夏の天蓋 かれ、という男は海に似ている。濃い夏の匂いを孕んで頬を撫でる潮風に目を細めながら、彼とふたり人影のまばらな夕暮れの砂浜を歩いていた。
ブロードウェイでの夏季公演が先日無事に終了し、今日から数日のあいだは住み慣れた街から幾らか離れたこの海辺のリゾート地で休暇を取る予定になっている。強い日差しの注ぐ日中は静かな客室で過ごしたけれども――窓から見える夕陽が水平線に近付きだしたころには、どちらともなくサンダルに素足のさきを潜り込ませていた。
客室に面したビーチはホテルの私有地になっており、混み合う時間帯を過ぎた砂浜は昼間の賑わいも幾分か鳴りを潜めている。浜へと繋がるスロープの先から続くふたりぶんの足跡が小さく遠のいていくのを肩越しにちらと確かめてから、夕焼けに染まる水平線へと目を移す。茜色の陽光を跳ね返してまたたきながらうねる水面は穏やかでうつくしかった。
「灰羽?」
どうやら気付かぬうちに歩調を緩めていたらしい。呼び声に我に返ると、彼が数歩先で足を止めてこちらを見ていた。
「いえ、」
リゾート地に見合うリラックスした装いの彼の、ま白い首筋の膚が夕陽に滲む。夜色の髪が踊るようにふわりと揺れて、瞼の裏にやわらかな影を残した。
夏に灼かれた砂の感触を踏みしめて彼に並びつけば、斜陽と溶け合う海と同じ色をした双眸がついと持ち上がって拓真を映す。どこか幼いひかりを灯して目瞬くひとみに首を傾げて返すと、いたずらめかしてひそめたテノールが耳朶を打つ。
「もう少しそばへ行かないか」
「え、」
言葉の意味を汲むより先に、かるく身を屈めた彼は迷わずサンダルから足を抜いて砂浜を踏みしめる。念のためにとボトムスの裾をいくらか折り返し、しなやかな指先でサンダルのストラップを纏めてさらい上げ――そのまま、ほんの数メートルほどの近さにある波際へと向かっていった。
よく知った彼の歩幅で数えて十歩。しろい足裏が砂浜に残した跡までととのって見えるのは、彼の歩みが舞台の上でのそれと同じにまっすぐ延びていくからだ。
「はいば」
踝までを波に浸した崚介が、ついと振り返って拓真を呼ぶ。夕暮れと夜のあわいでいとけなく澄んだ赤。ひとみをやわく眇めるうつくしい獣のしぐさで呼ばれてしまっては、……立ち止まったままでいられるはずがない。
さくり。サンダルから抜いた素足の裏があたたかい砂を踏む。彼の足跡を追うようにまっすぐに進み行き着いたつまさきを、穏やかな波が濡らして過ぎていく。想像よりも冷たく心地好い水温に思わず緩く息を吐くと、傍らの彼が満足げにうすく笑んだ。
「気持ちがいいな」
「ええ」
身を包む潮騒に彼の声の端がさらわれては溶け滲む。緩慢に暮れていく夕空のやわらかなひかりは、寝室にともる夜の灯りに似ていた。そそぐひかりのままを映して、海面も色と表情を変えていく。眩しい。
「……黒木くん」
「うん?」
「綺麗ですね」
「……そうだな」
すこし遠くの波間を見遣り、彼が応える。つねにありのままを捉えてそこにある直線の眼差しがいとおしかった。
だから自身には、彼と海とがちかしいものであるように感じられるのだ。ほとりと胸に落ちた答えを、いまは言葉にはしないけれども。
ふたりぶんの足跡を波際に残しながら、他愛ない会話を交わして夜のとばりが降りきるのを待つ。夏の天蓋に月と星を迎えてからならば、彼のゆびさきをさらっても良いだろうか。
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20220731Sun.