取るに足らない【名無しの弟】
「―――もし、そこの
若人よ。そのように倒れて、何があったのですか」
朦朧とした頭に、聞き覚えのない声が響いた。
老いた男性の、しかし凛と澄んだ声であった。
賑わいから外れた人目に付かない隅の
陰。日の光すら届かぬ暗がりの地べたに倒れ伏す俺の方へ、足早に迷いなき足音が近づいてくる。俺が返答を何とか考える前に、すぐ側まで来ていたらしい人間のしゃがむ気配がした。
「……よかった。まだ手遅れではありませんね。……ふむ、外傷はなく、発熱も……。そちらの御仁、この若人が安静に休める場所をご存知でしょうか?」
ひどく重い体をどうにか動かし、這い
蹲ったまま顔を上げる。声の主の見知らぬ老人が膝をつき、そこらにいた人間に状況を確認していた。老人の煌びやかな首飾りが目に毒で顔を顰める。小さく貧しい我が国の風景には不釣り合いな代物だった。
老人の背後から複数の慌てた声が飛んできた。関わるべきではないと主張する者らは、老人の名らしきものを呼んで老人の無遠慮を咎める。
「……ですが、私はこの御仁を放ってはおけません。皆は先に、用意していただいた建物で休んでください。我らは邪馬台国女王の託宣により身の安全を保障されております。危惧される事態には至らないでしょう」
俺は奴らのやり取りで、老人の正体を理解した。瞬間、失いかけていた意識が急速に怒りで再起する。
邪馬台国―――女王卑弥呼が託宣により民を惑わし、雨すら思いのままに降らし、意に沿わぬ国には天罰を下し、絶大な力により多くの小国を纏め上げた強く豊かな国。かの国の影響力は恐ろしいほどに凄まじく、此度はついに我が国も邪馬台国にまつろう事となってしまった。
邪馬台国を治める女王卑弥呼は、神殿の外には滅多に姿を現さないらしい。ゆえに、女王に唯一謁見し、女王の使者として各地へ赴き、女王の託宣を人々に伝達する役目の人間がいるという。
その極めて珍しい形で邪馬台国の
政に携わる人間の名こそが、見知らぬ老人の名であった。
「女王の託宣はこの国の流行り病の存在を無いものと確約しております。然らばこの若人が伏せる原因は
流行り病とは異なる所以です。そして斯様な状態ならば、介抱が間に合えば
生命の光を取り戻せるはずです。……ご心配なく、日の出と共にこの国を発つ我らの予定は変わりなく問題ありません」
老人は凛と揺るがぬ声で
若人を助けると宣言した。だが、俺はこのまま放置されてしまえば命も危ういかもしれないとわかっていてなお、手を差し伸べる老人に煮えたぎる怒りを覚えた。
住む世界の異なる人間。日常に潜む死に覚える夜はない、悠々と生きていける恵まれた人間。
この老人は邪馬台国という強国の後ろ盾があるから、そのように憐れみを振り撒けるのだ。いくら人目に付かない場所で力尽きてしまったと言えど、我が国の民すら俺を遠巻きにするだけで助けようと近づきもしない理由を、察せないわけでもあるまいに。他人に、よりによって憎き邪馬台国の人間に弱みを見せ、醜態を晒すなど以ての外。こいつに情けを掛けられるくらいなら、此処でくたばった方がマシだ。
俺は腹立たしい老人を下から睨みつけた。地べたに這い蹲る俺を、しゃがみ込んだ老人が見下ろしている。ああ、何もかも、まったくもって苛立たしい。
「―――おい、おまえ。助けは、不要だ。俺に嚙み殺されたくなければ、とっとと失せろ」
煮えたぎる怒りは、満足に動けない体だろうと俺の口を動かす。
「おまえの名は知っているぞ。女王卑弥呼の使い走り。俺は誰にも助けを求めていない。なのに邪馬台国は浅慮な判断で手を出すのか。噂に違わぬ傲慢な国だな」
潰れて濁った声の立場を考えぬ物言いに、しかし肝心の老人は少しも意に介さずに、
「はい、その女王の使い走りが弱っている民を認識しておいて放置した、などと悪評を広められては
邪馬台国が困ります。ですから、私に貴方を此処で転がしておく理由はありません。ひとまずは貴方の家を教えてください。そちらまで運びますので」
などと、ごもっとものようでちっとも理屈に合わぬ建前を堂々と言い放った。ふざけるな、と唾を吐く前に俺の体は老人に担がれていた。ゴリ押しの行動に呆気に取られ反応が遅れ、我に返り、
「おい! 助けは不要だと言っただろ! 人の話を聞け、老いぼれが!」
重い体で必死にばたばたと暴れようとする。けれど大した抵抗にはならず、徐々にずるずると引き摺られてしまう。この老人が見かけによらずとんでもない力持ちなのではなく、単純に俺が非常に衰弱しているせいだ。こうなれば喚くしか拒絶する手段はない。
「俺は邪馬台国の施しなんぞは絶対に受けないぞ! さっさと放せ!」
「左様でございますか。私が邪馬台国の人間だから、貴方は私に助けられたくない、と……」
すると老人は担がれた俺にしか聞こえないであろう小さな声で、
「―――ならば、今この時の私は邪馬台国女王の使い走りではなく、通りすがりのただの『名無しの爺』でよろしい。さあ、これで文句はありませんな」
それまでの凛々しさが嘘のようにやわらかな声で、そっと、ふわりと微笑んだ。
その微笑みに、俺は動揺のあまり抵抗する力が根こそぎ抜けてしまった。そこにいたのは凛とした立派で偉大な人間ではなく、平凡で凡庸なただの人であった。
◇◇◇
我が家を久方ぶりに狭く感じた。
俺の家に辿り着いた老人は、体の自由の利かない俺を寝かせ、淀みない動きで介抱に取り掛かった。他人の世話を焼く側にとても手慣れているらしく、ごちゃごちゃと農具や調理道具が乱雑する住まいを気にもしない。
老人曰く、過去、邪馬台国でも俺と同じ容態で倒れた者がいたらしい。もしや老人の極めて身近な人間が患ったのではと想像してしまうほどにやたら詳細な状況説明を並べ、「色々と原因は考えられますが、ようは貴方は頑張り過ぎでしょうな」と述べた。
さらに老人曰く、以前倒れた者は充分な養生により無事に元通りの体調に回復したという。「だから、過度な不安には囚われないように」と笑いかけられ、「ですが斯様に衰弱した体では、より重い病に抵抗する
術もなくなってしまいますぞ」と注意された。今後、しばらくは避けた方が良い食べ物とできれば食べた方が良い食べ物を教わり、体を非常に重く感じる時は無理をし過ぎずに人々の力を借りるようにと諭され、「とくに睡眠を怠り続けると、心身の不調が蓄積され、致命的に生命が危うい状態になりかねません。貴方の為を想って、しっかりと眠って己を休めてください」と言いつけられる。そんな簡単な事で治るものかと突っぱねようとして、そんな簡単な事を独りになって長らくおざなりにしていたと思い出した。まだ深刻な容態ではない、これなら一晩でぐっと良くなる、これから気力を取り戻せると諭され、心の底から安堵した。直後、態度で情けない内心がばれないように険しい顔を作り、虚勢を張った。隠し通せたと信じたい。
……つまるところ、老人ははじめから俺の体が一晩で上向くだろうと予想できていたらしかった。予定外で俺に構って一晩を無駄に過ごしても、日の出と共にこの国を発つ予定には影響がない。託宣で流行り病ではないと知っていた事も含めて、一切の根拠なく手を差し伸べたわけではなかったらしい。今更、知識と経験の差に国としての力の差をひしひしと感じ、だからといって怒りの火はもはや燃え上がらずに萎えていて、何も言えずに押し黙るしかなかった。
老人は「衰弱により今は食欲が低下気味の様子ですが、こちらなら少量でも充分に体の力になるはず」と手持ちの食べ物を、気付けとして酒を俺に差し出した。邪馬台国の使者として各地を往来する為に持ち歩いているのであろうそれらは、老人にとっても貴重なものであるだろうに、惜しむ素振りもなかった。
俺がこの期に及んで無償の施しに抵抗を示すと、老人は「ふむ」と何やら深刻な顔で思案する素振りを見せ、こちらへ差し出したはずの食べ物を一口齧り、気付けの酒も一口運び、「うん、おいしい」と頬を緩め、「貴方もどうぞ」と再び俺に差し出してきた。行動の意図がさっぱりわからず思考を巡らせ、沈黙が落ち、ややあって「毒入りを疑われたと判断したのでは」と考えついた後に「もしや、味を不安に思っていると勘違いしたのでは」と思い当たる。そういう事ではないのだが。
老人の振る舞いは、何というか、ほのぼのとし過ぎて、ただのそこらの人過ぎて、よくわからないままに心配になってきた。これがこいつの素なのか、これでよく今までやってこられたな、と呆れるしかない。警戒するのも反発するのも阿呆らしくなってしまった。
せめて形だけでも反抗したいと、差し出された食べ物や酒を乱暴に掴み取り、わざと嫌がっている風に見せかけて飲み食いしてやった。ところが老人は気分を害する様子もなく、にこにこと俺を眺めているだけだった。空回りを身に染みて虚しくなった。正直味は残念だったが黙っておいた。
何とも言えない微妙な気分に視線を彷徨わせる。と、老人の身に着けていたはずの煌びやかな首飾りが座する老人の側に置かれていた。いつの間にか外していたらしい。俺の視線に気づいたのか、老人は「こちらは外交で頂いた貴重な品物」で「私には不釣り合いな一品」で「似合わないし、動きにくいし、あまり身に着けたくはない」と溢し、けれど「斯様な品を身に着けておかねば、私のような人間が邪馬台国の女王の使者だとはなかなか信じてもらえないのです」と苦笑した。それはまあ、そうなるだろうな。
今この時は『邪馬台国の使者』ではなく『通りすがりの名無しの爺』として在るのだから、邪魔な首飾りは外しておいた、という事らしい。炉の揺らめく火に照らされる顔が、ひどく老け込んで見えた。
ほんの少量でも食べて飲んだ俺は言いつけ通り休む為に仰向けに臥せた。あとは眠るだけだ。ここしばらくは夜遅くになっても起きていたせいか、眠気の訪れはまだまだ遠そうだが。とにかくこれでようやく『名無しの爺』も気が済んだはずだ、せいせいする、と思いきや老人はまだまだ居座った。仰向けに臥せる俺の側に座す老人は、ぽつぽつと独り言のように、炉のぱちぱちと鳴る火の音もあまり消せない小さな声で、何処にでも転がっていそうなありきたりな思い出話を語り始めた。そうして語られる家族―――『姉上』とは、老人にとって最も大切な
存在なのだろうと、これまで以上にやさしくやわらかな声色を聞きながらぼんやりと思った。老いでしゃがれた声が、狭い家に染みわたる。この家で独りきりでない時を過ごすのは随分と久方ぶりだった。
訥々と語られる独り言はまるで子守歌のようで、俺の心はもうすっかり凪いでいた。
老人につられて、俺もいつしかぽつりぽつりと独り言を溢していた。そう、独り言。誰かに言い聞かせる
体も成していない独り言だ。例えば、ついぞ独りきりで過ごす空間になったこの家のこと。かつては共に暮らしていた
弟妹のこと。俺が我が国の面々に疎まれていること。俺が率先して国を発展させようと動くたびにますます疎まれ
嫌厭されること。
「……だが、どれだけ疎まれようとも構うものか。俺は、この国を強く豊かにすると決意したのだから」
独り言はいつしか、俺の根幹の灯火まで語っていた。そうだ、地べたで弱り果て死ぬなんてそれこそ以ての外だった。何の為に今まで努力してきたのか。「こいつに情けを掛けられるくらいなら、此処でくたばった方がマシだ」などという意固地はただの自棄だった。俺の最も大切なもの―――すなわち俺の命を放り出すくらいなら、いっそ弱ったフリをして向けられた憐れみを骨の髄まで利用してやる気概でいればよかった。
だとすれば、俺がこんな頼りない老人に介抱される現状も決して悪い選択ではなかった、いや、最善だったと言えるであろう。
「……それは……」
老人が小さく、呻いた。これまでずっと愚かしいほどにあたたかで穏やかな眼差しで俺の独り言を見守っていたのに、いつの間にか表情に翳りが差している。何か気に掛かることでもあったのか。
老人は何度か口ごもり、「貴方は……」と、ようやく意味のある言葉を絞り出す。
「国を強く豊かにする……。それは、『この国の人々の
願望』でしょうか。貴方は『この国の人々の為』に、強く豊かな国造りに尽力したい、と?」
「はあ? 何を言っている。『俺の
野望』に決まっているだろう! 俺は『俺の為』に、国を強く豊かにするのだ!」
今すぐ胸倉を掴んで怒鳴ってやりたかった。が、俺に起き上がる力はなく寝たまま叫んでいた。拳だけ力む俺は間抜けに見えるであろうか。此処には俺と間抜けなこいつしかいないのだから知った事ではないはずだ、と言い聞かせる。
「そもそも、この俺を顧みない
人々の為だけに誰が尽力するものか。俺が惨めなままで終わりたくないから、その為に国を強く豊かにするのだ。一切のすべてが、俺の為だ!」
生まれは誰しも選べない。弱い国に生まれた人間は否応なく貧しくただ生きてただ死ぬ。―――そんな一生は俺が納得できない。死んでも死にきれないに違いない。弟妹の呆気ない死を看取った時、俺はそのように
心火の燃える様を自覚したのだ。
幸いかどうかは微妙ではあるが、我が国は食料含めて財産は乏しく奪い合えるほどもなく、ゆえに身分差はそこまで生じておらず、国の指導者は生まれよりも優秀さと頑健さで選ばれていた。この国で最も警戒すべき危機は他国から攻め込まれること。それも邪馬台国に纏め上げられると決まった以上、この国を攻めるという事は邪馬台国を敵に回すという事なのだから、安易に攻め込む国はいなくなる。だからこそ、親を失い、弟妹も失い、財産は無く、特別な繋がりも無い独りの俺にでも好機がある、と捉える。
今はまだ、味方は誰一人いない孤独な身の上ではある。しかしながら、強国から貪欲に学び、農業の生産性を、生活道具の利便性を、建造物の安全性を向上させ、人々に俺の優秀さを知らしめれば、輝かしい未来は啓かれる。俺なら理想の国造りができる。語りは次第に熱を帯びていた。
「日夜研鑽を積み、努力を国に反映し、強く豊かな国を作ってみせる。それこそが俺の定めた道……って、おい、何を笑っている!」
気付くと老人は曇った表情が薄れ、今度は笑い出していた。というか、その強国である邪馬台国の政に関わる人間に対して喧嘩を売る持論を展開していたと今更思い至る。まあ、この老人の前でへりくだる意味も無いだろう。ただの『名無しの爺』だと本人が言い張ったのだから。
老人は笑い過ぎたのか、目に浮かんでいた涙を拭った。
「はは……。いえ、失礼いたしました。その、何と言えばいいのか……」
「はっ、俺には無理だと言いたいのか? 俺のような若造は滑稽に見えるか? 俺では、おまえのようにはなれないと?」
本気で失礼だと不満をぶつけたつもりであったが、大人の言い分に拗ねる幼子の声色になってしまった。この老人の前ではどうにも調子が取り戻せないでいる。
「いや、それは誤解ですぞ。滑稽だなんてとんでもない。私は、貴方の在り様が眩しく見えたのです」
力んだ拳に、そっと皴だらけの手が添われた。か細い指から伝わる、か細くもあたたかな人のぬくもり。随分と久方ぶりの他人の体温。それだけで、俺の勢いは何処へやら、言葉は委縮して形にならなくなってしまう。
「貴方は貴方自身の心を、しかとはじめから理解しているのですな」
俺が俺自身の心を理解している―――そんな事は当たり前であろう。何を言ってるんだこいつは。
「……私は、はじまりに私の最も大切な
ひとを差し出してしまった。その行為の意味を考慮すらせず、私は私の
願望の為に走り出した。けれど、もうどうにもならない処に行き着いて、ようやく、あれは人々の
願望であって、私の
望みではなかったのだと、思い知った。ようやっと、理解した」
不思議に思う俺に老人は語る。俺は思考が整理できぬまま告白を聞いている。
「でも、貴方は違う。貴方にとって最も大切なものも、貴方の目指す理想がどのような
想いで成り立っているのかも、はじめから充分に理解している」
老人は何処か悲痛を堪える面持ちで、それでも日向のように綻んだ。
「だから、きっと大丈夫。貴方は上手く走れるでしょう。……私なんかよりも、ずっとね」
◇◇◇
目覚めると老人の姿はなかった。
あいつは俺が寝入った頃合いに
家を去ったのだろう。微睡みの最中で感じた手のひらを包んでくれるぬくもりは、とうに俺から搔き消えていた。なんてことはない、いつもの朝の肌寒さだ。ただ、ほんの少し、いつもより寂しく思ってしまっただけで。
奇妙な感傷が嫌になり、起き上がって
頭を振る。一晩で体の調子は大分良くなっていた。老人の介抱と食べ物に酒、それから随分と久方ぶりに深く穏やかな眠りで休めたおかげだと思う。認めたくはないが。
寂しさを誤魔化せずに寒々しい家の中をぼんやり眺めていた。と、老人の座していた場所で何かが煌めいた。拾って確認すると、それは老人の身に着けていた首飾りであった。この国ではお目に掛かれない大変貴重な品を、あいつはあろうことか忘れていってしまったらしい。なんとも情けない、間抜けな爺だ。あの老人にはちっとも似合わない不釣り合いな代物だが、失くしたとなれば当然慌てているだろう。俺は知らずの内に笑っていた。
「この国には今後も訪れる予定がありますので、そのときに貴方の努力の成果を教えてくださいな。そうですな、雪の降り始める頃には。……『女王の使い走り』の私ではなく、『名無しの爺』の私にならば、貴方も気兼ねなくお話しできるでしょう?」
昨夜、老人はそう微笑んで、誰の得にもならない約束を持ちかけた。俺は気の進まない
体を装って了承した。二人だけの秘密の約束だ。
まあ、「また訪れる」とあいつが言ったのだから、この忘れ物も預かっておいてやろう。面倒だが仕方がない。
その後、老人がいつ訪れても良いように、いつでも成果を自慢できるようにと、俺は俺の
野望の為に尽力し、働き、懸命に生きた。人々の信頼を得る目的で、人々が困っていればすぐに力を貸した。味方もできた。地位も順当に高くなっていった。
別にとくに深い意味は無いが、遠出して獲った貝の珍しい珠を、あいつに見せびらかしてやろうと丁重に保管する事もあった。『名無しの爺』の存在と、彼と交わした再会の約束は、俺を希望に向けて生かし、頭を働かせ、足を動かせる活力となっていた。
ところが―――
◇◇◇
―――ところが。
幾度日が沈み、雪がしんしんと降り、寒さが自然に遠のき、雪解けと暖かな日差しを迎えても、あの老人は姿を現さなかった。邪馬台国から何度かやって来た集団の中に、あの老人はいなかったのだ。再会への期待はいつしか不安に変じ、やがてふつふつと煮えたぎる怒りに変わり果てた。
あいつめ、所詮は口だけだったか。通りすがりに気まぐれで偽善を振りまいた老いぼれを、浅はかに信用した俺が愚かだった。
現実をようやく理解した俺は、あいつの忘れ物も大切に保管しておいた貝の珠も他の見せてやりたかった品々もすべて廃棄した。他の人間に見せればより良い品や食料と交換できたかもしれないが、俺以外の人間にあいつの忘れ物やあいつに贈る予定だった珠を見せるなんて、想像するだけで無性に腹立たしかったのだ。
あんなやつ、さっさと忘れてやる。
果たされなかった約束ごと、あの忌々しい老人なんて忘れてしまえと、俺は憤り、そうして――――――
◇◇◇
そうしたら、
若人は本当に
忘れてしまった。
取るに足らない話。
名も形も残らなかった話。
―――ほんとうに、そうなってしまった話。
だから、それでおしまい。