賑やかにこの
家の妻女らに囲まれて歩き慣れた廊下を通り、床の景色も見覚えた座敷に通された冨岡の目に屋敷の主の長身が映る。
開け放った障子から手に留まらせた鳥を空に放って振り向くと男は言った。
「よう。今日も調子は良さそうだな」
婿も混じってのかしましい歓迎が過ぎ、女たちが厨へ去って冨岡は目的を思い出した。
「そうだ、これを預かったんだ」
「炭治郎が、寄れなくて悪いがお前と奥方に届けてくれないかと」
「この頃あの辺りで作っているらしい」
「すまないと良く言っておいてくれと念を押された」
「いいじゃねえか。ありがとよ」
礼を言ってそれを受け取った宇髄はさも残念そうにこぼした。
「あーあ、竈門は敵前逃亡かー」
「久々にじっくりきっちりもてなしてやろうと思ったのに残念だわ」
冨岡が笑いながら言う。
「事情はわかる」
「ここに寄るとなかなか帰れなくなるからな」
「忙しい日は諸刃の刃だ」
「帰したくないのは俺だけじゃねえからなあ」
部屋の外へ顎をしゃくって宇髄は言った。
「あいつらは二長町行きも取りやめでお前らを待ち侘びていたらしいぜ」
「それは申し訳なかった」
そう話す二人の脇を湯気の上がる白木の桶を抱えた須磨がぱたぱたと小走りに過ぎる。
ちょっと足を止めて良人と客を眺めると、にっと笑って女は言った。
「そりゃ市村座は観たいですけど」
「冨岡さんも同じくらい目の保養になりますからねっ!」
パン!と音を立てて宇髄は須磨の尻を叩いた。
「きゃ!」
「ようしよく言った!須磨」
また急ぎ足で廊下を行く須磨が振り返って言う。
「お刺身!いいのがありますよ!」
「精付けて今夜も励むぞ」
「もう!天元様!」
きゃっきゃと笑う声が奥へと消えていった。
見送りに出た玄関先で冨岡は家主に暇を告げる。
日も高いうちからいい塩梅に聞し召した男らの顔はしかし平生とそう変わりなく見えた。
言ってもまだ夕刻である。
闇がここいらを満たすまでには今少し時があろうか。
「今日も馳走になったな。有難い」
「いいって事よ」
「奥方たちの料理の腕前は凄いものだ。毎日当たり前にこんな食事をしているとは贅沢なことだ」
「主に雛鶴の腕前だけどな」
ははと笑ってそれから出し抜けに宇髄は言った。
「毎度家のもんに飯を
拵えてもらいてぇと思うか?」
「ん、」
冨岡は少し不意を突かれた顔をし、だがそう間を置かず言を返す。
「うちの賄も悪くないが?」
「ふうん」
眼帯に隠された顔から残った一つの目がそう答えた男の底を読むように顔を浚った。
赫い、扇だ。
こちらも来たか。
冨岡の顔に笑みがこぼれた。
怪訝な顔をして宇髄が冨岡の顔を覗き込む。
「何笑ってんだ?」
「…いや」
「流石
夫婦だと思って」
「相変わらず訳のわかんねえ奴だな」
「こんな俺に心を配ってくれて礼を言う」
今度は宇髄が不意を突かれた顔で押し黙った。青い瞳が口を結んだその顔を見上げて言った。
「まきをさんにも聞かれたが」
「どう生きて、死ぬか。先など思ったことがなかった」
「今まで、な」
すっと遠くを見る目をした男に宇髄は裏も表もない口調で応じる。
「知ってるな」
「死ぬことは
大事じゃねえ」
「目をつぶるみてぇに簡単な事だ」
そう、その通りだ。
守って、守られて。
死も生も紙一重で、今ここにあることは唯々偶然の因果にすぎない。
冨岡もまた裏も表もない口調で言葉を返した。
「
自分はな」
それからそっと言葉を添える。
「だが、送った方は?」
「それだけではあるまい、恐らく」
その正直な男の真っ直ぐなかおに宇髄は脈が打つような心の疼きを覚えた。
そうだよ。だけどな。
「わからねぇよ、俺も」
「だがまさに恐らくだ」
「良く、生きた」
「それで全部だ」
「死は生を凌駕しねえ。皆そうだっただろ」
俺は誰に向かって言葉を投げてる?
己の目の奥に染み付いたその血と断末魔の悲鳴を忘れることなどけしてないだろうが。
自分が送った穢れのこびり付いた手だ。それでも。
「そうと思わなきゃ、
と、奥の間から言い争う声が男たちの耳に聞こえてくる。
そのにぎやかな声はじきにさざめくような笑い声に変わっていった。
そこで宇髄は一つ目を瞑り、ふっと笑って今一度違う言葉を唇に乗せた。
「今は、そう思う」
「俺にはあいつらが道だ。嫌でも吹っ掛けてきやがる」
「無理矢理な」
いつか。
去ったものが手に帰ってくるだろう。
同じ血が流れる体を持ち、真っ新な目を開いて。笑って。
「じき俺の子を抱かしてやるよ、お前に」
手に提げた通い徳利を宇髄はどんと冨岡の胸に押し付けた。
「ほら持ってけ」
「酒、詰めといたからよ」
「いや、俺はもう…」
「不死川にも飲ましてやれ」
今度こそ冨岡は完全に虚を突かれた顔をし、それからふうと息を吐いた。
「今からか」
「もう日も落ちる」
「何、構わねえさ」
「知ってんだろ、あいつの宵っ張り」
またさらりと答えに困るようなことをいう男だ。
「しかし…」
「もう虹丸が触れてある。肴も届けた」
嫌も応もないな。冨岡は心で苦笑した。きっとあの男も苦笑いしているだろう。
「お前の酒は美味いが今日はこれにしとけ」
「きっといい目が見れる」
いい目?そうだろうか。
懐に落ちない顔をした冨岡に、宇髄はにんまりと笑って見せた。
「で、何だよまきを」
道をゆく男の背が角を曲がって見えなくなってすぐ、宇髄は後ろの気配に声を掛けた。
ちょっと口を尖らせた派手な髪色の女が半分空いた玄関戸から頭を覗かせる。
それから敷居を跨ぐと珍しくもじもじと宇髄の近くに寄った。
「…だって天元様」
「天元様、ほんとはお二人にも」
「聞こえねえ!」
がばっとまきをを懐に抱き込んだ宇髄は大声でがなった。
「うわ!?」
「お前なあ!お前はいっつも白黒つけたがる」
「女伊達にゃあちっとばかし可愛すぎるな」
耳を噛んで囁きながら八つ口に右手を突っ込み、女房の豊かな乳房を宇髄は巧みに揉んだ。
「やる気でたか?」
「…すぐごまかすんだから」
ぽっと赤味の差した頬、しかしむくれたままの顔のまきををひょいと肩に担ぐと宇髄は笑う。
「正直なとこなんだよ、どっちも」
「だから困る」
陽が落ちて足の覚えた道を過ぎ、その館の玄関で顔を合わせた時には果たして互いの何とも言えぬ表情を二人してそこに見た。
その顔のまま玄関に立った不死川が三和土へ下りながら言う。
「まァ上がれ」
「うん」
持たされた提げ徳利を冨岡は不死川に手渡した。
その紐を手に、草履を引っ掛けた白い髪の男は戸を開けて闇を窺う。
何事もないのを確認し終えると不死川は後ろ手に戸を閉めた。
その戸に錠が掛けられることは終ぞない。今も、かつても。
いやもとい、今では年の半ばが鍵の内だった、主が家を空けるいつかの日々には。
草履を脱ぎ、後ろを歩く不死川を背に冨岡はうす暗い明かりの灯る廊下へ足を運んだ。
「酒くせェ」
少し後ろを歩みながら不死川は言う。
「そこまででもない」
「いいもん持たせて寄越すとか鴉が言ってたが」
「これのことか」
廊下に立ったままで冨岡は右の袂から何かを掴みだした。
薄い布巾に包んだごつごつとした塊りが、右に挟んで左手で解いた風呂敷の中から現れた。
「なんだこりゃァ」
「山葵の根だ」
「見場が奇天烈だな。鬼の魔羅かと思ったぜ」
「見たことがあるのか」
「ねェ」
「俺もだ」
「おろす道具はあるか」
そう聞いた冨岡に水屋の棚をあらためながら不死川が答える。
「鬼おろししか見あたらねぇな。大根の」
「さすが風柱の館だ」
冨岡は笑った。
「宇髄のうちには鮫の皮だとか云うおろしがあったぞ」
「あいつァ口が奢ってやがるからなァ」
「雛鶴さんが言うには坊主の頭を撫でるようにやわやわと擂るんだそうだ」
「坊主の頭なんざ撫でたこたァねぇ」
「俺もだ」
人研ぎの流しの脇には濡れた布巾の被せられた中ぶりの皿があった。
「冨岡ニハタント食ワシテヤルカラソレハオ前ガ食エエ」と鴉に告げられた魚。
手伝いが下ろして一切れは夕餉に串で炙り半身の残りは刺身、あとは家に持たせてやった。
その刺身は皿に広げられいまだ瑞々しさを失ってはいない。
冨岡は出されたまな板に流した山葵を置いた。
「なら細かく刻むか」
「その方が俺ら向きだなァ」
「皮だけ剥いてくれないか。俺が叩く」
「皮、剥くのかァ?」
「よくわからないが」
重しになりそうな砥石に目をつけて冨岡は言った。
棚から包丁を取り下ろしつつ不死川が応じる。
「二度手間だ、俺がやる」
「みじんにすりゃァいいんだろ」
不死川は包丁を右手に取るともう片手に山葵の根を握った。
すぐに小気味よい音が響きまな板からつんと鼻を衝く青臭い匂いが立ち上がる。
刻んだものをざっと不死川は手塩皿に落とした。
「確かにお前向きだ」
冨岡はまた笑った。
まな板と刃を水で流すと不死川は布巾できっちりと水気を拭き、包丁を棚に戻した。
「口に合うか」
自分は相伴を遠慮した冨岡は山葵を乗せた薄い魚を左の箸で口に運ぶ不死川の様子を眺めて聞く。
口中で刺身を嚙んで味わい、不死川はきゅっと盃を呷った。
「あぁうめぇ」
「うめぇこたァうめぇが」
不死川は斜め向かいに座る冨岡の顔を見た。
「俺ばかし食ってもなァ」
「ほれ、お前も」
手を伸ばし、天塩皿から箸に摘んだものを不死川は冨岡の開けた口に落とした。
「───!?」
突き抜けるような辛みが鼻を衝く。
落とされたものは魚の身ではなく刻んだ山葵の一つまみだった。
反射的に男はそれをごくりと飲み下す。
口から喉にひりっとした痺れが下りていく。
ふわっと涙の浮かんだ目で鼻を手で押え、冨岡は不死川に声を荒らげた。
「…この馬鹿!」
「はっは 悪ィ」
不死川は小さく笑いながら言った。
「な、もっぺん口開いてみろ」
無言で冨岡は不死川を睨んだ。
少しばつの悪そうな顔の不死川が顔を覗き込む。
「騙されたと思ってよォ」
言いながら不死川は酒を満たした猪口を上げて見せた。
手を下ろし、涙の滲んだ目でそろそろと冨岡は口を開ける。その中に、不死川は猪口の酒をとくっと溢した。
ぷんと芳醇な香りが鼻に抜ける。口中に残る辛さが濃い酒精と絡んで甘味を生じ、得も言われぬ妙味となってそこにあった。
冨岡は口中で混じり合うそれをゆっくりと堪能し、おもむろに喉の奥に流し込んで赤くなった目を細めた。
「旨い」
「なァ?」
不死川もまた目を細くして笑むとまた猪口に酒を注いだ。
「そら、もう一献」
不死川はうっすらと開けた冨岡の口に、今度はそっと猪口を当て満たした酒を流し入れる。
その酒を、ゆっくりと冨岡は口で受けた。
「飲むなよ」
そう言って猪口を置くと酒を溜めたままの冨岡の口に己の唇を重ねる。
それから冨岡の後ろ頭に手を回すとそっとその頭を前に倒して、仰向いた自分の口に冨岡の中の酒を落とし込んだ。
ゆっくりと酒と冨岡の味が喉へ通ってゆく。山葵の辛みが後に尾を引いて舌と喉に残った。
飲み干して不死川は口を離し、今一度目の前の唇を啄んだ。
「いい酒だ」
そのまま上を向いてもう一度口を合わせ、今度は己の舌で
腔に招じ入れた冨岡の舌をゆっくりと吸う。
山の土の匂いとそこに沁み込むような清水の匂い。
夜、己のうちにすっと入って来るその気配を不死川はゆっくりと感じてとった。
肌を交わして互いの汗と汁とにしとど塗れまたそれから深く睦み合う。
交接を重ねる毎手に唇にその男の身体が馴染み、忍び事と呼ぶには少し明け透けなそれを何度と繰り返し。
そうして終わって後、互いにさっと夜衣を身に着けて床に就く。
この男のその仕草を冨岡はもう幾晩見たことだろう。
並んだ布団に入り互いに言葉を交わすこともなく夜は更けてゆく。
静かに互いのたてる息だけが耳に聞こえてくる。
寝てはいない。隣の男はそのままそうして朝方近くまで。
その気配を感じながらいつの間にか冨岡は眠りに落ちてゆく。どの晩も。
だがその夜。冨岡の横で不死川の呼吸は静かに眠りの音を立て始めていた。
冨岡はいつも朝方にしか耳にしないその
呼吸に闇の中でぼんやりと耳を傾けていた。
その息に誘われ冨岡の瞼もまたゆっくりと重く沈んでゆく。
突然、不死川がはっきりとした声で言った。
「いくのか、」
「俺は」
闇に眼を見開いた男は、しかし目の前の何をも見てはいない。
冨岡も目を開け脇を向いて隣の男の横顔にじっと目を遣る。
それからゆっくりと体を起こして男を見下ろすと、白い髪の散る額にそっと、今はただ一つの手を伸ばして触れ冨岡はその男の名を呼んだ。
「不死川」
触れられた男が小さく体を震わせた。
顔を見下ろす冨岡の眼差しを遥か遠くから戻ってきたような焦点で見つめ返し、不死川は呟く。
「ここにいたか」
冨岡はそのまま柔らかいものを失くした掌に包む静かな声音で問うた。
「夜に、何がある?」
冨岡にぼんやりと目を据えたまま不死川は覚束ない口調で応える。
「…わからねぇ」「どの陽が、射すか」
「見届けねぇと」
「……」
それきり男は言葉を失くしたように目を瞑り、またすっと深い眠りの淵に沈んだ。
その顔を覗き込んだまま冨岡は憑かれたように目を離すことができなかった。
この男はどこを歩いているか。
自分は本当に覚めているのか。
何もかもが朧げになりそうな昏い闇と
静寂の中、ただ不死川のたてるゆるやかな息の音が聞こえている。
かすかに届くその息の湿り気が、冨岡の寄せた顔にかかっては消えた。
ある朝屋敷に居合わせた珍しい客が早朝にやって来た手伝いに声を掛けた。
「世話になるな」
その晩ここで夜を明かしたらしい元水柱に張り切って朝餉を給仕しようとした手伝いに、後から起きてきた元風柱は言ったものだ。
「今日は俺がやる」
爾来玄関に草履が二つ並んだ日には手伝いは朝も晩も居室周りに顔を出さない。
その代わりに水屋の隅に二人分の飯が並ぶ。
その朝も夫々の膳を前に二人の男は差し向かいで飯を食っていた。
いつもの如く大きく口を開けて飯を掻っ込む不死川の顔を冨岡はひと時手を止めじっと見た。
昨日の魚の半身が炊かれた膾皿に箸を伸ばしながら不死川が訝し気に上目で問う。
「何だよ」
「いや」
飯碗は膳に置いたまま飯を左の箸で掴み上げて、開けた口に冨岡は運んだ。
それから箸を膳に戻して碗を取り、細かく刻まれた具の自分の味噌碗をくっと吸う。
何度かに分けて口の中の物を飲み下すと、何か考えたような顔で冨岡は言った。
「口に昨日の山葵を突っ込んだら目が覚めるだろうか」
「なんだァいきなり」
妙なことを口に乗せた男の顔を今度は少しばかり量るような表情で対面の男が覗き込む。
さやかにはあらねども、昨の闇で。
誰かに触れられた気がしていた。
かすかな何かに指が届いた気がしていた。
それから。
「駄目だな」
間髪いれず不死川は言う。
「もう気が抜けてらァ」