Teardrop【Attention】
本作は2021年9月12日 21:51privetter掲載作品となります。
ep.7後のIF話。『獅子の帰還』とは別√の話です。
親愛なるフォロワーさんの作品に捧げた話となります。
バナージが嘔吐するシーンがあるので苦手な方はご遠慮ください。
それでも大丈夫な方はどうぞ。
それは突然の事だった。
「具合はどうかね?」
「今は、大丈夫です」
「食欲は?」
「ない、です」
「全くかね?」
「はい」
ふむと己の顎を撫でながら、診察椅子に腰かけ、ハサンが手板に挟まれたカルテを見つめる。開かれた間仕切りのカーテンの向こうのベッドの上にはバナージが上半身を起こした状態でハサンの問診を受けていた。
「原因として挙げられるのは、やはりあの時しかないだろう。だが、確証はない」
カルテを捲りながら眉間に皺を寄せるハサンがベッドの上の少年にそう告げる。診察机の上には、シャーレに入った色とりどりの小粒の結晶が置いてあった。
「君が吐き出した物を念のため分析してみたんだがね、主成分が『麦芽糖』と『ブドウ糖』だった」
「『麦芽糖』に『ブドウ糖』って、それって…」
今までハサンの話に耳を傾けていたリディがそこで話に割って入る。ハサンは「うむ」と一つ頷いた。
「つまり、バナージ君が吐き出した物は所謂、『キャンディ』という事になる」
「キャンディ…ですか?」
己の前に置かれたあまりにも非現実的な現象に動揺を隠せずバナージは聞き返す。琥珀色の瞳は大きく見開かれ揺らいでいた。一体己の身体はどうしてしまったのか。バナージには全く分からなかった。
彼が何故このような状況に陥ったのか、それは三時間前に遡る。
コロニーレーザーからメガラニカを防衛し、虹の彼方から連れ戻されたバナージは、リディと共にネェル・アーガマに帰投した。コックピットから出ると、クルー達が温かく出迎えてくれた。皆がバナージに出迎えの言葉を述べたり、ハグを求めたりとバナージの無事を喜んでいた。そんな中、バナージが横に目を遣ると、一人バンシィ・ノルンのコックピットハッチを開け顔を出すリディの姿があった。彼の無事な姿を確かに視界に捉えると、バナージは心の中で密かに安堵していた。
——良かった。リディさん…
リディがバンシィ・ノルンのコックピットからキャットウォークに降り立とうと足を踏み出す。その先には一人だけ、ミヒロが立っていた。リディがキャットウォークに降り立つと、ミヒロが彼に駆け寄っていく。二人が対面すると、ミヒロが泣きながらリディの胸に拳を思いっきり突き付けた。そのまま何度も何度も何度も拳を叩きつける。その手の動きが段々とゆっくりになっていく。やがて、その動きが止まると、ミヒロはリディの胸に縋って泣いた。すると、縋り泣くミヒロをリディの腕が優しく包んだ。二人が何を話しているのかは分からない。だが恐らく、再会を歓びあっているのだろう。二人が顔を合わせると笑い合っていた。
その画を目撃した瞬間、バナージの中で回りに居たクルー達の歓喜の声が雑踏に変わる。何故、こんなにも衝撃を受けているのかは分からない。目に映った光景に何故だか目の前が暗くなり、鈍器で頭を殴られたような衝撃で眩暈を起こしかけた。
その時だった。何かが急激に食道を通って喉奥からせり上がってくるのを感じた。この感覚には覚えがあった。不快でしかないその感覚にバナージは慌てて口元を手で塞ぎ、その場に座り込んだ。が、それも無意味だった。
「ゲホゲホッ」
その刹那、バナージの口から大量の結晶が吐き出された。赤、青、黄色。透き通った色とりどりの結晶がバナージの口から次々に吐き出される。それを目撃してクルー達が騒然となる。先ほどまで和やかだった空気が一気に一変した。
「バナージ⁉」
「バナージ、しっかりして!」
クルー達の悲鳴がモビルスーツデッキに木霊する。唯ならぬ異変に漸く気付いたリディがバナージの方を見た。
「バナージ‼」
バナージの異常な様子に目を見開き、慌ててクルーを掻き分けてバナージの元に駆け付けた。
「バナージ、しっかりしろ‼」
座り込んで今尚色とりどりの結晶を吐き出すバナージ。すると、或る程度吐き出した後、そのままリディの方に倒れこんでしまった。
「おい、バナージ! 大丈夫か⁉」
リディが呼びかけるも返事はない。バナージの身体を揺すっても全く反応がない。リディの顔から血の気が引いた。
「リディ少尉、直ぐに医務室へ運ぶんだ!」
その場にいたハサンの声にリディはハッと我に返り、直ぐ様医務室へバナージを抱き抱えていった。
それからずっと付き添っていたのだろう。着替えずバンシィの黒いパイロットスーツのまま、リディが扉横の壁に腕を組んで凭れ掛かっていた。
「それってつまり…バナージの体内で飴が生成されているって事ですか?」
要領を得ない顔をしてリディがハサンに尋ねた。
「そういう事になる。どういうメカニズムで生成しているのかも分からないがね」
そう言ってハサンがカルテに目を向ける。そのままペンを持ちスラスラと筆を走らせる。
「如何せん、飴を吐く人間なんて前例がない。お陰で分からない事だらけだよ。対応の仕様がない。お手上げだ」
筆を止めると盛大な溜息を吐いた。そして、リディの方に目を向けた。
「リディ少尉、君はどうなんだ?」
「今の所は何も…異常ないです」
「そうか…君には悪いが、念のため後でメディカルチェックをさせてくれ」
「構いませんよ」
リディの頷きにハサンが腰を上げた。そのまま扉に向かっていく。
「オットー艦長に報告してくる。リディ少尉、バナージ君を見ててもらえないか?」
「了解です」
リディが快諾すると、ハサンはそのまま医務室を出ていった。
二人だけになった医務室。壁に寄りかかっていたリディが腕組みしていた腕を解き、身体を起こす。そのままバナージのベッドに近づいた。
「大丈夫か?」
傍にあった椅子に腰かけ、バナージの顔を伺う。
「はい、もう大丈夫です」
バナージがこくりと頷くと、今まで締まっていたリディの表情が漸く綻んだ。やっと身近で真面に見れた。モニター越しじゃないリディの顔。
「まだもう少し寝てろよ。あんな事しちまった後だしな。これ以上無理しない方がお前のためだ」
そう言いながらバナージのフワフワした亜麻色の髪をポンポンと撫でた。ネェル・アーガマで会った時と同じ、あの優しいリディ少尉だった。それに釣られてバナージも思わず微笑んだ。
だが、それからもバナージが飴を吐く行為は収まらなかった。彼の異常体質は飴を吐くだけでは無かった。一切の食べ物を身体が受け付けなくなってしまったのだ。ランチの時間になってもディナーの時間になっても、ちっともバナージの腹は空かなかった。試しにパンを一かけら口に含んでみたが、まるで固い石を口に含んだ様な感覚で、飲み込む事が出来ず結局吐き出してしまった。飲み物でもジュースや紅茶を口に含むとまるで粘土を口に突っ込まれたような感覚に陥り、飲み込む事が出来なかった。幸い水だけは普通に飲む事が出来たが、バナージの身体は今や水以外受け付けない身体になってしまっていた。そして、彼は同時に味覚も失ってしまった。
或る日の事だった。その日、バナージはタクヤと一緒にユニコーンのメンテナンスをしていた。作業が一段落した所で、丁度ミコットが休憩にしないかとドリンクを持って現れた。
「体調の方はどうなの?」
体調を心配してくるミコットに、バナージが優しく微笑む。
「うん、今日は大丈夫…」
そう返して、ミコットから手渡されたミネラルウォーターを口に含んだ。その時だった
「リディ少尉‼」
バナージの横をミヒロが通り過ぎていく。バナージは即座に目線を彼女に向けた。彼女の行く先にはリディが居た。リディもバナージと同じく、バンシィ・ノルンの整備を手伝っていた。ミヒロがキャットウォークに居る彼の傍まで浮遊するが、キャットウォークの手摺りを捕まえ損ね、ミヒロの身体が宙に舞う。リディは「おっと」と言いながらそんな彼女の腕を寸の所で捕え、キャットウォークの手摺りに導いた。地に足が着いた所でミヒロが恥ずかしそうに赤面する。それを悪戯っぽく笑うリディ。それから、二人はその場で話し込み始めた。
そんな和やかなリディとミヒロの様子を二人も見ていたのだろう。タクヤとミコットが彼らについて話し始めた。最初に切り出してきたのはミコットだった。
「リディ少尉帰ってきてから、ミヒロ少尉元気になったよな」
「うん、そうね。あと何だか、綺麗になったと思う」
「え? そうか?」
「そうよ、肌に艶が出てるもの。リディ少尉も嬉しそうに笑ってるし、あの二人、きっと惹かれ合ってるに違いないわ」
ミコットが目を光らせながら自信満々に言う。
確かにミコットの言う通り、以前よりミヒロは元気になったとバナージも思った。一方のリディも、以前の明るい雰囲気を取り戻し、より表情豊かになったと感じた。何より、彼が時折見せる、ミヒロに向けられた微笑みが酷く幸せそうにバナージの目には映った。今だって、二人は和やかに話をしていた。
「リディ少尉とミヒロ少尉、お似合いだと思うわ」
「確かにな、俺もそう思う」
バナージは向こうで話し込んでいる二人をじっと見つめた。誰だってそう思うだろう。本当に仲睦まじい。お似合いのカップルだ。ズキリと言い様のない痛みがバナージの胸を襲う。耐えがたい痛みに思わず胸を押さえた。その時だった。
「⁉」
途端にバナージの顔色が一気に青くなる。同時に、あの不快な感覚が襲い来る。食道を競り上がって異物感。毎度の事ながら苦しくてならない。
「バナージ!」
「バナージ、大丈夫か⁉」
急に顔色を一変させたバナージに気付いたタクヤとミコットが慌てて寄り添う。それで嘔吐きが止む筈もなく、バナージは拙いと思い慌てて口元を押さえた。
「ごめん…っ、へ、やっ、戻る」
まだ何とか言葉が発せられる内にそう言い残し、青ざめた顔で口元を押さえながら、二人を残して一目散に自室へ駆けて行った。
そこに、彼の異変に気付き、話を切り上げバナージの後を追った人物が居た事にも気づかずに。
自室に着くと、トイレまで我慢できず、バナージはとうとうその場で飴を吐き出してしまった。今まで以上に大量の飴がバナージの喉奥から溢れ出された。
「ゴホゴホッ…ゲホッ…おえっ」
今や恒例行事の様になってしまった嘔吐。だが今回は、少し妙だった。今までは色とりどりの雨を吐き出していたが、この時ばかりは違ったのだ。吐き出した飴がどれも全て歪な形をした透き通る黄金の飴だったのだ。
――嗚呼、そうか。この飴って俺の…
己が吐き出す飴を見ながら、バナージはとうとう理解した。飴を吐く時はいつだって彼の姿が視界に入っていた。そして、彼の横にはいつもミヒロ少尉が居た。仲睦まじい二人。目に入る度に胸がズキリと痛んでいた。
その時、背後で部屋の扉が開いた。
「バナージ!」
同時にリディが慌てた様子で部屋に入ってくる。そのまま座り込んで飴を吐くバナージに駆け寄った。
「大丈夫か⁉」
リディの手がバナージの背中に触れる。眉間に皺を寄せながら心配そうにバナージの顔を覗き込んでくる。
——なんて、優しい人なんだ。
彼のその優しさは生来の物なのだろう。誰にだってこの人は優しい。だから残酷なんだと悲しみで胸が痛んだ。
その時だった。再び言い様のない吐き気がバナージを襲った。咄嗟に口を押さえた。だが、そんな動作も無意味だった。一度吐いてしまった身体が再び襲い来る吐き気を抑え込める筈もなかった。
「おええっ…ゲホッ…」
再び口から飴を吐き出した。キラキラ輝く黄金の飴を。あの金の鬣を思わせるような、目の前に居るその人の綺麗なブロンドの髪を思わせるような、眩しい砂糖の結晶を。
「ゲホゲホ…カハッ…」
次々にバナージの口から黄金色の飴が吐かれ、地面に転がっていく。その姿を見ながら、リディは唯々黙ってバナージの背中を擦った。
——放っておいてくれたらどんなに楽だろう。
ある程度吐いたが、嘔吐きは未だ止まない。バナージは息絶え絶えになりながらも、言葉を発した。
「も、大丈夫ですから…俺の事は放っておいてください」
このまま彼と居れば、ずっと此処でこの黄金色の飴を吐き続ける羽目になる。何故ならこの飴は、彼に流している己自身の涙その物なのだから。
それでもリディは傍を離れなかった。突き放す言葉にリディが一つ息を吐きだすと、床に転がったバナージが吐き出した歪な形をした飴を一つ拾い上げた。そして、拾い上げたそれを口元に持っていき、
「ぁ、リディさん、ダメだっ…!」
あろう事か次の瞬間、その飴を口の中に平然と放り投げてしまった。
「ふうん、レモン味か。ガキの時以来だな。久しぶりに食べたよ」
ベッドの端に腰かけ、コロコロと口の中で転がしながら味を堪能するリディにバナージの顔が一気に青ざめる。
「ゲホゲホッ…リディさん、ダメです、汚いですよ! 今すぐ、口から出してください…っ!」
分析上、飴であると特定されたのだから、確かに食べる事は理論上可能だ。だが、只の無害な飴である確証はない。未だバナージが吐き出した飴を口にしたクルーは当然誰一人居ない。ましてや、あの時共にコロニーレーザーを防いだリディが食べたとなると、何らかの影響を齎すかもしれない。
「別に食えるんだから問題ないだろ?」
一方、バナージの心配もお構いなしにリディは怖ける様子もなく飴を舌で転がす。やがてぼりぼりと音を立ててかみ砕くと、喉仏を上下させてそれを飲み込んでしまった。その姿をバナージは呆気に取られながら見ていた。
「『初恋の味』だな」
その言葉にどきりとびくつく。すると、リディが小首を傾げてバナージに尋ねた。
「なあ、お前の初恋って誰なんだ?」
「え…?」
「やっぱりミネバなのか?」
確かに、オードリーは大切な人だ。彼女に必要とされたいと思って今まで頑張ってきた。だが、それを『恋』と呼ぶには些か違和感があった。『恋』と言うよりは、今や家族の様な存在だった。
バナージの中で既にその答えは分かっていた。だからと言って、本当の事を告げてしまえば、きっと今までの関係が壊れてしまう。それが怖くて、バナージは口を噤んでしまった。
その様子を見てリディが一つ溜息を吐いた。
「お前のそれ、治してやろうか?」
「え?」
次の瞬間、リディに手を引かれ、立たされる。そのままリディの腕の中に収まった。突然の事に思わず目を瞑ってしまう。その時だった。バナージの唇に何やら温かい物が触れた。
「⁉」
その熱に閉じていた瞼が開く。合わさった唇。思いがけない事に思わず身体が硬直する。そのまま数十秒して唇が離れたかと思うと、今度は角度を変えてまた唇を塞がれる。それを数回繰り返し、やがて、リディの舌がバナージの唇に触れる。驚いて思わずバナージが口を開くと、その隙間にするりとリディの舌が入り込んだ。同時に、リディの唾液がバナージの咥内に流れ込む。
「んん⁉」
思わず琥珀色の目を丸くする。それもその筈。その時バナージは確かに今まで感じられなかった味覚を感じたからだ。今まで水しか摂取していなかったバナージの咥内に、レモンの味がぶわりに広がったのだ。
そんな事も露知らず、リディは口付けを深くしていく。己の舌でバナージのそれを捕えると、執拗に絡めていく。
そうして暫くして、漸く唇が離れた。
「まだ吐き気、するか?」
「…しない、です」
「…やっぱりな」
なんと不思議な事に、先程までバナージを襲っていた嘔吐きがすっかり消え失せてしまった。だが、吐き気が収まった代わりに、バナージの頬は真っ赤に染まっていた。
「リ、ディさん…」
たどたどしい口ぶりでリディの名を呼ぶ。バナージはどうしてもその行動の真意を問いたくて堪らなかった。リディは未だバナージを抱いて離さず、優しい目つきで見つめてくる。その顔はミヒロと一緒に居る時には見た事が無い、どこか甘い表情だった。
「ん? まだ足りないか?」
どこか甘い声でリディが小首を傾げる。
「いや、そうじゃなくて、あの…っ⁉」
しどろもどろになっている所で再び唇を塞がれた。同時に、再び口に広がる甘酸っぱいレモンの香り。
——これが、初恋の、味…
強張って閉じていた瞼を僅かに開く。気を抜けば溺れてしまいかねない、初恋の味のする甘ったるいキス。だが、バナージは知っている。初恋という物は然う然う叶う筈が無い事を。
暫くして再び唇が離れる。その頃には身体中の力が抜け、リディの身体に縋り付いていた。息絶え絶えになりながらも、それでも、バナージは聞かずに居られなかった。
「どう、して…」
呼吸をするのに必死なバナージとは対照的に、余裕な笑みを浮かべながらリディが答える。
「愚問だな。あれだけ熱烈な視線送られてたら、気づかない訳ないだろ」
ドキリとバナージの心臓が脈打つ。リディには完全に見透かされていた。ずっとバナージの気持ちに気付いていたのだ。だからなのだろう。バナージの気持ちを知っておきながら、彼はいつも彼女の傍に居た。今のこの行為も、もしかしたら子供だからと弄ばれているのかもしれない。そんな有りもしない疑念を抱いてしまった。バナージは思わずリディの腕の中で俯いた。
「あの、リディさん。もし揶揄ってるなら、やめてください」
彼がそんな人ではない事など重順分かっている。だが、それでも今起きている事がどうしても信じられなかった。
リディは溜息をついて、眉間に皺を寄せ呆れながら笑った。
「お前、この期に及んで今のが遊びだとでも思ってるのか? 酷い奴だな」
だが、次には真剣な顔つきに変わった。真直ぐな碧い眼差しにまたドキリとバナージの心臓が脈打った。
「今までの行為に嘘なんてない。お前が好きだ。一人の男として、お前と添い遂げたいと思ってる」
真直ぐで、嘘のない言葉。リディの真の言葉が、バナージの身体と心の隅々まで染み渡った。
「リディさん」
バナージはリディの首に腕を回して縋り寄った。
「好きです、愛してます。貴方が、俺の初恋です」
そう言うと、リディが再びバナージに口付けを贈る。バナージの目からは一粒の飴玉が零れ落ちていた。
Fin.