赤い女の死/小鳥の食事/祭司の悪食「まさか、産んだばかりの目も開いてないような子を取り上げられるとは思わなかったよ」
熟れた野苺のような瞳を細め、ベッドの上の彼女は笑った。以前より細く小さくなったその手を両手で包み込む。
「すまないね。私もできる限り一緒に過ごせるよう言っておくよ。だから、君も今は体調を整えることに集中して欲しい。聞いたよ、産後の肥立ちが良くないんだってね。僕らには悠久の時がある。ロートにはもっと多くの時が。そのほんの少しを、治療に割いても問題は無いだろう」
「ロート。ロート(赤)、ね。ふふ、相変わらず……お前には期待していなかったから、問題ないけれど。どうなの、その名は。私もロートと改名しなければならないかな?」
「何か、まずかったかな?分かりやすくて良い名だと思うのだけど」
「いいや。お前はそのままでいておくれ。お前が格式ばった素晴らしい名を付ける者だったなら、きっと子を生そうなどと思わなかっただろうから」
くつくつと愉快そうに笑いながら柔く手を握り返す姿を見て、少し安堵する。いつも通りの彼女だ。歌い舞い踊りながら旅をしていた、出会った日の彼女だ。自然と笑顔が浮かび、彼女の笑いが収まるまで待つ。
「そうだ、その『ロート』の従者なのだけれど。」
「もう教育の話かい?気が早くないかな?」
「切実に必要になってからでは遅いだろう?
ロートの従者は、例のあの子にして欲しいんだ。お前の参謀が連れてきた子供。……始末されそうなんだろう?あまりに参謀にそっくりだから、不貞の子なんじゃないかって。」
「私の息子にするから殺さないようにお願いしたんだけどな……」
「お前は必要なことすら人に命令しないね。そんなことでは、いつかただの傀儡されて、誰かの思いのまま踊る他なくなるよ。お前がこういう役に向いてないことは分かっているけれど。……自分の望みだけは、何かで上塗りしたり手放してはいけない」
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強く噴き込み、脱力して再度横になる。先刻まで亡霊の居た場所に目を向けると、血で濡れた掌が視界に入った。
「私などのどこが、そんなに怖いのかね?歌い踊るくらいしか能がないのに。主犯と方法は粗方見当が付いているが、こうして黙って毒を食む従順さを評価してくれてもいい気がするのだが。」
弱く呼吸を繰り返し、霞んだ視界を閉じる。
最後の機会に、ロートをあの子に任せることができて良かった。不要な子供に不要な子供を宛がうんだ。誰も止めはしないだろう。根拠など無いが、長年の旅で身に着けた勘がそう言っている。あの子供は賢い。ロートの命の切れ目が己の命の切れ目だと分かるだろう。生の旅路の幾何かでも、寄り添い支えてくれればそれでいい。
「私に似たら、苦労するだろうな。窮屈さに耐えかねて外へ飛び出すかもしれない。まあそれくらいの苦労、安いものだろう。頑張りたまえ」
その広い部屋には、小さく笑い声が響いていた。
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「小鳥が舞ってるみたいだ」
少年の声にライセンは肉を切る手を止めることなく、静かに肉を食んだ。ぽたりと皿に点を落とす血液が、彼女の被った清廉をも汚したように思えた。穏やかな空気に溶け霧散しそうになる彼女の罪を忘れてはならない。修道服を着た目の前の女は、多くの人や鬼を殺して食った吸血鬼なのだ。彼女の優雅な手元から目を離すことなく、少年は続ける。
「ここじゃスープやパンしか出ないから気付かなかった。お前、尊い生まれだろ。誰もまだ起きてねえ黄昏時に大慌てで出て行ったあいつみたいな」
「貴方、随分とくだらないことを気にしますのね?どのような方法でも、自分で糧を得、摂り入れることができるのなら生物として満足でしょう」
ライセンはそう言い、食事に戻る。こちらを一瞥もしない様子に、俺とは流れる血が違うのだ、自分が取るに足らない存在なのだと言われたような不快感を覚えた。
今日、療養に訪れていたどこかの貴族吸血鬼が『凡そ快方に向かっているから』と、まだ日も沈まないうちに人目を憚るように出て行った。食べられることのなかった修道院にしては豪勢な夕食は、普段の食事では必要な血液量を遠く満たせないライセンと俺の胃袋に密かに収まることとなった。普段よりずっと良い食事に戸惑う俺をよそ目に、当然のように料理を口に運ぶライセンに生まれの違いを見せつけられた気がしていたのだ。
思わず突っかかるように言葉を吐き出す。
「望んで身分を捨てたお前に、卑しい生まれで苦労した奴のことなんて分かんねえよ。金を持ってても子供だから、金を持っていなそうだから、で門前払いされたことなんて無えだろ」
「殺して奪い取れば良いでしょう?身分もお金も商人の許しも得ることなく、思い通りの物が全て手に入りますわ」
「まともな人間はそんなことしねえんだよ!!」
「まとも?くだらないことばかり気にして商売の本質を忘れた者と、普通の理論が通じない者に対し目的を達成する確実な手段を取る者、どちらがまともだと言うのかしら?貴方は人間ではないでしょう?人間の間の仕組みを律義に守る必要は無いんじゃないかしら?」
「お前、このことミットライトに報告しとくからな」
「ああ……表面を取り繕うのはあの男の影響かしら。貴方、あの男の食べ方はどうお思いなのかしら?」
「え、貴族の家で育ったらしい、綺麗な食べ方だと」
「そうね。『綺麗な食べ方』ね。でも実際あの男が貴方と同じただの『卑しい』拾い子であることも、お金を潤沢に持っているわけでもないことも知っているでしょう?所作とその者の本質は何の関係もありませんわ。わたくしもただ食べ易いからこのようにしているだけですのよ」
ライセンはひらりとナイフとフォークを置き、パンを千切って皿の血を拭い始めた。
「それでも、ただの『人』として生きるには重要なことだ」
「そうなのでしょうね。そして実際はどうであれ、相手を騙せた者の方が優位に立てることはあの男を見ていれば分かりますわ。だから空腹でも、鍋底の焦げた部分や雑草が好きでも、生ごみ捨てを買って出て中身を漁っていても、必死に取り繕いますのね。
くだらないことを重要視するのは弱いからかしら。たとえ身分の貴賤がどうであれ、何かが満たされていない者は全員卑しい精神を」
「ま、ま、待ってくれ。誰が何してるって?」
「『祭司はたまに“卑しい”悪食で空腹を紛らわしている』。あの男が自分のパンを人の子に渡すとき口にする『少食だから』という言葉、信じていましたの?」
ずしりと胸に重いものが落ちる。ミットライトは特に俺たちにバレないよう隠していたのだろうが、起きている時間の短いこの女が気付いて、ずっと一緒に居る俺たちが気付かなかったことに眩暈がした。この女より、ずっとずっとミットライトと一緒だったのに。ミットライトについて多くを知っている自信があったのに。ライセンは血のたっぷり染み込んだパンを口に入れた。ナイフとフォークは銀に光り、皿は洗った後のように白い。
「どういうわけか貴方は話しやすいから言いますけれど、表面上の物事だけに気を取られていると本当に大切なものを見失うこと、忠告しておきますわ」
ライセンが席を離れた後、慣れない手つきで食事を再開する。肉を3切れも盗られていたことに気付いたが、勉強代だと思うことにした。
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「それはお前、あいつの地雷を踏んだんじゃないか?」
「……地雷?あいつの?」
少年は目を見開く。ライセンと二人で食事をした後、思い返すと彼女の言動が普段と異なっていたことが気になった少年は兄と慕う吸血鬼の元を訪ねていた。彼の穏やかな物腰と微笑みを見ると、穏やかな気持ちになる。かつて少年が彼は自分と同じように教会に拾われた吸血鬼だ、と教えられたときは、嘘だと信じることはなかった。少年と同じ目線の高さになるよう椅子に腰掛けた青年は考える素振りを見せる。
「そんなもの無いように見えるかもしれないけどね。でも余計な情報を漏らすのはらしくないかなあ……」
青年の瞳に影が宿る。少年は息を呑む。少年が青年の経歴を信じなかったのは、彼の纏うやさしいものが、俗世では生き抜くに足りないと感じたからだった。彼の影の薄暗さに見慣れたものを覚えた少年は、ようやく青年の経歴が真実であることを知った。少年は、この影を信じていた。
「何が嫌だったって言うんだ。生まれが尊いと褒めたことの何が悪い?」
「そこまでは私にもわからないな。確かなのは、今の自分と関係のないことでお前たちに線を引かれたようで嫌だったってことかな」
「は?」
少年は青年を訝し気に見つめる。青年はやさしく微笑み、少年を撫でた。
「だって彼女は、スカートが捲れ上がるのも気にせずお前たちと遊ぶじゃないか」
*
ミットライトはごみ壺を抱え、調理場を後にした。夕の礼拝を終えたときははっきりと見えた隣家の風見鶏が、赤い空に濃紫の影を落としている。
ミットライトは壁に背を預け、深く息を吐いた。闇に染まりゆく空を眺めていると、くうと腹が鳴る。ミットライトは笑みを浮かべ、壺から人参のヘタを探り出した。このご馳走を、遠い喧騒を調味料にして食べたらどんなに美味しいだろう。幸せに満たされた心地でヘタに噛り付くと、わずかに残った人参の赤い果肉の華やかな香りが鼻を抜けた。固い部分を解すように、奥歯で強く噛み締める。
「ミットライト!!」
「!!……カイメン様」
叱りつける声に驚き、落としそうになった壺を慌てて抱え直したミットライトは声の主を見ると、つまみ食いを見咎められた子供のような表情を浮かべた。ウミノ家に拾われて間もない頃、幾度となく叱られた記憶が蘇る。歩み寄る主人の口から飛び出す言葉は分かっていた。はてさて、如何様に申し開きをしようか。
「お前はまだその癖が直っていなかったのか!!それともコソコソと塵漁りをしなければいけないほど危うい教会の運営をしているのか?なぜ塵を口にした。返答次第ではまた口轡を嵌めるぞ」
「カイメン様、これは私の趣味です」
カイメンは沈黙してミットライトを見つめる。話の続きを促す合図だった。
「無論、血液の味に影響が出るため血液を多くのお客様に振舞わなければならなかった頃は行っておりませんでした。依存性をご説明した上で欲してくださった方にのみ振舞っている現在では、問題ないと判断しております。味が落ちることで依存する方が減るのなら――良いことだと思います。心情的には非常に残念ですが。
私は今の生活を満ち足りたものだと思っています。村では、こんなに良い野菜屑を『塵』とは呼びませんでした。その辺りの草を引き抜いて口にすることの方が多かった。吸血鬼を呼ぶことを恐れ声をあげる者も居ない、静寂の村だった。喧噪を聞きながら食べ物のかけらを口にすると、胸が満ち足りた心地がして好きなのです。……カイメン様も如何ですか?」
壺から別の野菜屑を取り出し、カイメンに勧めるミットライト。眉間に皺を寄せたカイメンは気乗りがしない様子で暫く塵を眺めた後、おずおずと口元へそれを運び――にこりと微笑んだ。
それから数日、ミサの進行はミットライト抜きで行われた。