The tale of Monoceros【Introduction】【Attention】
本作は2022年08月12日14:38privetter掲載作品となります。
8/21(日)夏インテG魂に出すリディバナ新刊サンプルです。
人間リディ×一角獣バナージの話です。
本作は途中戦争を題材にしている為、一部暴力表現やグロテスクなシーンを含みます。
This is a lost memory. ——これは、この世から焼失した物語である。——
或る所に、『リディ・マーセナス』という金髪碧眼の少年が居た。彼は、昔から代々続く由緒正しい家の下に生まれた。彼が生まれた家は上流階級で『公爵』の称号を持つ貴族だった。将来、リディは父親の後を継ぐと周りから噂されていた。
リディは毎年、夏になると執事のドワイヨンに連れられ、避暑地にある別荘を訪れていたものだ。父親は毎度公務で忙しく、リディと一緒に別荘で過ごす事は無かった。母親は身体を悪くしており、もう何年も遠く離れた国のサナトリウムで療養中であった。六つ年の離れた姉は既に婚約者の元に居て普段から本邸には居らず、夏も婚約者と一緒に過ごしていた。よって別荘でマーセナス家一族が一同に集まった事はない。毎年別荘には、リディとドワイヨン、そしてリディに仕える数名の給仕たちで滞在していた。
そんな或る昼下がり。リディは森の中を意気揚々と散策していた。
今までリディは別荘の敷地外に在る森へ散策に行かせてもらえなかった。まだ幼いという理由で屋敷の敷地外、とりわけ屋敷のすぐ傍にある森には出歩く事を禁じられていたのだ。それまで、リディは別荘の敷地内で主に勉強や剣術、乗馬などをドワイヨンから教わりながら、心底退屈な日々を過ごしていた。
だが、十代そこそこになった今年、その禁が漸く解かれたのだ。但し、ドワイヨンや他の給仕をお供させるという条件付きである。それでもリディはやっと念願が叶って大層喜んでいた。
鬱蒼と茂る森の中。生い茂る木々の間からは木漏れ日が漏れていた。木々が木陰を作っているお陰なのだろう、森の中は思いの外涼しかった。時々、何処からか鳥の囀りが聞こえた。途中には小さな川が流れており、川の水が更に涼しさを運んでいた。
「ん? あれは…?」
監視として付いてきていたドワイヨンより先を歩いていたリディが興味津々に森の中を散策していると、リディの視界に或るものが入ってきた。それは木々生い茂る中、此方にぽっかり口を開けている。それは、どうやら洞窟の様だった。大人一人が通れる程の入り口の先は真っ暗で何も見えない。
リディは気になって入ってみようかと思い、足を其方に向けた。その時だった。
「いけません、坊ちゃん!」
突然大声で呼び止められ、強い力で身体が後ろに引っ張られる。振り向くと、ドワイヨンが血相を欠いてリディの肩を掴んで止めていた。リディは必死に止めるドワイヨンに半ば不機嫌気味に問うた。
「どうしてさ」
ドワイヨンは半ば恐怖しながら答えた。
「昔から此処には恐ろしい一角獣が棲んでいると言い伝えられているのです」
「一角獣?」
小首を傾げていると、ドワイヨンがこくりと頷いた。
「この地に伝わる昔からの伝承なのです。昔から、此処は一角獣が住んでいる神聖な場所なんだと。だから、人間がその聖域に足を踏み入れ穢す事は許されないのです」
「ふーん」
適当に素気なく返すと、ドワイヨンがそのまま肩を掴んでリディを身体ごと無理やり屋敷の方向に向かせた。
「さあ坊ちゃん、そろそろ屋敷に戻りましょう。屋敷にお茶とケーキを用意してございます」
今にもその場を離れたがっているドワイヨンに促され、屋敷の方へと背中を押される。
その時、リディは一瞬何かを感じ、洞窟の方を振り返った。一角獣が住むとされる場所だからなのか。一瞬何かが自分を呼んでいるような、そんな気がした。だが、直ぐに気のせいだと思い、顔の向きを正面に戻し、渋々その場を後にした。
屋敷に戻ると、再度ドワイヨンにあの洞窟には行かないようにと注意された。だが、屋敷に戻ってからリディは一角獣が居ると言われる洞窟が段々と気になり出し、あの先に行きたくて堪らなかった。
その日の夜、皆が寝静まり屋敷がしんと静まり返った頃、リディはひとり窓からこっそり別荘を飛び出していった。
今宵は満月であった。夜の森は昼に訪れた時と違って不気味さがあった。そんな森の中を、リディは月灯りと昼に見た木々や岩を頼りに洞窟を目指した。やがて、昼に見た洞窟が視界に見えてくると、一気に駆けだした。だが、入口の前まで来たところでいきなり停止する。視界の端で何かがきらりと輝いたのだ。思わず目線を下に落とすと、液体が落ちていた。昼に来た時には無かった物だ。
「何だ、これ?」
その場にしゃがみ込んでじっと観察する。その液体はまるで水銀のようだった。斑らに落ちているそれは、洞窟の奥まで続いていた。リディは気になって、銀の液体を追う事にした。
いざ洞窟に足を踏み入れると、中は湿っていて、夏の夜だというのにとても寒かった。所々天井からは鍾乳石が垂れ下がっていた。さしずめ鍾乳洞といったところだろう。闇はずっと先まで続いていた。リディはひたすら洞窟の奥を目指して突き進んでいった。その時だった。
『ダ……レ……』
「⁉」
突然、何処からともなく声が聞こえた。その声は、少年の声だった。リディは驚いて周りを見渡した。だが、そこには誰も居ない。
『ダ……レ……ソ……コ……イ……ル……ノ……』
声の主を探している内にまた声がした。少年の声はどうやら音ではなく、脳に直接呼びかけているようだった。
「なんだ…?」
此処は恐ろしい一角獣が住まう神聖な聖域。人間が足を踏み入れてはいけない場所。だというのに、人の声がする。つまり、自分以外の何者かが今此処に居るという事になる。
「誰か居るのか⁉」
リディは気になって、進行方向に向かって大声で叫んだ。すると、その時突然、リディに向かって突風が吹いた。
「うわっ‼」
身体を押すような強風に、リディは耐え切れず尻餅をついてしまった。
『コ……ナ……イ……デ…!』
再び声が聞こえた。先程と同じ少年の声だが、酷く怯えた声だった。
普通の人間であれば、幽霊の声だと気味悪がって青い顔をして一目散にその場から走り逃げ去るだろう。だが、リディには何故かどうしても、その声の主を放っておく事が出来なかった。もしかしたら、今辿っているこの銀色の液体と何か関係があるかもしれない。そんな風に考えたリディはゆっくり立ち上がり、再び歩き出した。
『ク……ル……ナ……!』
また声がした。今度は、突風は来なかった。それからも少年の声はずっとリディを拒んでいた。それでもリディは銀の液体を辿りながら、暗い洞窟内を突き進んだ。歩を進めるにつれて、洞窟の道はどうやら下に向かっているようにリディには感じた。そうして暫く突き進み、目線の先に光が見えてきた。と、共にリディの前髪がふわりと揺れた。風だ。先程の突風とは違う、緩やかな風が流れている。どうやら外に続いているらしい。リディは見えている光を目指して歩みを進めた。
やがて仄暗い闇を抜けると、ドーム状に開けた広い空間に出た。そこは、天井にぽっかりと大きい穴が空いており、その穴から煌々と輝く満月が見え、月光がその空間一帯を照らしていた。
リディは目の前の光景に目を疑った。月光に照らされた空間の真ん中、銀色に光る液体を辿った先に、この世には居るはずのない神獣❘白い一角獣が居たのだ。穢れを知らないかのような美しい白い身体に、月光で銀色に輝く鬣。額から生える螺旋模様の入った白い角。まだ子供なのだろうか、見るからに随分と小さい一角獣だった。
銀色に輝く液体の線路はその一角獣がいる所で終わっており、そこが終着点だった。どうやら液体は、一角獣が流した血の様で、顔色から推察するにどうやら怪我をしているようだった。
リディは先日偶然にも或る幻獣の伝承の本を読んだばかりだった。ユニコーン。大きな一本の角を持つ神獣。あらゆる傷や病を癒すという幻の生き物。その一方、自由奔放で気性が荒く、処女で無ければ近づけないとされる獰猛で危険な暴れ馬。
だが、今のリディにそんな頭はなかった。それを知っていながら、リディは目の前に居る見惚れる程美しいこの生物を純粋に救いたいと思ったのだ。気付けば怪我をしている一角獣の元へ駆け寄っていた。
「大丈夫か⁉」
すると突然、先程受けたのよりも強い突風がリディめがけ吹きつけてきた。
「うわっ!」
『コ…ナ…イ…デ…!』
ぶるりと身体を震わせながら、小さな一角獣が射貫くような鋭い眼差しを送る。先程から吹きつけてくるこの突風はどうやらこの一角獣が起こしていた様だ。
リディの身体は突風で随分と後ろへとやられ、一角獣と距離が広がった。
『ク…ル…ナ…ニ…ン…ゲ…ン…!』
敵意を剝き出しにして威嚇してくる一角獣。なんとか立ち上がってリディを追い払おうとしているが、手負いの為なのか上手く立ち上がれずにいた。
「嫌だ! 放っておけない! 君、怪我をしてるじゃないか!」
リディは思わず叫んだ。そして、突風が止んだタイミングで直ぐに駆け出し、再び一角獣に近づいた。
一角獣は弱っても尚、必死に威嚇して抵抗しようとしている。だが、見るからに顔色が悪く、すっかり弱りきっているのが目に見えて分かった。
「頼む! 俺は君を助けたいんだ!」
そう叫んで、リディは一角獣に懇願した。リディの目には一角獣が自分を恐れているように見て取れた。きっと出会う前、人間という自分の種族がこの一角獣に恐怖を与えるような酷い事をしてしまったに違いない。そうなると、自分は今、彼にとって恐れるべき存在、天敵でしかないのだろう。
だが、だからと言って、そう易々と放ってはおけない。一角獣の身体から地面に流れている銀色の血は更に広がっていた。このままでは一角獣の命が危ない。リディは焦りを感じ始めていた。
『ニ…ン…ゲ…ン…オ…レ…タ…チ…ツ…カ…マ…エ…ル…!…オ…レ…タ…チ…コ…ロ…ス…!』
一角獣の声にリディは即座に大声で否定した。
「そんな事する訳ないだろ‼」
その声に一角獣は驚いてビクリと身体を震わせた。
「君に何があったのかは知らない。もし、俺の種族が君に酷い事をしたなら謝る。だけど俺は、本気で君を救いたいって思ってるんだ。頼むから警戒を解いてくれ」
碧い目で一角獣を凝視すると、目が合った。それは、とても美しい透き通った琥珀色の眼だった。
「俺は本当に君を助けたいんだ。なあ頼む。俺に怪我を見せてくれ。このままだと君、死んでしまう」
リディは必死に説得し続けた。すると、一角獣がとうとう諦めたのか、抵抗を止めた。大人しくなった一角獣の様子を見て、リディは恐る恐る一角獣の元に向かってにじり寄り、少しずつ距離を縮めていった。
「触れても良いかな?」
一角獣の身体に触れられる距離にまで来ると、リディは一角獣に尋ねた。一角獣は何も返事をしないが、抵抗を見せなかった。無言は肯定だと思い、リディは恐る恐る一角獣の身体に触れた。そして、血が流れている個所を見た。
「酷い…」
血を流していた横腹には一本の矢が刺さっていた。幸い、矢は貫通していない様だったが、鏃が大きいのか、傷口が大きかった。怪我の状態を確認して、リディは立ち上がった。そして、以前に愛馬のピルグリムが怪我をしてドワイヨンと一緒に手当した時の事を必死に思い出していた。
これ程までに酷い傷を果たして自分ひとりで手当できるだろうか。だが、この生き物を救えるのは、今此処には自分しかいない。やるしかないのだ。
「救急箱取ってくる。直ぐに戻ってくるから待ってて」
そう言って、リディは一目散に洞窟を飛び出した。真直ぐ走って森を抜け出し、誰にも気付かれぬよう注意を払いながら静かに屋敷に戻った。クローゼットからナップサックを引っ掴むと、救急箱をその中に入れた。そしてまた静かに、今度はドアから自室を出た。そして忍び足で厨房に向かった。棚の中から水筒を取り出し、食料庫に入ろうとする。だが、食料庫には鍵が掛かっていた。仕方なく、机の上の籠にどっさり積まれていた林檎を二個手に取り、ナップサックの中に入れた。そのまま静かに厨房を出ると自室に戻り、再び窓から外に出た。一気に森へ走り、途中小川で水筒に水を汲んでから一目散に洞窟へ戻っていった。息を切らしながら洞窟に戻ると、一角獣は逃げずに留まっていた。否、衰弱して逃げられなかったと言った方が良いかもしれない。先程より元気が無くぐったりとしていた。
リディは直ぐに駆け寄って、ナップサックから救急箱を取り出した。
「ごめん。今から矢を抜く。痛いと思うけど我慢してくれ」
そう言いながら、横腹に刺さっていた矢を掴み、刹那一気に引き抜いた。患部から銀色の血がいっそう流れた。
『〜〜〜〜〜〜‼』
一角獣の例えようのない不協和な叫び声がドーム状の洞窟に轟いた。リディは思わず耳を塞ぎたくなったが、努めて手当に専念した。
「我慢してくれ! 今手当してるから!」
必死に宥めながら直様水筒を取ると、キャップを開け入っていた水を傷口にかけて傷口の汚れを洗った。そして救急箱からガーゼを取り傷口に当てると、上から両手で圧迫した。
「痛くない…もう、痛くないから…」
そう囁いて圧迫する両手の上に己の額を押し付け目を閉じる。一角獣が感じている痛みが引くようにとその手に願いを込めた。
「お願いだ…止まってくれ…」
そのまま暫くじっとして血が止まるのを待った。すると、先程まで痛みでパニックを起こしていた一角獣が幾分か落ち着いてきた。
リディはそんな一角獣の様子に気が付くと、圧迫していた手を離し、当てていたガーゼをそっと取り、傷口を見た。リディの祈りが届いたのだろう。血は止まっていた。それを確認すると、ガーゼに消毒液を塗布し、幹部を優しくガーゼで拭いて消毒する。そして、素早く軟膏を塗った。果たして、薬というものが一角獣に効くかは分からない。それでも無いよりはマシだろうと傷口にたっぷり塗り込んだ。そして再び新しいガーゼを当て、上からぐるぐると包帯を巻いた。
漸く一連の手当が終わると、リディは額の汗を拭い、一角獣の顔に目を向けた。
「よし、手当終わったよ。傷が少し深いから、暫くは動かない方が良いと思うよ」
一角獣の顔は、痛かったのだろう、目から涙が溢れていた。
「よく頑張ったね」
そう言って労りながら一角獣の頭を撫でた。
『ニ…ン…ゲ…ン…ド…ウ…シ…テ…』
一角獣はその琥珀の目をリディに向け尋ねた。リディは微笑んで、さも当然の如く答えた。
「言っただろ? 俺は君を助けたいって。そう思ったから心に従ったまでだ。十分な理由だろ? それに『ニンゲン』なんてよしてくれ。俺には『リディ・マーセナス』っていうちゃんとした名前があるんだよ」
『リ…デ…ィ………?』
「そう、リディだ。リディ・マーセナス」
嬉しそうにリディが返すと、何か思い出したかのようにナップサックの中に手を突っ込んだ。そして、ごそごそと中を探ると、一つの林檎を取り出した。リディは一角獣に尋ねた。
「その、お腹空いてない? 慌てて出てきたからこれしか無かったんだけど」
そう言うと、次にナップサックからナイフを取り出した。ナイフを見た一角獣はその瞬間、怖がるようにビクリと身体を震わせた。その様子に気付いて、リディは慌てて弁明した。
「ああ、ごめん違うんだ! 林檎を切るだけだよ! 絶対に君を傷つけたりしないから!」
ナイフに恐怖する一角獣を宥めながら、素早く林檎を半分にする。そして、直ぐにナイフをナップサックの中に仕舞った。それから、半分に切った林檎の片方を一角獣の口元に持っていった。
「あ…林檎、食べれるかな?」
不安そうにリディが一角獣を見つめる。愛馬のピルグリムに与えた時は好物だったらしく、美味しそうに食べていた。だから、一角獣も食べられるんじゃないかとリディは勝手に思っていた。
だが、一角獣はなかなか食べようとしなかった。この生き物はきっと用心深いのだろう。毒が入っているのではないかと警戒しているように見えた。
「毒なんて入ってないよ、ほら」
リディは一角獣の警戒を解こうと、今しがた切った林檎のもう半分を齧った。シャクシャク噛むと果肉から果汁が漏れ出し、リディの口の中に林檎の甘さが広がった。確か夏は林檎の季節ではないが、この時期でも林檎の取れる土地があるらしく、先日そこで最もおいしいと言われている林檎農家から大量に取り寄せたのだとメイドが言っていたのをリディはふと思い出した。その言葉通り、瑞々しくとても甘い林檎であった。
シャクシャクと音を立てて咀嚼するリディを見て漸く安全だと分かったのだろう、一角獣もやっと林檎をシャクリと一口口にした。一口、また一口。ゆっくりと林檎を口にする一角獣を見て、なんとか食べてくれた事にリディは安堵した。林檎を食べる一角獣を優しく見守りながらリディは話しかけた。
「また明日の夜、此処に来るよ。包帯変えに来るから、此処で待っててほしい」
その後、何かに気付いて即座に言葉を付け足した。
「君の事はもちろん誰にも言わないから。約束する」
差し出された林檎を食べきった一角獣はリディを見た。此方を見つめる真っ直ぐな、透き通る碧い目。その瞳から一角獣はリディが嘘を言っていない事を悟った。一角獣はリディに向かって首を垂れた。リディは信じてくれたのだと思い、笑みを零した。
ふと上を見上げると、真上で光っていた月が何時の間にか西に傾き出していた。リディは残りの林檎と水筒を一角獣の傍に置いて別れを告げ、洞窟を後にした。
翌晩、ナップサックに昨晩と同じように救急箱や水筒、林檎など必要な物を詰め込み、窓から屋敷を抜け出した。道中、途中の川で昨晩と同じように水筒に水を汲んでから、再び洞窟へと向かった。
ドーム状の空間には昨晩と同じように月の光がその場を照らし、中央には小さな一角獣が丸くなって眠っていた。恐らく昨晩からずっとそこに居たのだろう。足音に気付いたのか、一角獣は目を開け、耳をピクピクと動かし、ゆっくりと首をもたげた。
『リ…デ…ィ…?』
此方を見るや否や少年の声がした。名前を覚えていてくれていたようで、リディの顔から思わず笑みが溢れる。
「やあ。調子はどう?」
リディは一角獣の顔を見た。昨晩より大分顔色が良くなっていた。背負っていたナップサックを下ろし、中から救急箱と水筒を取り出す。そして、怪我をしている横腹に近づいた。
「まだ痛む?」
巻かれた包帯に優しく触れながら、リディが一角獣に尋ねる。一角獣は僅かに頷いて答えた。
「今から包帯、変えるから。傷薬が染みるかもしれないけど我慢してくれ」
そう言うと、巻いていた包帯をスルスルと解き始めた。解き終えると患部に当てていたガーゼをゆっくり丁寧に取り去った。血はもう出ていなかったが、まだ傷は塞がっていなかった。ガーゼに水筒の水を垂らし、傷口の汚れを優しく拭った。次に別のガーゼに消毒液を塗布すると、傷口を優しく拭いて、その後に薬を塗った。少し痛んだのだろう。塗っている際にピクリと一角獣の体が震えた。患部にたっぷり薬を塗り終えると、再びガーゼを当て、新しい包帯を巻いた。
「終わったよ」
一角獣の顔を見ると、痛みに耐えていたのだろう、目に涙が浮かんでいた。
「頑張ったね」
昨日と同じ様に、労わるように一角獣の頭を優しく撫でる。不快な様子は無く、気持ちよさそうに目を細める一角獣。そんな彼にリディは好奇心から或る事を聞いてみた。
「あのさ、君の角に触れてもいい?」
その瞬間、一角獣の身体がビクリと大きく跳ねた。その反応を見て、リディはハッと気付いた。
一角獣にとって額にある角とは最強の武器であり、力の象徴。一方で、その角には解毒効果があるとされていた。角に鑢をかけて採った粉を飲めば忽ちにあらゆる毒を防ぎ、角を盃にして酒を飲めば、どんな疫病にもかからず、毒薬も効かないと言われていた。
そんな一角獣の角を欲しがる人間はごまんと居た。よく『ユニコーンの角』を謳った角らしき物が市場で取引されていた。だが、市場に出ているものの、殆どは偽物であった。本物か偽物か見分ける方法として、角を水に浸ける方法があるが、殆どの物は泡を立てていた。また、もう一つの方法として水の中に猛毒の蠍も一緒に入れて蠍の生死で判断する手もあるが、蠍は死なずにピンピン蠢いていた。それでも、偽物である事を知らない者はそんな物に高額な大枚を叩いていた。それ程までに、一角獣の角は貴重で、人間たちはずっと探し求めていた。
一角獣にとって大切な角に、人間である自分がその手で触れる事がどれ程恐ろしい事なのか。一角獣の怯える様子を見て、リディは子供でありながらその意味を悟った。好奇心からとはいえ、目の前の小さな一角獣に怖い思いをさせてしまったと自分の失言に酷く後悔した。
「ごめん。つい気になっちゃって…やっぱり怖いよな? 本当にごめん。今のは忘れてくれ」
そう言って慌てて一角獣を撫でていた手を引っ込めようとした。すると次の瞬間、リディにとって予想外な事が起こる。一角獣がその手に向かって自らの角を押し付けようとしてきたのだ。リディは驚いて一角獣の顔を覗き込んだ。
「良いのか…?」
一角獣は何も言わなかったが、怖がる様子も怒る様子もなくただじっとしていた。リディはその反応を見て了承したのだと思い、恐る恐る一角獣の角に手を伸ばした。
一角獣の角に指先が触れると、一瞬ピクリと一角獣が反応した。角にも神経が通っているのだろう。螺旋模様の溝がある角は硬質で表面は滑らかであった。
暫く一角獣の角に触れた後、リディは手を離した。
「君にこんな事を言うのは可笑しいと思うんだけどさ…」
離れていったリディの手の温もりに気付いて、一角獣は閉じていた瞼を上げ、リディを見つめた。そして、ピクピクと耳を動かしながら、リディの話に耳を聳たせる。
「俺、生まれて初めてユニコーンを見たから、他のユニコーンの事はよく分らないけど、君の角はその…綺麗だと思う」
リディの率直な感想に一角獣は目を大きく見開いていた。その目は明らかに驚いているようにリディの目に映って、今しがた自分が言った言葉に段々と恥ずかしさが込み上げてきた。
「な、何だよ。そんなに俺、変な事言ってるか?」
顔を赤くするリディに、一角獣はもっと触れてほしいとリディの手に頭を押し付けた。一角獣の感情は読み取れないが、怒ってはいない様だと受け取り、照れ臭そうに押し付けてくる頭をポンポンと優しく撫でた。
「そ、そうだ。お腹空いてない? また林檎持って来たんだけど、食べる?」
一角獣はこくこくと頷いた。見ると、昨日置いていった林檎は無く、水筒も空だった。リディはナイフを取り出して昨晩と同じように林檎を半分に切って一角獣に差し出した。一角獣はリディの手からシャクシャクと林檎を食べ始めた。昨晩より良い食べっぷりで林檎を頬張る一角獣にリディは尋ねた。
「君、好きな食べ物とかある? 教えてくれたら明日持ってくるから」
すると、一角獣は食べるのを止め、リディを見た。どうかしたのかとリディが不思議がっていると、次の瞬間、リディの頬に顔を近づけペロペロと舐め始めた。
「ははっ、くすぐったいよ」
それでも一角獣はペロペロとリディの頬を舐めた。結局答えは分からなかったが、その行動によってリディは一層一角獣に愛おしさを感じた。
「明日は林檎以外に食べれそうな物、持ってくるよ」
その日、一角獣はリディが持ってきた林檎を一つ残らず全て食べきった。
リディは持ってきた林檎を与え終わると、一角獣の正面に胡坐をかいて座った。
「ねえ。君、家族は?」
一角獣はリディの顔をじっと見つめ、首を横に振った。
「ひとりぼっちなの?」
そう聞くと、一角獣は頷いた。
「じゃあ俺と同じだな」
そう言って、リディは何処か切なげな顔を浮かべた。何故そんな顔をするのか、一角獣には分からなかった。
「俺には家族がいるんだ。でも、みんな家に居ない。俺の傍に居てくれないんだ。会っても、誰も俺の話なんて聞こうともしないんだ」
別に家族仲が悪かった訳ではない。だが、広い本邸の屋敷。父も母も姉も居ないそこでリディはひとりきりであった。例えドワイヨンや給仕たちがリディの傍に居ても、常に孤独を感じていて、拭う事も出来ずそれはずっと付き纏っていた。
「だから俺も、ひとりぼっちさ…」
リディの声色が震えているのに気づき、一角獣はリディの顔を見た。大空のように碧い瞳からはいつの間にか大粒の涙がポロポロ溢れていた。
それを見た一角獣はゆっくりとリディの頬に鼻を寄せ、ペロリと頬を舐めた。
「あ、お、おい!」
彼なりに慰めてくれているのだろう。リディの制止を聞かず一角獣はペロペロとリディの頬を舐め続けた。やがてそれが彼なりの慰めであると分かると、リディは諦めてそれを受け入れた。
「…ありがとう」
素直に礼を言うと、一角獣は鼻をリディの頬に擦り付けた。リディには一角獣が喜んでいるように思えた。
それからリディは毎夜、皆が寝静まった頃にひとり屋敷を飛び出し洞窟に通うようになった。包帯を変え、果物と水を与える。そんなリディの看病の甲斐あって、一角獣の傷はみるみる癒えていった。普通の馬であればあんな手当で傷が癒えるには一月以上はかかるかもしれない。恐らく一角獣自身の自己治癒能力のおかげであろう。一週間と経たぬうちに傷は塞がっていた。
一角獣の傷が完全に癒えたある日の事だった。いつものように洞窟に向かうと、そこに居る筈の一角獣の姿が無かった。
「あれ?」
キョロキョロと辺りを見渡すが、姿が見当たらない。
「傷治ったから、もうどっか行っちゃったのかな…」
いつもであれば一角獣が居る月明かりに照らされたその場所を見つめ寂しそうに呟いた。
その時だった。突然、ぼふんとリディの腰辺りに何かがぶつかってきた。
「⁉」
何事かと慌てて首だけ振り向いた。すると、そこにはリディよりまだ随分と幼い、亜麻色の髪に琥珀色の目をした少年がいた。彼の前頭部には見覚えのある一本の白い角が生えていた。
「リディさん!」
その少年が元気いっぱいにリディの名を呼ぶ。少年の声にリディは目を丸くした。その声に聞き覚えがあったからだ。
「もしかしてお前、ユニコーンなのか?」
リディは驚きつつも尋ねてみた。角の生えた少年はこくこくと頷いて見せた。
「バナージ。それが、俺の名前」
「バナージ…?」
リディがバナージの名を口にする。初めて聞くその音を聞いた瞬間、バナージは花が咲いたように笑った。そしていきなりリディに抱き付いた。
「うわっ」
あまりの勢いにリディは思わず尻餅を付いた。だが、それでもバナージはリディにしがみ付いていた。
「どうして、そんな姿に…?」
驚きのあまり、リディは漠然とバナージに再び尋ねる。一角獣がヒトの姿になるなどという伝承は今までになく、聞いた事が無かったからだ。
「リディさんが傷、治してくれたから」
バナージは恍惚な表情で答えた。そして上を見上げた。こちらを見つめる琥珀の瞳。リディはその瞳に吸い込まれてしまいそうな錯覚を覚えた。じっとバナージを見つめていると、バナージの表情が途端に曇り、眉間に皺を寄せながらリディの顔をじっと見つめてきた。
「あの、この姿は…嫌、ですか?」
不安げな琥珀の眼差し。リディは惚けていた自分にハッと気づき、直ぐにブンブンと頭を横に振った。
「嫌じゃない。嬉しいよ。こうして君と話せるなんて願っても見なかった」
本来の姿でもバナージとは話をしていたが、こんな流暢に会話できる時が来るなど思ってもみなかった。リディは内心かなり驚いていた。
リディの言葉にバナージの表情が一気に華やいだ。まるで人間のようにコロコロ表情を変えるバナージ。リディは気になってバナージの亜麻色の髪を撫でた。ふわふわとした感触。内心怒られるかもしれないと思いながらも、撫でていた手を頬に移した。すべすべでもっちりした肌の感触。それは人間のものと相違なかった。すると、その手にバナージは怒りもせず、寧ろもっと触って欲しいと擦り寄ってきた。
「俺、ずっと貴方に伝えたかったんです」
きらきらとした琥珀の目をリディに向けながら嬉しそうにバナージが言った。
「俺を助けてくれて、ありがとうございます」
その笑みは、とても純粋で無邪気だった。見惚れてしまう程に。その笑みを向けられたリディは釘付けになってしまった。なんて愛らしく笑うんだろうと思った。
その笑みを見てリディは言う決心がついた。バナージの頬からすっと手を離す。離れていった手をバナージが不思議そうに見つめる。リディは半ば真剣な面持ちでやっと口を開いた。
「なあ、バナージ」
To be continued...