赤い吐息の使者 またエディが誰かに目を奪われている。そのせいで手は止まっているし口は半開きだ。本人に自覚はないのだろうけれど、彼は「イイオトコ」を目にすると視線が釘付けになってしまう。
「おーい、手元が留守だぞ」
わたしが空のトレーをデッキチェアのサイドテーブルから取り上げて片付けをしているというのに、エディは一点を注視して動かない。
この職場は惚れっぽいひとにとっては目の毒になる場所じゃないかと思う。乾季から雨季まで年がら年中水着姿の宿泊客がひっきりなしに来るのだから。
いまは九月。夏の長期休暇と重なるのもあって観光客の数は増える。とはいえ、現在の時刻は午前十一時前、チェックアウト時刻の直前なので、この時間にプールに入っているのは連泊するひとだけになるから比較的空いている。太陽の光も力強く、水遊びには適した時間帯だ。
声掛けに反応しないエディにため息をつき、彼の手元にあるトレーに手を伸ばそうとしたとき、腕を強くつつかれた。
「いたい! ちょっとなに?」
わたしの不満げな顔に目もくれず、彼は一心に同じ場所を見ながら口を開いた。
「十時の方向、黒人と白人のカップル」
半裸のお客さんをジロジロ眺める趣味はないんですがと思いつつ言われた場所に目を向ける。
カップルと言われてなんとなく、わたしは男女のふたり組を探した。でも、水の中にいる男性ふたりのことを言っているのだとすぐにわかった。水面から顔だけしか出ていないが、ふたりとも美形でエディが目を奪われるのも無理はない。
彼らはお互いに目配せをしたと思ったら泳ぎだした。軽く腕を動かすだけですいすいと水を割って進んでいき、プールの真ん中にあるデッキチェアにたどり着くと、黒人の男が身体を水から引き上げた。太陽の光を反射させてキラキラと光る皮膚の上を水滴が滑っていく。肩や腕、腰回りの筋肉が彼の意図に沿ってなめらかに動くのがここからでも見て取れた。引き締まった身体を持つ男は黒い水着を身に着けているだけだ。プールに入っているのだから当然だし、他人より特に見慣れるはずの職場に勤めているのに、わたしはなぜか、本来はひとの目から隠されているものを見ているような気持ちになった。
たまに、芸能人やセレブと呼ばれる宿泊客がこのプールで遊んでいくことがある。どこの国の出身であろうと彼らには総じて華があった。見られることに慣れていて自分を表現するのになんのためらいもない。
ひと目見て、男性もその筋の者だとピンときた。でも、肩肘張って自分を主張せず、どことなく控えめな雰囲気を放っている。奥ゆかしい、という表現が頭に浮かび、なるほど、と軽く頭をうなずかせた。
彼は軽い動作でチェアに腰掛ける。その後に続いて白人の男が身体を水から引き上げた。
ずるりという音が聞こえた気がした。
白人の手が滑り、頭がデッキチェアにぶつかりそうになる。あぶない! と身体が勝手にビクリと動き、持っていたトレーが揺れた。
チェアの上の男はまるで予想していたかのような無駄のない動きでしっかりと白人の男の腕をつかんだ。急だったのに、なんてことはないという自然な素振りだった。周囲にホッとした空気が流れる。わたしとエディばかりでなく、ほかの宿泊客も彼らふたりから目が離せないでいるのが肌でわかった。
手を滑らせて周囲のひとを心配させた彼は照れたように口元を尖らせながらも隣の男にチェアに上がるのを手伝ってもらい、無事に腰掛けた。金髪に碧眼、長い手足を持て余すようにデッキチェアから突き出しているが威圧感はない。人好きのする笑顔で隣の男に話しかけては表情をころころと変えている。こちらの男性はどちらかというと無邪気という感じだろうか、自分たちのことに手一杯でほかが目に入らないというような。
話しかけられたほうの男は軽くうなずいたり小さく口を動かしたりするだけだが、明るい雰囲気の白人の男と並ぶと彼のシャープな奥ゆかしさみたいなものがより引き立っていた。
ふたりとも、水着以外に服を着ていないのに「ゴージャス」という形容詞がピタリとはまっている。
はあ、と重いため息の音がして、わたしはようやく我に返った。エディに顔を向けてひそかに言う。
「……たしかに、あれは見てしまう」
「でしょう。すてきだ」
「でもなんでカップル? 友だちなんじゃん?」
わたしの言葉を受けてエディはあからさまに顔をしかめた。感情のこもらない、セリフを棒読みするみたいな返し方をされる。
「あんな友だち、いたらサイコーだろうね」
わたしは首をひねってふたりに視線を投げる。仲が良さそうだとは思うがそれだけだ。誰と誰が付き合ってるだとかいう噂話にてんでついていけなかったわたしが見たところでわかりはしない。早々に考えるのを諦めてエディを仕事に戻らせることにする。
「そんなに気になるならオーダー取ってきたら? 注文してくれそうじゃない?」
彼は力強くこちらに向き直った。
「やっぱりそう思う? 行くべきかな」
そわそわしたかと思うと次の瞬間にはふたりのもとに向かっていった。
わたしは気を取り直してカウンターに戻り、トレーを片付けてその場を整頓した。ダスターを用意して先程のチェアをクリーニングするために屋根の外に出る。
そこにエディが息を切らせるようにして突進してきた。顔を赤くして目をぎゅっとつむってわたしの肩をつかみ揺さぶってくる。
ガクガクと頭が前後に揺れて空とプールが揺れ動いた。
エディ、あんた今日は暴力的だぞ。
「落ち着け! なにがあった」
ダスターを顔の前に突き出してエディの動きを止める。静まった彼はひとこと「天上の息吹……」とつぶやいて顔を手で覆った。
「なに? ヘブンズ・ブレス? ふたりともカクテルを注文したの?」
エディはこくりとうなずき、肘を動かしてわたしに行くようにと催促する。
いったいなんだと言うんだ、注文を取ったのなら自分で持って行けばいいものを。
わたしは立ち尽くしたエディを放置して注文を通した。ヘブンズ・ブレスはジンをハイビスカスティーで割ってレモンリキュールを入れたカクテルだ。氷をたくさん入れたグラスに注がれる真っ赤なハイビスカスティーが青い空に映えて暑い日にピッタリ。シロップに漬けたハイビスカスの花を最後に乗せると完成する、お洒落で美味しい人気のメニューだ。
グラスを載せたトレーを持って出たときにもエディは同じ場所にいた。いまちょっかいを出すとせっかくのドリンクがダメになってしまうかもしれない。わたしはまっすぐに先程のふたりのもとに向かった。
ふたりは機嫌よくチェアに腰掛けている。見たところ友人同士という雰囲気以上の関係性をこちらに見せつけるような接触はしていないようだ。などと、歩きながらジロジロと見つめている自分に気づき、頭を振って邪念を払った。
相手はお客さん! ちゃんともてなさないとダメでしょうが。しっかりしろ、わたし!
にこりと笑いかけて近づくわたしを白人の男性が先に見つけた。トレーを差し出すと、氷の入った冷たいカクテルを取り上げて赤い色を空に透かしてみせる。
「これがヘブンズ・ブレス? かわいいね」
自分に言われたわけでもないのに、なぜだか心臓がドキリとした。さっきまで隣の男に見せていた邪気のない笑顔ではなく、対店員用の礼儀を込めた笑顔だ。どことなく冷たい印象を受けるのは彼の瞳が灰色がかった青色だからだろうか。
彼は持ち上げたグラスを隣の男に渡して、どう? と訊く。
「こういうのを試すのは初めてかもしれない」
そう言うと男性はグラスを口に運んだ。赤い液体が唇に吸い込まれていくさまをわたしと隣に座る彼とで見守る形になる。
言い訳をさせてもらうと、わたしはもうひとつのグラスをまだ渡していない。だからこの場に控えるのが正しい。それに、いつもなら宿泊客をこんなにじっと見つめたりもしない。
だけど、ごくりとひとくち飲み込んだあと、ハイビスカスの花びらが数枚口に滑り込んでしまい、食べていいのかグラスに戻したほうがいいのか悩むようにする男を間近にすると、どうしても目が離せなくなった。せめてもと、まばたきの回数を増やすことで視線をそらそうとする。
あはは、とほがらかな笑い声がした。
顔についた花を自分自身の指でつまむより白人の男が動くほうが早かった。身を乗り出した彼はなんのためらいもなく唇で花を挟むとそのまま口に入れて咀嚼し飲み込んだ。
「こら、ニール外だぞ」
一拍ほど間をあけてから、こちらをひどく意識して慌てた男が隣のニールと呼んだ相手をいさめる。当のニール氏は男に顔を近づけたまま言った。
「うん、天国の香りがする」
目を輝かせて相手だけを一心に見つめる姿は子どもみたいに屈託がない。ふわりと包み込むような笑顔で彼が笑うとその場の緊張がほぐれていくようだった。
──なにが恥ずかしいんだ? ぼくらはこんなに完璧なのに。
そんな言葉が聞こえる気がする。
男性もニール氏の雰囲気にのまれたのか強くいさめはしなかった。彼はため息をつくと飲みかけのドリンクをサイドテーブルに置き、腕を組んでわたしに向き直って伏し目がちに言う。
「……すまない。悪気はないんだ」
わたしは「いえ」とか「ええ」とか「まあ」みたいな相槌をモゴモゴ言ってじゅうぶんにうろたえていることを伝えた。まったくもってもてなせていない。それでも、グラスを取り落としたり滑って転んだりといった失態を演じはしなかった。日々のルーチンの成果である。トレーの上に残されたもうひとつのグラスを平気な素振りでニール氏に差し出し、その場を去るときのいつものセリフを口にした。
「なにかご用があれば申し付けください」
ニール氏は先ほどわたしに向けた対店員用の笑顔よりずっと角のない表情でグラスを受け取った。隣で腕と脚を組み、顔をそむける男の腕に冷えたグラスをツンと当てる。
「なにかある?」
口を引き結んだ男性は組んでいた腕と脚をほどいて座り直した。彼は申し訳なさそうに眉を下げる。
「さっき注文を受けてくれた青年にも、連れが調子に乗ってすまないと伝えておいてくれないか」
「きみとこんなにデートらしいデートができるなんて貴重だろう、はしゃいでもしょうがないと思わないか」
ニール氏はまたしても身を乗り出して主張したが、隣の男性は手のひらを彼の顔の前に向けて「NO」を突きつけた。男性の凛とした眼差しに気圧されたようにしてニール氏は静かにチェアに背中を預ける。それを確認した男性は落ち着いて話しかけた。
「時と場所を選んでほしいと言ってるんだ。難しくないだろうに」
唇を突き出してニール氏がしぶしぶ言う。
「きみがそう言うなら」
彼は持っていたカクテルを飲んで気を取り直したようにして「美味しいよ」と改めてこちらに声をかけた。
この場での仕事が終わった。わたしは一礼してきびすを返す。
ここでまた、言い訳をさせてほしい。決して聞き耳を立てていたわけではない。耳に入ってしまっただけだ。
「気を悪くしたか?」
いさめていた男性の声がした。それを受けて、「ぼくが悪かったとわかってる」とニール氏が応える。
「ここでなければ構わない、と言ったつもりだ」
「……ふたりきりならいい?」
「ああ、おまえが言うように口移しで飲ませてやってもいい」
笑い声がした。ニール氏が、あのとろけるような笑顔になったのが背中を向けていてもわかった。
「まさに天からの使いだ。ぼくは上を向いて口を開けて待ってるだけでいいなんて。きみでぼくをいっぱいにしてくれる?」
男性の返答は聞くまでもないだろう。カウンターまで走っていって誰かの肩を揺さぶりたくなる気持ちを理解したけれど、努めて冷静にゆっくりと足を動かした。わたしの赤い顔を見たエディに、彼らはなんと言っていたのかと問い詰められたらどう答えようかと考える。
……いや、答える必要もないか。お客さんのプライバシーを漏らすなんてプロにあるまじき行為なのだから。わたしは内心で何度かうなずき、全部わたしの心の中だけにしまっておくことに決めた。