チップは最後に「その日」のことをうっかり忘れていたのは迂闊だった。
寝坊して朝食がギリギリだったり、提出する課題が一ページ抜けていることに授業開始寸前で気づいたり、学食でカレーを選んだのにスプーンを貰い忘れたりしたのが関係しているのかもしれない。
放課後、クラスの子たちに遊びに誘われて、今日のいまいち上手くかみ合わない調子のことをすっかり忘れて何も考えずに「行く!」と返事をしてしまった。
「そういえば、どこ行くの?」
RADを出てしばらく歩いたところで、行き先を聞いていなかったことを思い出した。
「いいとこ! もうすぐだから」
そう言ってもこの見慣れた通りの先にあるお店は一通り行ったことがある。新しいカフェでもオープンしたんだろうか。
行けども行けども新しいお店は見えてこなくて、その代わりによく知っている建物の前で立ち止まった。
The Fall。私だけでなくみんなも行ったことがあるはずなのに、どうしてこんなに勿体ぶるんだろうという疑問はすぐに解決することになる。
重い扉を開けたその先にはウサギの園が広がっていた。本物のウサギではない。店員がいつもの制服にプラスしてウサギの耳とウサギの尻尾をつけて闊歩している。
慌てて取り出したD.D.D.に表示されていた日付は八月二一日。――バニーの日だった。
クラスメイトが私を誘ったのはただのバニーの日だからではない。
「今日はウチの執行部のひとたちが接客してくれるんだって!」
「へーそうなんだ。楽しみだね!」
なんて、初耳ですと言わんばかりの返事をしたけれど、知ってた。バルバトスに聞いてたから。だから来たくなかった。忘れていた私が悪い。
私たちの席に付いたのはよりによって最悪の人選だった。
「バルバトス様、はい、あーん」
「ありがとうございます。いただきます」
口を開けてスプーンにちょこんと乗せられた生クリームをぱくりと食べるのを横目で見ながらキャロットジュースをあおる。甘くアレンジされていて飲みやすい。
別に悔しくなんてない。付き合っていることは秘密にしているわけではないけど、公表しているわけでもない。ほとんどのひとは知らない。普通ならこんな貴重な機会、楽しまないわけがない。私だってクラスメイトの立場だったら同じようにする。それに、バルバトスだって仕事として請けている以上は拒否なんて選択肢、あるはずがない。
そう自分に言い聞かせると、楽しそうなクラスメイトたちを見ないようにしながらひたすらフードを食べ続けた。
「そろそろ門限だから帰るね」
ルシファーたちも今日はここにいるから門限破りを咎めるひとは誰もいないのだけど、これ以上ここにいても気分が沈んでいくだけなのは想像に難くなかったので荷物を持って席を立った。
この盛り上がりで聞こえているかはわからないけど、店員の誰かが把握していれば困ることはないだろう。
視界の隅でバルバトスがこちらを向くのが見えた、気がした。
他の店員が見送ろうとするのを断って店の外に出た直後、扉が閉まる前、後ろからとてもよく知っている声が飛んできた。
「本日はありがとうございました」
振り向いた先にあるバルバトスのサスペンダーにはたくさんのチップと思しき紙幣が挟まっていて、なんだか悔しくなって紙幣を取り出すと私も同じように挟んだ。
「お見送りありがと。じゃ、また明日」
「お待ちください。お召し物が乱れております」
そういえば熱気にあてられたせいか、暑くて胸元を開けてたっけ。
「失礼いたします」
そう言って素早くさっき私が挟んだチップを抜き取って、今度は私の下着と胸の間に挟むと、あっという間にボタンを留めてしまいこんでしまった。
いらないってこと? 少しだけ苛立ちを覚えながらブラウスの襟を整えられる私の耳を低い声がくすぐる。
「後ほど、回収に伺います」
ぽかんと口を開けるしかできない私の目の前で、お気をつけてお帰りください、という挨拶と共に扉が閉まった。