逃げてくあいつにゃ聴こえない! ヘルメスがアステリズムに顔を出す頻度はそう多くはないが、なぜか的確に彼と契約をしたサモナーは現れる。タローマティ、なんならシンヤも怪しいのではとヘルメスは彼と彼女に疑いの目を一瞬向けたが、呆れた顔のタローマティにそんなわけ無いだろうと一蹴されてしまえばヘルメスが二の句を告げるはずもない。
そもそもタローマティとシンヤの性格と性質からして、彼女たちとしても大事な友人である彼女に助け舟を出すことはあるが、隣に立てるようになるまで姿を見せないと決めたヘルメスの意思を丸ごと無視する方向に彼女たちは走らないのはヘルメスもわかっていた。
そんなわけで、ヘルメスは今日もまたふらりとやってきた彼女を避けるために空き部屋に転がり込んで、彼女が、他でもないヘルメスの姿を求めてアステリズムを訪れている事実を噛み締めた。
俺だって会いたいけどよ、と噛み殺しきれなかった欲望が過熱する気配を感じて、ヘルメスはアステリズムからこっそり、誰にも見つからないように抜け出す。路地裏をいくつか経由して、彼女が普段使わない駅前で演奏でもしようと思ったのだ。
「お兄さん、お兄さん。おい待ちなアンタのこと言ったんじゃこらッ! ふむふむふむむ、ふふん、恋しとるようじゃの」
「は?!」
だから通り過ぎようとしたよくわからない占い道具をブルーシートの上に広げて商いをしている転光生に唐突に声をかけられて、その発言の内容にヘルメスは思わず裏返った声をあげてしまった。ひどく悪い笑顔を浮かべている老女は「恋を叶える手助けをしたげるよ。どれどれ。まずはこの料金表を見とくれよ、なあにアンタにゃこの香炉が効果バッチリ花丸さ」と続け、老婆を単なる押し売りと判断したヘルメスはその場を「俺はいらねえ、頑張ってくれ」というような、明確をぼやかした適当な言葉を投げて離れようとした。した、のだが押し売りの方もその程度の逃げ方には慣れているらしく、いつのまにか座っていたどう見ても無許可らしい露天の店から離れ、いつのまにか手に小型の香炉のような、よくわからない占い道具でもなさそうな何かを持っていた。
「なあに心配いらないよ、お代は成就した時にいただく主義さ!」
老婆がそういうが早く、花のような香りのする、ピンクの霧がヘルメスを覆う。香りにむせて咳き込んだ瞬間に喉に滑り込む香りに抵抗する術はない。
なんだってこんな、がその時のヘルメスにできた、最後の抵抗だった。
◇◇◇
「————か、大丈夫でありますか?! 救急車はもうすぐ来るであります! ダメであります意識がまだ——それにきぐるみを脱がすこともできす——」
タヂカラオ?とヘルメスは言葉を発したつもりだった。けれどなんだから重いし普段とは勝手のちがう肉体が、ヘルメスの意図を汲み取らない。ヘルメスは自分が何か薄いホワイトボードのようなものを持っていることに気がついた。そこにはタヂカラオ?とヘルメスが発しようとした言葉が書いてあった。は?と声にならない言葉をあげると、ホワイトボードにもは?と表示される。
ヘルメスは起き上がり、自分の体を見渡した。茶色を基調にして白銀も混ざる毛並み。毛並み?と普段の自分にはありえない部位にヘルメスはひどく混乱した。恐る恐るヘルメスは近くにあったガラス張りの建物に近寄ると、そこにはヘルメスの姿はない。ふとましい胴体、鳥なんだか牛なんだか、それとも違う何かなんだかわからない頭部に、大きな手足。
ヘルメスはきぐるみに入っているのだと自覚した。そして、頭に手を伸ばして外そうとしたが、イヤな手触りがしてヘルメスは頭部を外すのは諦めた。ヘルメスはしばらく目を丸くしているタヂカラオを呆然と見つめていだが、全力で駆け出すとあっという間に彼を撒く。今のヘルメスは完全に民衆に紛れきれるシルエットをしていないから見つかるのは時間の問題であるが、そんなことはヘルメスとて重々承知だ。重苦しい音を立てている足音、目立ちすぎる風貌にどうしてこんな!と嘆いたところでどうしようもない、とりあえずあの路地裏に戻るべきだとヘルメスはできうる範囲で走る。普段の機敏はほとんど発揮できないため、タヂカラオを完全に撒けてはいないが、この際関係あるものかとヘルメスは問題の一部を放り投げた。
そしてたどり着いたあの路地裏に、あの露天もなければ老婆もいない。煙のように消えた名さえ知らない老婆をどう探せばいいというのか、ヘルメスはゆっくりと追いついたタヂカラオの方を向いて、息を切らしている彼に「アステリズムに戻る」とホワイトボードで返事を返した。
◇◇◇
「なんともまあ、妙なことになったものだね……露天商をしている魔女の転光生か。話を聞くに、警察も以前からマークしている女性らしいね」
「無許可営業のうえに押し売りまでするからね。ヘルメス、お腹は空かない?」
【空かねえ】
「……ヘルメス、君、そのポーズはやめたほうがいいと思うよ」
【いいだろ別に、姿勢くらい】
「……なんだか、こんなゆるキャラどこかで見たことあるような気がするよ……」
「言わないであげなよ、タローマティ……まあカルキさんが買い出しに行っててよかったよ、」
椅子に深く腰掛け、俯いて。両手は足に、その姿はやさぐれたというべきか、拗ねているというべきか。タローマティはホワイトボードから零れるヘルメスの言葉は見ないフリをして「彼女には何も言わないから心配しなくていいよ」とだけ告げて、顔を上げたゆるいなんの生き物かわからないきぐるみの顔に苦笑いを返した。
シンヤが部屋に入っていたらといったため、ヘルメスは重たい腰を上げて空き部屋に行こうとして、その刹那響いた来店を告げるベルの音に振り向いて、そしてすぐに後悔した。店内に入ってそうそう大きな目を丸くした彼女は驚いて固まっていた、それはそうだ。アステリズムに胡乱なきぐるみがいたことなどない。
「シンヤ、新しい宣伝?」
「ええと、ううん。詳しいことは言えないけど、ちょっと、色々あってね」
シンヤの曖昧な言葉に首を捻る少女の注意をひきすぎないように、ヘルメスはそろりそろりと部屋ではなく、外につながるドアへ向かった。
「あ、ヘルメスは今日もいないの?」
「いないといえばいないし、いるといえばいる、かな……」
「なにそれ、禅問答?」
シンヤが彼女の気を逸らしているうちに、ヘルメスはドアにたどり着いた。ホワイトボードは置きっぱなしだが、それに構っている暇はない。
ドアのベルがならないようにヘルメスはドアを潜ると、また全力で走る。どこでもいい、彼女にこの醜態を知られたくないという一心で街路を駆ける胡乱なきぐるみを、道ゆく人は撮影していた。余裕を失って駆けることだけに懸命になっているヘルメスは気づかなかったのだ、足跡から恋文が飛んでゆくことに。きぐるみから転がる恋によく似たオーナメントやらぬいぐるみやらがこぼれ落ちていることに。そして、零れ落ち道に転がる恋の形と、宙を舞い、手にしようとすればかき消えるはずの恋文をしっかりと握って顔を真っ赤にしている、彼女を。
「ヘルメス! 待って!」
気がつかなかったから、ヘルメスは自分に追いついて普段より大きくふかふかの手を握った彼女にひどく混乱する。混乱は周辺に舞っては消える恋文をばらまき、大きな大きなハート型のクッションやらを生み出してらヘルメスと彼女だけ残して、世界は外界と隔絶して、突如きぐるみに発生した浮力が、二人を空へ導いた。
「ヘルメス、どうしたの、」
まるで太陽に向かっているかのように上へ上へ、引き寄せられる中、恋文を握りしめた彼女はヘルメスに問いを投げた。ちらりと見えた紙にはヘルメスが彼女に抱いる熱量と思いの丈が全て書かれていて、ヘルメスは頭に握られていない方の手を当てる。
「ヘルメス、私のこと——好き?」
ヘルメスは当たり前だろ、だから余計に合わせる顔がなかったんだよというようなことを吠えた気がする。けれどホワイトボードはアステリズムにあるから、伝わっていなかったような気もする。けれど彼女はヘルメスの頭部に腕を回しら体全体でヘルメスを抱きしめた。だいすきだよ、と羽耳と同じパーツに口づけが落とされて。
そして口づけをきっかけにしたように途端に重量に準じて落下してゆく二人の世界に、空に吸い込まれる恋文が変化した青空に咲く花火の祝砲が鳴り響く。ヘルメスは彼女に回した腕が自分自身のものになっていることに気がついて、空中で少し動いて、彼女を抱きすくめた。零れた恋心のクッションが二人をキャッチして、騒ぎを聞きつけた者たちがクッションの中へ入ってくる前に、ヘルメスは彼女の舌を奪って息を食い荒らす短い野蛮なキスをした。
とろけた黒い瞳を直視できず、ヘルメスが天を仰ぐと、空高く、誰の手も及ばないところに目を当てる。なにか箒に乗った人影が見えた気ぎしないでもないが、ヘルメスは彼女をより強く強く抱きしめると、彼女の体温だけを感じることを決め込んだ。甘い温度が互いの境界を曖昧にしてゆく。
もうどうにでもしてくれ、そういえたのかは、ヘルメスにもわからないままだった。