拓崚小ネタログ7■雨と駒
朝から降りだした雨が、閉め切った窓硝子を叩く小さな音が意識の枠の外側をかすかに揺らし続けている。風を伴い強まってきたらしい雨脚も、ふたりきりのリビングを満たす静けさの向こうにあっていまはまだ他人事のようだった。聞こえるのは湿度を調整する空調機の運転音と、差し向かいに腰掛けた机の対岸から交互に上がる木駒の動く音ばかりだ。
ことり、と動かした自軍の駒を彼の視線が捉えているのを指先づてに感じる。向けられた双眸が盤面を静かに見渡して、思考のための幾らかのインターバルが落ちる。ととのった彼の指がつややかな木製の駒のひとつに伸び、何気なくも品の良い所作でついと持ち上げる。
彼が手番を終えたことを知らせる駒の音は、舞台に響く彼の靴音に似ている。ただそこに立つだけで盤上に刻まれるあざやかな存在感。計算と駆け引きの行き交う擬似的な戦場では生半な手では応えにもならず容易に彼の聡明さに呑まれるだけだ。盤面にえがかれている彼の意図を見誤らぬよう辿りながら、またひとつ、駒を進める。互いに口を開きもせず降り積もるばかりの静謐は、けれども確かな対話に充たされていた。
雨音がまたかすかに遠退く。チェックを告げる声がこの静けさを破るまで、駒の音以外は必要なかった。
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20200613Sat.
■03:23p.m.
休日の昼下がり、自宅で交わす他愛のない会話の途切れ目に、ふと彼の視線が逸れていく。拓真の肩越しになにかを確かめたらしい彼が、ソファを軽く軋ませて腰を上げた。
「黒木くん?」
「少し待っていろ」
丁度いい頃合いだ。
しなやかな背が残していった言葉には目瞬きをひとつ。彼らしい端的ないらえに拓真が伺い知れたのは、先ほど彼が見遣ったのが拓真の背後にある壁掛け時計だったのだろうということだけだった。
ひとまず彼の言葉の通りに(けれどもどうにも手持ち無沙汰に、)ソファに腰掛けたまま彼の姿を目だけで追う。まっすぐにキッチンの方向へと向かった足音が、背の高い冷蔵庫の前で立ち止まった。
この家には冷蔵庫が二台ある。うち一台は日々の炊事を依頼しているプライベートシェフのためのもので、拓真たちが中を検めることはほとんどない。彼が足を止めたのは、珍しいことにその一台の前だった。
ぱたん、と、冷蔵庫の扉の音がする。カトラリー類を支度しているらしいかすかな物音を聞きながら、――結局ただその音色を聞いているだけでは足りずにそっと立ち上がった。
薄い紗幕越しに窓辺を浸す夏の日差しを横切って、キッチンまで歩いていく。手伝いますよ、と伝える代わりに隣に立てば、自身を見上げたルビーレッドがうすく綻んだ。
「待っていろと言ったろう」
「そうですね、」
淡い笑みの色を含んだ穏やかなテノールが心地好い。軽口めかしたやりとりを交わしつつ、彼が手に持っていたふたりぶんのグラスを受け取った。キッチンカウンターへ向き直ると、トレイがひとつ目に留まる。コースターやスプーンとともに、トレイの中央に置かれていたのは小ぶりなデザートグラスだった。
「……フルーツゼリー、ですか?」
「ああ」
美しい切り口の苺や桃が、透明な器とゼリーのなかにあざやかな彩りのまま閉じ込められている。夏の陽を透かしたそれが、トレイの上で涼しげにつるりと揺れた。
「新しく果物の仕入先を見つけたらしい。休日にデザートでもどうか、という話だったから、頼んでおいた」
グラスへティーソーダを注ぐ音と、何気ない調子の彼の声。からん。しゅわ、とっとっとっ。彼のひとみによく似た赤が、炭酸水に溶けてひそやかにさざめくのが聞こえた気がした。
「たまには良いだろう?」
彼のかたちの良い五指が、戯れるように自身の手のひらにふれる。その指先に残るかすかな冷たさを、握り返して夏に溶かした。
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20200802Sun.
お題箱より/「冷」
Thanks a lot!!
■夜と雫
ぽたりと、胸板の上に雫がひとつ落ちていく。空調機によって確かに保たれているはずの寝室のやわらかな涼感は、熱帯夜の温度に溶けていまはただ遠い。腹の上で繋がっている彼の首筋からつたってこぼれた汗の雫の感触が一瞬ひどくあざやかに五感にふれて、薄明かりのなか浅い息を吐いた。
「……いえ、」
しなやかな腰をかすかにふるわせて、どうした、と視線だけで彼が問うてくる。ま白い膚にしとりと纏わりついた夜色の髪のつやめかしさに目を細めながら、繋がったまま身を起こす。腹を跨ぐために寝台に膝をついていた彼の体重を下肢ですべて受け止めて、濡れた首筋へついと唇をつたわせた。
膚に滲んだ雫を唇で掬って脈動を舌で辿りやわく食む。膚越しに伝わる拍動の速さと強さが愛おしい。あまく歯を立てようとしたところで、穿った熱を食い締められて吐息が軋む。熱い首筋から離れた唇に、噛み付くようなくちづけが降ってくる。
ぽつりと、首元に雫がひとつ落ちていく。緩く冷房を効かせた寝室、シーツの上で晒したままの素肌に伝ったそれが鎖骨をすべる温度すら、いまはひどくなまなましく五感を撫でてやまない。受け入れたばかりの熱にふるえる息を宥めるように身じろげば、腹の上の男が掠れた声で自身を呼んだ。
様子を伺うしぐさにはゆるく首を横に振って返して、背を抱くために手を伸ばす。わずかに身を起こしたなかばに、濡れた首筋へついとくちびるをつたわせた。
膚に滲んだ雫を唇で掬って脈動を舌で辿りやわく食む。あつい。口唇でふれた膚越しに伝わる拍動の速さと強さが愛おしい。あまく歯を立てようとしたところで、最奥を穿たれて背が反った。男の首筋から離れた唇に、噛み付くようなくちづけが降ってくる。
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20200806Thu.
■積乱雲
遅い朝の陽射しを透かす白い紗幕の向こうに、抜けるような青と積乱雲の白が広がっている。起床後換気のためにとわずかに開けていた寝室の窓から、網戸越しに時折ぬるい風が入り込んでいるはずだったけれども、上がりきる前の温度はシーツの足元で融け落ちて素肌まで届かない。ただ、意識の隅でうすい紗幕が揺れるのを見留めるたび、身のうちにあるはずのなにかがひとひらずつ摩耗していくように思う。
酸素が足りない。つらぬかれたままの息継ぎの合間、寝台の軋みに紛れて零した男の名前は熱に掠れて欠けていた。その数音ばかりも辿れぬ自身の声帯のふるえがひどくもどかしく、汗ばんだ胸板を重ねるように首筋へ腕をまわして距離を詰める。
掠れた息のふれあう近さで、夏の空より熱い青が揺れている。この距離ならば、名を呼ぶ声も届くだろうか。
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20200807Fri.
文字書きワードパレット
17.空に溺れる(酸素/摩耗/詰める)
■夏の星
かれのととのった五指が街明かりにかざす酒杯のうつくしさを、何に例えれば足りるだろう。照明をうすく絞ったリビングの窓辺に寄せた椅子に腰掛けながら、詮無い思考とともにひとくちウイスキーを傾ける。ピックで割り砕いた氷と艶のある琥珀色をそそいだロックグラスは、やわらかな夜の端で心地好い冷たさを保っていた。
夏の匂いのする夜風が、窓から滑り込んでゆるく頬を撫でる。誕生日の祝いにと以前彼から贈られたデキャンタは数年が経ったいまでも晩酌の場には欠かせない存在だ。合間に降りる穏やかな沈黙のなか、繊細なカッティングの施されたクリスタルがサイドテーブルに落ちる飴色の影さえ美しく滲ませるのを見つけてやわく目を細めていると、隣に座る彼がちいさく首を傾げてどうしたと問うてくる。いま自身がひどく満ち足りた心地でいることを、彼にどう伝えるべきか。酒精に緩んだ回路に落ちた問いの形もそのままに、――そっと椅子から身を傾けて口付ける。
あざやかな双眸のなかで、酒杯に浮かぶ街明かりに似た夏の星が揺れていた。
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20200808Sat.
文字書きワードパレット
14.水晶越しの仇敵(かざす/沈黙/双眸)
■夏果つ
夏の陽射しはスポットライトに似ている。身を灼くような強い光も、落ちる影の輪郭のあざやかさも、その下から離れてもなお残り続ける温度の感触も、舞台の上で自身が感じるそれとよく似ていた。灼けつくように鮮烈で、けれども気付けば目瞬きの間に消える熱。だからだろうか、――彼と過ごす夏の暮れに、終わるのが惜しいと願望めいた情動が胸裡を焦がすのは。
とん、と、軽い感触とともに彼の背が玄関の扉に行きあたる。廊下の奥、リビングの窓から差し込んだ夕暮れの赤がかれのととのったかたちを淡く彩りながら溶けるのが不意にくるおしいほどうつくしく目に映って、知らず手を伸ばしていた。
「……夏が、終わるな、と思いまして」
浅くくちづけたあと、問われる前に零れた答えは理由にも足りない断片じみたものだった。間近にある彼のひとみが応えの意味を嚥下するように二、三、目瞬く。
「そうだな」
ひそやかな呼吸をかすかに緩めた彼の、自身を呼ぶ声がする。はいば。
「次の夏は、どこへ行こうか」
記憶と約束をありのまま分け合って彼が笑む。重ねた手のひらから伝わる晩夏の感触に、目を細めた。
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20200808Sat.
文字書きワードパレット
13.夢見るバク(溶ける/願望/呼吸)
■浴衣
寝乱れたシーツの上で、ゆるく身じろぐ。ふたりぶんの熱を含んで揺れていたま白い水面は、緩慢な速度で穏やかな温度を取り戻しつつあった。
決して小柄とは言えない男がふたりで寝そべるにも幾らかゆとりのある広さの寝台の端には、かたちばかり程度にまとめ置かれた浴衣や肌襦袢が二着重なっている。然程長い時間身につけていたわけではないが、崚介と男がそれらを脱ぎ落としてからもしばらくが経つ。そろそろ片付けなければ皺になる、と身を起こしかけたところで、隣からのやわらかな中低音に呼び止められた。「黒木くん」
「……もう少し休んでいてください。水を取りに行くついでに、俺が片付けておきます」
「……、……そうか。ありがとう」
男のほうが崚介よりもわずかに早く、浴衣の存在を思い出していたらしい。アルコールが普段より残りでもしているものか、思考回路の速度はまだ戻りきらないままだった。礼の言葉とともに素直に男の申し出を受けて、寝台を抜け出していく男の背を見送る。
身を横たえたままでいるには少しばかりいとまを持て余すようにも思えたが、男の気遣いを無下に扱うつもりもない。じきに部屋へ戻ってきた男が慣れた手つきで着物用のハンガーに浴衣を掛けていくのを、ただそっと眺めていた。
年に一度催される独立記念日の花火大会を、男とふたり自宅で肩を並べて見るのもこれで何度目かのことになる。確かに増えてゆく記憶を、宝石のように自身のなかに留めていることに気が付いて、少しばかり面映ゆい心地がする。その面映ゆさも、決して厭わしくはないけれども。
宵の薄明かりのなかで見る男の横顔や指先のしぐさがいとおしい。ゆらりと胸裡が揺らめく感覚に、まばたきをひとつ。――身のうちにまだ残っているのは、どうやら酒精ではないらしかった。
穏やかな夜に戻りかけていたシーツを爪先でするりと搔いて緩慢に身を起こす。もう一度、と紡ぐ代わりに、ぽつり、男の名を呼んだ。
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20200809Sun.
文字書きワードパレット
19.茨の猛毒(アルコール/爪先/宝石)
■まどろむたまご
ハグには約三十二パーセントのストレス減退効果があります。
検索エンジンのトップページにそんな見出しのニュース記事が掲載されているのを見付けたのは、たしかちょうど一年前のことだったか。八月九日の夜更けすぎ、寝台の上のあたたかな微睡みのなかで、ちいさな記憶のかけらが回路の隅に落ちてくる。枕元へほとりと転がったそれを拾い上げるように手を伸ばせば、隣に身を横たえている彼の背中に指先がゆきあたる。手にふれた体温からじわりと滲む心地好さに抗えぬまま、しなやかな筋繊維で織り上げられた腰に腕をまわしてそっと身を寄せた。
「……灰羽?」
わずかに身じろいだ彼が、背を預けたままちいさな声で自身を呼ぶ。遠い潮騒に似たテノールがやわらかく耳朶を打ち、おだやかなまどろみと緩慢にとけてゆく。あたたかい。
彼の呼び声になにかを返そうとして、……けれども回転速度の落ちた回路ではまわした腕をもうひとつ強めるだけで精一杯だった。
沈黙。……空白。
「おやすみ、」
眠りの海に落ちる寸前、身じろいでこちらに向き直った彼のひそやかな笑みを聞いた気がした。
***
20200809Sun.(はぐの日!)