秋の隣に オフ日前夜。食事と入浴を済ませ、リビングのソファでゆったりと交わし始めた酒盃が半ばすぎまで減ったころ、隣に座る男がふいに崚介に向き直った。
「……あの、黒木くん」
「なんだ」
どことなく居住まいを正し、真剣な面持ちでこちらを見つめている様子に首を傾げる。いまはふとした会話の途切れ目で、話の流れにも特に変わったところはなかったはずだが。重ねた視線で先を促すと、ごく薄い逡巡を浮かべた双眸が眼鏡の奥で淡く揺らめく。
「実は、君に渡したいものがありまして」
「うん?」
そう言って、男――拓真は品の良い木製のローテーブルに作り付けられている引き出しに手を伸ばす。かたりと滑って開いたそこにあったのは、ネイビーのリボンが掛かった長方形の箱だった。
広げた片手に収まるかどうかという程度の横幅で、厚みはさほどない。ざらりとした質感のあるアイボリーの外箱に箔押しで印字されたロゴマークを認めたところで、手渡された箱の中身についてはおおよそ見当がついた。
「……すみません、突然なんの断りもなく」
「いや、……かまわないが」
リボンをほどく前に、外箱の表面を緩く指先で辿る。高級感のある加工で刻まれているマークは、この男が以前から贔屓にしているアイウェアブランドのものだ。開けても良いかと尋ねれば、「もちろん」といらえが返る。
暦は十月、ニューヨークでも秋が深まりだしたころ。ちょうど半月ほど前に拓真の誕生日の祝いを終えたところで、贈り物を贈りあう催事や記念日には思い当たる節がない。つまりは何の理由も口実もない折にこの男が崚介へと見繕った品ということだ。その事実だけで、どこか面映ゆい心地がする。
そっとリボンの端を摘んでほどき、上箱を外す。クッション材の上で静かに微睡んでいたのは、秋らしい色合いのフレームの眼鏡だった。
「気に入りのブランドの、秋の新作モデルなんですが。きっと君に似合うと思って、……つい」
「――……、」
以前この男から私用にと贈られた黒縁の眼鏡よりは幾らか華奢な印象を受けるそれに、傍らの中低音を聞きながら目を落とす。じき紅葉に染まり始めるマンハッタンの街をこの男と並んで歩くにも、馴染んで映える風合いだろう。
ありがとう、と礼を述べ、畳まれていたつるを開いて慎重に眼鏡を掛ける。度のない薄いレンズ越しに男を見遣り、やわく笑んだ。
「似合うか?」
「ええ、とても」
俺が考えていたよりもっと、よく似合っています。
続いた声と返されたまなざしのやわらかさに目を細める。嬉しげに頬にふれる手のひらの熱さが心地好い。言葉の代わりにどちらともなく唇を重ねようとしたところで、はたと気付いて動きを止めた。
「黒木くん?」
「……外しておかないと疵がつく」
「――ああ、……そう、ですね」
互いに眼鏡を掛けたままでは顔を寄せた拍子にぶつかって疵がつきかねない。贈られたばかりだというのに危ういところだった。ひとまず元の箱に戻そうとフレームに掛けた手を、男の五指がさらってゆく。灰羽。短く男の名を呼べば、すこしだけ困ったような中低音が耳朶を打つ。
「俺の眼鏡を外すだけでは駄目ですか」
「……」
もう少しだけ見ていたいと、見慣れた眼鏡の奥の青が言外に告げている。胸裡を擽るわずかばかりの気恥しさを除けば崚介にもその言葉を拒む理由はなく(というよりこのままいけばどちらにせよ男の眼鏡を外す結果に変わりはないはずだった、)――首肯に合わせて手を引かれるまま、向かい合うかたちで男の腿を跨いで乗り上げた。
普段そうするように男の眼鏡を外し、ソファ横のサイドテーブルに丁重に逃がす。膝に乗り上げているぶん反転した身長差を保ちながら額や眦に口付けを落としていくと、擽ったげに小さく肩を竦めた男が自身を呼んだ。黒木くん。
「……ああ」
至近距離で目を合わせることもこの男相手にはすっかりと慣れたものだが、こうも真正面から改めて求められるといささか面映ゆい。拓真はといえば変わらず至って上機嫌な様子で、崚介の頬を片手でやわく包んで撫でる。
「夏の半ばに発表があってから、君に贈るのを楽しみにしていたんです。先日、やっと店頭へ受け取りに行けて」
「そうか。手間を掛けさせたな」
「いえ、手間だなんて、なにも」
先程はあたかも衝動買いをしたかのような口振りだったけれども、やはりかねてから手配をしていた品だったらしい。多忙なスケジュールの合間を縫って店舗にまで訪ねていったそれを、今日までそっと自宅の引き出しに眠らせていた男の胸中を思えば、好ましさばかりが快く身体を満たしていくのがわかる。
秋色のフレーム、澄んだレンズ越しに、男の青が自身を映している。心地好い秋のぬくもりを感じながら、呼ばれるままに目を閉じた。
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20220919Mon.