あの日々を想い、/あの日々を想う【卑弥呼と名無しの弟】
あたしね、そんなの悲しいよって思ったの。弟の名前も、人の形すら無くなっちゃうなんて。弟がいつかこの世から去ってしまっても、あたしがいつかひとりになっても、あたしは弟のぜんぶを覚えていたかったのに。なのに、あたしがぜんぶ奪っちゃったら、あたしは大切な弟の名前も形も忘れてしまうんだろうなって、わかってたから悲しかったの。
でもね、あの日、あの浜辺で、あたしは当たり前に亀の弟クンを弟クンってわかったのよね。亀なのに! いや、おかしいでしょって思ったけど! まあとにかく、あたしにとって弟クンは弟クンだったの。ずっとあたしの大切な弟で、ずっとあたしを助けてくれた弟。時が経っても、いつしか姿が変わっていっても、弟クンは昔から変わらない「あたしの弟」だった。だから、あたしは魂で弟クンをわかったんじゃないかなって思うの。
――うん。あたし、あの日々が嬉しかったんだなあって。あたしのせいで、悲しい事も苦しい事も起きてしまったけれど、それでもあたしは嬉しかった。あたしたちのせいいっぱい生きた日々が、ずっと先の未来の人々まで繋がってるんだってわかったこと。壱与とまたお話しできたこと。なんとか邪馬台国に光を戻せたこと。色んな子と出会えたこと。お醤油にハマグリがおいしかったこと。みんなで笑ってごはんを食べたこと。――そして、大切な弟とたくさん言葉を交わせたこと。あたしにぜんぶをくれた弟は、本当にあたしの最後まで一緒にいてくれたんだって、思い出せたこと。
たくさん楽しかったし、たくさん嬉しかったの。……ええ、ほんの少し寂しくて、でも、私は嬉しかったのです。
あの日々では、私の不甲斐なさゆえの悲しい事や苦しい事を目の当たりにしました。それでも、未来殿や信勝殿、皆さまのお力あって、女王『卑弥呼』は無事に責務を全うできました。私は姉上の女王としての道行きに、最後までお傍に在ると定めた者。だからこそ、どれだけ感謝しても足りないのです。せめて心からお礼申し上げます。姉上と邪馬台国を救ってくださり、本当にありがとうございました。
……忙しない日々でしたが、私はきっと、嬉しかったのですよ。まあそうですね、喋る亀には自分ながら驚きましたけれど。とはいえ、慣れればそれなりに快適には過ごせておりましたから、別に問題は無かったですよ。それで、亀の私は皆さまとお話して、近い未来でも遠い未来でも、多くの人々に多くの苦悩があるのだと知りました。でも、私の知らない未来の学び、誰かを犠牲にしなくて済むかもしれない知識の積み重ね、そういった希望の光が、私たちのせいいっぱい生きた日々の先には繋がっていたのだと、想像もできなかった未来の一端を垣間見れて、私は嬉しかった。……それから、かつてのように空の下で無邪気に笑う姉上を見られて、嬉しかった。
――ええ、私は嬉しかったのです。姉上が皆さまと巡り会えたことも、姉上が初めての味に驚き喜んでいたことも、姉上が皆さまと楽しそうに食事していたことも、私にとってはなによりも嬉しかった。そうして、姉上と浜辺を共に歩けたことも、姉上とありきたりなやり取りを交わせたことも、姉上と想いを伝え合えたことも、私にとっては宝物となるひとときでした。
楽しかった。嬉しかった。私はたくさんのかけがえのない思い出をいただきました。だから私は、未来殿のこれからに、皆さまの一時の夢に、姉上のささやかな報酬のような日々に、どうか幸あれと、寂しさなど欠片もなく、微睡みのなかで祈るのです。