朝焼けの向こうに まだ薄暗いままの寝室で、緩慢に意識が浮上する。
ゆるいまばたきを二、三、して、傍らで眠る彼の体温を確かめる。あたたかい。もう一度心地好い眠りに落ちかけた思考を、ふと思い直して柔く引き戻した。
よく眠っている様子の彼を起こしてしまわぬよう気を払いながら寝台から抜け出して、スリッパへ足先を滑り込ませる。窓際の椅子の座面に畳んで置いていた上着を羽織り、ラグマットの上を静かに歩いて寝室を後にした。
昨日の昼に年内最後の公演を終え、年明けである今日から三日間はつかの間の休暇だ。所謂三が日の概念がニューヨークにあるわけではないけれども、クリスマス前後からニューイヤーズ・イヴまでのホリデーシーズンのほとんどを公演へ充てていたことを鑑みれば、劇団としては順当なスケジュールだろう。今回の休暇も拓真は彼とともに過ごす予定であり、夜の明けきらぬようなこの時分にはまだ眠っていてもなんら差し支えないのだが、――ただ、ひとつ。
ぼんやりと視界に捉えたカーテンの裾から零れるごく淡い明暗に、夜明けが近いことを知ってしまったものだから。
しんと静まり返った廊下を抜けて、リビングを横切っていく。その半ばにあるキッチンの片隅、ステンレス製の食器籠には、普段はあまり使うことのない和食用の汁椀と箸が二人分立て掛けられていた。数日前に交わしたなにげない会話の流れから、ささやかながらに年越し蕎麦を作ることになったためだった。
自炊をしない暮らしが随分長いとはいえ、その程度ならばと支度を買って出たものの、覚えているのは興味深げに拓真の手元を見つめる彼のいとけない横顔と、手のひらに持ったちいさな椀の温度ばかりである。
面映ゆい心地をわずかに持て余しながら、リビングの窓辺まで辿り着いて立ち止まる。カーテンの端をそっと持ち上げて外の様子を窺えば、明けに向かいひそやかに白んでいこうとする街がそこにあった。
このところ比較的よく晴れた暖かい日が続いており、今日も空に鈍色の雲の気配はない。しばらく待てば、ビルの間から昇る朝日を見ることができるだろう。
窓から染みるかすかな冷気がやわく膚を撫でる。微睡みの浅瀬を揺蕩う街の色彩を五感で辿っていると、小さな足音がふいに耳朶を打った。
「……灰羽?」
「黒木くん」
リビングのドアの前に、ナイトウェアに上着を一枚羽織った彼が立っていた。眠りを妨げぬよう充分に気を払ったつもりだったけれども、どうやら気付かれてしまったらしい。
「すみません、起こしましたか」
「いや、いい」
起き抜けの声で交わしたやりとりもそのままに、彼はまっすぐにリビングを横切って拓真の傍らに並ぶ。どうした、と問うてくる彼に、「いえ」といらえを接いだ。
「偶然目が醒めてしまって。ちょうど、日の出の時間だったものですから」
「……そうか」
まだすこし眠たげなひとみが、拓真の応えに沿って窓の外を見る。夜明けを待つ薄明るいひかりに、彼のととのった横顔の輪郭があわく滲んだ。
「夜明けが好きか?」
「え?」
「向こうで初めてお前の家に泊まった日にも、明け方にリビングのカーテンが半分開いていた」
「――……、」
思いがけない問いに、返す言葉を取り落とす。不意をつかれたのが問いそのものに対してか、彼がそれを覚えていたことに対してかはわからなかった。
窓の外を見る。目に映る景色は東京から遠く異国の街へと移ろったけれども、あの日見た朝焼けのいろを忘れることはないだろう、とふと思った。
「朝焼けが、」
「……うん?」
「とても綺麗だと思ったんです。あの日、君がいる家で」
だから、たまに見たくなるのかもしれません。
ぽつりぽつりと、答えが唇から零れていく。窓越しに見た燃えるような朝焼けは、間近で揺れる彼のひとみのいろによく似ていた。知らずのうちに重ねて焦がれてしまうほどに。「そうだな」
「確かに、美しいそらだった」
ひそやかな声で彼が言う。
彼もあの日の空の色を覚えているのだろうか。ただそれだけのことになぜだかひどくくるおしい心地がして、すぐそばにある彼の指先に手を伸ばす。
彼の湛えたあざやかな朝焼けが、自身を映しながら陽光を汲んでかすかに透けるのが見えた。
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20220104Tue.