Elter und Kind 仕立てのいいシックな外出着に身を包んだ養い子が、倍近くも大きさの違うごつい手をぎゅっと握ってきた。
(…後で、アクアドームにも連れてってやるからな)
先程エントランスホールを通った時にフロアをぶち抜いたエレベーターをすっぽり包む巨大水槽にジェイドは両目も口もぽかんと開けて、次いでその中に大量の魚群まで発見して緑の目をきらきら輝かせていた。目に見えてはしゃがなかった分、流石に今日の用事に緊張しているのか。
(・・・ま、俺だって気が進むって訳じゃない)
苦笑してネクタイを直した辺りで先導するスタッフが会議室の前で足を止め、先日業務に復帰したばかりのオーナーとその弟子を誘った。
丁重に室内に招き入れられた瞬間に数十の鋭い視線がざっと突き刺さった。手を引いた小さな弟子が体を強張らせる。無理もない。大方噂や調査結果は既に各人の手元にあって、今回はもう意向確認の段階だろうがそれでも肋の辺りがちょっと重くなった。
スタッフが退出しジェイドが大人用のでかい椅子からどうにか顔を出したタイミングを見計らって口を開いた。
「この度は、我々の為に手間を取らせてしまったことをまず詫びたい。余所から弟子を取ることは異例な事ではあるがブロッケン家の歴史を紐解けば―」
「―ちょっと待て。余所から?」
鋭い形相でこちらを品定めしていたグループ内重鎮の一人が眉根を寄せて問いかけてきた。
「ああ。お前達の気持ちはよく分かる。人事にも株式配当にも今更口出しする気はない。ただ、身寄りのない孤児ながら俺を頼ってきてくれたジェイドに関しては―」
「孤児!?ちょっと待てJr.!その子はお前の息子じゃないのか!?」
「身寄りがないって、どういう事だ。一般人を修行の道に引きずり込んだのか!?てっきりお前が外に作ってた子供を漸く認知する気になったのかと・・・」
「お前が子供育て始めたって報告が入って、写真突き合わせたら明らかにウチの系譜の特徴だったからそういう事かと思いきや弱い立場の孤児を略取だと!?何を考えてるんだお前は!」
企業内、下手したらEU内でも発言力のある重役達が騒然となる。大体は共に修行した世代の連中だ、自分が飲んだくれていた二十年の間に渋みを増した働き盛りになっている。青臭い昔の面影を思い起こして郷愁に駆られる横で弟子が硬直しきっていた。まあ無理もない。
血相変えた議会有力者の一人がジェイドに詰め寄った。厳つくなったな。
「おい君、考え直せ!如何に超人同士でこいつが伝説超人と言っても二十年来己の義務も放り出して酒浸りだった男だぞ!?尊敬にも君の師匠にも値しない、むしろ大人としては最低の部類だ!」
「実子なら百歩譲って監視付きで容認しようと思っていたが身寄りもない子供が地獄に引きずり込まれるのを見過ごせるか!悪いことは言わない、うちの息子夫婦が男の子を欲しがってるんだ。会ってみないか?」
「伝説超人として実績があると言ってもその信用をこいつはこの二十年ですっかり食い潰したぞ!大人としても超人としても、子供の教育には悪影響極まりない!超人の子弟を受け入れている学校やクラブチームなら幾つか心当たりがある、君にはより良い環境を選ぶ権利があるんだ」
(・・・返す言葉もねえ)
誹謗中傷どころの騒ぎではない。ブロッケンJr.への指摘の数々はその全てが見事に正鵠を射ていた。
祖国統一後、本家の当主でありながら自暴自棄に陥り一族を顧みなかったのは紛れもなく自分だ。そして二十年本邸が荒れたとは言っても当主が敷地を売り払い路頭に迷わずに済むよう家業を必死で支え、各分野で業績を叩き出し生活に困る事なく飲み歩けるだけの配当を分配してくれたのは現役でEU経済を支え続けてきたこの男達だ―自分の知る西ドイツがドイツ連邦となり、ECがEUになってからもずっと。
思えば日本で闘っていた頃もこいつらの父親達には随分と無理をかけていた筈だし、ここ20年当主が『療養中』で常に代理を立てざるを得ないともなれば公式の場では顔から火の出るような思いをさせた事だろう。そう察してしまうような年齢になってしまった。
(・・・下手に俺が指導するより、世事に通じたこいつらに任せた方がジェイドの為かもしれんな)
「―大体この酒浸りがまともに子供を育てられる訳無いだろう!昔とは違う、超人レスリングだけで食っていくのは不可能だ!超人警察が採用枠を拡大しているから後継者になってくれれば―」
「―やだあっ!!」
ドイツ語の発音は只でさえ濁音が多い。でかい大人達に見下ろされダスダスデアデアがなり立てられるジェイドの見開かれたまん丸い目がみるみる潤んでいってブロッケンJr.はあー泣くぞ泣くぞ、と危惧していたのだが―とうとう決壊した。
同胞達が虚を突かれる。椅子から身を乗り出して小さな弟子は隣のごつい手をしっかと掴んだ。子供の熱い体温が直接筋張った指を包む。
「レーラァと一緒じゃなきゃやだ!レーラァと一緒じゃなきゃどこにも行かない!」
―ブロッケン一族の符牒において、LehrerはVaterと同義である。
ジェイドは一族外の出身だ。ジャーゴンなど知る由もない。一般人の認識としては基礎学校の教員をそう呼ぶのと何ら変わりはないだろう。それでも。
(今だけでいい、思い上がらせてくれ)
男は小さな熱い手を即座に握り返した。弟子が気づくより早く小さな体を抱き上げ、壮年の男達と同じ目線になるよう立ち上がる。
「大丈夫だ、ジェイド。みんなお前をいじめたり怒ったりしに来たんじゃない。みーんな、お前のことが心配でちゃんとご飯食べられてるか寝るところは寒くないか、学校で友だちはできそうか聞きに来てくれたんだ。怖いおじさん達じゃないぞ。なあ?」
あやすような口調に一族の重鎮達が我に返る。半べそのジェイドを見て人間の道を選んだとはいえかつて同門で鳴らしたごつい体格や轟く声、険しい表情を含む自分達の言動が子供の目にどう映ったか再認識したのだろう、慌てて目尻を下げる。
「そ、そうだぞ。ジェイド君がジュニア・・・レーラァにお腹いっぱい食べさせて貰ってて、近所でお友達もできてるならそれで良いんだ」
「あ、その椅子じゃ大きすぎたか。おい、下のレストランにでも借りに行ってくれ」
「何か飲むかい?おじさんは飛行機のお仕事をしているんだ。今度レーラァと遊びに来るといい」
瞬く間に子供用の椅子だの飲み物だのが用意されジェイド詣でが始まる。ピンバッヂだの試供品の玩具だの貰ってジェイドは少し機嫌を直したもののやっぱり自分の手をぎゅっと握ったままだった。まあこれくらいは仕方ない。
「今の学区ですと、トマス君と同じ学校ですね」
こちらも有無を言わさず承認が必要な書類をどしどし回され署名しているとスタッフに話しかけられた。
「トマス・・・ルッツの所のか。後で挨拶に行っておくか」
「それがよろしいでしょう」
大分でかくなっているだろう分家の坊主を思い返して答えるとジェイドが心細そうな顔で見上げてきた。もう少しだけ我慢してくれ、これが終わったらアクアドーム観て水族館も連れて行ってやるから。
そう内心で答えて俺は息子の頭をわしわしと撫でてやるのだった。