知られたくない「明日の土曜日、小夜んとこ泊まりに行っていい? 国行も来たらって言われてるんだけど」
「ま~た、左文字はんとこ? そないなときとんぼなしに行ってご迷惑やろ?」
「いいじゃん。江雪さん、いつも小夜と仲良くしてくれっつってお菓子くれるし」
「ほんまに、厚かましい! はあ〜、菓子折持って行かな……」
「宗三さんが国行来るならキャベツかレタス持って来いって言ってた」
「夕飯の材料やんか」
「菓子折持ってっても、結局俺たちが食うもんな」
「ほんま、あのおうちには頭が上がらんわ」
「じゃあ、行っていいの? 国行も一緒に来る?」
「ここまで御膳立てされて行かへんほうが失礼ちゃうか」
「よっしゃ! じゃあ、小夜に連絡しとこうぜ!」
自分の意見なんて聞かなくても普段から勝手に遊びに行くのに、休日に出かける前には必ず行先を言え、という教育をしてたらいつの間にか週末に自分も一緒にお泊まりに行く頻度が上がっていた。
小夜は蛍丸の同級生だ。
自宅が寺だからか、本人が少し大人びているからか、あまり元気いっぱい走り回るタイプでもないのに、国俊も一緒に蛍丸と三人で遊んでいることが多い。明石家は鍵っ子で、普段は二人で留守番なのだが、国行の帰宅があまりに遅い時などは左文字家にお邪魔させてもらっていることもあり、家庭ぐるみでお付き合いをさせてもらっている。
キャベツかレタスということと、子どもたちがいるので、おそらくはカレーで付け合わせ用の野菜だろう。一緒にトマトやコーンなども買っていくことにして、休日にやろうと思っていた色々な算段を改めて考え直すことにした。
*
自宅用の買い物をして掃除、洗濯と一通りの家事を終えてから、再度手土産用のお菓子と夕飯用の買い物をして左文字家に行く頃にはすでに夕方のチャイムが鳴る頃だった。
「お邪魔しま〜す」
「遅いよ! 国行!」
「待ちくたびれだぜ!」
「いらっしゃい……」
パタパタと軽い足音が次々と普段使い用の広い裏口に集まる。国行もすっかり慣れてしまった裏口からの出入り場でうっかりハイカットの靴を履いてきてしまったことに気付いてモタモタと紐を解いている間に子どもたちが国行の持ってきたビニール袋を居間に持っていってしまった。
入れ違いに家主の江雪が現れた。
「いらっしゃい。遅かったですね。お仕事でしたか?」
「毎度えろうすんまへん。お邪魔いたします。
いや、仕事ちゃうくて、家事なおしとっただけです。昼メシも食わんといて来たっつーのに、なんでこないな時間なんやろうな……」
「国行ー! このシュークリーム食っていい〜?」
「あかんわ、アホたれ! 夕飯の後にせえ!」
よっこいしょ、と取り残された自分の着替えと歯ブラシの入っているスカスカなエコバックだけを持って、改めて出迎えてくれた江雪に頭を下げる。
「今日も、お世話になります」
「そんなに畏まらなくても大丈夫ですよ。お小夜の大切な友人と、貴方は宗三の飲み友達ですからね。宗三も夕飯までには戻ると言ってましたので、そろそろかと思います」
「はあ、飲み友達ねえ」
クツクツと江雪の肩が笑っているのを見ながら、二人で並んで居間に行くとちゃんとシュークリームは冷蔵庫に仕舞われたらしい。ビニール袋の中身が一つずつダイニングテーブルに広げられてる真っ最中だった。
「それじゃあ、人手も揃ったことですし、夕飯を作りましょうか」
は〜い! という元気な声に合わせて、両脇から国行の腕も一緒に高く突き上げられた。
*
「あれ? 今日結構早いですね。準備間に合いませんでしたか?」
宗三が帰って来たのは十九時前だったのだが、居間には兄と明石家の大黒柱である国行がなんの感情もない表情でテレビを見ているところだった。二人とも特にテレビは好きではないのに、子どもたちが付けたまま居なくなったので惰性で見ているというのが手に取るようにわかる。
奥のほうから賑やかな声が聞こえるので、子どもたち三人で風呂に入っているのだろう。
真っ直ぐに冷蔵庫に買ってきた物を仕舞おうとすると、国行が目敏く声をかけてきた。
「それ、なに買うて来たん?」
「ああ、シュークリームです」
「ほら、やっぱり」
「うわ〜、あかん」
「なんです、その反応」
「自分のお土産もシュークリームなんですわ」
「げ。あなたねえ、そういうのは連絡してくださいよ。それならアイスにすればよかったな」
「まあ、いいじゃないですか。で、どこのですか?」
「国行は?」
一応、国俊も蛍丸も「明石」なので、いつの間にかここにいると全員が「国行」という名で呼んでくるということに、未だに慣れなくて一瞬反応が遅くなるが、すぐに「駅前の明治屋」と答える。
宗三が天井を仰いだ。
「あなたたちは仲が良いですねえ」
ふふふ、と少し嬉しそうに江雪が笑った。
風呂を上がった子どもたちの髪を順繰りに乾かして、ようやく夕飯となる。
そこそこの人数がいるので、かなりの量を作ったはずなのだが、毎回一瞬でなくなる錯覚を覚えるようになった。
「国行、少なくないですか? もう少し食べないと痩せ衰えますよ」
「宗三はん、その台詞、まんまお返しいたしますわ」
「でも、宗三は国行の二倍は食べてますからねえ」
「ほんっま、いつか職場の女性陣の反感買うて刺されても知らんで!」
「そんなヘマはしませんよ」
しれっと言う宗三の一口は確かに大きい。しんなりとした見た目に反して、いい食いっぷりだ。
「国俊、カレーは逃げへん。ちゃんとしっかり噛む。
蛍丸、トマトもお気張りやす」
「お小夜、おかわりはいりますか?」
「ちょっとだけ」
「無理はしなくていいですからね」
「ううん、おいしいから」
そうなのだ。明石家の子どもたちと一緒にいると、小夜の表情がやっぱり少し豊かになって、遠慮しがちな食事も、ほんの少し多くなる。国行も最近ようやくそれに気がつき始め、兄たち二人の心情を思って、結局自分も甘えてこうしてこの家に上がり込んでしまう。国俊の図々しさの一部は、やはり自分の中にあるものと同じだなぁなんて、感じながら。
国俊と蛍丸二人は多分覚えてないが、小夜と蛍丸が同級生になる前に、左文字兄弟とは出会っている。
両親の葬儀はここの寺で行ったからだ。
まだ就職したばかりで両親の再婚に合わせて戸籍を抜けていた国行は、ほとんど付き合いのある親類もいなかったため若いながらに喪主を務めることになり、当然右も左も判らず子どもたちの世話もあって、両親の死後の煩雑な手続きや忙しなさやしっちゃかめっちゃかはそれは想像以上に大変だった。そもそも想像したこともなかったのだが。
両親とも、特定の宗派もなく、墓も持っていなかった。母方の「明石家」のほうは関西に墓があるはずだが、再婚相手のことはさすがによく知らなかったのだ。
自宅の近くで、今後のことを考え永代供養として処理するにあたり、一番信頼できそうだと直感し、実際に江雪に出会った時にその感覚が正しかったことを理解した。
江雪は急に幼児と小学生の弟と一緒に暮らすことになった国行にとても親身になってくれた。国行と蛍丸がちょうど江雪の弟二人と同じ年齢だったのも彼の心情に訴えるものがあったのだろう。
それからなんやかんやでご近所付き合いは安定して続いてる。
国行にとっても、江雪はまるで兄のように感じているといっても過言ではない。適度に距離感を持って人間として相対してくれる。それが、どんなに心強かったことか。
蛍丸と国俊を心配して泊まりに来いと声をかけてくれるのだろうが、同時に国行の面倒も見てくれると言っているのと同義なのだった。
「国行、まだいけますよね」
食事を終えて、シュークリームを食べ終わった頃に、宗三が杯を傾ける仕草をした。
「またかいな?」
「いいところ、見つけたんですよ。もう胃に入らないなら僕一人で行ってきます」
「行ってこいよ、国行」
「宗三さん、国行をよろしくね」
「兄様、気をつけて」
「そうですか? なら江雪兄様、あとはお願いしても?」
「ええ、どうぞ、いってらっしゃい」
「いやいや、自分の意見、ひとっことも誰も聞いてくれへんの?」
「聞きましたよ。答える前に結果が決まってただけで」
「聞いてへんのと、同義やわ」
だが、二人が腰を上げたのは同時だった。
*
連れて来られたのは、左文字家から駅から反対方向に十五分ほど歩いた住宅街の中ほどにある半地下のバーだった。看板が出ていなければ、いや、出ていても一見店が営業しているとはわかりにくい。
「毎度毎度、ようええ店見つけて来はりますな」
「色々と付き合いがありますので」
宗三がなんの仕事をしているのかはよく知らないが、寺の後継は江雪なので、外に仕事に出ていると聞いていた。それでも出来る限りは夜と朝は自宅で摂っているらしいので、外回りだか打ち合わせだがでここら辺のことに詳しいのだろう。勝手にそう補足している。
国行が泊まりに来ると、嗜好としてほとんど飲まない江雪に代わり、酒が好きな宗三の相手をするのがいつの間にか国行の役割になっていた。国行を連れ出す時、大体酒は宗三のお勧めをただ与えられるがままに飲むだけだ。日本酒を好む男だが、今日はバーなので久しぶりにカクテルだった。
そして楽しみがもう一つ。
ほぼご無沙汰しているタバコを、一本だけ解禁するのだ。
「くはあ〜、うま」
「そりゃあ、人のタバコですからね。美味しいでしょう」
「この月に一本くらいがちょうどええわ」
「タバコはもう完全に吸ってないんですね」
「当たり前やろ。ジッポなんぞもとっくに質に入れたったわ」
「健康的じゃないですか」
「そんなザルの人に言われても」
じっくり、ゆっくり、たった一本の分けてもらったタバコを、なによりも味わっている間に、宗三が勝手に次の酒を注文していた。つまみはナッツとチーズの盛り合わせらしい。これくらいなら、悪酔いしないで帰れそうだ、とこの時は思っていた。
「ちょっと、あなた、疲れてたんなら、そう先に言ってくださいよ」
そう言いながら呆れと心配半分の声音の宗三が国行の肩を揺する。完全に酔いつぶれてカウンターに付けた額が冷たくて気持ち良い。まだ一時間も経っていないのに。子どもたちになにかあれば車を走らせることもあるので、一人で晩酌はしない。こうして誰か安心して預けることが出来る相手がいる時にだけ、完全に酒を楽しむことが出来る。方法はともかくとして、国行としても、宗三の「飲み仲間」というのは、悪くない関係だと思っていた。
「は〜、あかん。ねむたい」
「寝ないでくださいよ。いくらあなたがガリガリでも意識のない人は連れ帰れませんからね」
「わかっとるて……」
ふわふわした意識で、宗三の手を払い除けた。
「少し、根を詰めすぎなんじゃないですか?」
少し気遣わしげに発された声に、重たい目蓋をなんとか押し上げて、目元を擦って、メガネをかけ直した。
「なにが」
「子育てが」
「なんで」
「なんでって……」
はあ、とため息をつかれて、国行の飲みきれなかったラムコークを飲まれてしまった。
「ええ子たちやろ」
「そうですね」
「毎日うるさくてかなわんけど、わがままも言わんと素直やで」
「ええ、わかります。騒がしい子たちですけど、年の割に嫌に分別がありますね」
「わがまま、言わさしてやりたかったんやけどなぁ……」
「飲み過ぎですよ」
「あんなぁ、宗三はん」
「はいはい」
「昔なぁ」
「ええ」
「おかんにな、蛍丸が出来た時、聞いたことあんねん」
「……」
「なんで、こんなしんどい思いして、相手の男もいーひんのにお子ばっか作って、おかんばっか苦労してるやんかって」
「……それで」
少し感情の硬くなった声で、ちゃんと返事が律儀に返ってくる。宗三のそういうところが国行は気に入っていた。人の話は、よく聞く男だ。
「お子は、結果やさかいって。
そやけど、あん人は、わかっとったんやろうなぁ。おかんは自分より早う死んでまうんやって。自分が、一人に、ならへんようにって。
たったひとりで、国行を、残していかれへん、だそな。
そん時は、そないなん人のせいにすなって、怒ったったんやけど」
未成年で自分を産んだ母親は、自分をよく可愛がってくれた。
まるで、姉弟のような、母子だった。
辛いときも、苦しいときも、二人だった。
きっと、ひとりで生きていけなかったのは、母親のほうだったのだと思う。
それでも、蛍丸の父である義理の父親はいい男だった。国行を対等に扱ってくれて、国俊も可愛がってくれた。母親の嬉しそうな、初めての人並みの幸福を得たその喜びはいかほどだっただろうか。男運のなかった母を恨むことはなかったが、子どもながらに不憫に思っていたのは事実だったから。
だから、二人を失ったとき、なにもかもが、国行のささやかな「幸福」もなくなった気がしたけど、でも、自分には、国俊と、蛍丸がいたから、真っ直ぐに立たなくてはいけないと思った。
それは、苦痛ではなかった。
道標だったのだ。国行にとって。明るい、目映い、あたたかな、確かな光が実在しているものとして。決して、その灯を消してはならないと、本能として。
「あの子らおらんかったら、今頃生きてなんておれんて。
自分、そないな強いもんでもあらへんのやで。支えてもらわな、立ってるのも、面倒や」
「あなたは、お母様と、本当に、よく似ていたのですね」
「もう、忙しなくて、顔も、ロクに思い出せへんのになぁ」
「うちの兄様なんて、僕の顔をお小夜に見せながらお母様の顔と思いなさい、なんて言ってますよ」
「それはわかる」
「ひっぱたきますよ」
「それは堪忍」
宗三が二人分のつまみもチェイサーも飲み切ってしまって、会計を始めたあたりで、国行の記憶は途絶えた。
*
「うっわ、酒くさ。も〜、宗三さん、あんまり国行潰さないでくれよ」
「国行、せめて歯磨きしてから寝てよ〜」
ちびっこ二人に責められたものの、国行の最後に話した内容がまだ胸に残っていて、思わず宗三も二人を見て胸が締め付けられるようだった。しかし、国行を担いでいた肩が疲れたので、そのまま二人の布団に置き去りにする。
「僕は全然酔っていないので、国行が弱いんですよ」
「宗三。それなら手加減してさしあげなさい」
しかしそういう江雪は薄らと笑っているので、宗三が国行を連れ出している理由も互いの息抜きになっているのも理解しているのだろう。少し気恥ずかしくなって「シャワー浴びてきます」と言い捨てるように出ていった。
「自宅では相変わらず飲まないのですか?」
「飲まないよ。もったいないって言ってコーラ買ってる。うわー、タバコ臭いのは嫌だな。江雪さん、ファブリーズないの?」
「あるよ。ちょっと待ってて。持ってくるから」
「ありがとうな! 小夜!」
保護者の扱いの雑さに少し同情したものの、大広間に四人で頑張って引いた全員分の布団の上を国行の布団の位置まで転がしていく。メガネは危なくない位置に、ヘアピンも一緒に外して、ベルトを緩める。そこまで、全部子どもたちが何も言われずに行った。大人の行動をよく見ている。
小夜が持ってきたファブリーズを国行の全身にかけたあたりで、宗三が風呂から戻ってきた。普段は長風呂だが、明石家が来ているといつも烏の行水だ。変なところで気を使っていると江雪は思うが、それも弟の可愛らしさに見えるので大概兄バカなのだろう。
「部屋の中がファブリーズ臭いんですけど」
「今国行にかけた」
あはははは、と宗三のツボに入ったらしく大笑いするのを、小夜がその半分以下の声で笑った。
明日の朝は、宗三がホットケーキを焼いてくれるという。
国行、楽しみだな、という国俊の声が届いたように、国行がムニャムニャと寝言で笑った。