いつならよかった? ――キスしろ、キスしろ、キスしやがれ。
歯で切った傷口を舐めながら、信一は洛軍の坊主頭を見下ろした。城塞にはよくある、通路と通路が段違いになった場所だ。どちらが先にできたのか、コンクリートの通路の脇に、一メートルほど高くなった別の通路が寄り添っている。信一が塀から身を乗り出せば、その丸い頭を手のひらでかきまわせるほどの距離で、洛軍はタオルで汗をぬぐっては倒れたガスボンベを立て直した。もう五本目だ。低い方の通路が交差する隙間に、道をふさぐようにして他に何本か積み重ねられていた。空のボンベがなぜ通路の真ん中に放置されているのかも、洛軍がそれを集めて何をするつもりなのかもわからない。洛軍のことだ、住民に片付けてもらえないかと頼まれたか、自分から買ってでたのだろう。そうやって安請け合いして自分の時間を使い果たす。なんともご立派なことだ。
信一は塀から身を乗り出した。
「そっちにも転がってるぞ」
洛軍の背中側に一本、小ぶりな三十センチほどのガスボンベが落ちている。洛軍は信一の指さすとおりに動き、律儀に拾ってありがとうと言った。
「仕事か?」
一箇所に集めたガスボンベを見つめながら洛軍が答える。
「いや、道が塞がってるのをなんとかしてほしいと頼まれただけで……仕事じゃない」
「だと思った」
口元にほのかな笑みを浮かべた洛軍は誇らしげに見えた。ご立派さに拍車がかかって見えて信一は口をゆがめた。
「痛むか」
信一の口元を見て彼が訊く。
「転んだだけだ、言わせんな」
誰かに殴られたわけでも、ぶつけたわけでもなく、着地に失敗して唇を切ったのだった。そのときは、一緒にいたやつらに格好がつかないと思っていたのに、洛軍に見られると別な考えが頭に浮かぶ。振り払うように頭を振り、痛みで紛らわせるために唇を噛んだ。治りかけた傷口から血がにじむ。
洛軍の指が顎に添えられた。
それだけで信一の頭は固定されたように動かなくなった。洛軍の熱い指によって静かに傷口が見聞される。
「噛むのはよくない」
まっすぐな目が信一を見つめた。そこには純粋な親愛だけがある。
――キスしてえ。
再び頭のなかにあの考えが顔を出した。その考えはいつからか脳内に巣食い、時を選ばぬ衝動を伴って暴れ回った。いままで、信一はこういった欲望に振り回されずに済んできた。自分の姿形が他人から好ましく思われるのもあり、そこらの男より簡単に欲するものを受け取ってこれたせいでもある。
だが、差し出されるものにただ乗りしたわけではない。信一はうまく立ち回るために関係を結ぶ相手を見極める決め事をした。問題が起きてもあとを引かないように縁遠い相手を選ぶ、特定の相手を作らない、相手が自分に溺れないようにする、もちろん子どもができないようにする、などだ。そうでなければ、色恋ざたすべてが自分の弱みとなる。龍捲風を手本にするのだ、下手を打たなければ、彼のようにしっかりと一人で立っていられるのだから。
「どうした?」
洛軍が首を傾ける。ほとんど睨みつけるように彼を見ていたのに気づき、信一は頭を振って洛軍の指を振り払った。
「それより、そのボンベどうするんだ。扱いが手間だからそこに捨てられてたんだろうけど」
「とりあえず阿七に聞いてみようと思ってたんだが……どうしたらいいだろうか」
そんなこったろうよ、と信一は息をついた。
「中はカラだよな?」
信一の問いかけに洛軍はうなずき、軽々と持ち上げてみせる。うまくいくかはわからないが、信一にはちょっとした考えがあった。
「仕方ない、下まで持っていくか」
信一はそう言って、もたれていた塀から身をひるがえした。洛軍が慌てたように突きだした両手とその先にあるボンベを避けようとした信一は短い距離をうまくかわせず、再び着地に失敗した。
「洛軍! なんで邪魔した」
身を起こしながら毒づいた信一は、自分が洛軍を下敷きにしていると気づいた。この期に及んでまだ手にボンベを持ったままの洛軍は、自分たちのせいで再び通路上に散乱したガスボンベに目をやると、ようやく手から離して路上に置いた。洛軍は起き上がりながら、申し訳なさそうに目を伏せて言った。
「すまない。信一がまた落ちるのかと思ったら身体が勝手に動いた」
「またってなんだよ、見てねえだろ」
クソ、と言い捨てて座り直す。
「信一、血が出てる」
痛みのある口元に手をやると、たしかに血が指についた。心配そうな顔をする洛軍の胸元に自分の血が垂れている。どうせなら口に食らいつきたかったと、信一はため息をついた。
「悪いと思ってんなら治療してくんねえか」
こう言うと、四仔はいつも嫌そうな顔をして、舐めてりゃ治ると吐き捨てる。だが、洛軍なら手持ちのタオルで拭おうとするのではないだろうか。あの汗と砂にまみれたタオルを使って。
予想に違わず、洛軍は信一の傍らに膝をついた。傷を見ようというのか、顎を持ち上げられる。いいシチュエーションだと思ったときには下唇を洛軍に吸われていた。
洛軍は迷いなく傷口に口を当てて血を舐め取ると、まじないのように最後に小さく口づけをした。
間近にある洛軍の表情からは、おどけたりふざけた様子は一切感じ取れなかった。それこそ四仔が患者に接するのと似た、事務的な手続きを踏んだだけといった淡々とした行動だった。
信一は「治療」が終わり、洛軍が顔を離したあとも顎を上向けられた姿勢のまま動かなかった。頭では、洛軍に対して、それは治療とは言えないのではないか、などといった混ぜっ返しを言う必要があると判断できたが、どうにも行動に移せず浅く息をするしかできない。
洛軍に目を向けると、彼は首を傾けて「違ったか」と訊いた。
「そうしてほしいのかと思ったんだが……」
信一は深く息を吸った。
「いや、あってる。あってるけど、なんで」
そうか、とほっとしたようにする洛軍を見て、信一は調子を取り戻した。いつもの洛軍だ、なにをビビる必要がある。
よかったと言うと、洛軍は散乱したボンベに目を向けて立ち上がろうとする。
「待て待て待て、なに、これで終わり?」
「違うのか」
「そりゃ違うだろ。ちょっと待て、いまのは、なんだ」
「なにって、治療?」
「治療? じゃないだろ。はてなマーク浮かんでるし、え、おれそんなにわかりやすかった?」
洛軍は真顔でうなずいた。
「なんならいまも結構出てる。顔に」
「待て待て待て、なにが出てる? いや、言うな。言わなくていいから教えろ、どういうことだ?」
困ったように顔をしかめて洛軍は信一に近づいた。互いの鼻が触れそうなくらいの距離で洛軍が言った。
「おれと寝たいって書いてる」
ひっ、と喉を鳴らした自分に信一はぎょっとした。
全部見抜かれていた? なんてみっともない。いつだ、寝姿を盗み見したときか、偶然を装って肌に触れたときか、働いてる姿は見放題だとばかりにじろじろ見ていたときか、城塞の外に出ていろいろと発散したときのことは知らないはずだ、待て、まさか、全部見られていた……?
「信一、おれはつけ回したりしてないから安心しろ」
「考えてることを読むな」
「顔に書いてるから……」
「それを読むなって言ってる!」
――ああもう。
信一は肩を落としてうなだれた。
洛軍との初めてのキスに、ひとかたならない思い入れがあったのだとやっと気づいた。こんなふうに相手に主導権を明け渡すようなものではなく、もっと、もっとこう、「おれがガッといったらおまえが、えってなって徐々に距離が縮まるようなやつになると思ってたのに」
「なんだそれは」
洛軍は笑いながら隣に座った。うう、と唸る信一に向かってあっけらかんと言う。
「もっと早くしておけばよかったか」
「わかんねーよ、そんなこと」
信一は大きくため息をついて洛軍に向き直った。両肩に手を伸ばして固定し、額を合わせる。洛軍は余裕のある様子で信一がなにをするのか見つめている。
「わかんねーから、もっかいしていい?」
顔が近づく。
慣れてるのがムカつくと思ったのも束の間、信一は洛軍とのキスに夢中になった。血の味にいっそう興奮をあおられてやたらと音を立てて吸っていたら、洛軍が顔を引いて信一の胸を叩いた。
「もうわかったろ」
「はあ? なに言ってんだ、まだだ」
何度か唇に喰らいついて訊く。
「おれのことイヤなの」
「いやじゃない。だけど、見られてる」
通路の端とはいえ、公共の場所だった。
信一は飛び退るようにして洛軍から離れてあたりを見渡した。開いた窓はそこここにある。洛軍を見ていたときから人の気配はないものの、誰がどこにいてもおかしくなかった。
洛軍は口元に手をやり、にやりと笑って言った。
「冗談だ」
信一は言葉に詰まって拳を握りしめた。なにからなにまで、洛軍にしてやられている気がする。さっきのキスにしても、自分ばかり盛りがついたみたいに襲いかかっていたのに、洛軍は冗談を言う余裕さえあった。
「だあっ、クソ、おまえな、そういう冗談はやめとけ」
洛軍は、悪い、と明るく笑ってガスボンベを集めだした。その背中に向かって投げかける。
「今夜だ。いいな」
声が震えなくて安心した。
洛軍は振り返って訊いた。
「どっちがいい?」
信一が答えないのを確認した洛軍は、ガスボンベを複数個両手に抱えながら笑みを残して歩き去った。
その場に一人残された信一は、はやる鼓動を収めるためにうずくまって髪の毛をかき回した。