雨が降っている【卑弥呼と名無しの弟】
――雨が降っている。
ふと、ざあざあという雨の音に気づきました。きっと、外では大雨が降っているのでしょう。
もしかすると、これからさらに雨脚が強くなるかもしれません。そのような予兆を感じさせる雨音でした。
此処は薄暗く閑静で、民の賑わいも届かず、ひたすら雨音だけがあって、
――それでようやく、私は今まで眠っていたのだと思い至りました。
「……?」
私は背を下にして寝かされていました。けれど、どうして眠っていたのか、とんと身に覚えがありませんでした。
ぼんやりとしていた意識が急速に醒めつつありました。衣服越しに伝わる冷え冷えとした感触と、日差しを遮る天井のせいで薄暗い視界により、此処は邪馬台国女王の神殿内であり、女王の祈る神殿の奥だと判断できました。
……そうでした。私はたしか
女王に伝達があって、その為に神殿へひとりで向かって、それで、……それで?
とにかく私は体を起こそうとして、
「え?」
体が、うまく動かせないことに気が付きました。
せいいっぱい力を込めて、ようやくぎこちなく動かせたのは首と手指程度、たったそれだけでした。寝かされた体勢から、身を起こすこともままならず、私は呆然としました。
「なんで」という戸惑いと、「なんとかしなければ」という焦りと、「もしかして」という推測が、私の心をじわじわと染め上げていきました。
「――」
混乱の最中、すぐ近くでそっと、誰かの声が聞こえました。遅れて、私の名を呼ばれたのだと思い当たりました。
「……目覚められましたか」
「……姉上?」
私のお側には、邪馬台国初代女王、すなわち姉上が座しておりました。
どうやら、私が認識できていなかっただけで、姉上は私の目覚める前からすぐ近くにいたようでした。此処は神殿の奥なのですから、女王たる姉上がいることは不思議ではありません。
問題は、何故私がここで眠っていたのかということでした。
「貴方は日中、突然意識を失ったらしく、神殿で倒れていたのです」
姉上は私に答えをくれました。
けれど、私はすぐにその意味を理解できませんでした。
「皆に知られる前に私が見つけましたので、私の独断で、貴方を此処で休ませていました」
姉上のやさしい声が、私の知りたくなかった真実を告げます。
「……貴方の体に、病や呪いの類は見受けられませんでした。貴方の倒れた原因は、私が祓えるものではないのでしょう」
日の光すら届かない
神殿奥は日中でも薄暗いものの、今はさらに暗く、まるで闇に包まれているかのようでした。そして、ふるりと肌寒さも感じました。
おそらく今この時は、日が沈み始めた夕べの頃なのでしょう。
日が昇っていた頃、姉上は倒れていた私を発見したとのことです。その間、私は意識を失っていたことになります。
「……そう、でしたか」
知らぬ間に倒れていたと知って、私は驚きながらも、「ああ、やはりそうだったのか」とあっさり納得してしまいました。
誰に言われずとも理解できてしまいました。姉上も察していたのでしょう。私が倒れた原因は、病のせいでもなく、呪いのせいでもない。
これは、「老い」のせいによる結末なのです。
人ならぬ力を持つ姉上は、私と違っていつまでも老いることなく、女王として微笑んでいました。
しかし、水面に映る私の顔は、年々皴が増えていました。手指はわかりやすく枯れ木のように瘦せ細り、衣服で覆う体からは肉の部位が日に日に減って、骨と皮だけの肢体に近づいていました。
もうとっくにわかっておりました。私の体は、すでに限界を通り過ぎていたのです。
それでも、まだ支障はないはずと、まだやれるはずと言いくるめて、毎朝悲鳴をあげる軋みを騙し騙しで働かせて、無理を承知で走ってきた体でした。
そうです。私という人間は、虚勢を張って、外面だけでも誤魔化して、どれだけ本質が矮小でも、邪馬台国女王の補佐役に値する、優れたヒトの振りをして、姉上のお傍でお助けできるよう、姉弟で助け合えるようにと、取り返しのつかない過ちによる自責の念にかられながら、誰にも溢してはならないと戒めた悔恨を隠しながらも、これまで必死に走ってきた、中身はとっくにぼろぼろな、「ただの人」でしか在りませんでした。
けれど、どれだけ偽ってきても、ヒトが避けられぬ「老い」に嘘は通用せず、私の体は呆気なく終わろうとしていました。
でも、とっくにわかっていたことでした。目を背けていただけのことでした。
これが、「ただの人」でしかない、私の限界。
私は、私が信じたいほどには、強くは在れなかったのです。
「……」
……ああ、それでも、まだ。
私の体が骨と皮だけになってしまっても、いっそ朽ちてしまってもいいから、私は走り続けたかった。
姉上を女王の道行きに定めた私自身が、姉上よりも先にこの世から去るなど、私が赦したくはなかった。
現状を正しく理解できた次に、私の思考を襲った感情は、現状に対するどうにもならない焦りと恐怖でした。
「――いやはや、己の不調を見抜けなかったとはお恥ずかしい。姉上には、とんだご迷惑をおかけしてしまいましたな」
だから、私は笑いました。重く、鈍くなった体をすこしでも動かして、まだ足搔きたくて、笑う事しかできませんでした。
「女王を補佐する役目の私が、逆に女王に世話をされてしまうなど、民に知られてはとんだ恥さらしになっていたでしょう」
沈黙を恐れました。ここで人の声が途絶えてしまえば、どうにもならない「人の死」という当たり前の終わりを受け入れてしまいそうで、それに思考を支配されないように、ひたすら喋り続けることしかできませんでした。
「此度は姉上以外に不手際を目撃されず助かりました。ははは、星辰の巡り合わせにも感謝すべきでしょうな」
――雨が、ざあざあと降っている。
無情な雨音に負けたくなくて、気が狂いたくなくて、必死に声を出しました。
だって、私がここで動けなくなってしまえば、私は姉上をお助けできなくなってしまいます。
「ああ、民草も不安にさせてしまっているのかもしれませんな。私の伝達する託宣を待っているでしょうから」
姉上はお側に居られたままでしたが、先ほどから沈黙が続いていました。黄昏時の
神殿奥はどんどん暗くなってきて、姉上のお顔をうまく拝見できず、こんな処に私は姉上を押し込んだのだと、いつもの後悔が責め立てました。
姉上が今どのような想いでお側に居られるかもわからず、姉上を慮ろうとする気持ちすら焦燥に塗りつぶされ、現実を認めたくなくて、
「それから、かの集落で起きたという揉め事の仲裁に赴かねばなりません。ご安心ください、従者の言伝によれば些細な規模のいざこざでしたから、姉上のお力なくとも治められるでしょう」
もはや何の意味もなさない事を口走って、軽々しく笑おうとしました。
――雨が、ざあざあと降っている。
降り続ける雨の音で潰されないように、場違いでも明るく大きな声を張り上げようとしましたが、実際には掠れた頼りない声しか出せませんでした。
みっともなくとも強がって、みじめでも抗って、こんなのなんでもありませんよと、笑い飛ばしたかったのに。
「だから、……だから、早く、私は動かないと、」
私がやらねばならぬ事はたくさんあるのです。私がやらねばならぬ事に終わりはないのです。
「……ええ、あとすこしばかり休めば、元の体調に戻れるでしょう。ここ数日は眠りが浅かったのです。それだけですから。……だから、私はまだ、」
だから、私はまだ、動かねばならぬのに。
……どうして、私の体は、動いてはくれないのだろうか。
――雨が、ざあざあと降っている。
降り続ける大雨の勢いは、ますます激しくなっていたようでした。まるで建物も地も人も殴りつけるかのような、荒々しい雨でした。このような大雨が続いてしまえば、川から水が溢れてしまうかもしれません。今の内に、近辺の民を避難させねばなりません。
そうして、雨に気を逸らされてしまい、私の言の葉は途切れていました。
訪れてしまった静寂を恐れて、焦りをどうにもできずに、私はまた強がろうとします。
「そういえば、昨夜は食事を摂れていなかったのです。いえ、姉上の託宣のお力もあって、今年は食物に困らず乗り越えられそうなのですが、私の食欲がなくて、それで」
なんとか笑おうとしましたが、私の強張った顔はもう笑えてすらいないのだと、今更悟りました。私の体は、どこまでも私を裏切っていきました。
姉上はもう何も話してくれません。闇の深い視界では、お側に居る気配しかわかりません。姉上が何を想っているのか、私にはやはり想像できませんでした。
私の虚勢など、姉上にはおそらく見透かされているのでしょう。わかっていて、それでも、私は必死で取り繕おうとしました。
だって、私は姉上あるかぎり、姉上のお傍でお助けしたいのです。
『みんなが幸せならそれでいいでしょ』
あの日、
民の幸せの為に姉上自身の幸せを捨てると微笑んだ姉上。寂しさを残しながらも女王で在り続ける意思を捨てなかった姉上。だからこそ私は、姉上の為に、そして私自身の為に、「姉弟は助け合うべきもの」と言い張って、私のすべてを姉上に捧げると決めたのです。
姉上の太陽のような笑顔を、やさしい笑顔へと変えてしまったことも。
姉上を神殿の奥に押し込め、ただただ託宣の為だけに生かされるモノとして祀り上げてしまったことも。
姉上を、邪馬台国の為の人柱として捧げておいて、人々の為にこれで良かったのだと思っていたことも。
これまでずっと尽きなかった悔恨は、今この時も当然に私を詰りました。
それでも、だからこそ、私は這いつくばってでも生きてきたのです。しかし、此度ばかりはもう立ち向かえず、私の意志は為す術なく蹂躙されようとしていました。
「…………それで、……」
姉上から、お日様のようなヒトからお日様を奪ってしまった私が、のうのうと姉上から去るなど、そんなことはあってはならないはずなのに。
どうして、私の体は、動いてはくれないのだろうか?
――雨が、ざあざあと降っている。
意識を取り戻して以降、雨はいつまでもいつまでも降り続け、私の体はいまだに鈍く重く、ここがおまえの限界なのだと、おまえのおしまいなのだと、幾度も体は、心すら、私がどれだけ拒んでも、私の意志を踏み躙ろうと嘲笑いました。
それでも私は、皆に心優しい姉上をこれ以上悲しませたくなくて、
「姉上、私は、」
大丈夫ですよ、と。
どうか心配なさらないで、と笑おうとして、
「――申し訳ありません」
それは、不本意に洩れてしまった本心でした。ずっと心に留めておくつもりの悔恨でした。決してお伝えしてはならない懺悔でした。今更そんなものを告白しても、姉上が困るだけだと、わかっていたはずなのに。
先ほどまで根拠もなく強がっていた私の意志は、私の体と心と現実によって、無様にへし折られてしまったようでした。
「申し訳ありません……」
後悔して、後悔して、後悔して、ひとつ手のひらからこぼれ落ちるたびに後悔して、また後悔して、なにもかも晴れる日は二度と迎えられずとも、姉上のお傍でお助けし続けると、最後まで姉上と共に征くのだと、魂に誓ったはずでした。
しかし、もうどうやっても直らないひび割れからは、何処にも行き場のなかった懺悔が溢れてきて、
「申し訳ありません、姉上」
一度堰を切ってしまった想いは、私のもののはずなのに、私では止められなくなっていました。
「申し訳ありません」
いつの間にか、私の目元には涙が浮かんでいました。そのような我儘でしかない悲嘆など、今は押しとどめておくべきでした。ましてや、姉上の前でなど。姉上を神殿に閉じ込め、祀り上げ、人柱へと追いやった罪人には、到底あってはならない、赦されてはならない行いでした。
それでも、次から次へと零れてきて、
「姉上、私は」
けれども、私の弱りきった声では、激しい雨の音にかき消されて、姉上の耳元には、
――ああ、雨が止まない。
風はなく、雷もなく、ただひたすら雨だけが激しく、邪馬台国という強く豊かな国を、姉上を捧げた国を裁くかのように、神殿ごと私に下る天罰のごとく、轟轟と、いつまでもいつまでも降り続けていました。
それで、――雨の音が。
――雨が止まないから、いつまでも酷い雨音が響いて、――だから。
「――」
姉上のお声が、うまく聞き取れなくて。
――雨が止まないから。
私は聞き返すこともできなくて、
――雨が止まないから。
いちばんお伝えしたかった
想いも、かたちにできなくて。
――雨が止まないから。
「――」
姉上はすぐお側にいるはずなのに、
――雨が止まないから。
どうして私にはきこえないのか。
――雨が止まないから。
姉上がまだ此処にいるのに、
――雨が止まないから、
どうして私はお傍にいられなくなってしまうのか。
――雨が止まなくて、
「――」
申し訳ありません姉上、
――雨が降っている。
申し訳ありません姉上、
――雨が降っている。
私のせいで姉上はこのように、
――雨が降っている。
申し訳ありません姉上、
――雨が降っている。
姉上、
――雨が降っている。
どうされたのですか。
――雨が降っている。
姉上、
――雨が降っている。
なにかあったのですか。
――雨が降っている。
姉上、
――雨が降っている。
かすんでいく、
――雨が降っている。
姉上、
――雨が降っている。
姉上、どうか、
――――雨が、