00:02a.m. 書斎机の上に積み置かれた数冊の資料を、作業用に調光したデスクライトの白色灯と、ノートパソコンのディスプレイが照らしている。傍らに広げたクリップ留めの書類には崚介にも見慣れて久しい筆跡の覚書が散在し、あるいは懸案事項の解決を示す取り消し線が重ねられていた。
「……では、待遇規程はこの内容で確定ということで。翻訳の手配は予定通り君に任せて構いませんか?」
「ああ。あらかじめ心当たりに話は通してある。納期の確認と合わせて早急に依頼しよう」
「お願いします」
崚介の応えにそう返してから、男――拓真はゆるい息をひとつ吐き眼鏡の位置を指先で軽く整えた。養成所生の待遇に関する規程文が連なるテキストエディタのウインドウを閉じたあと、男はデスクチェアを小さく鳴らしながら傍らに立つ崚介を見上げて再度口を開く。
「すみません、こんな時間に書斎まで借りてしまって」
「構わない。日を跨がなければ上出来だろう」
「ああ……そうですね、どうにか零時には間に合いましたか」
明日は、久しぶりに落ち着いて過ごせそうです。
崚介の言葉にディスプレイの端に表示されている時計を横目で確かめたあと、男はそこでようやくわずかに相合を崩してみせる。ここひと月ほどのあいだ、養成所制度の正式運用開始に向けて打ち合わせを重ねてきた事案に明確な終着点が見えたことへの安堵が、その横顔と声に浮かんでいた。
「これで、残すは養成所生用の基礎メニューの立案くらいのものですか」
「そうだな。そちらもそろそろ原案が上がってくるころだとは思うが」
「依頼先はトレーナーの皆さんと、藍沢くんですからね。原案と言っても大きな手直しは必要ないでしょう。……あとは、我々についてきてもらうほかありません」
「ああ」
養成所生といえども、否、だからこそ基礎固めの体制作りにも妥協せず注力せねばならない。
今後舞台をともにする劇団員を一から育んでいくことを目的としている以上、崚介たちがこれから迎える彼らは劇団の看板を背負うメインキャスト陣とは異なる意味で「劇団ジェネシス」の質を体現していく存在だ。養成所制度の構想が話題に上ったときから、主宰である男と一貫したその共通認識に立ち入念に段取りを進めてこられたことが、崚介には心地良かった。書斎机の隅に寄せていたティーカップを手に取り、陶器の底でややぬるんだハーブティーに口をつけてから言葉を継ぐ。
「……そういえば、その件と関連しての話だが。入団時に渡す資料のなかに君が作った演技指導用の冊子を組み込んではどうか」
「演技指導……というと、『CRAZY for MUSICAL』のときの?」
「そうだ。以前目を通させてもらったが、基礎と応用の連動まで含めて新人指導に適した内容だったと記憶している」
「君にそう言ってもらえるのはありがたいですが……あれは藍沢くんと白椋くんのために用意したものなので、せめて英語に起こさないと使いものには」
「翻訳については俺が引き受けよう。むろん、君の承諾が得られればの話にはなるがな」
「君が、ですか?」
この申し出は想定していなかったものか、レンズの奥の双眸が二、三目瞬いて崚介を見る。男の問いに首肯を返し、空にしたカップを机に戻した。
「表現について多少の調整は必要かもしれないが、このまま眠らせておくには惜しい。この機会に一度預けてはもらえないだろうか」
「いえ、それは、もちろん君になら構いませんが」
「なんだ」
「まさか君にそこまで言ってもらえるとは思わなかったもので。……少し、驚いたというか」
「……?」
数瞬の間のあと、ちいさく落ちた男の言葉に今度は崚介が目瞬きを返す番だった。わずかばかり節ばった、男の長い指先がついと持ち上がって崚介の手首にふれて視線が噛み合う。かちり。
込み入った仕事の話はひとまず区切り、ということだろう。柔い加減で引き寄せられるままデスクチェアの座面に片膝をつくと、体重を受け止めた椅子がかすかに撓む。
「君のスケジュールの負担にはなりませんか」
「問題ない。それに、君の――お前の仕事にふれることは、俺にとっても良い刺激になる」
普段は頭半分ほど上にある男のひとみが、薄い疑問符を湛えて崚介を見上げる。デスクライトの光を映して男の眼差しを遮る眼鏡を外してやると、見慣れたブルートパーズが夜のひかりに透けてかすかに揺れた。
「高みを目指す明確な意志に能力と実行力が伴う人間の仕事はどの分野でも信頼できるものだ。それがパートナーのものであれば、なおさらに」
自身が最初にこの男の手を取った理由。建前の下の目的を問わずパートナーとしてあり続けた理由。そしていま、この男の隣で過ごすとき、胸のうちに確かな温度を憶える理由。望まぬ復讐に身を投じずにはいられないほどの演劇への執着を、傷をも厭わぬ熱量と矜持を、灰羽拓真という男はその心の根幹に宿している。だからこそ。
「そのパートナーというのは、どちらの意味で、ですか」
外した眼鏡を机に逃がし、男が問う。
思考を巡らせたのは一瞬。男の頬の輪郭にそっと手のひらをすべらせて、躊躇うことなく応えを継いだ。
「どちらもだ。……演劇の道でお前とともにあることが、お前の意思を感じることが。俺には、とても心地好い」
――だからこそ、崚介はこの男を信じている。執着ゆえに贖罪を選び、その先にあった過ちと向き合い続けるこの誠実で不器用な男を、愛している。
「灰羽」
男の名を呼ぶ。いま自らの胸裡を揺らした感情に声のかたちを与えようとして、けれどもはじめに喉からほとりとつたい落ちたのはその音だった。
「…………、……困りましたね、」
「……?」
「今夜は久しぶりに、君とゆっくり眠ろうと思っていたんですが」
ふれた頬と、絡んだ視線の温度が上がる。男のかすかな身動ぎに合わせて揺れた椅子が、寝台のようにちいさく鳴いた。
「……もう少し、俺に付き合ってくれますか?」
「……ベッドルームでならな」
「それは、もちろん」
耳朶をくすぐる声へ戯れめかして返したそれに応えるように、手首にふれていた指先が強くなる。椅子から立ち上がりざま、視界の端を掠めた時計は午前零時二分をさしていた。
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20190912Thu.//HappyBirthday,Dear Takuma!