを取り分けてやったり真鯛だのピクルスだのを盛りつけてやればイリューヒンは気分が上向きになったのかワイングラスを弄んでいる・・・って待て、いつの間に追加オーダーしやがった!
「そうだな、全ての伝説超人とその子弟が品行方正で尊敬に値するならオレの仕事もどんなに楽になる事か」
「まず飲み過ぎて仕事に支障来してんじゃねえよ!とりあえず食え、ほら!」
軽食をつきつければイリューヒンがふざけた身振りでギブアップの意思表示をしてみせる。機械超人の消化器官どうなってんだろうな?
とにかく、渋々食事にも手をつけ始めたのでホッとした。油断はならねえが。
「今回のイベント、ロシア系の留学生とか家族連れも楽しみにしてるんだろ。子供達にとって一番身近なヒーローってのは正義超人なんだ、しっかりしろよ」
「ああ・・・そうか、そうだな」
ロシアのエリート超人は何度か呟いた。赤ワインのグラスにじっと視線を落としたかと思いきや、オレに向き直る。
「いいか、ヒカルド。オレは正義超人じゃない」
「何をバカな」
「聞け」
酒浸りとは思えない威圧感のある声にオレは口を閉じた。パシャンゴ道場仕込みの礼儀正しさにイリューヒンは一瞬満足そうな顔になるがすぐに表情を引き締める。
「オレは、もう無理だ―少なくともその資格がない。だが、お前は違う。まだ間に合う」
深紅のワインを透かした表情が陰る。バイザーの奥でどんな顔をしているかは照明が絞られているせいで定かではない。だが、声音は真剣そのものだった。
「いいか。誰にどう言われようと、今の立場を放り出すな。そこに齧り付け。信義に背くマネだけは絶対にするな―正義超人で、在り続けろ」
「・・・言われなくても、そうするぜ」
当たり前のことを今更確認されるのはどうにも気恥ずかしかった。しかも、酔っぱらい相手に。その酔っぱらいがいつものように世話焼きな顔をするのが有難くもあり照れ臭くもあった。
真面目な話をしていたがロシア野郎はやっぱり足にキていて、オレは肩を貸したまま財布を引ったくって会計を済ませた。宿泊先は別のホテルなもんで(街路に転がしておくのは気が咎めたし)リオデジャネイロも真っ青な光の街を日付ももう変わっているのに男二人で闊歩する羽目になった。
イリューヒンが『もう一軒行こう』だとか『オレはアホウドリだ』とかくだを巻き出したらどうしようかと密かに心配していたが思いの外ヤツは大人しかった。
「・・・明日の朝、キヌアとチアシード持ってってやるから。それでポリッジ作ってやる」
「Как здорово, спасибо.(凄いな、有難う)」
肩の上から呟くような礼が返ってくる。その声には大分理性が戻ってきているようで、やっぱりオレは聞かざるを得なかった。
「・・・なあ、何であんなに飲んでたんだ」
沈黙。車がすっ飛んで行って、ここ暫くで超人レスラーの姿に慣れきった人間達が通り過ぎていく。一回りでかい相手をもう一度担ぎ直した頃に応えがあった。
「部下の、命日だったんだ」
オレは無言でメタリックな腕とターボの向こうの顔を見た。バイザーから覗く顔をどうにか笑いの形にして、ロシア超人が続ける。
「機動小隊の隊員でな。腕は良いんだが妻子がいるのに博打も女もやめられない、どうしようもないヤツだった・・・だが、あいつがいなければタブリーズまで持ち堪えられたか」
―そういえば、数年前、この時期に各方面軍で大規模な掃討作戦があった筈だ。
(・・・そうか、だからデストも・・・)
「―それは、大変だったな。お前の部下ならきっと勇敢で信頼の置ける男だったんだろう。冥福を祈る」
想像を絶する過酷さだったであろう対d・M・p戦線を思いやって答えれば、男は再び沈黙した。が、いきなり酒臭い息が吐きかけられる。
「クハハハハハッ!冗談だよ冗談!何だよアマゾン野郎は辛気臭えなあ、熱帯雨林があると心までウェットになっちまうってか?」
「!てめえこのウォッカ野郎!」
一杯食わされたと知ってオレはその場でトーチャー・スラッシュをかまそうと飛行機野郎をひっ掴んだ。が、飲んだくれに似合わぬ素早さでヤツはオレの手をすり抜けると機嫌よくUSBメモリをつきつけてくる。
「まあそう怒るな、お詫びにオレのとっておきのヤツを分けてやる。超元気が出るヤツだ、すっごいお宝だぞ~?」
「いらねえよ!!てめえポルノグラフィーの持ち込みとか正気か、日本まで来て何やってんだこの酔っぱらい!」
「まあまあまあまあ、何事も経験だ」
「だからいらねえっつってんだろ!コラ人の財布に二重底作って縫い込んでんじゃねえ!この脳味噌までウォッカ漬けの白クマ野郎!」
酔いもまだ抜けきってねえのに飛行機野郎の行動はやたらと迅速かつ俊敏だった・・・ポンコツのくせに!
ホテルの一室に戻るとヒカルドは床に四肢を投げ出した。
疲れた訳ではない。これしきの怪我、適切な治療と休養を取ればすぐに回復する。―ただ、今までの人生でそれなりに積み上げてきた正義超人としてのキャリアが終わりを迎えたのかと思えば虚脱感に苛まれるのは如何ともし難かった。
これからは司直の手に怯える生活になるだろう。荷物の整理の為、宿所に戻る道すがら満身創痍の悪行超人を見て人間達は身を固くしていたしまさか帰還すると思っていなかったのだろう、ホテルのフロントの面々は驚愕と困惑の表情で『・・・お帰りなさいませ』と言葉をかけてきた。
・・・あの様子では、通報されるのも時間の問題だ。早くここを引き払わなければ。
太い腕がズタ袋に当たる。日頃の習慣で整理整頓は済ませているものの、移動のドサクサで処分しそこねた例のUSBメモリが床に転がった。
(・・・・・・あの時の)
反射的に拾い上げれば決勝トーナメント前のそれなりに充実した日々が胸に去来する。指先に僅かな力を込めてへし折ろうとした。
・・・だが、当座の資金は必要だ。
内容を確認しておこうと貸し出されたPCを立ち上げる。
・・・曲がりなりにも、ブラジル代表にまで選出された自分がポルノ売人か。
もはや何に対してか分からない笑みが漏れる。紛う事なき悪行の証、鋭い牙が零れる。
メモリ内のファイルは順序立てて英語名を付けてフォルダ分けされていた。あの文字化けじみたロシア語用文字表記じゃないだけマシか。
(China、Germany、Japan、Soviet、Spain・・・律儀なこった)
国別に整理されたフォルダに持ち主の性格が出ているようで二度と逢うことも無いだろうロシア超人相手に呟き、(あるとすれば監獄か処刑場だろう)とりあえずは目に付いたフォルダを開き動画を再生した。
[U.S.]
『さあ競技に入ります・・・記録はどこまで伸びるでしょうか!?』
古い映像資料なのか音声のハウリングが酷い。画質も悪い。だが高速鉄道の進路を見据えて顔を強ばらせ、急遽駆け出した青年の顔は判別できた―息子と生き写しだったからだ。
必死に追い縋った中型の体躯が今し方自分が投じたt単位の鋼の固まりを渾身の力を込めて止める。背後の小さな影の盾になる強い意志を以て。
(伝説超人テリーマン・・・)
画面を通し数十年前の決勝トーナメント出場権を犠牲にした決断の重さがまざまざと実感される。これは一体、どういうことだ。まさか。
震える手が別のフォルダを開いた。
[Spain]
画面の中、暗雲と炎が立ち込め空中のリングが異音と共に均衡を崩した。
『あーっとソルジャーの立つ立方体リングが突然ものすごい勢いで下降をはじめたーっ!!』
『ハーハハハ!これで立方体リングのソルジャーはもちろん格闘場内のキン肉マン・チームも下敷きとなってしまい運命の6人の王子のうち残るはオレひとり!』
一人安全を確保した男が高笑いする中大質量の物体が三万人の観衆に向けて煙を噴きながら落下する。いくつもの悲鳴が重なった瞬間、会場激突寸前でリングが静止した。
屋根の上に視点が寄る。数十年前の基準なら巨漢に入る部類の、だが全身血塗れの男がただ一人でリングを支えていた。息も絶え絶えの体、角の片方まで折れた重傷の身で。
ブラジル超人は片っ端からフォルダを開き、動画を再生した。圧倒的優勢だったのに囮にされたミートの足を取り戻す為に死地に飛び込んだロビンマスク、人質に取られながら親友に他者の命を救う為自分を攻撃してくれと懇願するウォーズマン、パートナーの身内を庇い敵の攻撃をもろに食らうモンゴルマン、父の仇と共に余所の星の救援に駆けつけたブロッケンJr.。
(これが・・・これが、伝説超人。これが、正義超人・・・)
いつの間にか涙を流していた事にすら気づかなかった。今既に真の姿になっているというのに、次から次に突き上げる衝動が全身の皮膚をぶち破りそうだ。
今まで誰も教えてくれなかった。ヒカルドが物心付いた時には既に多くの伝説超人達は現役を退いており内向きなブラジル超人界では資料を探す事すら難しかった。師すら超人の真髄については謎めいた言葉でしか答えてくれなかった。だから自分で模索し、技を磨き、模範的な超人たろうと足掻くしかなかったのだ。
残ったフォルダは一つ。
[Japan]
『次の試合まで5時間なんですよ?1秒でも遅れたら超人タイトルは剥奪ということになりますから』
冷静な言葉に男が頷く。愛嬌のあるとぼけた顔立ちだが今は緊張が漲っていた。
(初代キン肉マン・・・・・・)
凶悪な拳に力が入る。息子との死闘は記憶に新しい。だが噂に名高い現役時の姿を見られようとは思ってもみなかった。
(グアムから東京にとって返すだと・・・無茶だ。往復をこなさなきゃならない以上季節風と海上の日差しがどれだけ身体に負担になるか。しかも、東京で一般人を庇いながらの市街戦なんて・・・)
固唾を呑みヒカルドは画面に見入る。他の伝説超人達の映像でもそうだったように。
不利を承知で男は翔けた。休暇中とは言え遠征の合間である以上無謀な運動は禁物だし疲労も蓄積されている筈だ。優勝したとは言え、北米超人タッグ選手権でも重傷を負ったのだ。
東京到着の時点で既に4時間が経過していた。巨大な敵に殴打されコミカルな仕草で倒れ込んだ際一般人達から悲鳴や怒号が上がったがヒカルドには判別できた―あれは、疲労困憊になりながら意志の力だけで戦っている状態だ。
一般人の協力もありどうにか敵は掃討できた。が、太平洋上で刻限を告げるブザーが鳴る。この瞬間、キン肉スグルはチャンピオンベルトを失った。
全ての動画を再生し終え、ヒカルドはデスクに突っ伏した。キーボードが耳障りな音を立てる。
(どうしろっていうんだ・・・今更、オレに何をさせたいって言うんだ)
爆発した熱い感情と共にぐるぐると思考が巡る。過去二試合で浴びた罵声、逃れ得ぬ運命。だがどうしようもなく―本能的に、超人として焦がれる程の正義超人達の勇姿。超人ならば誰もが憧れるであろう勇気と雄々しさ。画面を通しその頼もしい手が自分にも差し伸べられていると錯覚する程の、熱い精神。情けないほど涙がこぼれる。冷たい血しか流れていない筈のこの身体が、熱く脈打つ。
筋肉の発達した腕がアル中よろしくぶるぶる震えた。やり場のない衝動に任せ、ヒカルドは重い拳で壁を穿つ。鈍い音がしてパラパラと資材の破片が落ちていった。
―自分の気持ちに、嘘はつけない。
数奇な出自の男は涙を拭い去り立ち上がった。
一度決意すればエレベーターを待つのももどかしかった。ロビーに到着し、ぎょっとする利用客の間を縫ってフロントに駆けつけた。
「ヒカルド様!どうしたんです!?」
―思えば、この従業員達とホテルのお陰でずっと切望してやまなかった正義超人の理想を目の当たりにできた訳だ。通報されなかっただけでも有難い。
「世話に、なった・・・すまない、壁を壊してしまった。修理費を・・・」
激情の余韻で切れ切れに話せばスタッフが複雑な表情になった。何人かがやり取りし、必要書類を出そうと腰を浮かせる。
「分かりました。ではこちらに―」
「これで、足りるだろうか」
トレイの上に日本に来てから稼いだありったけの外貨を並べる。フロアのスタッフ達が営業スマイルも忘れてこちらを振り向く。
「ヒカルド様!?こんなに頂けません!宿泊費と補償は既に―」
「頼む、受け取ってくれ―口座もいつまで使えるか分からないんだ」
切迫した口調にフロントの従業員達の顔に同情の色が浮かんだ。数人が悲しそうに俯く。
「―分かりました。余分な金額はホテルでお預かりさせて頂きます。ですが、どうか・・・早まったことはなされませぬよう」
真摯な表情だった。先程の映像で心が浮き立っているせいか、本心から自分のことを気遣ってくれているように見えた。
「―分かっている。オブリガード」
答えれば相手の表情が和らぐ。
「他に、何か私どもにお役に立てることはございますか」
「ここから見て、トーキョーはどの方角か教えて貰えないか」
決勝戦は三日後だ。ニホンレットーは南北に長いと言うが休憩を入れながらであれば間に合うだろう。後ろにいたスタッフが頷いて立ち上がった。
「お待ち下さい。経路を印刷して参ります」
ヒカルドがエントランスの回転ドアを抜けると、悴んだ手に息を吐きかけたり気を揉んだ様子で行ったり来たりしていた超人二人がほっとした表情になった。
「ヒカルドさん・・・!いやあ無事でよかった!」
「とりあえずどこに行きます、こっからだとロシア?中国内陸部?いやあっちは寒いな。ちょっと行きゃあ東南アジアだ、あっちならその手の組織は年中助っ人募集中っすから、ヒカルドさんも箔が付きますって!」
「そっすよ、今でも俺達から見りゃあ男前ってもんです!とりあえず景気付けにパーッと行きましょうや!」
「悪いが」
不器用に慰めの言葉をかけてくる付き人二人にヒカルドは向き合った。良くない予感に二人が口を閉ざす。
「オレは、お前達とは一緒に行けない・・・東京に行く」
それぞれに思惑があったとはいえ準決勝を共に戦った二人が愕然とした。異形がわななきヒカルドに取り縋る。
「もう止めてくれよヒカルドさん!これ以上日本にいたら、あんた本当に殺されちまう!!」
「チクショウ委員会の奴ら!ケビンマスクには反則の一つも取りやしねえくせに!」
悲痛でさえある二人の叫びに今更ながらヒカルドは自分が置かれている立場を実感する。急速に心が冷えた。先程の吹雪の冷たさが今更皮膚を突き刺す。高揚感の源であった、手にしたUSBが急にちっぽけなものに思われる。
そう、伝説超人の時代とは違うのだ。あの頃は各陣営の威令がよく行き届き、覇権は正式な試合のみで争われていた―今のように、徒に人間達を巻き込みはしなかった。南米で活動していたヒカルドも覚えがある―治安を、正義超人の基盤を揺るがす為に悪行超人達はか弱い一般人を標的にした。
―道を踏み外した超人が人間から向けられる憎悪は、昔の比ではないのだ。
「大体万太郎だってあんたを見捨てたんだ!これで一人で戦う羽目になっても自業自得じゃねえか、ざまあみろってんだ!」
「あんたが応援までしてやる理由なんてどこにもねえよ、ヒカルドさん!正義面してる連中もちったあ痛い目見りゃあいい!」
万能感が消えていく。泣き喚く二人にかける言葉もなく、ヒカルドは視線を彷徨わせる。
その視線が、ふと一点に定まった。
「理由か。理由なら、そこに」
太い指が街頭TVを指し示す。血の海に沈みスクラップ同然になった機械超人が力なく横たわっていた。
自分と入れ違いで戦っていた筈の、画面の向こうのロシア超人をヒカルドは黙したまま見上げる。
なあ、起きろよ。何してるんだよ、お前を待つ人達も、支える人達も大勢いるだろ。お前を呼ぶ声が聞こえねえのか?そんな所で呑気におネンネしてる場合じゃねえだろ。
・・・正義超人、失格だぞ。
(・・・人のことにばっかりかまけてるから、こうなるんだよ)
搬送されていくロシア超人に胸中で告げながら、ヒカルドは再度USBを握り締める。先程とは別種の激しい感情が再び足元を強固なものにした。
切り替わった映像の決勝進出者を険しい眼差しで睨む。ダイジェストだけでも分かる、凄惨な試合だった。事前の合意の上の結末だったのだろう。だが。
―ケビンマスクがイリューヒンを突き落とした角度は、ともすればロシア人サポーターを殺傷しかねなかった。
ただの示威行為だったのかもしれない。しかし、人が密集した観客席に全長2m以上、重量150kg超の金属の塊を30mの高さから投げ落とせばどうなる―バカでも、結果は想像がつく。おまけにイリューヒンの試合は最前に国賓が臨席していた。仮に『生き物』を犠牲にして墜落死を免れたとしても、社会的には死亡する。―ご丁寧な事にイリューヒンは両翼をもがれていた。回避の術はない。
―ロシアの守護神に、ロシア人を殺させようとしたな。
イリューヒンの詳しい職分まで把握していた訳ではない。組み合わせ次第では自分達が血みどろの闘いを繰り広げていただろう。だが、ヒカルドは知っているのだ。あの強面が、本国から同僚が立ち寄ったり馴染みの基地から連名で激励の便りが届く度に嬉しそうに緩んでいた事も、サポーターの子供達が駆け寄る度に毎度屈み込んで髪をくしゃくしゃに撫でてやっていた事も。
映像が切り替わる。セコンドが事故で離脱し、単独で決勝に臨まねばならなくなった少年は顔色を失っていた。
(万太郎・・・)
こんな形で、奴が負けるというのか。
「こんなの、フェアじゃねえよ」
低い声が漏れ出た。二人が涙と鼻水まみれの顔でヒカルドの腕を掴む。
「放っときゃあいいじゃねえか!もうヒカルドさんが気ぃ使ってやる義理なんかどこにもねえよ!あんな奴、ケビンマスクにぶち殺されちまえば良いんだ!」
「まさかヒカルドさん、ジェイドのこと気にしてるのか!?あのヤローが負けたのは弱かったからだ、あんたは何も悪くねーよ!」
「―その理屈で言うなら」
ヒカルドは薄く笑った。恐ろしげな牙を剥き出しにして。
「オレが万太郎に負けたのも、弱かったからってことになるな―悪行だからじゃなく」
二人が絶句した。腕を取られたまま、ヒカルドは街頭TVに映るケビンマスクを見据える。
善悪の問題ならば所詮この身一つの問題だ。悪と指弾されるのならばただ肩を落とせば済む。幾らでも先を思い遣って憂鬱気味にでも悲観的にでもなればいい。延々と自己憐憫に浸り、他者の同情を引き、不毛に自分を慰め続ければ良い。
だが実力の優劣ならば、話は別だ。
弱者と嘲られるのなら一瞬で血が灼熱する。正義超人界を追われようが、帰る故国を失おうが血と汗を賭して培ってきた技量は未だこの身に在る。超人レスラーとしてそれを否定される事だけは絶対に許容できない。
鍛え上げた肉体に懸けて、磨き上げた技に誓って、まともに闘えばヒカルドはケビンマスクに負ける気はしない。だが自分に勝利した万太郎がこのまま不利な戦いを強いられ、惨敗でも喫するならヒカルドはケビンマスクより弱かった事になる。それだけは御免だ。
「万太郎に助力する―せめて互角の条件で闘わせる。今更オレが行ってどうにかなるとも思えねえが、このまま終わらせられるかよ」
「ヒカルドさん・・・」
鼻声と共に腕を掴んでいた手が離れた。絶望的な顔をしている二人に向かって、ヒカルドは無理にでも笑いかける。
「・・・嘘でも、成り行きでも。試合の後お前等が来てくれて嬉しかったぜ・・・ありがとよ」
「ヒカルドさん!あんたって人は!」
表情を引き締めたヒカルドは身を翻す。ここから先は準決勝以上の修羅の道。行くのは自分一人で構わない。
傷ついた足に力を込め、路面の雪を蹴散らして男は駆け出す。南へ、東京へ。
正義超人界の行く末を見届ける為に。