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     唇と舌の温かさが驚きをしのいだ。
     挨拶をするために開いた口をつぐませるようにしてボスは唇に唇を合わせた。まるで中からなんらかの美味しい味がにじみ出ているのだとでもいうように、口内に入れた舌をこちらの舌に巻き付けてくる。
     驚愕と背徳感でニールの思考は動きを止めた。手に持ったドライフードが床に落ちてドサッと音がする。なにも考えられず、反応できず、なすすべなく身を任せるしかできない。そのせいか、唾液が湧くのに飲み込めず、口から口へとダラダラと流れた。ボスは嫌な顔ひとつせずに素直にすべてを飲み込んだ。
    「ん……っ、あ」
     気づけば壁際に身体を押しやられていた。腰を引こうにも男の固い脚が股の間に割り込んでおり、背後は壁に阻まれて動けない。
     股の間にある男の膝がぐっと持ち上がった。痛みに近い刺激が下腹部を刺し、思わず頭をのけぞらせた。
    「あ……っ、ごめん、待って」
     この状況に陥ってから初めて意味のある言葉を発した。普段は冷静で自己を律する組織のボスが、廊下ですれ違いざまに、彼がもっともしなさそうなことをする理由がわからない。たとえば、これが潜入調査中であれば、シチュエーションは限られているとはいえ、自らを囮にするためだとか、追手を撹乱させるための行動である可能性はある。けれどここは、組織が管理している回転ドアを有する施設内だ。身内しかおらず、誰かを撹乱させる必要はないはずだった。
     意外にも、待ってという制止の声でボスの動きが止まった。彼は吸い付いていた口元からわずかに顔を離してニールを見つめた。その視線は至って怜悧で、なにか悪いもの――ドラッグや毒なんか――を体内に入れた人間のそれとは一線を画していた。
     ――彼はシラフだ。では、これはなんなんだ。
     ニールがそれまでと別の意味で肌を粟立たせたとき、ボスの唇が静かにと言うように、しい、と横に動いた。
    「え?」
     黙れということだろうか。疑問符を投げると、再度「しいい」とボスが告げた。
    「でも、こんなの……」
     相手から遠ざかるようにするニールの反応が気に入らなかったのか、ボスは怒ったように胸に爪を立てた。きれいに整った爪は身体を少しも傷つけないけれど、黙って凄む姿はニールの心を鋭い力で引っかいた。
     形のない不安がとぐろを巻いて自分たちを包むようだ。シラフに見えても体調が悪いのかもしれない。恐る恐る額に手のひらを当てようとすると、彼は首を振って避けた。そして再び、ニールの唇めがけて顔を突き出した。
     頭をつかむように腕が回ってくる。筋肉のついた腕に挟まれてニールはくらくらした。嫌ではない。決して嫌悪感はないのだが、彼の真意が読めないのだ。
     羽交い締めにされて自由が奪われる。かぷかぷと角度を変えながらキスをされ続け、結局、ニールは抵抗するのを諦めた。求めに応じて口づけを返すと、身体からどっと力が抜けていった。
     驚きによってしばし失われていた感覚が徐々に戻ってくる。気づけば身体中に熱が充満し、彼の唇と同じくらい熱くなった。好ましい匂いがする。できるだけ近くで嗅いでいたいと願っていた汗と香水の混じったまろい香りだ。彼の背中に手を回し、より深く口づけるために首を傾けた。口は塞がっていたけれど、息が荒くなっていくのを止められなかった。
     いますぐここで、と求められるなら彼の希望通りに振る舞うのは確実だった。違和感などとうに遠くに追いやられた。誰に見られたって構うものか。他の場所にも触れて欲しい。すべてをさらけ出してしまいたい。きみが欲しい。ぼくを暴いて。早く、早く、早く。
     切羽詰まった甲高い鳴き声がした。
     自分の縄張りにいる外敵を追いやろうとする猫の鳴き声だ。それと同時に彼が襲われる音もした。目を向けると、彼は敵の第二の攻撃――一度目は脚のあたりを引っかかれたらしく、カーゴパンツが避けていた――を躱し、片足を振り上げる素振りを見せた。
     黒い猫は素早い身のこなしで足を避けつつ、全身の毛を逆立ててボスを睨みつけては大きく口を開けて威嚇している。ボスも同じく威嚇するような音を出した。
    「……キング?」
     キスの余韻を引きずっているニールは、急な展開に眉をひそめた。黒猫のキングは、マヒアが連れてきた怪我をした猫だ。動物病院で治療をしてからしかるべき団体か個人に譲り渡す予定だったが、怪我が治ったあともこの拠点から離れるまでは飼っていたいという声が出て、誰も反対しなかったためになし崩しにともに過ごすようになっていた。高いところからこちらを見下ろす姿が王様のように見えるという理由からキングと名付けられたこの黒猫は、人懐こくて顔を見せると挨拶をしてくれる。
     先ほど施設内で見かけたときには、他人に目もくれずに同じ場所を一目散に駆け抜けていたので、ネズミかなにかが出たのかと思ったところだ。そのキングがボスを攻撃していた。ボスもボスでおかしかった。キングを大切に扱っていたのに、いまは確実に敵意を見せている。
     距離を取るかに見えたキングは、助走をつけてボスに飛びかかった。まるで、こちらからボスを引き離そうというかのような見事な飛びつきで、ニールは思わず身をすくめた。
     ボスはなんなくキングを振り払い、身を低くして彼と対峙した。なにやら一触即発の雰囲気だ。
    「どうしたんだ、喧嘩なんてしちゃダメだ」
     ニールはキングの前に膝をつき、ボスを守るようにして両手を広げた。キングは「なーう」と不満げにひと鳴きしてニールの前でかしこまるようにして座った。
     金色の瞳にまっすぐに見つめられて、ニールは彼になにかを訴えかけられているような気分になった。なんらかの不満があり、それを解消すべく頼まれているように感じてしまう。
    「なに? どうしたんだ。きみの気持ちがわからないよ。話せたらいいのにね」
     なにかを訴えてか細い声を上げるキングは悲しげに見えた。さっきまでの好戦的な態度とはまったく違う姿に、キングはボスが苦手だったろうかと後ろを振り返る。ボスは目を細めてニールとキングを見下ろしていた。ニールの視線をたどってボスと目が合ったのか、キングの威嚇する声が再び聞こえる。やはり因縁がありそうだ。ニールは穏便に済ますために提案した。
    「キングを部屋まで連れて行くよ。きみはこの子から離れていた方がいいみたいだ。嫌われるようなことでもしたのか?」
     立ち上がって目を合わせると、むっとした顔に出迎えられた。気持ちがわからないといえば、ボスの気持ちもわからないままだ。さっきのキスはなんだったのかと意識が滑った瞬間に、またキスをされた。
     今度も身体をぎゅうぎゅうと押し付けられて唇を奪われる。キングの怒った声が下から聞こえて、ボスが足を動かすのがちらりと見えた。
    「ダメだ、キングが」
     頭を振ってボスの肩越しにキングを見る。彼はボスの身体を登り、バリバリと服を引っ掻いていた。腰のあたりにいるキングと目が合う。彼はじっとニールを見つめて「なーん」と悲しげな声を上げた。次の瞬間には、振り払おうとするボスからひらりと飛び退き、めげずに足元を狙って爪を立てた。
    「こら、どうしたんだ」
     ニールはキングとボスの間に割り行った。互いに避ける間もなく鋭い爪が腕を裂く。思わず「痛っ!」と声を上げた。
     キングは驚いたように後ろに飛び退いた。
    「びっくりさせたね、ごめん。大丈夫だよ」
     床に膝をつき、ちらりと痛みのある箇所に目をやると、まっすぐに破れた袖から薄く血の滲んだひっかき傷が見えた。キングはニールの膝に前足を乗せて傷口に首を伸ばし、自分が怪我をしたみたいに悲しげな声で鳴いた。ニールを傷つけた反省をしているのか、抱き上げても暴れない。「大丈夫、痛くないよ」と安心させるように言うニールの鼻に、キングはちょん、と自分の鼻を当てた。
     彼はすっかり落ち着いている。さっきまでの興奮はなんだったのかと見つめ合っていると、廊下の先から誰かの走る音が近づいてきた。顔を見せたのはアイヴスで、ニールとボスの姿を見ると、目に見えてほっとしたように大きく息をついた。
    「こんなところにいたのか」
     きゅ、と靴底が鳴ったと思うと、ボスがアイヴスから離れるように反対方向に駆け出した。
     はあ、とアイヴスはもう一度大きく息を吐き、腰から取り出した無線へとげんなりした様子を隠しもせずに言い捨てた。
    「南棟、二階、目標一が上階に向かって逃走。目標二は目の前にいる。……もう逃げないでくださいよ」
     アイヴスがこちらに目をやってぼやくので、ニールは背後を振り返った。走り去ったボスの姿はすでにない。アイヴスとほかの誰かが彼を追いかけているようだが、ニールにはまったく話が見えなかった。
    「なんだよ、物々しいな。ボスの様子がおかしかったんだけど、なにかあったのか?」
     アイヴスは首の後ろに手を添えて、答えを考えるようにこちらを見た。なにかを言いあぐねている彼と一緒にいても、キングは黙ったままおとなしく抱かれている。やはりボスに対してだけ暴力的になるらしい。指先で首元をくすぐるとキングは目を細めて見返してきた。それから、前足で自分が引っかいた箇所をちょんちょんと示した。
    「うん、痛くないから大丈夫だよ。ご飯を用意するつもりだったんだ。もしかして、それを待ってた?」
     ニールがキングに笑いかけると、キングはニールではなくアイヴスをじっと見つめた。
     アイヴスが口を開こうとしたとき、彼の無線が声を発した。
    「目標一、確保。繰り返す。目標一、確保」
    「よくやった。ドアまで移動できそうか?」
    「薬を打ったので連れて行けます」
    「そうか、ご苦労だった」
     はあ、と大きくため息をついてアイヴスが言った。
    「では、回転ドアまで戻りますよ、ボス」
     ニールの腕の中のキングが姿勢を正してアイヴスへと返事をした。
    「にゃあ」
     そして、ニールを振り向いてもう一度「にゃあ」と鳴いた。温かくてさらさらな毛並みをした猫の、たしかな意思を感じさせる強い視線がそこにあった。

       *

     薬を打たれたボスの身体は、担架に乗せられて回転ドアまで運ばれた。確保するまでに三十分以上かかっていたらしく、やむなく薬を使う判断を下したという。それでもニールは不満だった。彼の身体は自分の元に長く留まってくれていたのだから、なにか手伝えたはずだと思った。なにより、いつだって強靭な彼が力なく運ばれる姿を見るのは忍びない。
    「ぼくにも言うべきだったろう」
     ニールが隣に立つアイヴスに訴える。
     大捕物の後、ふたりは回転ドアの順行側から今回の関係者たちが逆行するのを見送っていた。
     この施設の回転ドアは、中はガラスを通して隣室を確認できるものの、逆行側と順行側は壁に阻まれていて外からの行き来が手間だった。逆行した者は、順行の者と顔を合わせぬように動ける点で便利ではある。しかし、一方通行のように、ぐるりと施設内を回り込まないと回転ドアの外からは往来できない作りだった。キングはそんな事情など知らず、逆行側と定めた箇所に迷い込んだのだろう。
     ボスとキングが入れ替わったのは午後三時だった。ボスが逆行から順行へと戻ろうとして開いたドアに、順行中のキングが一緒に入ってしまったらしい。ふたりは順行へと戻ってきたが、その存在は変わってしまっていた。同行していた隊員たちとアイヴスが事情を把握して経緯を確認するさなか、ボスの身体に入ったキングが施設内を逃走したのだという。
     ニールたちが順行側の部屋に入ったとき、キングと、彼に酸素マスクをあてがって運ぶ隊員とが逆行側の部屋に戻ってくるのが見えた。それを確認してキングと隊員は過去に遡った。ニールの目には、キングの身体をしたボスは、猫の姿であっても堂々として映った。
     先行するふたりに続き、五分間の時差を作ったいま、ボスの身体を回転ドアによって逆行させる。逆行側の部屋では、ボスの身体はゆっくりと回転ドアへと運ばれていた。
     身体をもとに戻す計画を立てたのはアイヴスだ。その計画とはこうだ。ふたりが入れ替わった時刻――午後三時――の三十分前まで、逆行した者全員が人目を忍んで隠れておく。キングともうひとりの隊員は午後二時二十五分まで逆行に留まり、その後順行に戻る。キングへの酸素が必要なくなるので順行に戻った隊員はその後、自分が過去に戻った時刻である午後四時頃まで姿を隠す。
     ボスとキングの合流予定時刻は午後二時半。キング――中身はもちろんボス――は合流時刻を目指して逆行側のドアまで施設内を一周して戻り、逆行から順行に戻ろうとするボスの身体とともに回転ドアに入る手はずだ。
    「この方法でうまくいくのか?」
     ニールは指をこすり合わせてイライラとした様子を隠そうともせずに訊いた。
    「一緒にいた隊員が、逆行側のドアに順行の猫が一緒に入ったのを見たんだと。その後でこうなってるんだから、試してみるしかないだろう」
    「だからって危険すぎる。成功するかもわからないのに」
    「こうなってから、おれたちはあのひとと猫に会っていない。自分たちが逆行するまでの時間をどこかで隠れてやり過ごしてたってことなんだから、成功したんじゃねえのか」
     焦る様子も見せないアイヴスにニールは憤った。そもそも、ことが起きた最初から、なにがあったのかを伝えるべきだった。自分だけ蚊帳の外に置かれたまま、こんな非常事態が起きるなんて許せない。
    「なんで黙ってたんだよ、ぼくだって力になったはずだろ」
    「ボスの身体が逃げなきゃおまえに言う必要もなかっただろうよ」
    「結局、ぼくへの説明は最後だったじゃないか」
    「黙ってられないなら部屋に戻れ」
     にべもなく不平を遮られてニールはむっとした。言いたいことはもっとある。
    「黙るかよ。ボスとキングが一時間半も逆行するのにも反対だね。適当な時間を置いてからぼくらの前で数分逆行したらいいだけじゃないか。彼らがきちんと戻って来れるのか、入れ替わりは成功したのかが把握できる。きみの作戦は時間の無駄だ。戻ってくるまでに三時間以上かかるのに」
    「今日の二時半頃、なにしてたか覚えてるか」
     アイヴスの急な問いかけへの返答がすぐには浮かばなかった。聞き返そうかと彼の顔を見ると、真顔でこちらを覗き込んでいる。
     ニールは記憶を探った。午後はずっと施設内にいたはずだ。ボスの帰還を待ちながらキングのフードを補充しようとしたのが四時前。二時半頃は、たしか、次の任務の調査報告書を持って行ったのではなかったか。
    「ボスの部屋に報告書を置いたのがそのあたりだと思うけど、正確には覚えてないな。その時間になにがあったんだよ」
     眉をひそめるニールに目をやり、アイヴスは言った。
    「おまえが言ったんだ。キングが二匹いた、ってな」
     ニールはいっそう眉間のしわを深めた。
     待て、たしかに近いことを感じた気はする。しかし――
    「そうは言ってないはずだ。……たしかこうだ、『同じ猫が二匹いるみたいだ』。キングが二匹いたとは言ってないだろ。まさか、ぼくのせいなのか」
     アイヴスの言う時間に、同じ部屋を二度駆け抜けるキングの姿をニールは目にした。廊下から扉の開いた部屋の中を横切っていったかと思うと、再び先ほどと同じ扉側から部屋の中に入ってきて反対の扉へ向けて出ていったのだ。似たような猫が二匹いるみたいに俊敏な動きだとニールはアイヴスに言った。そのときは、キング一匹が走り回っていたのだと思っていたのに。
     口元に手を当てるニールにアイヴスが取りなすように言った。
    「あの時間帯だ、目撃者はおまえだけじゃないだろう。ただ、知ったからには伝えるしかない」
     なにも言えず、ニールは腕を組んで不満を押し隠そうとした。アイヴスの選択が筋であるのはわかる。起きたことは起きたこと、その流れに沿って時を進めながら目的を達成するのだ。しかし、それならばなおいっそう、自分に確認するべきだったのではないかと思えてならない。キングが二匹いたとは思っていなかったのだと言う機会があれば、すでに逆行してしまった彼らの負担は少なくなったのではないか。
     ニールは押し黙り、順行側の部屋はふたりの息遣いしか聞こえなくなった。そのとき、小さくか細い猫の鳴き声が遠く聞こえた。ふたりは顔を見合わせて部屋の扉を開く。黒い影がニールに飛びかかってきた。
    「キング! キングだよな?」
     ニールの腕の中に飛び込んだキングは、頬をザリザリと舐めては満足した様子でにゃあと鳴いた。キングの後を追うようにしてもうひとり、男が顔を覗かせた。
    「心配をかけてすまなかった」
     変わりなさそうに見えるボスの姿を見て、ようやくニールは肩から力を抜いた。アイヴスに目をやると、彼も深く息をついている。
    「手間をかけたな、助かった」
     ボスのねぎらいを受けて、アイヴスは当前だという風に首を振る。すぐに気を取り直すと入れ替わりを知る者たちへ、ボスの無事を報告しに行った。
     彼らを待っていた間は気が急いて、早く無事を確認したい、なにが起きたのかを知りたいと思っていたのに、いざ、ボスとキングとともに部屋に残されたニールは、廊下で起きたことを思い出してまともに彼の顔を見られなかった。中身がキングだったと知らなかったとはいえ、何度もキスをして身体を好きに触ってしまったのだ。
     黙ってキングを抱きしめるニールに、男が頬をかきながら声をかける。
    「……その、なんだ。おれの身体が悪さをしてすまない」
     ニールは慌てて頭を振った。
    「なに言ってるんだ。ぼくの方こそ悪かった。すぐに気づくべきだったのに」
     その言葉にボスはくすぐったそうに笑う。
    「中身が猫になってるって? 無理がある」
     空気が緩んだのを感じ取り、ニールは体調について聞いた。まだ薬が抜けたばかりだけれど、入れ替わる前と目立った変化はないらしい。医者のところに行ったのかと訊くとまだだと言う。
    「早く診てもらおう」
    「どうせ長くなるから、先に言っておこうと思ってな」
     部屋の扉に手をかけようとしたニールはピタリと動きを止めた。このまま言明を避けて普段通りの関係に戻れるのではないかと期待したが、やはり、なかったことにはならないらしい。男は、背を向けたニールに声を投げた。
    「あのことだ、その……おれの身体がきみに無理に迫ったのを謝りたい。悪かった」
     振り返ると、男のまっすぐな瞳がニールを迎えた。ニールの中の気負いが音を立てて萎んでいく。たとえ猫の姿になっていたのだとしても、彼にはキスをした相手が喜んで応えていたのがわかっただろう。目を閉じて両手を背中に回し、身体を引っ付けていたのだ、気付かないはずがない。でも、それについては不問にしてくれている。ニールは小さく息を吐いた。
    「いや、きみも被害者だ。さっきも謝ってくれたし問題ないよ。さあ、医務室へ」
    「それもだ」
     扉に伸ばした腕を見咎めて、男が指摘する。
    「その腕も悪かった。思った以上に身体が早く動いてしまって……。痛むだろう」
     爪で引っかかれた腕の傷は、すでにほとんど痛まない。ひらひらと振ってみせて平気だと伝えてみる。
    「消毒はしなくちゃだろうけど、平気だから……」
     腕の中のキングが飛び降りた。ボスの身体が音もなく近づき、ニールの腕を目の位置まで持ち上げて傷の確認をする。
     廊下で起きたことを容易に思い出した。この相手が自分の腕の中にすっぽりとおさまってくれたのも、自分を強く求めてきたのも、すべては彼の意志ではないのだと頭では理解しているはずなのに、心臓は騒ぎ立てるのをやめない。彼の身体は強靭で、柔らかくて温かかった。あのときの感覚を記憶に留めておくのをこのひとは許してくれるだろうか。
     傷口に目を落としたまま男が言った。
    「舐めてやろうか」
    「……え?」
    「消毒、まだなんだろう」
     こちらを見上げた瞳は真面目で鋭く、とてもふざけているようには見えない。ニールは言葉を失った。
     固まった空気が部屋を満たす前に、男は顔をくしゃりとさせた。
    「冗談だ」
     はは、と力なく笑うニールの声に覇気はない。当たり前だ、冗談に決まっている、彼は面白がっているだけ。けれどああやって真剣な表情をされると信じてしまいたくなるのだ。廊下で迫られたときもそうだった。ニールは髪をかきあげて居心地の悪さをいなそうとした。そんな相手をよそに、男は満更でもない様子でいたずらの成功を笑う。
    「真に受け過ぎだ。でも、そういうところがキングに受けたんだな」
     唐突なキングの登場にニールは首をひねった。男は床の上からこちらを見上げるキングを見下ろして、どこか気恥ずかしそうにしながら言った。
    「入れ替わったとき、キングとしての感覚が流れ込んできたんだ。あいつはおまえのことが好きらしいぞ、いまとなっては言うまでもないが」
     足元に控えるキングが、そうだと言うように頭を擦り寄せてきた。
    「おまえに好かれて光栄だよ、キング」
     男の申し出を本気かと勘違いした恥ずかしさもあり、ニールはしゃがみ込んでボスから顔を隠した。猫の頭を撫でると、キングは自分の鼻をこちらの鼻に当ててきた。鼻の頭は湿っていてほんの少し冷たい。そのいじらしい仕草を少し前にも返されたのだと、ニールはそのとき思い出した。引っかかれて思わず声を出して痛がってしまい、慰めてもらったのだ。
     ――あのとき、キングの中にいたのはボスのはず……。
    「え」
     今度はしっかりと固まった。
     控えめなノックの音がしてアイヴスが顔を出した。
    「医者が待ってる。早く診せろってうるさいんだが、もういいか?」
    「すまん、いま行く」
     ボスに従うようにしてキングも扉の向こうに歩いていった。ひとりと一匹を見送ったアイヴスは、部屋の中でしゃがんだまま固まるニールに声をかけた。
    「で、謝れたのか」
    「……なにを?」
    「キングが二匹いるみたいだって言ったから逆行の時間が長くなったって、おまえね……」
     はあ、と身体の中の空気を出し尽くすようにアイヴスはため息を付いた。
    「すまないアイヴス。言うのを忘れた」
    「おれに謝っても仕方がない。どうした、クソでもするのか」
     しゃがんだまま動かないからといってこの場でするわけがないだろうが。そう言い返すよりも、頭の中はボスが鼻にキスをした――厳密にはキスではないにしろ――という事実でいっぱいになっていた。なにしろ、知り合って以降、挨拶と称して頬にキスする振りすらされたことはなかったのだ。上司と部下という間柄では、まずそんな機会は訪れない。
     なぜキスしてもらえたのだろう、引っかかれたからか? そんなことならもっと攻撃されるべきだったか、いや、彼だって不本意だったはず。キングが自分になにをしたのかも考慮に入れなければ。だからあれは単なるフォローでしかなくて、でも、めったに起きないことだし。だってキスだぞ、どんなときにする? まず、嫌いな相手にはしないよな、だったら、それは――
    「もしかして、ぼくって愛されてる?」
     一足飛びに思考が流れ、頭に浮かんだことがそのまま口から出てしまった。はっとして両手で口元を押さえるものの、出てしまった言葉は取り戻せない。
     アイヴスが胡乱な目でニールを見下ろした。
    「よかったな、相思相愛で。ほら、メンテナンスが入るからおまえはここから出ろ」
     しっしっ、とまるで猫を追い払うように部屋から追い出されたニールは、アイヴスの軽口と、ボスがくれた鼻への冷たさを反芻して頬を緩めた。
     相思相愛、いまの自分たちにぴったりのいい言葉だ。今日という日に残された数時間だけでも、自分に起きたことを思い返してそう勘違いしてもいいだろうか。ニールは自分の鼻の頭に指を当てた。
    narui148 Link Message Mute
    Feb 12, 2024 7:12:07 AM

    レカペ4で配布しました。
    主さんとニールと猫の話。(9559文字)

    #主ニル

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