あの日の光、いつかのどんぐり、今この時の眩いあなた【卑弥呼と名無しの弟と壱与】
「さあ壱与ちゃん! 食べたがってた『どんぐり』、弟が持って来てくれたわよ!」
邪馬台国女王の神殿、その最奥。暗がりの空間で、暗がりが嘘のような、卑弥呼様の朗らかで快活な声が響き渡り、
「お待たせいたしました、壱与様。遅くなりましたが、お食事のひと時といたしましょう」
卑弥呼様の弟様の穏やかで優しい声が、染み入るように広がりました。
壱与はそんなお二人への返答をすぐさま言葉には出来ず、代わりに、ふっと邪馬台国に来てから今日までの数日間が頭をよぎりました。
◇◇◇
数日前、私は卑弥呼様に導かれて邪馬台国の住人となりました。
しかし、その後のとある出来事のせいか、なかなか食べものを満足に受け付けられずにいました。
暗闇に支配されし石室に幽閉されていた私は、卑弥呼様と弟様に体の具合をひどく心配されました。狗奴国は食べものの種類が乏しく、また、人の身に獣の魂を塗り込む狗奴の呪法の為にも、私は長く獣の肉しか与えられておりませんでした。その肉すら嫌気が差して少量しか口に運べなかった状態でしたから、なおさら体が衰弱していたようでした。
「平気ですよ。私はどれだけ食べものを摂取しても体に肉が付きにくい体質なのです。貧相に見えるだけです」
「そうは言ってもやはり心配ですぞ。弱っているお体でも受け付けやすい食事を用意いたしますから、どうかご養生くださいな」
遠慮する私を卑弥呼様も弟様も大層心配されて、あれこれと食事に手を尽くして下さいました。
私は数日過ごして、邪馬台国は狗奴国より様々な食料の調達の手段を確立されているのだと理解しました。狗奴国のように食料が全体的に不足している様子はなく、なるほどまさに強く豊かな国と言えるでしょう。とはいえ、お米という比較的安定した食料があっても、それだけで住人すべては養えないようです。だから、お米だけではなく魚、貝、果物、木の実、茸、そして様々な動物のお肉も、邪馬台国で貴重な食料なのだと、弟様が教えてくださいました。
しかし、そのような豊富な種類で拵えた食事をあれこれ用意されてなお、私はわずかしか口にできなかったのです。試しに食事の環境を変えてみても―――例えば誰かに見られながらではなくひとりで食事したり、狗奴国での境遇に近い暗がりの場所で食事したりと工夫してみても、良い効果は得られませんでした。それこそ、狗奴国の石室で過ごしていた頃の方が食べられた量は多いという容態でした。
数日経過しても私の食は細く、体は日に日に痩せ衰えて一向に回復せず、じわじわと衰弱していました。
―――そして、昨夜のこと。
私はどうにも寝付けず、暗がりに包まれた静かな神殿を何の目的もなく独りでぼんやりと歩いていました。遠い昔ならば月光の下でひとり、踊りを楽しむ夜もありました。しかし、今や夜すら体も気力も萎えたままで、かといって満足に休めもせずに、肩を落としてひたひたと、何処にも還れない怨霊の如く、未だ馴染めぬ神殿を彷徨っていました。
……それで私は、卑弥呼様と弟様の話し込む声を耳にしてしまったのです。
「壱与様は、狗奴国に居た頃よりも食べられる量が減っていると教えて下さったのですな。ならば小食は元々の体質ではない、と。それに、姉上から見て病や呪いの類の証はとくに見つけられなかったと……」
「ええ。体そのものに問題はないのよ。……壱与ちゃん、
邪馬台国の食べものに慣れなくて体が受け付けない、のかしら……」
「たしかに、
邪馬台国で用意できる食事がお体に合わないのかもしれませんが……。心の問題も、あるのかもしれません」
「心の問題……」
「生活環境も食べものも急に変わってしまったのですから、どうしても心に負担がかかりましょうぞ。せめて壱与様に馴染み深く相性の良い食事が用意できれば、そちらをお出しするのですが……」
「……だけど壱与ちゃん、お肉は……」
「…………」
「…………」
私は心配して下さるお二人に何も声を掛けられず、そろそろと寝所に戻るしかありませんでした。
のろのろと寝床に独りで横たわり、でもやっぱり眠りは迎えられず、何もできない私の頭に、お二人と共に過ごした数日間が浮かび上がります。
……狗奴国で祖の獣の贄たる私に与えられた食べものは獣の肉ばかり。しかし、仮に卑弥呼様たちが同じお肉を用意できたとしても、私がそれを受け付けられないだろうことを、お二人はご存知でした。
あれは、私が邪馬台国に来た次の日の出来事でした。豪勢な食事が卑弥呼様に運ばれたとき、偶然近くに控えていた私は食事の一品のお肉の微かな匂いに嘔吐いてしまったのです。卑弥呼様と弟様は慌てて私を介抱して下さいましたが、私は情けなく意識を失った後、まともに喋れるまで半日もかかってしまいました。不甲斐なさと申し訳なさで恥知らずに涙まで流してしまいました。
おそらく、狗奴国の獣の肉と卑弥呼様にお出しされたお肉では獣の種類が異なるのでしょう。もはや体に沁み込んでしまった獣の匂いとは別の匂いだと、あの一瞬で私は体感したのですから。
だけど、いえ、だからこそ。あの出来事以降、お肉だけではなくあらゆる食べものを拒否してしまう私は、まだ邪馬台国に体が馴染めずにおりました。
体だけではなく、心も。
……私はあの日、石室に差した光によって、青空の下に歩み出せたと思い込んでおりました。けれども、私の心はまだ
邪馬台国には在らず、
光には馴染めず、あの昏い石室の暗闇に未だ囚われているかのようでした。
「なんでこうなんだろう、私……」
私に用意された寝所には私しか存在しません。唇から零れた失意は、必然、私の耳だけに届きます。
……
邪馬台国に来てからのたった数日で、私はあたたかな光の在り方に触れてしまいました。
―――あの出会いの日、卑弥呼様は笑顔で私に手を差し伸べ、暗闇の石室から青空の下へ私を連れ出してくださいました。
そして、私を邪馬台国に連れて行き、私すら呪うしかない体質を信じて下さいました。
『あたしは壱与ちゃんを弟子にするって決めたのです。そのなんか凄い力、持ち腐れなんてもったいないわよ!』
『卑弥呼様、壱与は呪われた忌み子なのです。卑弥呼様の御力とは天と地の差の隔たりがあるのです。ですから、』
『『卑弥呼様』じゃなくて『卑弥呼さん』とかでいいわよ。あたし、正直様付けされるほど立派な人間でもないし。ね!』
『で、でも卑弥呼様、』
『さあさあ、まずはおいしいごはんをしっかり食べて、体をたくさん動かして、お日様の光をいっぱい浴びたら、夜はゆっくり眠りましょう。しおしお壱与ちゃんがぴかぴか壱与ちゃんになるまでは、過酷な弟子特訓はお預けということでで!』
『しおしお壱与ちゃん……?? あっ、待って下さい卑弥呼様!』
ぐいぐいと私を引っ張っていく卑弥呼様は、私の想像よりもはるかに滅茶苦茶な御方でした。同時に、私の幸せも皆の幸せも心から祈られる女王卑弥呼様は、私の想像よりもずっとずっとお優しい御方でした。
―――卑弥呼様の弟様は、卑弥呼様に連れられた私に最初は驚いたものの、子供の私と視線を合わせ、微笑んで私を受け入れて下さいました。
はじめ、卑弥呼様からあの人を―――ごく普通の御老人を『あたしの弟』だと紹介された際は、お若い卑弥呼様との外見の差に驚き、事実だとは信じられませんでした。いっそ、姉弟ではなく卑弥呼様のお祖父様と紹介された方が、余程納得できたでしょう。
さらに、破天荒な卑弥呼様とは真逆で、物腰柔らかなあの人を、当初は『卑弥呼様の弟様』とは受け入れられませんでした。
卑弥呼様は、『あたしの弟』は神殿に引き籠る女王卑弥呼の代わりに、女王であり巫女の託宣をあちこちに伝え回るお仕事を務めているのだとお教えくださいました。つまるところこの人は邪馬台国でそれなりの立ち位置なのだと察した私は、邪馬台国に迎えられて当日に弟様がおひとりでいらっしゃるところを見計らって、二人だけでお話しする機会を得ました。
『私は狗奴国の其の獣の巫女。卑弥呼様はそんなの関係ないなどとおっしゃいました。しかしやはり壱与は災厄を呼ぶ巫女なのです。致命的な綻びを招く前に、適切な対処をお願いしたいのです』
『……誠に申し訳ありませんが、貴方に何もかもをすぐにご用意することは難しいでしょうな』
『はい。承知しております。滅びの巫女たる私の処遇は―――』
『まずは食事で栄養を摂取して、体を適度に動かして、お日様の光を程よく浴びたら、夜は十分に眠りましょう。諸々の話はそれからですぞ』
『はい? あの、そういう意味ではなくて……』
『私は姉上より少々忙しい身ゆえに貴方に付きっきりにはなれません。ですが、貴方を無茶に巻き込んだ姉上の弟として、私も貴方の道行きをお手伝いしたく思うのです。……どうかよろしくお願いしますね、壱与様』
けれど穏やかで思慮深く、卑弥呼様から深い信頼を得る者にふさわしいあの人は、あたたかに微笑んで私を受け入れて下さった弟様は、疑いようもなく『卑弥呼様の弟様』でありました。
……そう。
邪馬台国に来てからのたった数日で、私は卑弥呼様も弟様もとてもお優しい方々だと、理解してしまったのです。
だから、あんなに優しい人たちを、困らせたくなんてなかったのに。
私は、どうして。
怒りが、横たえた体の内側に轟くだけで発散できない怒りが、寝床の敷物にぎりりと爪を立たせました。何の意味もない行為では、何の意味も成せません。
「なんで私、こうなんだろうな……」
あの人たちが私を疎んでなどいない事実はわかっています。心配しても、迷惑だとは考えない。そういう人たちだから。
でも、私が私に耐えきれない。あの人たちに心配をかけてしまう
壱与に耐えきれない。
「なんで私、
暗闇から出てきちゃったのかな……」
私が、光に憧れて暗闇から出てきてしまったから。
私のせいで、あの人たちは困ってしまう。
私のせいで。
「なんで私、此処に来ちゃったのかな……」
堪えきれず洩れてしまう黒き呟きは、暗き夜の何処にも行けず、横たえる私にわだかまるだけ。
あの日の光に見出した希望が、嘘のよう。
あの光に手を伸ばされて、あの光に手を伸ばして、私は手を取ったと思っていた。なんと愚かだったのでしょうか。
忌み子の両手に、光なんて残るはずもない。
わずか数日前の、あの日の希望すら失せてしまったのかもしれない私の行動なんて、正しいはずがなかったのです。
「なんで、私……」
―――壱与の卑弥呼様との出会いも、壱与があたたかな光を求めてしまったことも、すべて間違いだったのではないでしょうか。
―――壱与は光届かぬあの石室に、独りで永遠に
蹲っていれば良かったのではないでしょうか。
想念は暗く昏く、私は
常夜の巫女を詰り、呪い、呪われ、呪い続けて、
……その日、私は寝床に体を投げ出すだけで一睡もできず、
邪馬台国に来たことをひたすら後悔し、心は明けぬまま夜を越しました。
◇◇◇
そして、暗き夜から日が昇り始めた、今朝のこと。
「壱与ちゃん、何か食べたいものある?」
卑弥呼様は何の脈絡もなく、私にそのように尋ねてきました。
あまりにも自然に尋ねられたものですから、そのとき咄嗟に、何も考えてない返事が私の口からぽろっと零れて、
「―――どんぐり……」
かくして、卑弥呼様は弟様に、弟様は女王仕えの方々にお伝えくださって、私に『どんぐり』で拵えた食事が用意されたのです。
◇◇◇
そうして―――朝から時は少し流れ、神殿奥にかすかに差す日の光がほんの少し強くなってきた頃。
座る私の目の前に、平らな器が一つ置かれました。その器には、丸くて平らな形をした土色の何かがいくつか控えめに載っておりました。これらが主に大量の『どんぐり』を加工して捏ねて焼き上げた食べものなのだと、卑弥呼様の弟様から説明を受けました。
「こちらは幾許か日保ちするものとして生成しておりまして、かなり硬い食べものなのです。粥などに比べると、弱ったお体には受け付けづらいでしょう」
弟様は『どんぐり』の食べもの入りの器を挟んで、私の前方で弟様らしく穏やかに座しておられました。「食べて喉が乾いたときは、こっちを飲んでくださいな」と、液体の入った器もお出しくださいました。
「で、これは
邪馬台国で作ってる『どんぐり』の食べものだから、外からやって来た壱与ちゃんには味の好みが合わないかもしれないのよ。加工の仕方もぜんぜん違うかもしれないし。そのときは遠慮なく『やっぱ無理です』って言ってね?」
卑弥呼様は私のすぐ傍に座られ、卑弥呼様らしく朗らかに喋ります。
お二人の振る舞いは、昨日までと別段変わってはいません。しかし、昨夜の悩まれるお二人を知ってしまった私は、仄暗い後ろめたさを抱きました。
私の様子に何か察するものがあったのか、
「ああ、お気遣いなく。今年の『どんぐり』の貯蔵分には余裕があるのですよ。ですから、女王がご所望だと民に言伝すれば、ただちに生成済みのこれらを用意してもらえましたぞ」
「ふふーん、これが女王特権ってやつよ、壱与ちゃん。いやー、女王になって良かったわね、あたし!」
「わざわざドヤらないでください姉上。さ、どうか壱与様のお好きなように。ただし、無理はなさらずにお気を付けくださいませ」
合間を縫って私に手間をかけて下さった弟様は、そう言って穏やかに微笑んでくれました。
逡巡する私の横から卑弥呼様の手が伸び―――食べものに指が届く寸前で、ぺしりと弟様にその手の甲を
叩かれました。
「こーら。建前では女王のものでも、これは壱与様の為に用意をお願いしたものですからな。まずは壱与様に食べられるかどうか試してもらわねばなりませぬぞ」
「ちぇー」
これは
壱与の分ですよと、そのやさしい現実をどうしてか直視できなくて、私はまだ手を伸ばせない。あの日の光からもう一度と、二度目に手を伸ばせず、躊躇ってしまう。
祖の獣の巫女。祖の獣の依り代。狗奴国の発展の為の生贄。私の
利用価値はもう其処にしかないと、それが必然なのだと言い聞かせていたはずなのに。
光にいていいのだと、当たり前に笑い掛けられる奇跡が、救われる心地に掴まれて―――何より優しさを信じきれなくて、何より恐ろしくて怯えてしまう。胸を締め付ける痛みが、私を苛む。
……どうして。
どうして、私は
光を信じられずにいるのでしょうか。
私が心から捨てきれないでいるからでしょうか。狗奴国を、狗奴の民を、呪術師であり師でもあったクコチヒコを、死んでいった両親を、病んでいった集落の人々を、滅びの巫女である私の暗澹たる
人生を。
「……壱与様、お辛いのでしたら、他を……」
「―――いいえ。この壱与が、しかと頂きます」
それでも、卑弥呼様たちの優しさに応えたくて。意を決して、その食べものにおずおずと手を伸ばしました。
片方の手指で掴んだ『どんぐり』の食べものは、見た目通りの硬くざらざらとした手触りを伝えてきました。苦手なお肉の匂いもしません。ただ、何か、心の端で違和感が引っ掛かりました。
とにかく私は勇気を振り絞って、卑弥呼様と弟様に見守られるなか、えいっと食べものを一口齧りました。
硬く、粉っぽい舌ざわりと、ややしょっぱくてほんのり甘い気もする味が口内に広がり、
「……おいしい」
お肉よりおいしくて。
お肉より食べやすくて。
お肉より、私はこれが好き―――好きなはず、だった。
「あれ……?」
私は、これを覚えていなかった。
狗奴国と邪馬台国では味付けも加工の仕方も違うかもしれない、と卑弥呼様たちは懸念されました。
だけど、これを覚えていないとは、そういう意味ではなく。いえ、それすらも。直前に引っ掛かった違和感の正体は。
かつて食べたものと何が同じだったのか。何が違っていたのか。
懐かしさなど何処にも無く、私には、もうわからない。
そう、つまり。
『どんぐり』が好きだと言っておきながら、『どんぐり』をどうやって加工して食べていたのかも、『どんぐり』をどういうときに好きだと感じたのかも、私はすっかり忘れてしまっていて―――、
……その『気づき』に愕然としてしまった私の瞳からは、ぽろぽろと大粒の涙が溢れ始めてしまいました。
「えっ!? もしかして苦かった!?」
「壱与様、残りは他の御仁に食べてもらえばいいのです。改めて別の食べものを用意しますから」
一口食べて動きを止め、ついには泣き出してしまった私に、お二人は慌てて声を掛けて下さいました。私は「ちがうのです」と必死に言葉を象ろうとするも、次から次へ溢れ出る涙によって喋る邪魔をされてしまいます。
「……壱与ちゃん、」
すると、お傍にいた卑弥呼様が、私の肩をそっとやさしく抱いて下さいました。貧相な私の体はあっさり卑弥呼様のお体に収まり、よしよしと頭を撫でられて、私の涙はあたたかさにますますぽろぽろと零れ、卑弥呼様のお膝に落ちていきます。
そのやさしさもあたたかさも、私が長く知らずにいたものでした。あるいは、『どんぐり』と同じく、とっくの昔に忘れ去ってしまったものしれません。
私は卑弥呼様に縋り、わんわんと泣き続けました。卑弥呼様も弟様も、泣きじゃくる私が落ち着くまでただただ穏やかに待ってくれました。
やがて、卑弥呼様の胸元ですんすんと涙が落ち着いてきた頃に、私はようやっとまともに言葉を発せるようになりました。
「卑弥呼様、私……」
「うん」
「『どんぐり』が、好きだったんです。そのはずだったんです。でも、」
「うん」
「でも、私、忘れてしまっていて。なんで好きだったのかも、どういうときに好きだと思ったのかも、もう、ちゃんと思い出せなくて、」
「うん……」
「壱与の中に、気持ちは残ってなくて。何も無くて。失くしてしまったことが悲しくて、忘れてしまったことも、悲しいのです……」
「……そっか」
だから。だから―――、
「だから、もう私、『どんぐり』だけではなくて、あの日の光も、忘れてしまったのかもって、私―――」
瞬間、私は卑弥呼様にさらに深く抱きしめられました。全てを包み込むかのような大きく、やさしく、あたたかな光に包まれて、ますます喪失を恋しく想い、また涙が頬を伝いました。
「忘れてないよ。失くしてもない」
卑弥呼様のやさしい声が、私にやさしく語り掛けます。
「ここにいる壱与ちゃんの中に、ちゃんとぜんぶ在るわよ」
「だって、何も覚えてないのです。もう、何も持ってないのです」
空っぽなのだと悲しむ私に、卑弥呼様は微笑んで、
「壱与ちゃんが、いつかに忘れたくないと願ったなら。いつかにおいしいなあって思ったのなら。いま、失くしてしまったと悲しむくらい、大事にしたかったという気持ちがあるなら。それは、ちゃんと壱与ちゃんの体と心に在るってことだもの」
……やさしい声は、じんわりと私の体と心に染み入り、私そのものをあたためていく。
「いつかのある日そのままの感情を取り戻せなくたって、いつの日か思い出がほとんど薄れたって、名や形すら何処にも残らなくたって。……ぜんぶ、ここにいる壱与ちゃんを形作る、かけがえのない
光なんだから」
あの日の
感情が取り戻せなくても。
いつの日か思い出を忘れてしまっても。
両手に、形あるものは何一つ残らなかったとしても。
私が、かつて忘れたくないと思えたのなら。ふと何気なく嬉しいと笑えたのなら。喪失に嘆くほど大事にしたいものだったのかも、しれないのなら。
私の中で、ほんとうにかつてそれらが在ったのだと、今も在るのだと、確信できるなら―――。
「…………卑弥呼様、」
「なあに?」
「卑弥呼様……、卑弥呼さん、弟さん。あの、」
卑弥呼様は慈愛に満ちたお顔で、弟様は穏やかなお顔で、口ごもる私の言葉を待って下さいました。そして、
「お二人も、一緒にこの『どんぐり』を食べませんか? 久しぶりに、どなたかと食事を共にしたいのです」
途端、卑弥呼様はぱあっと、一転して太陽のような輝かしいお顔で、
「そうよね、ごはんは独りで食べるよりも、誰かと一緒に食べた方がおいしいものね! つまりあたしも食べていい。ねえ、そうよね? 弟もそう思うでしょう?」
「……然様ですな。その方が、ずっといい」
片や、私たちのやり取りを長く見守って下さった弟様は、一瞬、言の葉とは裏腹に曇った鏡のようなお顔をされて。
「そ、その、私なんかと無理にとは言いません。 ほら、おいしい食べものはひとり占めよりも分かち合えたらといいますか……!」
「お誘いありがとうございます、壱与様。では、私もご一緒してよろしいですかな?」
「……はい!」
◇◇◇
「……卑弥呼さん、弟さん。私、今度はお米というものを食べてみたいです」
三人でのどかな食事を終えた頃に、私は新たな希望をお伝えしました。
「以前、邪馬台国から流れてきて……、一度、たくさんのお水でふやふやにしたものを食べた覚えがあります。また食べてみたいです」
―――
滅びの巫女が此処にいる現実を正しいなんて、本当は思えないけれど。
「他にも、食べてみたいもの、教えてほしい味があります。……それから、」
―――『生まれてきて良かった』なんて、とても心からは思えないけれど。
「それから、まだまだたくさん……たくさんの色々なことを、私に、教えてくださいませんか?」
―――それでも、笑いたかった。頬を伝った涙の痕をすべては拭えなくとも、このひと時を、暗闇などではなく青空の下だと、明るくあたたかな時にしたいと決めたから。
間違っているかもしれなくても、私がそうしたかった。
何かを捨ててきたのではなく。忘れ去ることはできなくて、忘れてしまったものすら、私は抱えたままだけれど。
それでも、この重荷を背負いながら、この人たちと光へ歩いて行きたいと強く願うのです。
あの日、昏い石室に差した光を、私は手放したくはなくて。あのときの希望の光は、いつか私が真に信じられなくなったとしても、私の中に在るのですから。
かくして、私のはじめてかもしれない我儘に、卑弥呼様と弟様は顔を見合わせて、
そして、
「よしきた! あたしに任せて、壱与!」
私に向けて眩く笑う
光を、今この時の私は、忘れたくないと誓ったのです。
―――それはきっと、とても素敵なこと。