見合 よく晴れたとある休日の昼下がり、ホテルのラウンジ。周りはお喋りを楽しむ人や読書をする人、仕事をしている人など、皆が思い思いに過ごしていた。そんな中私はといえば、緊張した面持ちでお見合い相手を待っていた。
本当はお見合いなど気乗りしなかったけど、人間界で人間らしく暮らしていくって決めたのは私だから、と魔界への留学期間が終了して人間界に戻ってきた直後の決意を思い出して気持ちを奮い立たせた。
待ち合わせの時間より少し遅れてやってきた相手は良くも悪くもない人で――ホテルの従業員に横柄な態度を取るのには少し引っかかった――別にこの人でいいかな……と思い始めた頃、相手の肩越しに見覚えのある人物が目に入った。
バルバトス!? なんで!? ……本来こんな場所にいるはずはないけれど、少し前まで恋人だった相手を見間違えるわけがない。
お見合い相手と当たり障りのない会話を続けつつ頭の片隅で必死に理由を探し、ここがコルヴォ系列だったことに思い当たった。それなら、いてもおかしくない。いるだけならば。
なぜか従業員として働いているらしく、テーブルを片づけたり、他の客への応対といった仕事をこなしつつ、他の人からは見えない角度で私に小さく手を振ってくる。
お見合い中に反応するわけにもいかず、一度は見なかったことにしたものの、その後も何度も手を振ってくるので、さすがに何かあるのかと訝しみ、「すみません。お化粧直しへ」と断りを入れて席を立った。
「お客様、何かお困りでしょうか」
待ってましたとばかりにバルバトスが声をかけてくる。制服姿に一瞬だけ見惚れた。
「えっと、パウダールームと……どこか落ち着いて話せる場所が知りたいんです」
「ご案内いたします」
踵を返し、迷うことなく歩くバルバトスに付いていくと人気のない廊下の端に着いた。驚くほどに人の気配がない。ここだけホテルから切り離されているようだった。
「お久しぶりです。お元気なようで何よりです」
真っ直ぐ私を見るバルバトスに対して視線を返せない。
「……お久しぶりです。執事はやめたんですか?」
「まさか。どうしても人が足りないとのことでしたので臨時の従業員として、この週末だけのお手伝いです」
「そう、ですか……何度も手なんか振って何か用ですか?」
「教えていただきたいことがあるのです」
「……すぐ、終わるなら」
「それはあなた次第です。なぜ碌に挨拶もせず帰ってしまわれたのか教えていただけますか? 私に何か至らないところがありましたか?」
「……あるわけないです。……もういいですか?」
目をそらし、逃げようとする私の前にバルバトスが立ち塞がり、壁際に追いつめられる。逃げられない。
「まだ理由を教えてもらっていません」
もう何も考えたくない。早く解放してほしい。投げやりな気持ちで重い口を開いた。
「……私に魔界で暮らしていく覚悟がなかったんです。楽しくて幸せだったけど、これでいいのかって。早く人間界に帰って寿命に見合った生活をした方がいいんじゃないかって。ずっとずっと一緒にいたかったのに……ごめんなさい」
もういいですよね、と隙間を抜けて逃げた――つもりがそれは叶わなかった。バルバトスは私を更に壁際に追い詰める。キスする直前と思われてもおかしくない距離。
「その幸せを手放す必要はあったのでしょうか」
本当に純粋に、ただ不思議に思っているのです、といった表情でバルバトスが疑問を投げかけた。
「……え?」
「あなたはこのお見合いで結婚する。きっとあなたが望んだ人間らしい生活を送れることでしょう」
「そ、そう……」
なぜ唐突にそんなことを言い出したのかさっぱりわからない。
「ですが、私との関係にその生活が追加されることに問題が?」
「それって……」
倫理的にどうなの、と言いかけたところを今度は言葉で遮られ、妖しく口角を上げたその表情で相手が何者だったのかを思い出した。
「私が悪魔だともう忘れてしまわれたのですか?」
半年後、同ホテル内で結婚式が執り行われた。
その数時間前、すっかり支度を済ませた花嫁と一人の従業員が空き部屋で逢瀬に溺れていたことは誰も知らない。
必然 バルバトスは「偶然です」なんて言っていたけれど、今となっては本当なのか疑わしい。それでも、私はその瞬間だけでも運命というものを信じたかった。
魔界留学を終えて人間界に帰り、お見合いで結婚した頃。まだ新婚と呼べる期間のはずなのに私は一人家に取り残されていて、目的もなく数駅先の夜の街に出かけ、ふらふらと歩いていた。今日も帰ってこないらしい。
週末の飲み屋街は至る所からアルコールや料理の匂いが漂い、店内の柔らかい明りと楽しそうな笑い声が漏れていた。賑やかな場所に出ればこの陰鬱な気持ちも晴れるかと思って家を出てきたのに全く効果がなかった。楽しそうな喧騒は逆に私の寂しさを際立たせる。
「あ、すみません……」
地面ばかり見て歩いていたせいで肩が誰かにぶつかる。謝って早々に立ち去ろうとしたとき、聞こえてきたのはなんだか聞き覚えのある声だった。
「――ではありませんか?」
こんな場所に私の名前を知っている人がいるはずなんてなくて、え? と振り向いた先にいたのはよく知った顔だった。
「バルバトス……?」
三十分後、メインの通りから奥に入った、隠れ家を思わせる店のバーカウンターに二人並んで座っていた。バーで飲む時間には少し早いせいか、私たち以外の客はいなくて店内は静まり返っている。
目の前にはカシスオレンジの入ったグラス。本当はもっと相応しい飲み物があるのだろうけど、これが私が知っている中で一番マシなのだから仕方ない。
薄暗い明りの中、二人ともグラスを持ち上げて「乾杯」と小さく声を合わせた。
「あなたと並んでお酒を頂くのも随分と久しぶりですね。こちらでの生活はいかがですか?」
「まあまあ、かな……そっちはどう? みんな元気にしてる?」
「相変わらずです。そういえば先日……」
それなりにみんな楽しくやっているようだった。当然といえば当然だけどバルバトスの語る近況には私がいなくて、人間界に帰る選択をしたことを、このひとの手を離したことを、今日もまた後悔した。
そんな微かな痛みを抱えつつ昔のようにお喋りに興じているうちに、カランとドアベルが鳴って賑やかな話し声と共に客が入ってきた。既にお酒が入っている様子から一件目ではないようだった。それなりに遅い時間になってしまったらしい。
「そろそろおひらきにしましょうか」
その通り、そろそろ帰るべきだ。でも、帰りたくない。家に一人でいるのが寂しいからじゃない。
「ちょっと、酔っちゃった、かも」
表情を見られないよう俯いてバルバトスにもたれかかる。
一杯で酔うほど弱くないことは知っているはずだけど、それでも一応その言葉を素直に受け取ってくれたらしい。
「タクシーを呼びましょうか?」
「ううん……」
「お一人で帰れそうですか?」
「ううん……」
「……少し、どこかで休みますか?」
「うん……」
腕を組んで、というより縋りつくようにして店を出る。顔が上げられない。
「どうぞ、こちらへ」
数歩歩いたところで立ち止まり、え? と顔を上げた先には来た時にはなかったはずの扉。
「これ、もしかして……」
「こちらの方が落ち着けるかと思いまして。それともどこかに入りますか?」
「う、ううん。こっちで――こっちがいい」
扉の先は予想通りバルバトスの部屋に繋がっていた。何度か入ったことはあるけれど、一度も座ることすらなく終わってしまった部屋。
いつの間にか私の腰には介抱するように手が添えられていて、入室を促された。
ベッドに腰を下ろすとそのまま上半身をぱたりと後ろに倒した。とても顔なんて見せられなくて、腕で視線を遮った。
マットレスが微かに沈んで隣にバルバトスが座る気配がした。このまま寝たふりをすればそのまま寝かせてくれるだろう。
「大丈夫ですか?」
「ん……わかんない……」
どうしたらいいかわからない。ここまで来ておきながらあと一歩が踏み出せない。
そのまま何も喋れないでいると、どうやらバルバトスは私が本当に酔ったのかもしれないと思ったようだった。
「水を持ってまいります。少々お待ちください」
今度は立ち上がるような気配がして、咄嗟に身を起こすと隣に手を伸ばしてバルバトスのシャツの裾を掴んでいた。
「そばにいて……」
ずっと言い出せなかった言葉、言い出せなくてずっと後悔していた言葉。
「おねがい……」
私の手にそっと冷たい指が触れた。
「かしこまりました。あなたが落ち着くまでこちらにいます」
そうじゃなくて。
「ずっと」
零れ落ちる本心を止められない。
「ずっと一緒にいて……」
「ですが、あなたにはご主人がいらっしゃるでしょう」
「でも……」
これを言ったらきっと、もう戻れない。
「好きなの……ずっと好きなままなの。こっちに帰って来なければよかったって後悔してた……」
何かの期待に口角を上げ、渇望で頬を赤く染め、それなのに拒否される可能性に目を潤ませ、とても見せられない表情をしていたと思う。
「本当によろしいのですか?」
無言で頷くと、触れていた指で私の手は絡めとられて、私たちの体はゆっくりとベッドに沈んでいった。
茶会 チャットがいつもとは違った着信音を鳴らす。バルバトスは掃除の手を止めてD.D.D.を手に取った。今この瞬間何よりも優先するものは彼女からのチャットだ。
『バルバトスのお茶が飲みたいな』
瞬時にこの後の予定を頭の中で確認し、画面をタップする。
『いつでもどうぞ』
ディアボロの傍に控えている時だったらどちらを優先するのだろうと考えたこともあるが、それは意味のない思考だった。彼女がそのようなときにチャットを送ってきたことはないのだから。
そこに思いを巡らせるときいつも、まだ一日のスケジュールを覚えていてくれたのかとバルバトスの口の端は僅かに上がる。
一時間後、バルバトスの部屋ではMCと二人きりのお茶会が開かれていた。
尤も、和気藹々としたものではなく、MCの顔は暗く、涙の跡まであった。
「ぐすっ……それでね……」
「それは大変でしたね」
バルバトスはMCの手を取りたいのを堪えて、カップに口をつけた。
MCが人間界へ帰り、その後幾分かの時を経て結婚したと聞いたとき、バルバトスは表情こそ平然としていたが頭を「なぜ」という疑問が取り巻いていた。
恋人、とまでいかずとも友人以上という自負はあったし、MCも満更ではない様子だった。
しかし、同じ寿命の人間と一緒になった方がMCにとっても幸せであろうと思い、煌めく一片の思い出として心の奥底にしまっておこうと思った――思っていたのに。
『今からそっちに遊びに行っていいかな』
MCの名前が履歴の中でも底に埋もれた頃、そろそろ眠りに就こうかという時刻にそのチャットは唐突に送られてきた。
『久しぶりにバルバトスのお茶が飲みたいな』
挨拶もなくお茶が飲みたい、それも今からなどと本当にお茶を欲して送っているわけでないことは明白だった。
『かしこまりました。とっておきの茶葉を用意してお待ちしております』
寝ようとしていた体を起こし、いそいそとお茶会の準備を始めた。
その後姿を現したMCは酷く落胆していて、お茶会の席についても何も話さず、顔を見られたくないのか下を向き、時折お茶を飲むだけだった。
そのまま会話もなく、お互いのカップが空になったところでお茶会は終了した。
「またいつでもいらしてください」
「……」
MCは下を向いたまま動こうとしない。
「このような時刻に外出など、ご家族が心配するのでは?」
バルバトスは内心で、配偶者を表す言葉など口にしてやるものかと妙な意地を張る。
「……今日は泊まっていってもいい?」
あれほど望んだMCは思いがけない形で手に入った。
それ以来、『バルバトスのお茶が飲みたいな』というチャットが逢瀬の合図となった。
MCは楽しそうなときもあれば、気落ちしていることもあったが、いずれにしても最後はバルバトスを求めて泊まって帰っていくのに変わりはなかった。
バルバトスは一つ心に決めていることがあった。
決して自分からMCには触れない。MCから触れられることがなければおとなしく家に返そうと。
触れられずに終わったことなど今まで一度もないのだが。
最近ではMCは魔界での滞在時間が随分と長くなっている気がする。
今日もまたバルバトスの腕を枕にして眠るMCの髪を指で梳きながら、起きた後に供するお茶は何にしようかと考える。そうだ、ミルクティーがいいだろう。濃い目に淹れた紅茶にたっぷりのミルク。茶葉は……検討を重ねながら、バルバトスもまた、眠りに落ちていった。
***
逢瀬はMCが魔界に来ることもあればバルバトスが人間界へ行くこともあった。
その中でも夫婦の寝室というプライベートな場所での逢瀬はこの上なく刺激的で、背徳的で、MCもそれをわかっているのか、いつも以上にバルバトスを求め続けた。
そのせいで玄関のドアが開く音で初めて帰宅に気付き、シャツのボタンもベルトも最低限留めただけ、上着は小脇に抱えて、という格好で帰る羽目になったバルバトスは、まるで間男ですねと心の中で呟くのだった。
侵蝕「困りました……」
羽のように大きな雪が舞い落ちる、雲に覆われた夜空を見上げながらバルバトスが言う。
言葉とは裏腹に全く困っていない横顔は私の何か言いたげな視線に気づいたらしい。
「電車が動いていないようなので。今日はコルヴォに泊まる予定でしたから」
「……うちに来ますか?」
「ご主人は?」
「今日は雪で帰れないって連絡があったから」
連絡が来たのは降り始めた頃で、その時ならまだ帰ってこられたはずなのだけれど。もっとも、私もすぐに返事が出来たかは怪しい。お互い様だ。
「では、お言葉に甘えて」
そう言ってにっこりと微笑むバルバトスにとってここまでの会話は想定の範囲内なのだろう。
実に茶番だと思う。
駅前のコンビニで買った一本の傘を二人で使う。
雪だった水を踏む音だけが聞こえる中、身を寄せ合いながら二人とも何も言わずに家までの道を歩いた。
郊外の最寄り駅から徒歩一〇分。住宅街にある何の変哲もない三階建ての賃貸マンションの二階の一室、2LDK。これが今の私の住み家。
ドアを開けると馴染みのある我が家の匂いがした。こんなことになるならディフューザーの一つでも置いておけばよかった。コルヴォとは全然比べ物にならなくて恥ずかしいんだけど……どうぞ、と振り向いた先のバルバトスは半身がぐっしょりと濡れていて、それなのに当の本人は何かありましたか? といった涼しい顔をしていた。こういうところ。
「タオル取ってくるから待ってて!」
コートを着たまま急ぎ足で洗面所に向かい、棚からタオルを引っ掴んで玄関に戻る。途中のリビングにも立ち寄ってエアコンをつける。
「頭下げて!」
上着を脱がせて手早くコート掛けにかけると、ばさりと頭をタオルで覆い、さっき整えたばかりの髪がぐしゃぐしゃになるのも気にせずに水分を拭き取った。いつも使っている柔軟剤の香りが何度も鼻先を掠める。
「こんなの風邪ひいちゃうよ……はい、終わり!」
そう宣言してタオルを外すと、その下から現れた深い緑が私を捕らえた。表情はいつもと変わらないのに瞳が私を欲しい欲しいと訴えかけてくる。油断した。こんなものを見せられて逆らえるわけがない。両手首を掴まれてタオルがはらりと床に落ちた。
唇が冷たい。バルバトスの香りが私を包み込む。コートのボタンに指をかけられて、そこで初めて脱ぎ忘れていたことに気が付いた。
招かれないと家に入れないのは何だったか。容易に侵入を許した私はこうしてまた一つこのひとに堕ちて行く。
甘露「あっ、ちょっと待ってね」
そう言うとMCは身を起こし、床から適当に服――それはバルバトスのシャツだったのだが――を掴み上げて羽織るとクローゼットを開けた。目当てのものは奥深くにあるらしく、屈みこんでしばらくごそごそと物音を立てていたが、ふう、と一息つくと背を伸ばした。
昼間なのにカーテンを閉め切った薄暗い部屋の中でシャツから延びる白い脚は薄く光っているように見えて、やけに艶めかしく思えた。
「えーっと……好きです。受け取ってください。」
本当は手作りしたかったんだけどごめんね、と小さく付け足して、MCが両の掌に乗る大きさのこげ茶色につやつやと光る箱を差し出す。表面には有名なチョコの店のロゴが金色に輝いていた。
「おや、あなたにはご主人がいらっしゃるのでは?」
てっきり喜んで受け取ってもらえると思っていたMCの予想に反してバルバトスは手を出さず、その代わりに意地悪を言った。
「そうだけど……でも、バルバトスが好きなの。大好きなの。バルバトスじゃなきゃだめなの。だから」
MCの言葉に、よくできましたと言いたげな笑みを浮かべて箱を受け取った。
「そうでしたか。ありがとうございます」
「今すぐいただいても?」
「うん。食べさせてあげるね」
開けた箱をサイドテーブルに置くと赤いハートのチョコをつまみ上げ、バルバトスの口に運ぶ。
「先程もでしたが、今日はやけに積極的ですね。何かありましたか?」
「……本当は当日に渡したかったんだけど会う余裕も連絡する隙もなくて……おわび? みたいな? あと、早く会いたくて、触ってほしくて、待ちきれなかったから……」
バルバトスはその言い方からバレンタイン当日にMCがどのように過ごさざるを得なかったかをうっすらと察した。
苛立ちを隠すようにMCを抱き寄せると、唇でチョコの味を共有する。合わさった唇の間から、あまい……とMCの声が漏れた。
蕩けて力の抜けたMCをそのままとすんとベッドに押し倒す。
「ぇ、ま、まって? まだ残ってるよ?」
「待ちきれないと仰っていたではありませんか」
「それはさっきまでの話で……ううん、なんでもない」
夫婦のベッドの上で違う男のシャツを着ているという背徳感がMCを煽る。白い胸がのぞくように少しだけシャツを開け、愛しい人に向けて誘うように微笑んだ。
不義の恋人たちの時間はまだまだ続く。
返礼 その質問は腕の中で微睡んでいるときに唐突に投げかけられた。
「一五日、何かご予定はありますか?」
バルバトスが〝次〟をねだるなんてとても珍しいことで、指定した日付といい、私には心当たりがあった。
「一五日はあいてるし……一四日もあいてるよ?」
「よろしいのですか?」
「うん。あの人は一三日から出張って言ってたけど、どうせ……」
今更何を悲しく感じているのか。私にはこのひとがいるのに。
「だから、一日ずっと一緒にいられるよ! あ、でもバルバトスは執事の仕事があるよね。それならたまには私が魔界に行っちゃおうかな。お仕事が終わって、帰ってきたところをお出迎えするの。やっぱり『ご飯、お風呂、それとも私?』ってされてみたい? ご飯も美味しいの作って待ってるね! それで一緒に食べたり、して……」
いけない。これまでの生活を思い出して涙で言葉が詰まる。私の状態を察したのか、抱き寄せられ、少しだけ温かい手が背中をさする。
「あなたを蔑ろにするような真似は決していたしません。お待たせしてしまうことになりますが、出迎えて、一緒に食事をして頂けるのでしたら、とても嬉しく思います」
「……そのあとも一緒にいてくれる?」
「朝まで離すつもりはありませんが、よろしいですか?」
「うん……離れたくない」
その後、しばらくべそべそとしていたせいなのか、安心と温かい手のおかげか、微睡は本格的な睡眠に変わりつつあった。
「あとで、食べたいもの、おしえてね……」
精一杯眠気に抗い、未来を誓うようにキスをした。
爪紅「でもあの人、私がお洒落してるの見ると嫌そうな顔するから」
隣に座るバルバトスに、もう落としてしまわれるのですか、と聞かれてそう答えた。別に愛などではなくて、少しでも不快なことを減らして生活していくための知恵だ。
久しぶりのネイルだったんだけどな、と自嘲気味の笑いをこぼしながら、テーブルに置いたバニティポーチからリムーバーとコットンを取り出し、染み込ませて親指の爪に当てた。
少し待ってから拭うと、端に僅かに緑色を残していつもの私の爪が現れた。残ったネイルもコットンの角を使って丁寧に拭き取る。
「でしたら、ペディキュアなどはいかがでしょうか」
「いいかも」
あの人は私のつま先なんて見ない。
「何色がいいかな。バルバトスとお揃いにしようかな。実はあるんだよ」
そう言いながらバニティから紫色のネイルを取り出す。通りかかったお店で見かけて、同じ色だ! と喜んでこっそり買ったものの使う勇気がなくてしまい込んでいた色。
「それは光栄です。私が塗っても?」
「えっ……う、うん。それならお願いしようかな」
そんなことを言い出すなんて思ってなかった。
バルバトスは席を立つとネイルを手に取り、私の足元に跪く。
失礼いたします、とこの前私の靴を脱がせたのと同じようにスリッパが恭しく脱がされ、少ししてから爪の先がひやりとした。
「乾くまでしばらくお待ちください」
「ありがと……えっと、何してるの?」
ネイルを塗り終わった手は足から離れることなく、脛や脹脛から足首の方向に向けて脚の上を滑っている。
「マッサージです。少々浮腫んでいるようでしたので」
「あ、ありがと……」
とっくに何もかも全部見られてしまっているとはいえ、パーツをまじまじと見られるのはやっぱり恥ずかしい。
「私のことは気にせず、楽になさっていてください」
返事と共に私のD.D.D.が差し出された。これでも見ていてください、ということだろう。その好意に甘えてデビグラのアイコンをタップした。
恥ずかしさを忘れるように脚からわざと意識を逸らしたのは失敗だった。手の位置は随分と上に移動し、手どころか唇まで触れている。
「ん……ねえ、バルバトス」
「ネイルが乾くまでお待ちください」
「……だめ?」
「もう少しです」
そう言ったのにたっぷりと一時間は焦らされ、せっかく整えたベッドは再度ぐちゃぐちゃになった。
逃避 バルバトスのD.D.D.が振動し、着信を告げたのはディアボロの傍に控えている時だった。
生憎その時ディアボロは少々厄介な来客の相手をしており、席を外すなど許される状況ではなかった。
ようやく客が去った頃には予定していた時刻を大幅にオーバーしており、夕食の準備のため廊下を早足で急ぎながら発信者の確認だけでもと思い、D.D.D.を見ると、発信者としてMCの名前があった。
『**ホテル ***駅前 〇二二八号室』
彼女の自宅から数駅先にある大手ビジネスホテルチェーンの名前と部屋番号だけが書かれていた。
あまりの素っ気ない文面に何かの危機に急いで送信した可能性が一瞬頭を過ったが、『駅前』までを含めたホテル名や『号室』まできちんと書かれているあたりから身の危険はなさそうだと胸を撫で下ろした。
それにあの兄弟たちを従えるほどの力はあるのだから大抵のことには対処できるだろう、と結論付け、ひとまず頭の中から追い出し、キッチンへ急いだ。
それでもディアボロに夕食を供し、その後の雑務を急ぎ気味に終えて、チャットで指定された部屋の前に魔法の扉を開いた時には既に日が変わっていた。
さすがにもう寝てしまっただろうかと思いながら、ドアを控えめにノックする。
「……はい」
「バルバトスです。遅くなって申し訳ありません」
ゆっくりとドアが開き、手がバルバトスを部屋に引き込んだ。
部屋に入るなりMCがバルバトスの胸元にしがみ付く。
「来てくれて嬉しい……もう嫌。帰りたくない。本当に会えてよかった。好き、好きなの。もう、どこかに連れて行って。おねがい。かえりたくない……もうやだ……うう……」
最後の方の言葉は涙に溶けて、シャツに跡を付けた。
MCが落ち着くのを待ってベッドに座らせ、備え付けのポットで湯を沸かし、側に置かれていたマグカップとティーバッグで紅茶を淹れる。何もないよりはいいだろう。
「ありがと……」
「落ち着きましたか? では、朝になったら帰りましょうか」
その言葉にMCの手からマグカップが滑り落ちそうになる。
「なんで……? なんでそんなこと言うの……?」
「急にいなくなったのでは皆様心配しますよ」
「……別に。魔界留学の時だって急にいなくなったし」
「やりかけのこともあるでしょう?」
「ないよ……ううん……あるかもしれないけど、思い出せないからもうどうでもいい……」
「私物はどうしますか?」
「いらない……もう帰らないし……」
マグカップを握るMCの手には力が籠っていて、決意が垣間見えた。
「そう、ですか……」
「……バルバトスが落ち込むの? なんで?」
「あなたの家のリビングに活けられていた花がとても好きでしたから。訪れるたびに目に入る季節の花の彩を楽しみにしていました。あれはあなたが活けてくださったものでしょう?」
「見ててくれたの……!?」
「あれがもう見られないと思うと、寂しいです」
「そっか……」
MCの手が少し緩む。
「それに、以前あなたが行ってみたいと仰っていた場所にも行けなくなってしまうのですね」
「でも、人間界に帰ってくればそんなのいくらでも……」
「あなたは行方不明になるのです。見つかったら連れ戻されてしまうでしょう。当分の間は人間界に戻るべきではありません。少なくとも、周辺の住民があなたを忘れるまでは」
「そう、なんだ……」
喫茶店やレストラン、果ては水族館や展望台といった定番デートスポットまで、「いつか一緒に行こうね」とMCが約束した場所は数知れない。
MCの瞳に迷いが揺らぐ。
「どうしたらいいの……もうわかんないよ……」
「今はひとまず、夜が明けたら帰りましょうか。迷っている時に決断してもいい結果にはなりません」
「そうなの……?」
「はい。今までそのような方を沢山見てきました」
「それなら……でも、その前に、一つだけお願い聞いてほしい……」
「はい」
他の相手ならこのような迂闊な返答は決してしない。
「朝まで……ううん、私が寝るまで一緒にいて……帰るのは一人で大丈夫だから……」
MCがバルバトスの胸元にしがみ付き、見上げる。望みの汲み方はよく知っている。
「かしこまりました」
いくら乞われようともここでMCを連れ去ってしまったのでは面白くない。動機が逃避ではいずれまた人間界に帰るなどと言い出すだろう。求めてほしい。迷いなど入る隙もないくらいに。
バルバトスを欲しがるMCの声が部屋に響き、夜は更けて行く。
読書 その日のバルバトスは珍しくD.D.D.で読書をしているようだった。
「珍しいね。何読んでるの?」
バルバトスの背後からのしかかるようにMCが抱き着く。
「キッチンはよろしいのですか?」
「あとは煮るだけだから。美味しいの作ったから期待してて」
「それは楽しみです」
「で、何読んでるの?」
「最近の魔界では我々の二次創作が流行っていまして。こちらは私の話です」
「……へ?」
あまりに想定外すぎる回答にぽかんとするMC。
「読んでみますか?」
「どうしようかな……というか、勝手に主人公にされて嫌じゃないの?」
「私は一登場人物であって主人公ではないのですが……なかなか興味深く読んでいます」
「そうなんだ。バルバトスがそんなに興味持つなんてどんな話?」
D.D.D.をテーブルに伏せ、このような話です、と前置きをしてバルバトスが語り始める。
「主人公の女性はどこぞへ留学し、そこでとある人物と恋に落ちます。恋人同士としての仲睦まじい日々はあっという間に過ぎ去り、留学期間の終わりを迎えた彼女は泣く泣く元居た場所へと帰りました。しばらくの間は泣き暮らしていましたが、時というのは残酷なものです。いつしか彼女は新しい恋を見つけ、結婚し、幸せに暮らしていました。いえ、幸せなのは最初だけでした。ですが、逃げ出す勇気もなくこのまま人生を終えるのかと思っていたところにかつての恋人が現れます」
「それって……」
意識してなのか無意識なのかMCがバルバトスに抱き着く腕に力が籠る。
「昔と全く変わらない元恋人に彼女は再度恋をしました。当たり前です。元々別れたくなどなかったのですから。そこからはあっという間でした。そういえば、このようなことを人間界では『焼け木杭に火が付く』と言うのでしたね」
「……うん」
MCがバルバトスの手を握るとそれに応えるようにMCの指を絡めとってバルバトスは続ける。
「ですが、逃げ出す勇気すらなかった彼女に離婚などできるはずもなく、体は夫に、心は元恋人に。このような歪な関係が長続きするわけがありません。人間界で暮らす以上は即座に元恋人との関係を断つのが賢明なのでしょうが、離婚まで考えた彼女の心が夫に戻るわけはなく、体も元恋人に求めるようになるのは時間の問題でした。実際、」
バルバトスがMCの指に嵌る指輪に触れたところでインターホンが鳴る。
「おや、いいところですがご主人が帰宅されたようですよ」
「どうして……今日も遅いって……せっかく作ったのに……」
「また今度、私のために作っていただけますか?」
「うん。楽しみにしてて」
そう答えるとMCは目を閉じる。抱き着いた腕が解かれ、抱きしめられる感覚と唇と舌に触れる柔らかい感触。
少しの後、目を開けるとそこにはもう誰もいなくて、いそいそと玄関に出迎えに向かうMCを追うように、鍋の底が焦げる臭いがキッチンから漂い始めていた。
指輪 カーテンの隙間から漏れる午後の日差しを感じながらバルバトスの腕の中でまどろんでいる時間が一番好きだ。
私の髪を弄っていた手はそのうち耳を撫でると頬から首筋を辿って肩から腕を伝い、そのまま私の手を取った。
「ん……どうしたの……?」
眠気が気持ちよくて、目を閉じたまま聞いた。
返事はなく、バルバトスの指は私の指の一点、正確には左手の薬指で光っているであろう指輪に触れる。
「……外してもいいよ」
義務感で嵌めているだけの何の飾りもないただの銀色の輪。外すことに躊躇いなんてない。
「でしたら、お言葉に甘えて失礼いたします」
指輪が抜ける気配がして目を開けると、バルバトスはそれを何か考えるような表情で眺めていた。
「気になるところあった?」
「こちら、少々お預かりしてもよろしいでしょうか」
「え……っと、どれくらい?」
二、三日ならどうにか誤魔化せると思うけど、それ以上はさすがに難しい。バルバトスが口にしたのはそんな私の戸惑いを読んだように短い日数だった。
「明日の夜にはお返しいたします」
「それならいいよ。待ってるね」
明日もまた会える、という期待も込めて返事をした。
翌日、あっさりと指輪は返却され、その後は特に話が出ることもなかった。
そんな出来事もすっかり忘れて、玄関先でバルバトスとの別れを惜しんでいたときのこと。
「本当は送っていければいいんだけど……あの人もうすぐ帰ってくるみたいだから、ごめんね」
「私もここを出たらすぐ魔王城に戻ってしまいますから。お気になさらないでください」
それじゃまたね、と言おうとした矢先。
「その前にこちらを。あなたへの贈り物です」
懐から深緑のベルベットに覆われた小箱を出すと、開いて私に向けた。
「え?」
中に鎮座していたのは装飾も何もない銀の指輪。なぜか新品ではないようで輝きは少し鈍いし、よく見ると小さな傷まである。その傷に既視感を覚えて思わず自分の指を見ると、いつも通り指輪はそこにあった。
「同じ……?」
「いえ、内側をご覧になってください」
おずおずと指輪を手に取って内側を見ると、私の指輪では夫と私のイニシャルが刻まれている位置に見たことのないマークが刻まれていた。
「そちらはわかりやすく言うと、私の『紋章』とでも申しましょうか。名前よりはこちらの方がよろしいかと思いまして」
本当は名前を刻むつもりだったということで、つまり、これは。
「あなたの指に嵌められているその銀の指輪は誰から見てもあの男のものという証明ですが、実はそれがこちらの指輪だとしたらいかがでしょうか。愉快だと思いませんか?」
ごくりと唾をのむ。名前こそ書かれていないものの、まったく同じ指輪だなんて万が一見られた時の面倒を考えると到底受け入れられるものではない。でもそれは、それはとても――。
バルバトスは「失礼いたします」と固まっている私の手からそっと指輪を抜き取ると箱に収め、改めて私の前に差し出した。
「私からのこの指輪、受け取ってくださいますか?」
旧知 待ち合わせた相手は少し遅れているようだった。MCはバッグの中のD.D.D.を取り出して今座っている席の情報を送ると、今度は手元のスマートフォンに視線を落とし、スクロールとタップを繰り返して時間を潰し始めた。
「失礼。ここ、空いてますか」
平日の午後、中途半端な場所と時間のせいで人もまばらなカフェの端にある窓際の四人掛けテーブル席。
半分以上の席が空いているのにわざわざ声をかけてくるなんて碌な輩ではない。
「すみません。待ち合わせで――」
そう言いながら顔を上げた視線の先にいたのはよく知った顔だった。
「ルシファー……」
「元気にしていたか?」
「う、うん……どうしてここに?」
「人間界に用事があったんだが、早く着いてしまってな。時間潰しにこのあたりを歩いていたら外からお前が見えた。座ってもいいか?」
「あ、うん。待ち合わせだから来たらすぐ出ちゃうけどそれでもよければ」
そう促すとMCの向かいにルシファーが座る。
「人間界での生活はどうだ?」
「まあまあかな……」
「そうか」
ルシファーはMCの次の言葉を待つものの、MCはその先を誤魔化すように手元の紅茶に口をつけた。
お互い何も話さず、さすがに沈黙が気まずくなり始めた頃、MCの後ろから声が降ってきた。
「おや、ルシファー。奇遇ですね」
目を見開いたその表情で、ルシファーもバルバトスが人間界に来ることを知らなかったのだと知れた。
「ここで何をしている」
「見てわかりませんか? ご覧の通りMCとの待ち合わせです」
「待ち合わせの相手がお前とはな。主人を差し置いて脱走か」
「私はやるべき事をすべて終えた上でここにいます。もっとも、どこぞの兄弟たちがもう少し協力的であれば更に彼女との時間を作れるのですが。私も座っても?」
ルシファーとMCが同時に横の椅子に移動する。迷うことなくバルバトスが選んだのは先程までMCが座っていた椅子だった。「お待たせしてしまい、申し訳ありません」と謝るバルバトスにMCが「ううん、いいの。お仕事お疲れ様」と答え、体を寄せる。その慣れた様子からある可能性がルシファーの脳裏を過る。
「まさかバルバトス、お前」
向けられた批難の色を含んだ言葉をバルバトスは気にも留めない。ルシファーがMCの左手をちらりと確認する。
「何のつもりだ。MCにはもう既に伴侶がいるだろう」
「伴侶以外と待ち合わせをしてはいけないとは初耳です」
「とぼけるな。それがただの友人の距離だとでも言うつもりか」
「確かに私たち二人の関係は人間界では歓迎されるものではないでしょう。ですが、魔界の住人である我々悪魔がそれに従う必要があるのですか?」
「事が明るみに出たとき、後ろ指をさされるのはMC一人なんじゃないのか?」
「どのように私の存在を証明するのですか? 相手がいない以上は不貞などできません。それに万が一の場合、私にも一応、対処できるような人材の伝手はあります」
埒が明かないとばかりにルシファーは小さく溜息をついた。
「そもそもMCは今の状態を良いと思っているのか?」
「彼女に不満など抱かせるわけがありません」
「バルバトス、お前には聞いていない。どうなんだ、MC」
MCは俯いてしばらく黙っていたが、テーブルの下でバルバトスの手を握ると、絞り出すように話し始めた。
「……私だってこれが良くないことだってわかってる。でも、あの人との生活は無理なの。もうずっと前から毎日何かが削られていくみたいで……。だけど、バルバトスは満たしてくれる。一緒にいると幸せなの。だから……。せっかく『人間界で生きて行きたい』って私の我儘を聞くどころか笑顔で送り出してくれたのに、上手にできなくて、ごめんなさ……っ」
最後の言葉は涙に消えた。バルバトスがハンカチをMCに差し出して宥める。
彼女を泣かせるなどどのようなおつもりですか、と言いたげに寄越された視線を無視してルシファーは今度は大きな溜息をついた。
「……お前が今幸せなら謝る必要はない。何かあったらいつでも嘆きの館に帰ってくるといい。弟たちも待ちわびている。……そろそろ時間だ。またな。」
そう言うとルシファーは席を立ち、去ろうとしたところで何かを思い出したらしく、足を止めた。
「そうそう、一番重要なことを言っていなかった」
MCが顔を上げ涙越しに疑問の顔でルシファーを見る。
「特にこの男に泣かされたときはいつでもいい、すぐ連絡しろ」
Where are you go? ビジネスホテルの食事をするには狭いテーブルの上に所狭しと朝食が並べられていく。クロワッサンにロールパン、スクランブルエッグ、ベーコン、サラダ、スープ、それとバルバトスが淹れてくれた紅茶。
「ありがと。レストランまで一緒に取りに行けなくてごめんね」
「目撃される機会は減らすに越したことはありませんから。他に追加で欲しいものはございますか?」
「ううん、十分。食べよっか」
待っている間の退屈しのぎにつけたテレビからは朝のニュース番組が流れていて、キャスターが淡々とニュースを読み上げている。
『本日未明、**市の集合住宅から出火し、火元の部屋が全焼しました。住人の――さんは外出中で無事でしたが、妻の――さんが消息不明となっています。焼け跡からは指輪が発見されており、何らかの事件に巻き込まれたものとみて捜査を進めています』
ロールパンをかじるとゆっくりと咀嚼し、紅茶を飲んで一息つく。時間を気にしなくていい朝食はいつぶりだろうか。
「火事だって。怖いね」
「そうですね。魔王城でも気を付けなくては」
テレビには空から撮ったと思しき映像が映し出されていて、馴染みのあるベランダと真っ黒になっている室内が見えた。どうやら他の部屋までは燃えなかったようだけど、心の中でお隣さんに「ごめんなさい」と謝った。
「……もう少し何か持って来ればよかったかも。服とか。コートと今着てるこれしかないし」
「おや、そのような服がお好きとは意外でした」
「ううん。全然趣味じゃない」
こんな、機嫌を損ねないためだけの服なんてさっさと脱ぎ捨てたい。
「そうだ。全部なくなっちゃったし、今度買い物付き合ってほしいな」
「喜んでお付き合いいたします。ですが、その必要はないかもしれません。あなたのことを知った兄弟たちが大喜びで毎日嘆きの館のあなたの部屋に何かを運び込んでいるようですよ」
「そうなんだ。……よかった」
ルシファーはいつでも戻っていいと言ってくれたけれど、実のところ、我儘を押し通して人間界に帰ったのに戻ってくるなんてどんな顔をされるかと怖くてたまらなかった。
「メゾン煉獄のみんなは?」
「ソロモンは残念そうにしていましたね。恐らく、あなたと人間界で会えるという優位性がなくなるからでしょう。天使の皆様は少々複雑に思っていらっしゃるようです。今はあなたが戻ってくる喜びが勝っているようですが」
「あ……そう、だよね……」
こんなことをした人間なんて、天使じゃなくても顔を顰めるに決まっている。私だって同じ内容を誰かから打ち明けられたら笑顔でいられる自信はない。
「やめますか?」
今更やめられないしやめるつもりもない。きっとこの魂が死後安らかに過ごせることはないのだろうけど、そんなのはバルバトスの手を再び取ったときからわかりきっていた。
静かに首を振ると笑顔を作って、左手の薬指にあるものに触れる。
「そんなの、考えたこともないよ」
これからのことを話しながら楽しい朝食を終え、少し休んでからチェックアウトする。
外は快晴、冬の寒さは和らいで、日差しが温かい。上を向いて青空を目に焼き付けると帽子を目深にかぶり、仕事に向かうであろう人たちの流れとは逆方向に二人並んで歩き始めた。
「あ、ちょっと待ってね」
コンビニの外に設置されているゴミ箱に駆け寄り、コートのポケットから財布を出すと中身を全て放り込んだ。持たされていた、一度しか行かなかった店のポイントカードが大量に出てきてどれだけ無駄な我慢をしていたか今更ながら実感した。ばかみたい。少し考えた後、結婚した直後に買ったものだったことを思い出し、財布自体も放り込んだ。
すっきりした気分でバルバトスの元に戻ると腕を絡める。
「それじゃ、行こっか」