月に游ぐ 掌中で傾けた酒杯の澄んだ水面に、夜更けのちいさな円い月がゆらゆらと浮いている。月の明るい夜だった。吹く風が秋の気配を含み始めた夏の終わり、リビングの窓際にふたつ並べた椅子へ背を預けながら、気の向くままに言葉を交わす。
普段この時間にはすっかりと灯りきっている照明は、しばらく前に落としてある。いまはといえば、こうして時折夜を楽しむために購入した小ぶりなテーブルランプがひとつ、手元に並ぶ晩酌の支度の傍らで仄かな明かりを投げかけるばかりだ。
穏やかな宵闇。窓の外をついと見遣った男の横顔が淡い光にやわらかく滲むのを、知らず目を細めて眺めていた。
「黒木くん?」
「……いや、」
無意識で向けた視線に、それでも聡く気付いたらしい拓真が呼ぶ声としぐさで問うてくる。何気ない横顔に目を惹かれたばかりだというのに、眼鏡の奥の双眸が自身を映したことを心地好く思うのだから可笑しなものだ。この感情を酔いのせいにするつもりはないけれども、いささか思考が散漫になりつつある自覚はあった。
数日前に今季の公演期間を終え、束の間の休日の今日、崚介は男とともに観客として日中にブロードウェイを訪れていた。自身が以前から手掛けている人材斡旋事業関連の筋からの招待だったが、演出や構成方法において刺激になる部分も多く、終演後にはそれらの視点についてを含めてひとしきり意見を交わし合ったところである。
数時間の観劇のあと、予約していた劇場近くのレストランで軽く食事を摂り――帰路で見つけた月の明るさに、家でもう一杯だけ呑み直さないかと誘いを投げた。自宅へ戻り、入浴や最低限のメールチェック等を済ませて晩酌の支度をしているあいだにも、窓の外にあるまるく澄んだ月がひどくあざやかに見えたのを覚えている。はたしてそれは何故だったか。
問いの応えを手繰っているうちに、男が手の中で緩慢に遊ばせていたグラスをサイドテーブルへと逃がす。ことん。ごくわずかな音を残して自由になった指先が、そのままそっと伸びてくる。酒精に温んだ自身の頬の輪郭を、よく知った手のひらの温度が柔らかく包んだ。
「ゆっくりで構いませんよ」
君がそんなふうに言葉を探しているときは、そうするのが一番です。
ひそやかな中低音が夜に紛れ耳朶にふれる。鼓膜を揺らし胸にまで伝い落ちた声が、身の内側へ溶けていく。あたたかい。指輪を外した素のままの五指の心地好さに誘われて、ぽつり、呟く。
「今日は、楽しかった」
「ええ。俺も」
「お前と観劇の所感を話しているうちに浮かんだ演出の構想もある。近々試してみたい」
「もちろん、楽しみにしています。……ふふ、」
「……なんだ」
「ああ、いえ、だからずっと嬉しそうにしていたのか、と思いまして」
「……そうか」
「はい」
男がちいさく零した笑みの気配が、崚介の掌中の月夜をさざめかせる。ほのかなひかりを湛えた青は穏やかに凪いで自身を映していたけれども、――その底にある確かな熱に、いまもまだ同じ高揚を分け合っていると知る。
「はいば」
「はい」
「月が明るいな」
「……ええ」
わずかに顔を傾けて手のひらを擽れば、男の指先が戯れるように目元を撫でる。重ねた視線は逸れてはゆかない。男の瞼の裏に浮かんだ月が自身と同じだけ明るければ良いと、ただ願った。
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20230912Tue.
//HappyBirthday,dear Takuma!