陽光煌々たり 劉備達が益州へと発つ日が来た。劉備に従い益州へ向かう事になったのは比較的新参な武将が多く、趙雲を初めとした新野時代からの将の多くは、孫権軍への牽制として荊州に残る事になっている。そして出発の直前、江陵の抑えとして早々と現地へ向かった関羽・関平親子を除いた居残り組は、見送りの為に集まっていた。趙雲も勿論その中の一人だ。
「やあ、趙雲殿」
劉備軍の軍師の一人龐統は、劉備に伴って益州へ向かう内の一人だった。旅装を整えた龐統が声をかけてきたのは、出発も目前に迫った刻の頃である。
「龐統殿?」
「実はね貴殿に頼み事があるのだが、良いかな」
明るいうちに出来る限り進めるよう、出発は陽の昇りきらぬ未明に決まり、辺りはまだ薄暗い。趙雲は常人よりは遥かに夜目が利く方だが、それでも人の顔は朧気だった。すぐ傍ではためいているはずの劉旗の色も見えない。近くで声をかけられて、小柄な龐統をやっと視認する事ができた。
「頼み事? 私にですか」
「いや、それが自分で行くべき所をすっかり忘れていたわけで。ただ叔父上の元に手紙を届けて欲しいんだが」
「叔父上というと……」
「龐徳公と言えば分かるかな?出発前に挨拶に行こうと思ったんだが、何分向こうは田舎に引っ込んでおられるから会いに行くでも骨が折れる。代わりに手紙を書いたんで、それを届けて欲しいんだ」
龐徳公。荊州の者なら余程の放蕩者でもない限り名を知っている有名な陰士だ。非常に学があるそうだが、前荊州牧の劉表に何度乞われても仕官しなかったという経歴がある。中華では立身出世に拘らず、才を隠して陰棲する者を妙にありがたがる傾向がある。勿論龐徳公も多分に漏れず人々の尊敬を集めているそうだが、劉表に仕官しなかったお陰で荊州が動乱を迎えた際も騒ぎに巻き込まれずに済んだのだという。確かに、そういう意味では先見の明があったといえよう。
「その頼み自体は構わないのですが、今龐徳公はどちらに?襄陽におられるのでしたら難しいかと」
「いや、いや、何も貴殿に細作紛いの真似をさせてまで手紙を渡して欲しいわけじゃない。叔父上はゴタゴタの前から襄陽を離れてひっそり田舎暮らしを楽しんでらっしゃるから」
「ああ、それならば」
本当にただのお使いの様だ。ならばと快諾し、龐統から絹に書かれた手紙を受けとる。
「場所はまぁ、孔明にでも案内して貰ってくれ」
龐統が言うやいなやの時に、劉備の声が響き渡る。劉備はさほど遠くない場所で多勢に囲まれていた。その人垣の中には、一際背の高い黒い影が見える。孔明だ。
「そろそろ出発だ!隊列を組め!!」
「おっと、時間のようだ。趙雲殿、すまないね」
「あ、いえ」
龐統を見送る間に、みるみるうちに隊列が組上がる。もう当分劉備にも、龐統にも会えない。そう思うとふっと胸に淋しさが生まれるも、すぐ側に立つ人の姿を見て、趙雲は顔を綻ばせる。
――孔明殿は一緒に荊州に残るのだ。ただそれだけで少しの淋しさは我慢出来る気がする。それに、長くても数年でまた会えるのだ。趙雲が援軍に派遣されるような事態になれば、もっと早くに再会できるだろう。
見送るならば、笑顔の方が良い。趙雲は消えていく劉備達の一軍を笑顔で見送った。
孔明は相変わらず、いや劉備達がいなくなってから余計に、仕事詰めの毎日のようだ。ただ最近では劉備の正室である孫尚香に手がかからなくなり、勉強をみるのもどこぞの学のある令嬢が代わったらしい。それでも龐統をはじめ、出払った官吏の空きを出来る限り自分の力で埋めようとしているようだ。いつも忙しそうで、正直話しかけるのも躊躇われる。話しかけたいとは思うのだが、仕事の障りになる事は避けたい。だが趙雲としても龐統の頼みだけは反故にするわけにもいかず、とうとう孔明が休憩をしている瞬間を見掛けて話を切り出した。
「孔明殿、少しお時間をいただけますか?」
孔明は散歩でもしていたのか、公安城の庭を通る小川の水面を覗き込みながら、供も連れずにつらつらと歩いていた。孔明の執務室まではさほどの距離もない。息抜きだったのか、ちょうど良い時に遭遇できて運が良い。もっとも、こうして会ったのは偶然でもなんでもなく、趙雲が例によって孔明に話しかける機会を探りに孔明の様子を見に訪れたからである。
「子、龍殿」
孔明は意外そうな面持ちで趙雲を見た。単に驚いたというよりは戸惑うような表情なので、一人で息抜きしてる所に悪かったかなと罪悪感があったが、趙雲とて用事があるのだから引くわけにもいかない。
「少しお尋ねしたい事があるのですが、今よろしいですか?」
「お尋ね……私にですか?なんでしょう」
「龐徳公のお住まいを孔明殿ならご存知だと思いまして。その、手紙を頼まれたのです龐統殿より」
「はぁ」
「案内をして頂けると有り難いのですが」
孔明のこめかみがピクンと跳ねる。
「……申し訳ないのですが、仕事で忙しくて……」
孔明は趙雲とは違う方角へ視線を彷徨わせている。ぼそぼそと煮え切らない様子で言い終わるその瞬間、その目が一瞬大きく開かれた。思わず趙雲も孔明の視線の先を見る。
「そうです、私の代わりに季常に頼んだら良いかと」
視線の先にいたのは、こちらへ歩いてくる馬良だった。その特徴的な白い眉の下には、見るからに柔和そうな顔が続く。実際、その印象のままに柔和な人柄だった。趙雲とは生憎今まで大した接点は無かったが。
「え? 何ですかお二人とも」
二人して自分を見ている事に、馬良の方も気付いたようだ。大声を出さなくても充分に会話が可能な距離にまで馬良は来ていた。
「馬良殿も龐徳公のお住まいをご存じなのですか」
「ええ、というか、昔二人で訪ねた事があります。ねぇ、季常。貴方は龐徳公の住まいの場所、まだ覚えていますか?」
「え? ええ……。何回か訪ねましたから、近くまで行けば分かるでしょう。それがなにか?」
突然に話題を振られて馬良は目を丸くしている。そう言えば孔明と馬良は出廬以前からの旧知の仲だという。孔明が昔良く通っていた場所を、馬良が知っているというのもおかしな話ではない。
「ならば、馬良殿に……」
本心からすれば孔明に案内してもらいたい……というか、正直最近接点が無かった孔明と久々に過ごせるんじゃないかと考えていたのだが、孔明の手が空かないというならば仕方がない。
「え~と、あの、どういう事なのですか?」
「趙将軍が、龐徳公の住まいへ案内して欲しいとの事です。生憎、私は手が空かないので……」
チラリと、横目に趙雲を見る。
「私の代わりに案内してくれませんか」
「ああ、成る程そう言う事ですか! ええ、構いませんとも」
馬良は人の良い笑みを返した。その笑顔に趙雲がささやかな罪悪感を抱いたのは言うまでもない。
「いつがよろしいですか?」
「手紙を預かっているので、早い方が良いと思います。馬良殿の都合がつく限り早めに……」
「手紙ですか。ならば早速今日の午後にはいかがです? 私は特に急ぎの用事が無いので」
「今日の? そちらが構わないのでしたら」
「ではあと二刻ほどしたら正門で待ち合わせしましょう! 少し辺鄙な所にありますから、それでも大丈夫な準備をしてきて下さい」
そう言い終わるや、馬良は朗らかに破顔した。どちらかと言えばあまり社交的ではない孔明が、馬良とは仲良く出来ている理由が、なんとなく分かる気がした趙雲だった。
二人が城を出たのは昼過ぎだった筈なのだが、いつの間にやら辺りは薄暗くなり始めていた。とはいえ、上空は覆い被さる様に生い茂った木々で視界は通らず、ハッキリと太陽の姿を確認する事は出来ない。かろうじて道と言えそうな道を、二人は馬を進ませている。馬や人が通るばかりで、車などが通る事は無いのだろう。随分前からずっと、馬二頭がやっと通れるくらいの道幅の道が続いている。
しかし二人は並んで進んではいなかった。こんな道が悪い場所ではおのずと馬術の差が出るため、どうしても馬良は遅れがちになる。趙雲の方は慣れたもので、振り替えって馬良を待つくらいの余裕を見せている。遠征の経験で文官が武将に劣るのは当たり前だが、馬良は趙雲に比べてずっと若い。差が出るのは仕方がない。
「馬良殿、大丈夫ですか?」
「申し訳ないです、足手まといになっているようで」
馬良がなんとか追い上げてきて言った。馬を駆っているだけだが、本人も息が上がっている。
「いいえ、私の無理を聞いて貰っているのですから。して、まだ先は長いのでしょうか」
「まだもう少しですかね。暗くなる前につけば良いけど」
「今日中に城へ戻るのは無理ですね……」
趙雲は空を見上げた。太陽の位置はよく分からないが、もう夕暮れといって良い時間のはずだ。
「そりゃそうです、龐徳公のお宅へ日帰りは無理ですよ。龐徳公に宿をお借りしましょう」
「しかしいきなりその様な事、失礼なのでは」
「向こうも承知でしょう、いつもの事ですから。昔訪ねた時も、突然行ってその場で宿を借りました」
昔……。孔明と昔通ったといっていたが、その頃の事なのだろうか。
「孔明殿と昔来られた際もこの道を?」
「ええ。と言うか、他に道らしい道無いんですよね。だから久々に来ても道が分かるのです」
なるほど、と思った。よくこの様な目印の無い道が分かるな、と内心不思議だったのである。
馬良の宣言通り、龐徳公の庵につくには一時の時間を要した。日はほとんど沈みかけ、暗い森の中に赤い木漏れ日が落ちている。木々の隙間から射し込む夕陽が時折妙に眩しい。龐徳公の庵はその夕陽に照らし出されるように、ぽっかりと森の中に佇んでいた。
庵の周りは趙雲がその気になれば馬で一越え出来そうな、申し訳程度の木の柵に囲まれ、これまた低い門に続いている。門から見たところ、建物が二つ並ぶように建てられ、その間を屋根つきの渡り廊下が結んでいる。家畜の臭いがするが、家畜の姿も声も聞こえない。もう宵だから小屋に入ってしまったのだろう。庭は庭と呼ぶにはあまりに森と同化しすぎている風情だったが、住み心地は悪くなさそうだ。
もし、という馬良の大声の呼び掛けに、間もなくサッと一つの人影が舘から現れる。まだ幾分かあどけなさを残した青年だった。背は趙雲より頭二つぶんはゆうに小さく、馬良と門を挟んで向かい合ってもさらに低く見える。
「私は馬季常。昔龐徳公に世話になった者です。今は劉左将軍の下で働いています。龐徳公に用があって急遽訪ねたのだが、ご在宅かな」
「旦那様なら中に。して、そちらの方は?」
青年はついと、切れ長の目を趙雲に向ける。
「私は同じく趙子龍という。龐徳公には甥の龐士元殿から文を預かって来たのだと伝えて欲しい」
青年は軽く頷いて舘の方へ戻っていった。そして再び顔を見せるまで、ほとんど時間は要さなかった様に思う。
「旦那様がお通しになるようにと」
青年が小さな門を開いたので、馬良と趙雲は馬を引いて中へと入った。
「馬はこちらへ。お二人は中へどうぞ」
実に手際よく、馬は青年に連れられて庭の奥へと消えていった。残された二人は促されるままに舘の内へと足を踏み入れる。
中は外見以上に綺麗に整備されており、華美とは言わないまでも蕭奢な調度が置かれている。しかしそれも大豪族龐家の者が住むにしては、あまりにこじんまりとした装いだろう。
奥へ入るとすぐに居間になっていて、中央には大きな几と、その周りには椅子が何脚か並べられている。その椅子の一つに、老年の男が一人で座っていた。室内には既に灯りが灯されていて、男の皺まで良く見える。宵闇の暗さに目が慣れていた趙雲には、油に灯された火さえ少し眩しい。
部屋の奥には竈が設置してあり、厨でもあり暖をとる装置にもなっているらしい。竈には鍋がちょうどかけられている。夕餉の準備中だったのだろうか、室内は良い匂いで満たされていた。遠路を越えたばかりの趙雲には堪らない匂いだったが、グッと奥歯を噛んで意識をそちらから離す。
「龐徳公、お久しぶりでございます。お変わりありませぬようで」
隣の馬良が拱手をしたのを見て、慌てて趙雲も拱手を続けた。
「季常、久しいな。相変わらず奇妙な眉をしておる、ふぉふぉ。そして趙――将軍かな。よくぞ参られましたな」
「お初にお目にかかります、趙子龍と申します。益州へ向かわれた龐士元殿に頼まれ文を預かって参りました」
趙雲は懐から件の文を取りだし、座ったままの龐徳公に手渡す。
「わざわざこのために申し訳ありませんのう。今夜はごゆるりと泊まっていかれよ。食事もちょうど今作らせておった所でございましての。量がちと足りぬやもしれぬが、その時はまた作らせましょう」
「急な訪問をしてしまいまして、申し訳ありません」
「気に病む事はござらぬ。久々の客を、気のすむように歓待させて下され」
言い終わるや、龐徳公はいかにも大老といった様子でふぉふぉ、と笑った。そのおおらかな雰囲気は確かに名士として尊敬を集めるのも頷けるようなものだった。
「それでは、お言葉に甘えて」
趙雲と馬良が荷を降ろし、ようやく席についた頃、青年が戻ってきて食事の用意を再開した。
翌朝、趙雲は用意された暖かな寝具で爽やかに目をさました。昨夜あれから簡単な夕食を用意してもらい、馬良とは別々の客間をあてがわれた。客間自体は狭く、寝床と小几しかない簡素な部屋ではあるが、こんな小さな庵に良く二つも客間があるものだ。馬良が言う通り、ここへ訪ねてくる者は皆最低一泊するものだというなら、当然その為の準備をしているという事なのだろうか。
「おはようございます、もうお目覚めですか?」
コンコンと戸を叩く音と共に、遠慮がちな声が尋ねてくる。
「ああ、起きている」
「左様ですか。着替えと手拭いを用意致しましたので、中へ入っても?」
「それは構わないが……」
趙雲が答えると戸がゆっくりと開き、隙間から例の下男の青年が顔を覗かせた。手には布らしき物が幾つか握られている。昨晩の夕食の際も給仕はこの青年一人に任せられていたし、この庵には他に下仕えの者はいないのだろうか。
「着替えなど無用だ。着てきた物を着る」
現に趙雲は今旅装の上衣を脱ぎ、襦と褲だけになっている。旅先でいちいち服を替える等というのはよほど貴人がする事だ。そもそも庶民は日々の衣服すらずっと同じものを着続ける事もザラである。趙雲とて当然そのつもりだった。
「龐徳公が是非にと言われたので遠慮は無用です。ここに泊まられた方は皆こうですので。着替えた方はお渡し下さい、洗います故」
丁寧だかどこかぞんざいな感じのする口調だ。彼にしてみれば、こんなやりとりもいつもの事なのかもしれない。こうまで言われてなお固辞すればむしろ迷惑だろうか。趙雲は素直に替えの衣服を受け取り、早速着替える。着替えの最中も出ていかない辺り、やはりいい加減やり慣れた仕事なのだろうかと趙雲は苦笑した。
「すまない」
一言添えて脱いだ服を手渡す間、青年は意味ありげに趙雲の全身をチラチラと検分している。なんだろうかと問い質す前に、青年はさっさと出ていってしまった。「朝食の用意は済んでいます」の一言を残すことは忘れていなかったが。
昨晩夕食を摂った居間の様な場所へ向かうと、確かに几上には箸と器が用意してあり、龐徳公も既に席についていた。もう食べ終った後なのだろうか、使用済みらしき器が並べられ、龐徳公自身は優雅に白湯を飲んでいる。
「良く眠れましたかな、えぇと」
「趙子龍です。お陰様でぐっすりと。衣服や食事まで厄介になりまして申し訳ありません」
趙雲が拱手をして一礼すると、龐徳公はおおらかに笑い声をあげる。
「ふぉふぉ、なになに。この様な暮らし故客人は貴重でしてな。折角だから構わせておくれ。して、食事はすまぬがそこの火にかけてある鍋から自分でよそってもらいましょう。それがうちの流儀でございましてな」
龐徳公の示す先では、昨夜と同じく竃に鍋が掛けられている。言われた通り自ら器に鍋の中身をよそう。鍋の中身は雑炊で、焦げ付かない程度のささやかな火にかけられて昇った湯気が食欲を誘う。
「頂きます。ところで、馬季常殿はいかに?」
「太皓が言うには、声をかけても返事が無かった様ですな。まだ当分起きぬ事じゃろう」
タイコウ?あの青年の事だろうか。
行軍慣れした趙雲はともかく、慣れぬ遠路で馬良はかなり疲労困憊だったらしいのは、昨夜の様子から分かっていた。帰りもまた同じ道を戻る。その時までに体力を回復しておかなければならないので、今は好きなだけ寝かせておくに限る。
「今日一日くらいゆっくりしていきなされ。出発は明日でも良い。貴殿に何か予定が無い限りは」
龐徳公はニコニコとして言った。趙雲は今から帰路についても構わないのだが、馬良のためには今日一日休養に費やした方が良いかもしれない。数日かかると告げて来なかったのが気にかかるが、遠くまで人を訪ねるとは伝えてあるからなんとかなるだろう。
馬良の方は大丈夫だろうかと思ったが、馬良自身は一日で帰れる場所じゃないと分かっていたのだから、その様に伝えてあるに違いない。何かあれば、事情を知る孔明が上手くとりなすだろうし。
「では、お言葉に甘えましょう」
雑炊は軽い塩味で、思ったよりも具が多い。山菜に紛れて肉も入っている。やはり家畜を飼っているのだろうか。趙雲が温い雑炊を頬張っている間、龐徳公は趙雲をにこにこと眺めている。
「あの、何か?」
じっと見られていては、流石に食事が喉を通りにくい。
「いや、服の丈は短くないかと思いましてな。見た限り無理は無い様なので安心ですがね」
「ああ、服ですか。問題ありません」
「貴殿の様に上背がある客人は珍しい。孔明が着てた物を太皓に慌てて用意させました」
太皓という青年が着替えた自分をじろじろ見ていたのは、こういう理由があったのか、と得心する。自分が今袖を通している服を、かつて孔明も着ていたというのはなんだか変な感じだ。
「孔明殿も良くこちらへお出でになっていたと伺っております」
「うむ、奴が若い頃は良くここへ顔を見せたものですのう。一度来たら、数週間近く滞在する日もあった」
龐徳公は、目を細めて何かを思い描くような表情で語る。
「離れが書庫になっておりましての、朝から晩までそこにいる事も多くて……。うちの書庫目当てに訪ねてくる客は多かれど、あそこまで熱心であった者もおるまい」
「へえ、それほどまでに」
「孔明は天涯孤独の身でした故、本を充分に買う余裕は無かったのです。だから、私は遠慮なくここの本を読むように言いました。……将軍は孔明と知り合いですかの」
知り合い。なんと返すか、一瞬逡巡する。
「同じ軍にて、顔を合わせる機会も多いのです。私の方が年長ですが、非常に尊敬できるお方であると」
「ふぉふぉ、孔明は良き同僚を得たのう」
「さようなことは」
謙遜のつもりはなかった。
「書庫を見ますか将軍殿。武の道の方には退屈なだけかもしれませぬが」
「いえ、とても興味があります」
若き日の孔明が通い、長い時間を過ごした場所。彼はここで何を見、何を想い、何を感じたのだろうか……とても気になった。そして出来れば、同じ気持ちになれたらと思う。
外から邸を見た際、二つ建物があると思ったその片方が書庫だったらしい。つまり、生活空間と書庫がほとんど同じ規模……いや、もしかすると書庫の方が大きいかもしれない。趙雲は龐徳公に従い、二つの建物を繋ぐ渡り廊下を経て書庫へと入った。渡り廊下からは庭の向こうにある家畜小屋と、その周りで放し飼いにされている鶏の姿が見えた。その近くで太皓が洗濯物を干している。明け方渡した趙雲の旅装も綺麗に洗われていた。
「どうぞ将軍。本も自由に触って下さって結構ですぞ」
龐徳公に一礼した後、龐徳公によって開かれた扉の先の薄暗い室内へスルリと入り込む。中は思わず圧倒される程高い棚が均等に並べられ、どうやらその棚一つ一つに書物が詰まっているらしい。書は竹簡が多いが、紙や絹、中には石に刻まれた物まである。当然ながらこれほどの書の山に、かつて趙雲は囲まれた事は無かった。
挿絵梨音(あっすぅ)
「凄い量ですね……。良くこれ程までに集められたと思うほどの」
「龐家に代々伝わる物と、後は自分で集めた物ですかな。徐州や司州から逃げてきた者から譲り受けた物が多い。世話をした礼に貰ったり、資金が要るから本と替えてくれと頼まれたり」
「孔明殿は、これらを全て読まれたのでしょうか」
「さて、私も奴が何を読んでいるのかまでは存じませぬ。しかし粗方目を通したのかもしれませんのう。驚くほど読むのが早いのですよ、孔明は。理解も早いが。しかしあるときから急に訪ねてくる頻度が減ったため、めぼしい物は読みきったのだと思います」
「この量を……想像もつきません」
「孔明は法家の書を好んで良く読んでいたように思います。それは何度か読んでいる所を見ましたからな。ほら、そこに」
龐徳公が少し奥まった先にある棚の、丁度趙雲の目線辺りにある段を指差した。そこの棚を確認すると、『韓非子』と書かれた竹簡が集められた場所であるようだった。
韓非子……趙雲も知っている、法家の韓非が著した書だ。秦の始皇帝をして「この書の作者に会えるなら死んでも良い」と言わしめた名著。それくらいの概要ならば趙雲とて知っているのだが、実際に通して読んだ事はなかった。
「読んでみても良いですか?」
「ええ、勿論。奥に行くと窓がありますが、そこに椅子と几もあります。庭で読んでも、部屋に戻って読んでも構いませぬが、孔明はいつもそこで読んでおりましたぞ」
サッと趙雲の頬に朱が走る。
「いや、そんなつもりでは」
「孔明は不思議な子ですな。決して社交的なわけではないのに、どこか人を引き付ける魅力がある。勿論、姿形も整ってはいるが、そんな事ではない。だから私もあの子が可愛かったのだと思いますのう」
孔明を「あの子」と呼ぶ龐徳公の目には、昔ここで本を読んでいた孔明の姿が見えているのだろう。
懐かしそうに、何かを慈しむ優しい瞳だった。
「何かあれば、なんでも太皓に言いつけるが良かろう」
龐徳公はそう言い残し、去っていく。
趙雲は韓非子の、壱と書かれた書を取り、奥へと進んだ。奥には龐徳公の言う通り窓際に小さな几と椅子が一組、ポツンと置かれている。薄暗い室内に柔らかな陽光が指しこみ、ちょうど几と椅子の辺りへと降り注いでいる。ここで若かりし日の孔明は本を読んでいたのか……。
趙雲は椅子に腰を落としてそっと几を撫でると、埃一つ付いていない。太皓が毎日掃除をしているのだろう。柔らかな陽光の下で一人静かに書を読む痩身の青年。その光景はきっと厳かで美しいものだっただろうと、確信と共に趙雲は思った。
「旦那様、将軍様をお連れ致しました」
既に外は暗く、龐徳公も馬良も居間の席についていた。 その中へ趙雲を連れた太皓が入ってくる。趙雲は手に数巻の書を携えている。
「すいません、待たせてしまいましたか」
申し訳なさそうに一礼し、趙雲はいそいそと席についた。趙雲が席についた事を確認すると、太皓がすぐに配膳の用意を始める。やはり太皓以外に働く者の姿はない。
「趙将軍、その竹簡は……」
馬良が興味深げに趙雲の手の内を覗き込もうとする。
「韓非子、ですかな?」
龐徳公の問いに、趙雲は恥ずかしそうに頷いた。
「韓非子?」
「すいません、読みきれなくて、食後に部屋で読もうかと。いや、読もうと思えば読めるのだと思いますが、なにぶん理解しようと思うとなかなか進まず……」
「ふぉふぉ、急がずともよいですぞ将軍殿。なんなら借りていっても良いのですぞ。返すのはいつでも良い」
「よろしいのですか? ……あ、いやしかし」
「構わぬ構わぬ、ふぉふぉ」
「ではありがたく」
「趙将軍、韓非子を読んでいるのですか?」
馬良の問いの途中で太皓が配膳を始めた。洗濯から家畜の世話から食事まで、いつ済ましているのだろうと思うほど働き者だ。
「わぁ、美味しそうだ」
馬良の興味は食事の方へ移ったらしく、趙雲は静かに安堵の息を漏らした。