ゆめは波間に この男にふれられることが好きだ。輪郭を確かめるように素肌をつたう手のひらのしぐさ、絡めた五指を握る指先の強さ、首筋をやわくすべって喉元を食む口唇の熱さ。男から与えられる感触のどれもがひどく心地好く、そしてくるおしい。黒木崚介にとって、灰羽拓真とふれあうことは互いの輪郭を辿り重ねる行為でもあった。
「灰羽」
微熱を孕んで掠れていく吐息の合間に、体の上にいる男の名を呼ぶ。崚介の夜着の下衣を取り払いかけていた男が手を止めて、ゆるく落ちた前髪越しに崚介を見た。ベッドサイドの薄明かりに透けた青が湛える温度に、目を細める。
「……数日ほど前に、夢を見た」
「……夢、ですか?」
「客席から、ジェネシスの舞台を観る夢だ」
「……、」
崚介の言葉の意味をまだはかりかねているらしい沈黙を聞きながら、指先を持ち上げて男の腕にふれる。そっとすべらせて輪郭を辿れば、重なった膚の境界がふたりぶんの体温に融けて淡く滲んだ。
「ステージの上に、知った顔があったわけではない。だが、それでも確かにあれはジェネシスの作品だと感じた」
「…………」
「……目が覚めたあと、考えた。あれは、『理想の先』なのかもしれない、と」
ジェネシスが正式に養成所生の受け入れ体制を整え終えたのは、三か月ほど前のことになる。
養成員の面接選考は基本的に主宰である男と崚介が行い、実際の基礎レッスンは指導術に長けている藍沢を中心に進めていく方針となっているが、新規の入団者は経歴等を考慮し即戦力に成り得る人材に限っていたこれまでとは完全に主旨の異なる試みである。
面接選考の段取り、養成所生の待遇制度の整備調整など、体制の正式始動までには拓真と崚介のあいだでいくつかの課題の解決を必要としたものの、数週間前に数名の養成所生を受け入れ、劇団の内部も徐々にその存在に慣れつつあるところだった。――だからこそ、そんな夢を見たのだろう。
「灰羽」
おもてを上げて男を呼ぶ。
男の青の双眸が、揺らめきながら自身を映していた。
「いつか、最前線の舞台に自らの足で立たなくなった俺を、俺は俺自身だと認識できるだろうか。……お前は俺を、俺だと認識できるだろうか」
「――ッ」
そうして、この数日間感情の片隅に留めていた思考に、声という形を与える。
不変など、永遠など、ありはしない。時間とともに、環境も人間も例外なくうつろっていく。その程度、崚介自身十二分に理解している。そしてまた、夢うつつに眺めた光景に抱いた感情が、ひどく詮無いものだということも。
それでも、ほかの誰でもなくこの男に問うてみたいと、そう思った。幾度も崚介の輪郭を辿り重ねてきたこの男の答えがただ、欲しかった。
「灰羽」
「……なんですか」
「……なぜ、そんな顔をする」
一瞬息を詰めた男が、腕にふれていた崚介の片手を掴んで寝台に縫い留める。物言いたげに強まる五指と裏腹に、男はしばらくのあいだ口を開こうとはしなかった。
「なぜ、……なぜ、ですか。そう、ですね、……なぜでしょう。自分でも、わかりません」
「…………、」
「ただ、珍しく。私はいま、……怒っているのだと、思います」
呟くように落とされた声に、ひとつ目瞬く。シーツの波間にすら呑まれてしまいそうなほどちいさなその声に崚介が応えるより早く、熱い唇が呼吸をさらっていった。
慣れぬ強引さで口腔を貪っていく熱にぞくぞくと背が粟立つ。息継ぎのための身じろぎの間すら与えようとしない口付けに、目を閉じているというのに眩暈がした。
「…………ステージライトがなければ見失ってしまう程度の感情で、俺は君を見ていない」
どれほどの時間そうしていただろうか。浅く乱れた吐息のなかで、したたるような熱を纏いつかせた声がする。
「初めて会ったときから、君が俺にとってどれほどまばゆい存在か、君は知らない。いつか最前線の舞台から降りる日が来ても、君は君です」
訥々とそう連ねながら、男の額が自身の額にふれる。あつい。「黒木くん、」
「……崚介」
激情に掠れた中低音が崚介を呼ぶ。この男が崚介のことをそう呼ぶとき、焦がれる響きのなかに祈りに似たなにかを感じる理由はまだ崚介にはわからなかったけれども、応えの代わりに男の頬へ手を伸ばす。熱い頬とやわらかい髪が指先にふれて、心地好かった。
「君の光は、俺が知っています。この世の、誰より」
「……そうか」
「そうです」
「それは、心強いな」
口をついたのは本心からの言葉だったが、眼前の男はなぜだかどこか拗ねたような顔をして、つよく掴んでいた五指をやわくゆるめる。仕切り直しにか離れていこうとする手を握り返すと、間近で青が目瞬くのが見えた。
「拓真」
「……っ、」
「――ありがとう」
ゆるみかけた指先が、先ほどまでと同じ強さに変わる。握り締められた五指から夢の残滓がほどけて白い波間へ落ちていくのを感じながら、もう一度だけ男の名前を呼んで、口付けた。
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20190805Mon.