遠く昨日のような光/暗闇【卑弥呼と名無しの弟と壱与】
壱与が卑弥呼に邪馬台国へ連れて来られてから、少し経ったとある日のこと。
壱与にとっては何でもない日のはずの、唐突な提案から始まった。
「姉上、今から日暮れの頃合いまでは外出できますぞ」
邪馬台国女王の神殿―――その最奥の暗がりにて、壱与に鬼道を教えていた卑弥呼へ、卑弥呼の弟はそのように伝えた。
首を傾げる壱与に対して、卑弥呼の反応は凄まじく素早かった。彼が言の葉を口にした瞬間にがばりと立ち上がり、女王としての豪奢な衣を無造作にぽいと脱ぎ捨て、あっという間に別の部屋へぱたぱたと駆けていく。
一方の壱与は一体何のことかと戸惑うばかりだ。
「卑弥呼さん、今日は何か予定があったのですか?」
「ううん、でも今できたの! お忍びのお出かけの予定がね!」
すぐに戻ってきた卑弥呼は何やら色々なモノを抱えていた。そして弟から包みを受けとると、上機嫌に抱えていたモノを「ごはんよし!」「鏡よし!」「お忍び用の衣よし!」とぎゅうぎゅうに詰めていく。
「ええと、どういうことでしょうか……?」
「ずっと前にね、何度かこっそり神殿奥をお忍びで抜け出す日を弟と決めておいたらね、当日土砂降りばっかりで全部のお出かけが中止になっちゃったの。ほら、あたし雨女だから」
卑弥呼は普段より浮かれた様子で、手を止めぬまま壱与に説明し始める。
卑弥呼は外に出ようとすると何故か大雨が降ってしまう特異な体質だった。とくに、これと決めておいた大切な日時は大雨になりやすく、狗奴国との決戦の日すら例外なく土砂降りであった。壱与は邪馬台国に―――卑弥呼と弟に迎えられてから日はそこまで経ってないものの、『楽しみにすればするほど雨が降る』卑弥呼の雨女っぷりは十分に身に染みていた。
「でね、あたしと弟は『だったら前々からお忍びお出かけを計画するんじゃなくて、急にお忍びするぞって決めてその日中に出かけちゃおう!』って考えになったの。とはいえ誰かに発見されずに神殿から出るのも一苦労でね。だから、弟があたしに内緒でこっそりお忍びお出かけの予定を計画して、あたしはお出かけ予定の当日にいきなり弟から教えてもらう作戦になってるのです。―――例えば、今日みたいにね!」
壱与は「ははあ……」と、ようやく状況を頭で整理できた。
卑弥呼の弟は神殿から出ない卑弥呼の代わりに、直接卑弥呼と言葉を交わし、卑弥呼の託宣を皆に伝えるという唯一無二の役目を務めている。ようは最も女王の在処を知っているはずの人物であり、しばしば民に指示を出す務めも担う彼ならば、皆の隙を見計らって女王の御留守に気づかれないひと時を作る企てもなんとか可能、ということらしい。
「それでは壱与様、姉上の監視も兼ねたお世話係をお願いできますかな」
「えっ⁉ わ、私ですかっ?」
卑弥呼の弟に声を掛けられて、他人事だと思って卑弥呼を眺めていた壱与は素っ頓狂な声を上げてしまった。てっきり、卑弥呼のお出かけに自分は関係ないと思い込んでいたのだ。
「もうご存知の通り姉上は誠に奇天烈なおひと。ですから、何か困ったことを仕出かさないようにどなたかに見張っておいてもらえると大変助かるのです。ほら、私はもしもに備えて神殿奥に残りますからな」
「は、はい……」
「壱与様。姉上を、よろしくお願いします」
壱与は彼から穏やかに微笑まれ、そっと荷を手渡された。
受け取った荷を見やると、そこには既に準備されていたであろう、お忍びのお出かけに相応しそうなあれこれ。はじめから、彼は建前を述べて壱与も卑弥呼と一緒に外へ送り出すつもりだったらしい。
それでも、壱与は渡された荷の内の瑞々しい果実を、触ることすら躊躇してしまった。
「さあ姉上、早くしないとお出かけの前に雨が降ってきますぞ」
「ちゃんとわかってるわよ、……よーし、準備完了!」
まだまごつく壱与の手は、卑弥呼に何の衒いもなく握られる。
「壱与ちゃんと一緒のお外ならいつもよりもっと楽しいわね。さ、行きましょ!」
あたたかな卑弥呼にふさわしいあたたかな手のひらに、そしてあたたかな陽の光の笑顔に、壱与は固まってしまった。
―――だって、光が、あまりにも暗闇には眩しすぎるから。
「日暮れまでにはちゃんと戻ってくるわね~」
「はいはい、お気をつけて。あまり壱与様を困らせてはなりませんぞ、姉上」
「卑弥呼さん、あの、私……」
壱与は形容できない想いを口にしようとする―――が、今度は華奢な片腕をがしっと卑弥呼に掴まれぎょっとした。
「卑弥呼さん? これは」
そのままとんでもない怪力でずるずると何処かへ引き摺られていく。あたたかな手のひらとか感じてる場合ではなかった。
「卑弥呼さん?? そっちは出入口では……」
「普通に出入りする場所はたくさん人がいるし、ながーい階段降りなきゃいけないからすぐ見咎められちゃうわよ。お忍びの時はこっちこっち」
なるほど、ぐるりと大勢の兵に囲われている神殿出入口や長い階段をこっそり通れるはずはない。となると、他の方法で卑弥呼は神殿奥から抜け出すつもりらしい。
「帰りは別のところから入るんだけどね。行きならこっちの方が早いの」
卑弥呼と引き摺られる壱与、そして弟は当然のごとく壁の隙間からあっさり屋外に出た。ついさっきまで暗い神殿奥に引きこもっていた壱与は、突然に外の明るさを浴びて思わず目をぎゅっと瞑ってしまう。
遅れて瞼をおそるおそる開くと、中天には煌めくお日様。青い空には少しだけ薄い雲が散らばっている。ささやかな風が頬を撫でていく。ありきたりな、されど壱与と卑弥呼にとっては滅多に視界に広がることはない外の風景。遠く、木々や家々がとてもとても小さく見えて―――、
なんと今この足場には階段はなく、城柵すらなく、神殿は高い建物ゆえに地上はとても遠く、数歩踏み出れば地面に真っ逆さまな場所で―――、
「いやあのこれもしかしなくても卑弥呼さんここから飛び降りるつもりで」
「壱与ちゃん、危ないから口閉じててね。舌嚙んじゃうわよ?」
壱与の細い身体は卑弥呼にがっしりと抱えられてしまった。もう逃げられない。咄嗟に助けを呼ぼうと卑弥呼の弟を見ればにこにこの笑顔で頷かれてしまう。これもはじめから織り込み済みだったらしい。無茶苦茶すぎる。
「大丈夫大丈夫、真下には誰もいないから!」
「そういう問題じゃなくてですね⁉ 卑弥呼さん私これ無理―――」
「それじゃあ、行ってきまーす‼」
直後、卑弥呼はとびきりの笑顔で軽やかに宙へ跳ね―――壱与は言葉にならない悲鳴と卑弥呼と共に遠い遠い地面へと情けも容赦も一切なく落ちていった。
◇◇◇
さて、と卑弥呼の弟は下を覗き込む。遠く、小さく、無事に着地したらしい卑弥呼が駆けていく姿と、彼女を追いかける壱与の姿が確認できた。
その眺めで、彼は空の下で元気に体を伸ばし笑う卑弥呼と、戸惑いながらも卑弥呼の後ろにくっ付いて笑う壱与を想像できた。
それはとても微笑ましい光景。彼はまるで日向に目を細めるかのような眼差しで、口元は自然に緩やかな弧を描いていた。
卑弥呼に近い境遇の少女、壱与のおかげなのだろう。彼は、卑弥呼の本来の太陽のような笑顔は、壱与を迎えてから再びよく見られるようになったと実感していた。壱与本人も当初は怯えや恐れが強く見受けられたものの、今や卑弥呼を慕い、すっかり懐いている。きっと、あの二人はこれからも上手くやっていけるだろう。
やがて、二人は弟からは一切見えなくなった。けれど日暮れの頃には、また暗く静かな神殿奥に戻ってくる。何故なら、卑弥呼は―――彼の姉は、『みんなの幸せ』の為に女王をやり遂げるのだから。
彼の笑みはすっと消えた。
「……いっそ、戻ってこなくてもいいのにね」
なんて、彼以外は誰も望んでいない願いを独りごちる。
―――さあ、私は私のやるべきことを為そう。あの二人がわずかなひと時だけでも何の気兼ねもなく楽しく在れる為に、次もこのようなささやかな機会を用意する為に。
彼は独り、暗く静かな他には誰もいない神殿の奥へと戻った。卑弥呼の雑に脱ぎ捨てられた女王の衣を丁重に拾い、壱与の隅に遠慮げに置かれた見習い巫女の道具と共に、今だけでも、彼独りしか知らず、誰の目にも届かない暗闇へと仕舞いこんだ。