共鳴 ―resonance― シーツからはみ出た彼の足先がくるぶしに当たってくすぐるみたいに上下する。お返しにこちらからも、もう片方の足を使って指で引っ掻くように脛をこすった。でも、寝巻きのトレーナー越しでは撫でるようにしかならない。
息を漏らすだけの笑みを浮かべて、隣で寝そべる相手を見つめる。ダウンライトに照らされた頬が、きゅっと持ち上がるのがかわいらしい。
「どこまで話したか忘れたじゃないか」とぼくが言うと、「帰ってきて部屋を確認したんだろ?」と彼が続きを促す。
「そうだった。部屋には誰かがいた痕跡があったんだ。少しも荒らされていなかったけど、慎重になにかを探した形跡があって……」
彼の足指がつま先をなぞるように触れる。小指から親指まで一本ずつ丁寧に、感触を確かめるようにして進んだ。
手先はぼくの方が断然器用だと自負しているけれど、彼は変なところが器用だと改めて思う。
口を閉じると、彼は続きを催促した。その間もずっと指はつま先のあたりを探ってくる。
「ニール」
呼びかけながら、彼はつま先を足指できゅっとつかんだ。別の場所がつねられたみたいに引きつって皮膚が熱くなる。ため息に近い息を漏らして話を続けた。
「……結局、なにもなくなってなかった。でも、あらためて確認したら見覚えのないものがあって……」
パジャマの裾から、足指がふくらはぎまで進んだ。するすると登り、布が捲れ上がってそれ以上進めない限界まで来ると、諦めたように降りていく。それでも、脚から指は離れない。
いたずらが成功したと得意になるでもなく、これから親密な行為をしたいと誘いをかけるでもない澄ました表情と、さっきから続いている行動との差に、ひどく煽られた。
じゃれ合いにしては少しばかり踏み込みすぎではないか。あるいは、彼にとっては手で触っていなければ触れ合いには含まれないのか。
「話せと言うから話しているのに、聞く気がないならここまでだ」
怒った振りをして目を細めてみせる。
彼は小さく首をひねって、本当に? と訊きながら脛を引っ掻いた。
期待が足元から全身に響いて反響する。
このひとにかかるとひとたまりもない。
ぼくにとっては少し早目の時間にふたりでベッドに入ったときには、あとは眠るだけだと思っていた。普段からそうではあるものの、忙しい彼は、朝は早くから活動を始め、夜もまた早く就寝した。対してぼくは朝に弱い。以前は朝の方が頭が冴えたけれど、怪我が治ってからは夜にかけて調子が良くなるようになった。そうすると、重なり合う互いの時間が自然と目減りした。
彼が眠っている間に、日中に必要になった情報を用意できるのは生活サイクルが違う利点だけれど、ぼくの体調が安定し、別の寝室で睡眠をとるようになって以降、一緒に眠る機会がぐんと減ったのにはがっかりした。とはいえ、隣で眠るだけでも安心するので、頃合いを見計らっては同じベッドで眠る打診をしては受け入れられてはいた。
彼に後ろから抱きしめられて眠るのが好きだった。吐息が首の後ろに当たるのを感じては、ひと息ごとに幸せに打ち震えずにはいられず、この瞬間を迎えるために自分は生き延びたのだと確信した。
身体に回された腕と背中から感じる穏やかな彼の匂いや体温、小さなみじろぎに至るすべての瞬間をぼくの脳はあまねく味わい尽くす。すると、あっという間に安心して、すぐに眠りに引き込まれてしまうのだ。これは、一度知ると後には戻れない、他には代えがたいものとなった。
ただ、そうやって共に寝ていても――あるいは、だからこそ――性的な接触をしないのは暗黙の了解になっていた。
ぼくとしては、彼とそういう意味での触れ合いをするのはやぶさかではなかったけれど、彼から提案されることはなかったし、そうであれば自分から求めることもなかった。
それなのに。
――どういうつもりだよ。
「明日も早いんだろ? 寝ないでいいのか」
そう訊くと、なぜだか彼は唇を尖らせて不満そうにした。
「直近の仕事は終わらせてきた。明日はオフにする予定だ」
ふうん、と気のない返事をするぼくを、彼は唇を尖らせたままじっと見つめた。
自分と彼の顔までの距離をざっと目で測る。だいたい二十五センチ。いや、もう少し遠いかも。いままでに彼とキスをしたことはない。ちょっとくらい唇に唇が当たったってもどうということもないと思う。かと言って、誘いなんてかけられない。彼が望んでいなかった場合のリスクが大きすぎる。隣で眠るだけでも幸せなのに、一時の気の迷いですべてを台無しにするわけにはいかない。
それでも、一度くらいはキスしてみたかった。もしかしたら、びっくりするくらい相性がいいかもしれないし、その結果、それ以上のことに及ぶ確率も上がるかもしれない――
切れ長の両目がすっと細まったと思うと、彼は笑いを噛み殺すように口を歪め、どこか照れた様子で訊いた。
「なにを考えてる?」
「……え?」
脳内の妄想を相手に見透かされたかと思って心臓が跳ねた。
「ニール」
笑い含みの声でぼくの名前を呼んだ直後に、堪えきれないとばかりに彼は笑った。面と向かって笑われるのが珍しくて目を見張ってしまう。
脛のあたりに軽く触れていた足先は、いまやぶつかるように何度も当たってきて、さっきまでの雰囲気は一瞬でかき消えた。
触れ合いの兆しがなくなった喪失感と、楽しげな彼の様子への驚きと、どうやら笑われているらしい自分への当惑が一度に去来して閉口する。彼が落ち着くまで黙って待ち、しかるのちに問いただせばいいと分かっていながら、ぼくはぼやくのを止められなかった。
「なに笑ってるんだよ」
くくくと喉を鳴らすようにする男は、はあ、とひとつため息をついてからふやけた顔のままこちらに向き直る。
「きみは分かりやすいな」と言って、パジャマがずり上がった方の脚を両脚で挟んできた。急な圧迫と密着で一瞬気がそれたものの、彼の脚をすぐに挟み返して力を込めた。
再び不満を口にしようとしたとき、彼の両手がぼくの頬を包みこんだ。サラサラしていてほんのり温かい。わだかまった反感の芽が一気にどこかに飛んでいき、ぼくだけ置いてけぼりになってしまった。魔法か催眠術みたいに、彼のぬくもりに集中させられてしまう。
「ニール」
楽しげに名前を呼ばれただけで感じ入る相手はほかにはいない。次の言葉を黙って待っているというのに、彼ときたら、またくすくすと笑い出した。
「はっきり言えよ、なんなんだ」
どうしても両手に挟まれた頬に注意が向かうので、弱々しい聞き方になった。
「おまえこそはっきり言ったらどうだ?」
余裕のある涼し気な態度が鼻につく。訊いているのはこっちなのに、気圧されてしまう自分が嫌だった。なにを考えているかなんて、言えるはずないじゃないか。悔し紛れに言い返す。
「明日の朝食について考えてた。コーヒー豆の買い置きがなくなるから買わないといけないって」
へえ、と眉を上げるのが小憎らしい。まるで、本当にぼくの考えを読み取れていて、嘘をついているのも了承済みだとでもいうようだ。
彼の親指が頬を撫で、互いの脚は交互に絡み合って動かない。
こんな小さな嘘にさえ罪悪感を抱かせるなんて、とんでもないひとだと思う。ひとつ撫でられるごとに、すべてがうやむやになっていく気がした。
それでもいいかと思い始めた頃、彼が口を開いた。
「笑って悪かった。きみの目が……」
「面白いものが写ってた?」
言い淀むのを助けてやると、彼は首を振って否定し、やおら頭を近づけてきた。顔と顔の間の距離は、目測で十センチくらいになった。頭を後ろに下げようにも、両手で頬を挟まれているので難しい。
「見えるか?」と瞳を覗き込まれた。
もちろん、見える。すごく近くにある。ちょっと動けば顔と顔がひっつく距離にきみがいる。
ふ、と再び彼が笑みを浮かべて言った。
「また、瞳孔が開いてる。おれのも見えるか?」
とっさに、まばたきをしないようにした。でも、それに合わせて口元に力が入ってしまい、ギクリとしたのを隠せなかった。
「……そんなに露骨だった?」
「名前を呼んだら一気に広がったから、つい……。すまない、おれの名前も呼んでくれ。きっと広がる」
至って真面目に提案してくる。
恥ずかしさでじわじわと体温が上がるのと同時に、可笑しさもせり上がってきた。
「なんだよ、そのためにちょっかいをかけてきたのか。ぼくで遊ぶのは楽しかったろうね」
瞳孔が開くのを見てただなんて、意地が悪い。好きな相手が目の前にいて、脚をくすぐって名前を呼んでくれるのだから、できるだけたくさんの情報を記憶したいと望むのは当たり前ではないか。
赤くなっているに違いない頬を挟む手が顔を上向ける。宥めるみたいな声がした。
「悪かった。おれの名前も呼んでみてくれないか」
そんなに呼んでほしいなら呼んでやる。
いつだって、何度も何度も胸の中で呼びかけている名前を口に出した。
茶色い瞳の奥の黒い円がきゅっと動いた。ほんの僅かな動きだったので、それが呼びかけたからなのか分からず、今度は気持ちを込めてもう一度呼んでみた。
円が、ふわっと大きくなった。
「……すごい。本当に開くんだな」
なぜか満足そうな顔をして、彼は微笑んだ。
待てよ、ぼくと同じ動きをするって、それは――
「ニール」
きっと、ぼくの瞳孔は呼びかけにじゅうぶんに応じたと思う。でも、彼はそれを確認せず、ぼくも彼の名前を呼び返せなかった。
じいん、と唇から身体の奥に温かなものが注ぎ込まれていく。慈愛とは彼からの愛を指すのだと実感した。離れないように服をつかんで引き寄せると、彼は身体に腕を回して深く口づけた。
この選択を取ったのが彼だという事実に励まされて、何度も唇を求めてはキスを返してもらう。どんなキスも全部欲しい、ぼくのためのすべてを受け取りたい。
呼吸する間も惜しんでしがみついていると、彼が控えめに肩を叩いた。
「……分かった。おれもおまえが大好きだ」
本当に? と聞き返す前に身体が唇めがけて動く。どうしようもなく止まらない。
今度は強めに肩を押しやられた。
「そう急ぐな。落ち着け」
話そうとして息が上がっているのに気付く。心臓もすごい速さで脈打っている。こんなときに、冷静になる必要なんてあるか?
「もっとしたい。もっと好きって言って」
肩を押さえる手に力が入った。彼は赤らんだ顔をしかめて、言うことを聞かないぼくを睨みつけた。
「歯止めが効かなくなるだろ」
肌が粟立ち、身体から力が抜けた。
どうしてこうも狙いすましたように、ぼくを打ちのめすんだろう。かろうじて取り出した自制心を一心に稼働させる。
「それは困るな、ぼくに夢中になってるきみなんて、魅力的じゃない」
ギラッとした視線に皮膚を撫でられて、熱に焦がされたように感じた。余裕のない声で彼が言う。
「嫌いになったか」
こんなの到底抗えない。
「心の底から」
ふたりして口元を緩めると、どちらからともなくキスを交わした。
ぼくは記憶する。彼との初めての口づけを、自分の内側をくすぐられるような感触を、逸る心を、彼の笑顔を、吐息を、絡まり続けてしびれてきた脚を、手のひらの温度を、視線を、あふれるほどの慈愛を、すべてを。
「大好きだ」
互いの頷く顔には、同じ笑みが浮かんでいた。