別離の岸辺 朝いつも通りの時間に起床し、ゆるゆると出仕の準備をしていると、暁の静けさをかき乱すかのように一人の男が屋敷へと駆け込んできた。朝と言ってもまだ空は明けきらず、朝焼けにも早い頃合いである。軽い朝食を食べ終え、そろそろ車の準備をさせようかとしていた孔明は、慌てて身支度を済ませて男を出迎えた。
「何事ですか」
孔明は出仕する以外でも夜更かししたり早起きしたりするのが日課であったため、妻を起こさず基本自分一人と家付きの下男だけで朝の用意をする。故に男を応対する者がおらず、男は玄関先で今か今かという様子で家主が出てくるのを待っていた。
「軍師様、こんな未明に失礼いたします! 急いでお耳に入れたい事がございまして」
「いえ、もう出る所でしたから」
「ならば良かったです、実は夜半密かに呉の方より密使が参りました」
「呉の密使? ……御正室へ、ですか」
「はい、ご推察の通りでございます。確かに姫君の元へ密かに参りました」
「……それは、穏やかではありませんね。して、貴方を遣わしたのは誰です」
「他ならぬ姫君にございますれば」
「なんと」
「姫君が、密かに貴方様にだけお知らせせよと」
「……それは、ご信頼頂けて光栄です。しかし私は今から朝議に出なければならぬのですが、御正室は急ぎで私を呼んでいますか?」
「いえ、姫君は貴方様の指示に従うと」
「……なるほど、では使者が来た事は気付かれぬように伏せるように。朝議が済んだらすぐに向かうと伝えなさい」
「承知しました」
男は手短に礼を済ませ再び薄闇の中へ消えていく。秋も暮れ始める頃、朝となればもう刺すように寒い。孔明はさらにもう一枚、麻の上着を羽織った。
この様な時期に呉から遣いとはなんだというのであろう。それも人目を避けた密使だ。支配者たる劉備が不在の時……この時節の一致は偶然ではないだろう。
いや、本当は孔明自身、その胸に推測というにはあまりに確証的な考えが既に一つ浮かんでいる。孫家の姫を迎え入れた時から既に持っていたもの。それが今、劉備が不在という今、ある意味至極真っ当な時に現実となっただけの話である。
劉備軍の軍師として、孔明は最初からその可能性はずっと考え、その時にどう対応すべきはいつも考えてきた。いや、そういう最期を見据えつつ、劉備に婚姻を勧めたのだ。乱世の常だ、劉備も初めから承知しているだろう。勿論、孫尚香も然り。それでも孔明の宮殿へ向かう足取りは重かった。
孔明は約束していた通り、朝議を終えるとすぐに後室の尚香の部屋へ向かった。慌てた様子を見せてしまうと周りに不審がられる危険もあるため、目立たないようにそれとなく人目の無い道を選んで進んだ。馬謖も侍従も誰も連れていない。流石に後室の範囲内に入ると、めっきり人影は少なくなった。
「孔明にございます。奥方にお目通りしに参りました」
孔明が室外からそっと、しかし良く通る声で呼び掛けるとすぐに扉が開かれた。
「諸葛軍師良く来てくれたわね、さあ入って」
部屋の奥、中央の腰掛けに部屋の主たる尚香が堂々たる姿で座っている。心配していたより狼狽した様子も、意気消沈した様子もなかったため、孔明はひとまず胸を撫で下ろした。
孔明が音もなく室内へスルリと入ると、扉を開けたのと同じであろう、女の侍従が扉をすぐに閉めた。部屋に居たのは尚香とその侍従二人だけだった。女侍従は尚香が呉より輿入れした時よりついてきている、尚香に長年仕えている者のようだ。孔明もよく見覚えがある。当所荊州に来たばかりの頃は主の意向もあってか武装していたが、今日は派手でも地味でもない正妻の侍従たるに相応しい女装に身をやつしている。
「一人?」
高い、透き通るような声でポツリ、尚香が問いを発した。部屋は小綺麗に纏められ品の良い香が焚き染めてあるという点では女性の部屋らしかったが、その部屋に不釣り合いな壁に飾られた武具の数々も、度々尚香に学問を指導してきた孔明にとっては、最早見慣れた光景である。
「いかにも」
孔明は、慣れた様子で部屋中央まで進み、礼をしてから腰を下ろした。
「随分不用心な事ね。てっきり趙雲将軍でも連れてくるかと思ったわ」
「どういう意味でございましょうか」
「私が貴方を人質にして呉へ帰るという可能性は考えなかったのかって事よ」
尚香は、美しいというより可憐な笑い声をあげた。当所はもっと豪快に笑う娘だった、と今となっては懐かしくすら思える。
「奥方が私を信用してお呼び下さったのです。臣たる私めがそれに誠実に答えんとしてどうしましょうや」
尚香がまた笑う。
「分かってる、私にはそんな事できっこない。貴方はそれを分かっているのよね」
「……奥方、では呉よりの遣いは」
「奥の部屋でずっと待機させてる」
尚香が部屋の奥を示しながら言う。その先には応接間とでも言うべき部屋があり、そうそう無いが尚香が客を応対する時に使っている。孔明が尚香に手習いをしていた時もその部屋が使われていた。
「船も隠させたし、まだ誰にも気付かれてないと思う」
「さようにございますか。して、用件は」
「……貴方の予想通りだと思う」
初めて尚香が、辛さを誤魔化すような笑いをした。孔明も、予想した答えだったとはいえ一瞬息を呑んだ。
「何か密書等を携えておりましたか?」
「いや、書は無い。直接言葉で伝えてきただけ」
「如何様に」
「お母様が重病だと」
しばし、孔明が言葉をなくす。
「まことでございましょうか」
「……どうかしら、あまりにも突然で。ないとも言えない。そういう理由だから、今すぐ帰郷するよう催促されてるの、私」
「…………」
尚香の実母である、呉国太の急病と言われてしまえば荊州からは簡単に確認のしようがない。今度は二人して黙りこんだ。この沈黙は、暫く解かれることはなかった。
「奥方は、いかがいたします」
沈黙の果てに孔明が問うと、尚香はゆっくりと顔を上げて、その青い瞳で孔明を捉える。赤みがかった髪色、澄んだ青い瞳――どちらも尚香の特徴的な外見だった。
「私に決定権はあるの?」
「それは……勿論。奥方のご実家の事であります故、我々に口を出す権利は……」
「私が帰ると言ったら帰っても良いの?」
孔明は答えなかった。否、答えられなかった。様々な葛藤が孔明の脳内を駆け巡る。劉備が益州攻略に乗り出した時、そうでなくてもいつかは、こうして孫家が尚香を呼び戻そうとすること。そんな事は全て最初から分かっていたのである。
軍師の立場からすれば、孫家の姫を手元に置いておく事は明らかな利点になる。しかし、一方でそういうつもりで尚香を返す事を拒否すれば、孫家との対立を明白化させてしまう。主軍が不在の今、孫家との対立は避けざるをえない。
また孔明は、諸葛孔明と云ういち人間として、尚香を返したくないと思っている。今ここで返してしまえば、二度と尚香には会えなくなるだろう。せっかく馴染めてきたという頃だ。それになにより、劉備と尚香の仲睦まじい夫婦の姿を見るのが孔明は好きだった。
しかし、そんな個人的な心情をも俎上に乗せるのであれば、尚香本人の心情も慮らねばならない。母親が重病かもしれない、家族親族を裏切れない。軍師としてその様な尚香の心は黙殺することも出来る。しかし孔明は、出来ればそれはしたくなかった。
「奥方の……御心のままに」
「そう……」
尚香はふんわりと、どこが儚げな笑みで返した。これほどに大人びた表情をする娘だっただろうかと、刹那孔明はハッとして目の前の女性の姿を眺めた。尚香の特徴的な赤い髪が光を受けて、柔らかく煌めいている。その光景があまりに眩しくて、孔明は思わず目を伏せた。
「……玄徳様にお別れ、言いたかったな……」
誰に言ったでもない小さな尚香の呟きは、秋の涼やかな空気に溶けるように吸い込まれた。孔明にはそれだけで、尚香の意志は既に硬い事が理解できた。
「私ね、最初からいつかは遠からず帰るつもりだった。周りの皆、お世話になってた皆にも、そう言って呉を出てきたの」
「……はい」
「政略結婚だって分かってたから、機会が来たらすぐ帰るって」
「……はい」
「……先に約束した方を守らなくちゃ」
声に僅かに震えが走った様に聞こえ、孔明は顔を上げて尚香の顔を真正面から見据えた。声に反して、尚香の表情は凛として気高いものだった。一目見たときから姫らしくない、劉備の妻に相応しいのだろうかと散々思ってきたが、こういう状況においてはやはり立場に相応しい振舞いをみせる。立派な女性だ、と思う。出来ればこの先もずっと劉備の傍で笑っていて欲しい。しかし尚香自身が決意を固めた以上、孔明から何か言うつもりはなかった。
「皆にはどう発表する?」
「奥方が出られた後、私の口から言いましょう。ご母堂が重病であるから見舞いにと」
「それで皆納得するの? それに……貴方にばかり責任が」
「むしろ出られる前に言った方が納得しないでしょう。張飛将軍あたり……」
そうかもしれないわね、と言ってひとしきり笑った後、急に真面目な顔になって尚香は続けた。
「でも、やっぱり私から言わせて。黙って出ていったんじゃ、皆にお別れを言えないから」
「……奥方がそう望まれるのであれば。しかし、呉の者たちもそれで承諾しますか?」
「要求通りにするんだもの、それくらいのワガママは聞いてもらうわよ」
そう言って、尚香らしいいたずらっぽい顔をする。年相応より少し子供っぽい表情だった。
「……帰るって言ってるくせにこんな事言うのも身勝手かもしれないけど、私、玄徳様の事本気なの」
「……奥方様」
「子供を産んであげたらとも思った。それは本当……」
「ご自身の身の上をお嘆きでしょうか」
「……いや、私はそれでも幸せな方でしょう。無理に結婚させられて、無理に別れさせられて。それでも私は本当の愛を見つけられた」
「…………」
「結婚相手を生涯愛せない人だっていると思う。それに比べたら、こんな短い間で私は本気で玄徳様を愛せた。それは、幸せ過ぎて涙が出るわ」
孔明は、かける言葉がみつからない。普段溢れるように言葉を紡ぐ口が、今日は嫌になるくらい寡黙だった。こういう時に、上手いこと一つも言えない我が身が苛立たしい。
「それだけで幸せ。少なくとも不幸じゃない」
「貴女が、幸せだったと思えるなら、私は……」
「だった、じゃない。これからもずっとよ。玄徳様を想う度に、辛くなるかもしれない。でもそれは不幸であることにはならない」
「私には少し、難しいですね……」
「あら、私より貴方の方がずっと頭は良いはずなのに」
尚香が笑う。つられて孔明も少し笑った。
「好きな人を愛したし、これからも愛せるの。傍にいなくても、それだけは許される。幸せなことよ、きっと。愛する相手がみつからない人も、愛した相手を愛する事が許されない人もいる」
尚香の言葉に思わず、孔明は虚を突かれた様な気持ちで目を見開いた。不思議そうな表情の尚香と視線がぶつかる。
「あなたはそういう人?」
「い、いえ、私は」
「奥さんがいたと思ったけど……いや、いるからこそなのかしらごめんなさい、追求するのも無粋というものね」
返す言葉が見つからず、孔明は黙っていた。
「もう最後だからと思って許してね。……でもそんな貴方の前で私酷いことを言ってしまったかも」
「いいのです、私は……。そういうのでは……」
目を伏せても、青い瞳がこちらを見つめているのを感じる。戸口の傍で控えた侍従は、時おりその存在を忘れてしまうくらいに気配がない。尚香がこんな場にも同席させているのだ、それほどに信頼がおける人間なのだろう。
「深くは聞かないけど、なんだかごめんなさい。でも、上手くいくと良いわね。適当な事をと思うかもしれないけど」
真摯に謝られると余計に辛い。
「いえ、本当に、何でもないのです。あってはならぬと……」
「貴方自身が思うのね」
「……はい?」
「こんな想いは、持ってはいけないと」
「…………」
会話が途切れた沈黙の間だけ、遠くからかすかな生活音が聞こえる。遠い喧騒の合間に、三人の息遣いが場を静かに満たす。
「私も最初は似たようなものだった。それを、好きになるべき相手を好きになれたら幸せじゃないかと教えられて」
孔明は黙っていたが、尚香がいつの事を言おうとしているかは察してしまった。当人達は知らないが、その言葉は孔明もそこに居合わせて聞いている。
「玄徳様を好きって気持ち、認めようと思ったの。そうしたら、本当に幸せだなと思えるようになった」
その言葉が嘘じゃないのは、尚香の表情から明らかだった。寂しいけれど、確かに満ち足りた顔。今の自分にはとても出来ない表情だと孔明は思った。眩しくてとても視ていられない。
「こんなに早く別れが来る相手が、好きになるべき相手だったのかは今思うとちょっと疑問だけどね。でも私は幸せだったから良い。確かに妻として玄徳様を想うのは幸せだった」
だから――と続けて、尚香はじっと孔明を見つめた。
「想いは実らなくても、その想い自体を否定するのはやめて。人が人を好きになる事自体は誰にでも許される行為だもの」
「…………」
「案外、認めちゃうと楽になるものよ。認めて、客観視するの。悩んでるなら、貴方のためにもなると思う」
自分は今、泣きそうな顔をしてるんじゃないだろうか。しかし尚香の大きな瞳に映る姿を見る限りそうではないようで、孔明は安心した。
「そうすればいつか、綺麗に心の中で整理できるかも。私はそうするつもり。玄徳様を大好きだって気持ち、保管しておくの」
瞳の中の己の姿が揺れる。そう孔明が思った次の瞬間、瞳から一筋涙が落ちた。
「……泣かないつもりだったのに」
尚香は照れたように頬を拭った。それでも、一筋だけ。強い娘だと素直に孔明は思った。
「……でも言ってしまえてスッキリした。こんな気分のまま、皆に話してしまいたい」
「では、私が」
「ありがとう。でもね、やっぱり一人で話したい。皆を呼んで集まったら私一人に言わせて欲しい。ね?」
「それは、――私が口出しする事ではありません」
「ありがとう。じゃあ皆を集めてもらえる?」
尚香の瞳にはもう、涙の影もなかった。
一番強く尚香を引き止めたのは阿斗だったであろう。近頃ようやく歩き始めた阿斗は、周りにダメと言われようが構わず尚香についてまわった。結局、最後の最後、尚香が乗る船の上にまでついて来てしまった。
「阿斗ちゃんダメよ。ここでお別れ」
落ち着いた旅装に身を包んだ尚香は、己の脚にすがり付いてくる阿斗を諭している。今日、尚香は呉へと帰る。清々しいくらい晴れた秋の空だった。これならば帰り道も問題なく無事に辿り着けるだろう。
「いや! いっちゃやだ!」
まだたどたどしい口調で、必死に阿斗が泣き叫ぶ。趙雲が無理に抱き上げて捕まえなかったら、船から降りようともしなかっただろう。そんな阿斗の姿を、同様に見送りに来ていた孔明も、張飛も、誰もかも強く叱れないでいる。むしろ阿斗が羨ましくすらあるのだ。なりふり構わず泣き喚いて引き留めることも、彼等には出来ない。
「本当にいっちまうのかよ……」
岸辺から見送る張飛が呟いた。孔明が心配したよりも、張飛はあっさり尚香の帰郷を受け入れた。しかし、それはあくまで理性の部分。心根の部分では整理がついていないに違いない。そしてそれは、孔明とて同じことだった。
孔明は張飛の呟きには何も答えず、静かに船の甲板へと上がる。
「孔明殿、手を」
阿斗を抱いているのとは違う方の手を、船上の趙雲が差し出して来る。その手を受けるかどうか一瞬まごついて、結果孔明は手を取らなかった。
「大丈夫、貴方はご子息をしっかりと抱いていて下さい」
「そうですか……」
「でも、ありがとう」
代わりに微笑みを返した。趙雲は幾らか驚いた様だった。
「奥方様」
初めこの地へ舞い降りた時とはうってかわって落ち着いた印象の尚香が立っていた。この年代の女性は、あっという間に雰囲気が大人びるのだということを、傍で指導してきた孔明は今ひしひしと感じている。
「髭殿にも船が通る旨、伝えてあります。それでも引き留められた際はこの手形をお見せください」
「ありがとう」
「……お元気で、いつまでも」
「貴方こそ、あまり仕事し過ぎないように。いつも顔色悪いから、ちょっと心配だった」
「まさか最後にお説教を受けるとは」
孔明と尚香の二人は互いに顔を見合わせて笑いあった。こうやって笑いあうのもこれが最後だと思うと、不思議とその笑い声にも哀愁が帯びる。忌々しいくらい乾いた秋風に似合う響きだった。
「本気で心配してるのよ。貴方には勉強教えて貰ったり、色々お世話になったし、それに……」
不意に、尚香が強く孔明の手を引きよせた。
「私、玄徳様の次くらいには、貴方が好きよ」
小さい身体が黒衣の孔明を抱き締める。しかしそれはほんの一瞬で、孔明が事態を認知する前に互いの身体は離れていた。ふわりと、尚香が普段から愛用している香の薫りが孔明の鼻をくすぐる。尚香の部屋の薫りだとすぐに分かった。
挿絵梨音(あっすぅ)
「お、――」
孔明が声にならない声をあげると、尚香は例の、いたずらっぽい顔で笑った。後ろでは微かに趙雲が呻いた声もした。
「羨ましいわね、貴方に想われている人は」
「――――」
香の薫りは、甲板に吹く強い風の中にすぐ掻き消されてしまった。趙雲に抱かれたままの阿斗のぐずる声が、甲板に響く。
「さようなら。玄徳様にありがとうって伝えてね」
別れの言葉は呆気にとられるほどアッサリとしていて、それがまた尚香らしく思えて、孔明は苦笑した。
尚香の乗った船が去った後は、面白いくらい皆が静かだった。あの華やかな姫の姿が消えたのだ。暗くなるのも仕方がない事であろう。数日の間はずっとこんな暗い空気が続くのだろうと皆が思った。後ろ手を引かれるような想いを残したまま、黙りこくって皆各々の生活の場へと戻って行った。
孔明は一人残った。船が見えなくなってから随分経っても、岸辺からたゆたう江の波を見続けていた。もう周りには人影はない。ただ一人、趙雲を除いては。
「孔明殿」
音もなく一人佇む長身の孔明の姿はあまりに出来すぎた絵の一部のようで、その世界の均衡を犯してよいのか。短くはない間そう悩んで、とうとう趙雲は背後から声をかけた。静かな声音で、出来るだけ世界を壊してしまわないように。
孔明はゆっくりと振り向いた。少し驚いているようにも見えたが、趙雲の到来を待っていたかの様な、そんな感じもする表情をしている。冷えた秋の風が孔明の細い髪を揺らめかせる。
「まだお帰りになってなかったのですか。それに――人払いをさせていた筈ですが」
「申し訳ありません。孔明殿の侍従は先に帰らせて、私が代わりに」
「代わりに――なんです」
孔明が再び視線を江の方に戻したため、趙雲からは顔が見えない。人影の無い港には、波の音、水鳥の声だけが遠慮がちに響いている。孔明はぎりぎり水のかからない波打ち際に立っていた。
「私が、送りましょう。お一人では危険です」
問いを返しても、孔明は答えない。次に趙雲が再び呼び掛けるまで、暫しの間二人は黙って江を眺めていた。絶えず、休む事なく波は岸まで打ち寄せている。
「ここは冷えます。ずっとこうしていては、お体に障りますよ」
早くも陽が傾き始め、風はさらに冷気を帯びていく。時期に夜がやって来るだろう。いつまでもここでこうしているわけにはいかない。
「……貴方は、先日も同じ事を言いましたね。二人で少し仕事を抜けて、紅葉を見に行ったとき」
「ああ、そうでしたか。申し訳ありません。なにぶん、会話の引き出しが少ない男でして」
「何故、私にそんな……」
「……ん? 紅葉を観に誘った事ですか?」
「うん、いや、それも……」
「二人で見たかったからですかね。三人で見るのも良いが、貴方と二人で観るのも良いと思った」
「私が社交的で愉快な人間だったらそう思うのも分かりますが」
「優美な景観を観るつれに、そんな要素を求めるものですか?」
「求めませんけど……」
「……お誘いして、迷惑だったのでしょうか。ならば」
「いや! 違います。それは、」
咄嗟に、顔をあげて孔明は向き直った。趙雲は困った顔をして思ったよりも近くに立っていた。軽めの武装で、均整のとれた身体の線がいつもより良く分かる。腰には一振り剣を佩いている。
「……いや、そうです。迷惑というか、困惑しました」
二つ返事で誘いに応じておいて、面倒な奴だと自分でも思う。
「ご自身で思われてるより貴方はつまらない人間ではないと思いますが。少なくとも私は、貴方と話していて面白い。新鮮ですし、学ぶ所も多い」
「そうですか?」
「そうでも思わないと、貴方を真似て書を読んだりはしない」
趙雲の言葉に、ハッとして顔を伏せる。濁った水面を見ても、自分の頬が赤いのかは分からなかったが、見なくても充分わかるほどに顔が熱い。顔を見られたくなくて、背を向けて顔を伏せた。しかしそんな努力を無駄にするかの様に、趙雲は孔明のすぐ隣、江の岸ぎりぎりの際に立って並んだ。
「何故その様な事を訊くのです?」
趙雲は孔明の反応を知ってか知らずか、答えにくい事を訊いてくる。
「だから、困惑したのです」
「困惑」
「どうして、貴方はそんなに私に優しいのでしょう」
水面に映るから、顔を上げなくても相手の顔を見れるのは助かる。同じ様に、相手にもこちらの顔が見えているわけだが。
「自惚れですかね。なにぶん、私は永らく人里離れて暮らしていましたから、人との付き合いはどうも苦手で」
「孫権軍相手に一人乗り込んだお方が、よくおっしゃる」
水面に映る趙雲は、軽くからかうように笑っている。趙雲はこちらがおかしくなるくらい優しいが、たまに酷く意地が悪いと孔明は思う。いつもが優しい分、顕著に感じるのかもしれないが。
「説客としての仕事は、相手に自らの要求を押し付けるつもりで当たれば良い。軍師も一緒です。初めから互いにそういうつもりで臨むので、楽なのですよ」
「楽、ですか。普通の人にはそうは思えないでしょうが」
「私は普通ではないのかもしれません」
「でしょうな」
予想外の答えと声音に、思わず顔を上げて直に趙雲を見た。反応するように趙雲もこちらを見る。水面に映った虚像ではない趙雲の瞳はあまりに光が強くて、目を反らしたいのに反らせない。黒目がちな瞳に己の姿が映っているのが、孔明にはいやというほど分かった。趙雲は低い声で続けた。
「貴方は龍でしょう」
「まさか。伏龍などという人もいましたが」
「私には、貴方がそういう風に見えるのです。とにかく、普通じゃない――」
「そんな……意味がわかりません。私は周りと同じ、しがない人の身です」
「私にも分からない。ただ、どうしようもなく惹かれる」
「――っ」
見てはいけない。瞬時にそう思って、強い引力を持つ瞳の光から逃れて顔を伏せた。
「だから、どうして、そんな風に――」
水面に趙雲の顔は映っていない。相変わらず孔明の方を見ているのだ。
「その質問に答えるには、私の質問に答えて頂かないと」
「質問?」
「奥方様が最後に、貴方に言われたこと」
趙雲の言わんとする事に気づいて、鼓動が止まりそうになった。胸が張り裂けそうだ。
「『貴方に想われている人は』……と言うのは」
「それは……」
「どういう意味ですか? 奥方と何を話したのです」
「…………」
「先日、朝議が終わってすぐに奥方の部屋へ向かわれましたね。奥方が実家に帰る由を発表した日です」
「……何故貴方が、それを」
「怪しい動きをする者には、無意識に気が付くよう訓練をしています。貴方は、隠密行動はあまり得意ではないようですね」
「……以後気を付けましょう」
「あの時、貴方は奥方から相談されたのだろうと思いました。話は、それだけでしたか?」
「特に貴方にお伝えする事は、話していないつもりですが……」
顔を直接に見ているわけではないのに、突き刺さる様な視線を感じる。顔が、いや身体全体が無闇やたらと熱い。特に、趙雲側の身体の部分が。
「質問を変えましょう。誰ですか、それは」
本当に、時々怖いくらいに意地が悪くなる。特に今日は悪いらしいと、苦し紛れに苦笑する他ない。
「そんな事を、なぜ」
「私が答えるのは、貴方が質問に答えてからです」
軍師に舌戦を挑むとは良い度胸だと思う一方で、勝算すら見えないのが現状だ。趙雲相手ではどうにも上手く返せない。いつもそうだ。この男の前ではままならない事ばかりだった。
「そこまで意固地になる、貴方の意図が分かりません」
チラリとだけ、横目で趙雲の顔を盗み見る。すぐに見なければ良かったと後悔した。あまりに真剣な表情に、すぐに飲み込まれそうになる。
「……そうですね、冷静さを失っていたようです」
そう言って謝るわりには眼光の鋭さを弱める気配はない。
「奥方に抱き締められて、その後すぐにあんな言葉を――傍で見ていた私の気持ちを、貴方は分からないでしょう」
気づけばいつの間にかまた正面から向き合っていた。胸の鼓動がたまらないくらい喧しく鳴り響いている。なんて瞳で見るのだろうと孔明は思った。なんて強い、熱い瞳で私を見るのだろう。その熱さの中で、微かに獰猛な気配すら感じる。
「孔明殿、私は――」
「や、やめてくださいっ!」
孔明自身が驚くくらい、大きな声で叫んでいた。近くで羽根を休めていた水鳥達が一斉に宙に舞い上がる。
「それ以上は――」
崩れ落ちる景色の中で、茫然とする趙雲の顔が一瞬だけ目に入った。
「孔明殿……」
「後生ですから、お願い……」
波の音が近い。いつのまにか、孔明は座り込んでいた。
「孔明殿……」
呟く趙雲の声が、こちらが泣きなくなるほどに細く切ない。違うんだ、と打ち消したいと心が叫ぶ一方で、怖い怖いと体が震えている。
――怖い? そうか、私は、怖かったのか。
「申し訳ありません。つい、私は、一人勝手に……」
あまりにも弱々しいが、いつもの優しい趙雲の声だった。
「私は、貴方が幸せであって欲しいと、それが一番ですから――」
顔を上げられない。どんな顔で趙雲を見たら良いか分からない。――違う、違うのに。最早自分がどうしたいのかさえ視えない。
「貴方には、喜びや楽しみだけを、与えたいのです」
言い終わるや、趙雲が指笛で馬を呼んだ。すぐに二頭の馬が駆けてくる。孔明が乗ってきた馬ではない。恐らく二頭とも趙雲の馬なのであろう。
「帰りましょう、軍師殿。私と一緒なのは嫌かもしれませんが、貴方を一人で帰すわけにはいかない」
恐らく、今一緒にいるのが辛いのは趙雲の方であろう。なのに、こうやって為すべきことは違えない。そういう誠実な所が孔明は凄く、凄く好きなのだ。
「……私の、仕事ですから」
弱弱しい声は、孔明の好きないつもの朗らかな調子とは余りにかけ離れていたが。