秘湯、貸し切り温泉!アヒルは見た! 水が小さく波打つちゃぷちゃぷという音がする。湯舟から立ち上る湯気が髪を湿らせてゆく。秋の終わり頃の夜気は温まった体を程よく冷やしてくれていた。
そして後ろには私を抱きかかえるバルバトスさん。今私の腰には腕がまわされているはずだけど、ここの温泉は白く濁っていて、どうなっているか全く見せてくれない。ベッドやソファでお馴染みのこの姿勢、いつもは空いている二人の隙間を今日はお湯が埋めていて溶け合ってしまいそうにすら思える。
宿の人が入れておいてくれたらしい、ぷかぷかと近くに浮いていた黄色いアヒルのおもちゃを手に取る。
「最近はアヒルとか入れておいてくれ……んっ」
耳の後ろに冷たい何かが触れた。離れたり触れたりを繰り返しながら首筋からうなじへ、うなじから肩へ移動していく。移動していくのに伴って腕に力が籠められて、より強く抱き寄せられる。何かはそれだけでは飽き足りなかったのか、耳朶が甘噛みされるよく知った感触がして声が出そうになるのを必死で抑えた。
壁があるとはいえ曲がりなりにもここは屋外で、誰かに声が届く可能性がある以上、大きな声を出すわけにはいかない。くるりと向き直り、正面から抱き着く。
「いかがなさいましたか?」
さっきまでの事なんて何も知りませんよと言わんばかりの表情。髪が湯気でちょっとしっとりしている。
「ここ外ですよ?」
「そうですね」
どこまでもしらを切るつもりらしい。だからといってこれまでの事を説明するのは恥ずかしすぎる。何か別の話題は……。
「そうだ、デモナス飲みませんか?」
サービスとして渡された桶がすぐ横に置いてあった。人間界のそれを意識したのか、徳利とお猪口が入っている。
「せっかくなので頂きましょうか」
あなたも飲みますか? と目で聞いてくるので頷く。
つぎます、という間もなくバルバトスさんは自分でお猪口に注いで口をつけ、ほぼ真上を向いて一気に飲み干した。らしくない。
別にらしくなくなかった。触れあった唇からとろとろとデモナスが流れ込んでくる。飲むって言ったけどそういう意味じゃない。体温で温められたそれは元から私の一部だったかのように体に溶け込んで、酔わないはずなのに酔ったような錯覚に陥る。
口の端からデモナスが垂れそうな気配がして、湯船にこぼすわけにはいかないとバルバトスさんにしがみついて舐めとる。それなのに、次へ次へと滴り落ちようとする。わざとやってる。垂れる、舐める、滴る、吸い付く。傍から見たら私が貪っているようにしか見えないだろう。絶対わざとやってる。
お湯以上の何かで体が充分すぎるほどに温まった頃、ようやくお猪口一杯分のデモナスは飲み干された。
「……いじわる」
「それはそれは、お褒めにあずかり光栄です」
そうだった。
「デモナス、まだ残ってますよ。バルバトスさんも飲みますか?」
さっきよりも大きな波に乗ったアヒルはもうだいぶ遠くへ行ってしまったらしい。のぼせる前に出られればいいのだけど。