なくした物は何ですか そこには以前バルバトスが留学生に贈った指輪が一つあった。
「お待たせして申し訳ありません」
実はまだ仕事は終わっていない。先程、リトルDから「落とし物があったんでお部屋にお届けしておきましたァ」と報告があったが、バルバトスの部屋はいつも通りで増えた物も減った物もなかった。詳細を聞きに行く前にせめて待たせている留学生に一言断ろうと――というのは建前で、実際のところは少しでも会いたかっただけなのだが――魔王城客室のドアを開けた先はもぬけの殻で、暗い部屋の中テーブルの中央に置かれた指輪が廊下からの明かりを反射して光っていた。
荷物は部屋にそのまま置かれていたが、少し開いた鞄の口から、留学生の心情を表すかのように荒れた中身が見えた。貴重品だけ持って飛び出した、というところだろうか。
バルバトスは表情こそ変えていないが大いに悲嘆に暮れた。しかし、ついにこの日が来たかと心のどこかで納得してもいた。
いつも夜遅くまで待たせるのは当たり前、呼び出しがあればいつ何をしていようと出ていく。普段から気にしていないと言っていたが、やはり思うところはあったのだろう。
指輪を贈った時のことを思い出す。こぼれる笑みと赤く染まる頬に少し潤んだ瞳、嬉しそうな声の返事。今後もこの生活が変わることはない以上、バルバトスの我儘でしかないことはわかっていたが、あの愛おしい存在をこのまま何もせず手放すなど想像すら出来なかった。
「少々出かけてまいります」
指輪を内ポケットに忍ばせ、簡素なチャットをディアボロに送ると夜道を急いだ。
留学生が行くならまずここであろうと嘆きの館の呼び鈴を鳴らすが扉は一向に開く気配を見せない。明かりは点いている。それにこの時間、全員不在なわけがない。
無礼を承知で何度も呼び鈴を鳴らすとようやく扉が重い音と共にゆっくりと開けられ、マモンが顔を出した。
「ンだよ。あいつならいねーよ」
何も言わないうちからそのようなことを言っては「います」と言っているも同然だ。やりやすい相手で助かります、とバルバトスは内心ほくそ笑む。
「おや、そうでしたか」
しっしっと追い払うように手を振りながら閉められようとするドアに足を挟み、阻止する。
「では、ルシファーはいらっしゃいますか? 折角ですので、つい先日魔王城の宝物庫に侵入した不審者についてのお話でも」
「……わーったよ」
「ありがとうございます」
バルバトスを歓迎するかのように、館のどこかで時計の鐘が鳴った。
「……真っ青な顔で帰ってくるなり部屋に駆け込んだと思ったら派手な物音がしてきてよ」
先を歩くマモンがぽつりぽつりと話し始めた。
「俺らが覗き込んだら部屋は荒れ放題、おまけにベッドに座り込んで泣いてやがる」
怒りを押し殺そうとしてか普段より声が低い。
「あいつに何しやがった」
「いいえ、何も」
そう、何もしていない。何もしていないからこうなった。
それを知る由もないマモンからすれば、その返事に納得がいかないのは当然だった。
「ほらよ」
魔王城の客室程ではないがこれまで何度も開けたドアを開けると、マモン以外の兄弟たちが一斉にバルバトスの方を見た。各々の目には疑念や猜疑や憤怒が宿っていて並の悪魔ならこれだけで逃げ出すだろう。
肝心の留学生はベッドに俯いて座り、膝に置いた手を固く握りしめ、しゃくり上げ、涙をこぼし、隣に座ったアスモデウスが宥めるように背中を撫でていた。部屋はマモンの言った通りに荒れ放題で、収納は全て開けられ、服は床に何層にも積み重なっており、バッグやポーチの類は口を開けた状態でそこかしこに転がっていた。
バルバトスは一体何が? という顔を向けるがアスモデウスは「僕にもわからないんだよね」とばかりに肩を竦めるだけだった。この様子だと他の皆も知らないのだろう。
留学生の前に片膝をつき、固く握った手に自らの手をそっと重ねる。留学生がびくりと動きを止め、顔を上げた。
その泣きはらした目に憤りや不満といったものはない。浮かぶのはどちらかといえば自責や苦悩といった感情。その表情に一瞬悪魔としての嗜虐心が顔を覗かせるが、それを恋慕で抑え込む。
「ご無事ですか? ここに来る途中、何かされたりなどはしていませんか?」
無言のままこくこくと頷く留学生。顔は青ざめているが、バルバトスから見ても怪我などはなく、ひとまずは胸を撫で下ろした。視界の端に「何かしたのはお前だろ」と言いたげな兄弟たちが見えたがそれは無視した。
「随分と慌てていらっしゃったようですが、こちらに急用でも?」
バルバトスが予想していた通り、留学生は頭を振った。
「用意したお部屋に何か問題が?」
またも無言のまま留学生から否定の意が示される。
「でしたら、私に何かご不満がおありですか?」
わかっていながらあえて聞いた質問の答えはこれまでと違って即座に言葉で返ってきた。
「そんな……っ」
またすぐに俯いてしまう。
「不満なんて、ないです……」
一瞬見た瞳に嘘や気遣いといったものはなかった。では今のこの状況は何なのか。
「……本日はこちらでお過ごしになりますか?」
返事はなく、握った手を見つめるばかり。時計の鐘の音がかすかに聞こえてきた頃、ようやく留学生はゆっくりと首を左右に振った。
「でしたら、戻りましょうか」
「……ごめんなさい」
一体どうしたというのか。
「……っ」
口を開こうとしたものの、何かを思い出したのか再度泣き声がし始めた。このままでは埒が明かないが、無理に聞き出したところで好ましい結果にはならないことは明白だった。
バルバトスに任せた方が良いと判断したのか兄弟たちはとうの昔に部屋の外に出て行っている。まずは落ち着かせるのが先、と先ほどまでアスモデウスが座っていたところに腰を下ろすと留学生を抱き寄せた――のだが
「だめ、だめなんです、ごめんなさい。そんな資格ないんです」
両手でバルバトスの胸を押し、固く拒否する。資格とは何なのか。何もかもがわからない中、嫌悪による拒否でないことだけはわかった。
胸に当てられた手を見てはたと気付く。贈って以来――少なくともバルバトスの前では――外したことのなかった指輪がない。
「もしかして」
視線に留学生も気付いたのか、胸元から押し返す力が消えた。
「……ごめんなさい。バルバトスさんを待ってる間に魔王城の中庭で猫と遊んで、気付いた時にはなくなってて……私が入れるところは全部探して荷物の中も見て、もしかしたら嘆きの館に忘れてきたのかもって……でも……」
バルバトスは心の中で、やれやれと溜息をつく。リトルDに報告時は言葉を省略しないよう注意する必要があるらしい。『落とし物』は指輪で『お部屋』は客室なのだろう。道理でバルバトスの部屋に何もないわけだ。
「あの、でも、見つかるまで魔界中探すので……」
「その必要はありません」
留学生はその言葉に両手を力なくぱたりとベッドに落とした。どうやらバルバトス自身も言葉が足りていなかったらしい。
バルバトスは懐から指輪を取り出すと、いつかの時と同じように留学生の左手を取り、指輪を嵌めながら申し入れた。
「帰りましょう。一緒に」
驚きの混じる笑み。泣き続けたせいで赤く染まっている頬。未だ涙を湛えている瞳。言葉はなくとも返事はわかった。何よりも、バルバトスの手を離そうとしない手が答えだった。