違法に近づくべからず 久門はいつものように唯一にして無二の友である留木朔弥の研究室に居た。
何か用事があるわけではなくいつも当然のように研究室に居る久門に、朔弥は苦言を呈したこともあった。しかし「用事がなきゃいちゃだめなんてルールはないだろ?」と、さも当然と言わんばかりの言葉と態度に朔弥は説得することを諦め、なし崩し的に朔弥の研究室は久門のプライベートスペースとなってしまったのだ。
研究室の一角に積まれたファイルの数々は久門が外国の研究機関から取り寄せた過去に起こった犯罪のファイルとその犯人に纏わるもので、厳重な取り扱いが必要なもののはずなのに近所のスーパーのチラシと同じように並べられている。それに朔弥が苦言を呈しても一向に待遇が変わらないため、時たま掃除をしてやっている始末であった。
そして仕事を終え、裏に併設されている研究室に帰ってきた朔弥はソファに寝そべりファイルを読んでいる久門を見るなり詰め寄った。
「久門!!」
「どうしたの、朔弥」
「お前俺が買ってきたプリン、また食べただろ!!」
「あぁ、うん。美味しかったけど甘すぎるね、やっぱり」
「なら食うな!!」
事の発端は仕事終わりに食べようと思っていたプリンが冷蔵庫から姿を消していたことに起因する。
推理などするまでもなくこの研究室に出入りするのは朔弥と久門以外にはほとんどいないため――なんなら出入りする人間が冷蔵庫を勝手に開けてプリンを食べるとも思えないため――犯人は自動的に久門という事になる。
しかもそれが一度や二度ではなくたびたび起こる。
久門は勝手に冷蔵庫に朔弥が使いもしないタバスコなどを置くに飽き足らず、まるでそのタバスコと等価交換だというかのように必ず冷蔵庫にあるスイーツを食べていく。中でも確率が高いのがプリンだ。
朔弥は一時久門がプリンを好いているのかと疑ったこともあったが、問いただしたとき必ず添えられる一言の感想はいつも「甘すぎる」で締めくくられており、そんなことはないのだと思い知った。
ならばなぜ、食べるのか。
これは久門を十年以上研究してきている朔弥でさえわからない謎であった。
「いつものはまだいい。いや! よくないがまだ許せる。ただな、今回はダメだ。今回のプリンは有名な専門店で日に限定10個しか売られていないプリンなんだ。この前の休みにわざわざ朝一で並んでやっとゲットしたっていうのに……」
朔弥の言葉がだんだん怒りから悲しみへと変わっていく。そんな声に久門は何を思ったのか、立ち上がり冷蔵庫へと歩いた。
「朔弥がそのプリンを楽しみにしてたのは知ってるし、食べて申し訳ないなとも思ってるから――」
知ってるなら食べるなよ、というツッコミを朔弥が入れる前に久門は冷蔵庫を開いて中を覗き込む。
そして横15cm、縦10cm程度の長方形の箱を取り出し、朔弥の前に置いた。そして箱の上部を開け、中がよく見えるようにして満足そうに頷き、ソファに腰掛けた。
「――超レアプリン詰め合わせを作ってみた」
「は?」
久門の言葉に一瞬呆けた朔弥だったが、箱の中身を見て顔色が変わる。
「僕が食べた専門店のプリンはもちろん、巷で噂の行列すぎてなかなか買えないプリンとか、ホテルの中でしか売っていないせいで敷居が高いプリンとかもろもろ12個。朔弥の味覚に合うかは分からないけど、レビュー見て買ったから確かだと思うよ」
「まじか……」
驚きから言葉が出ない朔弥を横目に久門は満足そうな無表情を見せた後、再びソファに寝そべりファイルを開く。
朔弥は箱の中のプリンを全て出した後、それぞれが確かに入手が難しいプリンであることを確認して、しかしふと久門の方を向いた。
「このプリンの中にタバスコとか入れてないだろうな?!」
「さすがにそんなことはしないよ。作った人に失礼だし、記念日のプレゼントなんだから」
疑いの視線を向けられた久門はファイルを机の上において、近寄ってきたねこを抱き上げて腹の上に乗せた。ねこは久門に撫でられるまま「なぁお」と鳴いて気持ちよさそうに瞳を細めている。
「記念日?」
「そう、僕に初めての友人ができた記念日。だから感謝のつもりでいつもプレゼント渡してるでしょ、毎年欠かさず。僕って結構マメなんだよ。掃除とかはしないけど」
そういえば、と朔弥は思い出す。
確かに昨年も同じ時期に朔弥が研究室に置きたいと言ったコーヒーメーカーを買ってきてプレゼントとして渡されたし、一昨年はデザートバイキングの券を十枚ほど貰った。思い起こせば確かに友人として付き合うようになった高校一年の次の年から毎年何らかのプレゼントを贈られている。
変に律儀だなと感心しつつ、久門研究ノートに書き込むことを忘れないよう脳内にメモした朔弥はそれにしてもと溜息を吐く。
「わざわざプリン食べなくてもいいだろ」
「それは怒ってる朔弥の顔が面白いから仕方ない」
「おい」
腹の上からねこを床へと下ろした久門が起き上がる。
その顔には相変わらず感情が浮かんでいるようには見えないが、長い付き合いの朔弥には確かに笑っているのだとわかる。こいつには表情筋はないのか、と再び朔弥が溜息を吐くと久門は箱からスプーンと今日食べるはずだった専門店のプリンを取り出して机の上に置いた。
「顔って言うと語弊があるね。なんというか、朔弥のその感情の移り変わりが面白いんだよ。結局最後には諦めちゃうところも含めて。興味深いとも言うかな」
「俺を研究するなよ」
「僕を研究してるくせに言うの?」
スプーンを手に取った朔弥は三度溜息を吐いてプリンを食べることにした。勝手に人の物を食べる久門の行動は大問題だが、ひとまずプリンを食べられるなら今はそれでいい。
蓋を開けてスプーンを滑らせれば抵抗なくプリンの中へと沈む。下に沈んだカラメルソースを一緒に掬うようにして口に含むと程よい甘みとカラメルソースの苦みが交じり合う。すうと溶けるような口当たりは絶品と表現するほかなく、朔弥は満足そうにうなずいた。
「うまいな」
「それはよかった。買ってきた甲斐があったよ」
「絶対食べるなよ」
「食べないよ。甘いし」
朔弥がもぐもぐとプリンを食べ進めていると久門が「そういえば」と書類の山になっている自身の机から一枚の封筒を取り出した。
茶色の封筒の宛名には朔弥の名前が書かれており、朔弥宛ての手紙だということが一目でわかる。封は開けられているが朔弥はその手紙を見た覚えがない。そして久門の机の上にあった。つまり――。
「お前、また勝手に見たのか……」
「見たことのない差出人だったから気になってね」
家事炊事を行わない久門でも社会人らしくきっちりとポストの確認はする。というよりも勝手にポストの確認をしているためすっかりそういう役職に収まっているのだが、その際、何回か朔弥宛ての手紙が勝手にみられることがあった。
その時決まって言う言い訳が「見たことのない差出人だったから気になって」だ。
「興味本位で他人のプライバシーを侵すなよ」
「善処するよ」
「何回目だ、その返事」
久門の手から手紙をぶん取り、朔弥は中身を検める。
差出人は朔弥が通っているジムで仲良くなった男性からであり、内容としては今度一緒にご飯にでも行きませんか、というものだった。丁寧に候補である日時を書き連ねるあたり真面目な性格が伺える。
「今どき手紙っていうのも珍しいけど、誰だい、その人」
「ジムで意気投合した人。メールアドレスも教えたんだけどな」
「不用意に住所教えないほうがいいんじゃないの? 不用心だよ、そういうの。ここには僕の大切な資料もあるっていうのに泥棒に入られたら――」
「勝手に置いてってるだけだろ。嫌なら鍵付きの棚にでもしまっとけよ。というかこの人は泥棒に入ったりしないから」
「……そうかなぁ」
久門の疑いの声を掃いながら朔弥は候補の中から都合のいい日を選んだ。迷ったのは返信の方法だが、手紙で出してきた相手にメールで返すというのもおかしなものなので、律儀に手紙で出すことにした。
さっそく使われず机に仕舞われていた便箋を取り出し筆をしたためる朔弥を見て、久門がため息を吐く。その際にしていた表情に朔弥は心当たりがなく、思わずノートとペンを取り出した。もちろんノートとは久門について書かれた研究ノートである。
「久門、今何考えた?」
「何も考えてないけど?」
「そんなはずないだろ。教えろよ」
「知らないものは教えられないよ」
しばらくそんな問答をした後折れたのはやはり朔弥だった。仕方ないとノートとペンを置き、手紙に返事を書く作業に戻る。
「あ」
ふいに久門が声を上げた。
「そういえばさっき君宛に電話が来たんだった。なんでも急用があるから明日大学の方に来てほしいって。講演がなんたらとか言ってたような……。もちろん了承したよ。朔弥なら了承すると思って」
「おい! そんな重要な話なんで言わなかった?! どこの大学だ」
久門は目を閉じて顔が少し上を向く。これは思い出している時の仕草だ。
電話があってから一時間も経っていないのだが、久門からすれば興味のない話題を「朔弥への伝言だから」という理由で覚えていただけマシなほうだ。もしこれが伝言ですらなければ電話のことはすっかり忘却の彼方へと追いやられていただろう。
「んー、一番遠いところじゃないかな」
「今から出ないと間に合わない!!」
「手伝うよ」
「当たり前だ!」
手紙を出すことを諦め、慌ただしく残っていたプリンを食べ終えた朔弥に呼応するかのように立ち上がった久門。資料などの準備は久門に任せることにして、朔弥は服などの必要なものを小さなバッグに纏めた。
一番遠くの大学は新幹線で向かう必要があり、なおかつ午後から向かえば向こうで一泊は確実だ。
ドタバタと部屋を行ったり来たりする二人によって十分後には準備が完了した。
「スマホの充電は?」
「大丈夫だ。モバイルバッテリーも持った。資料も持ったし、あ、新幹線の席取ってないな……」
「そっちは僕がしといたよ。ホテルも取った。いつものところでいいんでしょ? スマホに転送しとく」
「助かる。ねこの世話は任せたぞ。かわいいからって餌やりすぎるんじゃないぞ。太るから」
「分かってる」
「じゃあ行ってきます!」
「いってらっしゃい」
久門が事前に呼んでおいたタクシーに朔弥が乗り込み、姿が見えなくなるのを確認して久門は中へと戻った。慌ただしいな、と溜息を吐くが大きな原因が久門にあることを自覚しているのかいないのか。
ソファに座れば、「ご飯はまだか」とすり寄ってくるねこ。久門は彼を抱きかかえ撫でながら立ち上がった。ドタバタと出発したせいで出されたままだった超レアプリン詰め合わせの箱を冷蔵庫へと戻し、散らばった資料などを器用に片手で纏める。
「さて、僕も君にご飯をあげたら帰るとしようかな」
「にぁお~」
嬉しそうに鳴き声を上げるねこを撫で、わざわざ予定を口にした久門はいつも通りの無表情でねこのフードボウルに餌を入れた。
「あれ、……どれくらい入れるんだっけ?」
「にぁおぉ~」
久門の声に突っ込むようにねこが鳴いた。
草木も眠る丑三つ時――ではなくそこそこ人も寝静まる0時前。
一人の男が研究所の前に立っていた。男は懐から取り出した鍵で扉を開けるとそのまま慎重に中へと進む。研究所は静寂に満たされており、街灯の光が道路に面した窓から入りかすかに部屋の中の様子が分かるくらいだ。
男は懐からペンライトを取り出し明かりをつけた。そしてしばらく歩けば目当ての机を見つけるに至る。
机の上に指先を滑らせれば、冷たく固い感触が指先を通して男に伝わる。
その感覚に恍惚としながらも、目的を果たすべくペンライトをいつか見た映画の様に口に加え、机の中身を物色しようと手を伸ばした。
と、その瞬間、研究所に明かりがついた。いきなり明るくなった視界に男は目を白黒させ、明るくなった原因を探ろうと視線をさまよわせる。
「不法侵入って、知ってる?」
声が聞こえたのは男の後ろ。客人をもてなすためのソファの――久門がいつも陣取っているソファのある方角からだ。男は振り返り声の主を見て眉をひそめる。
当然そこに居たのはいつも通りの姿をして、膝の上で寝ているねこを撫でる久門だった。
「か、帰ったんじゃなかったのか」
「あれはフェイクだよ。コレがあるのは分かってたから、わざと声に出した。盗聴器なんてよくつけれたね。まぁ、そういう度胸があるから不法侵入なんてできるんだろうけど」
久門の右手に握られていたのは小型の盗聴器だ。よくテレビやドラマなどで見るコンセント型に偽装されたもので、久門は手際よく解体すると地面に落とし踏みつけ、壊す。
その音でねこは起きたのかのそりと立ち上がり久門の膝から飛び降りた。少し名残惜しそうにその姿を追った後、久門の視線は男へと戻される。何を考えているのかわからない無表情は男の焦りを加速させる。もし警察を事前に呼ばれていれば男に逃げ道などないに等しい。
「一度だけなら目を瞑ろうと思ってたんだよ。盗聴器は気持ち悪いけど、処理できないものでもないし。でも、二度目はさすがにダメだ。田中誠二さん」
「どうして、……名前を」
「知り合いに探偵がいるんだ。だから調べてもらった。それだけだよ。いやまぁ、名前だけなら別に調べなくても今日分かったんだけどね」
そういって久門が取り出したのは朔弥宛てに送られた手紙の封筒。その差出人の欄に書かれた名前こそが田中誠二だった。
正体が見破られたと知った男――田中は厳しい顔をして久門を睨みつける。しかしそれさえ意に介さず久門は無表情を貫いている。
「犯行動機はまぁ、行き過ぎた好意ってところかな。君、朔弥のことストーキングしてたでしょ」
「そちらも気づいているとはね」
「朔弥が鈍すぎるんだよ。記憶力だって僕よりいいはずなのに物の配置が変わったことにも気づかない。どうせ僕が勝手に触ったんだろうと思ってるんだろうけど、不名誉だよね。僕のせいにした君のことも気に入らない。それはそうと意識させようと手紙に香水を吹きかけるのはキザすぎない? 案の定朔弥は気づいてなかったけど。あぁ、それとその机僕の机なんだ、机の中に物は入れない主義だから別に物色してくれたってかまわないけど、あんまりずっと触られると気分が悪いな」
田中は久門の最後の言葉にそんなバカな、と机を再度確認する。机の上は整理整頓されており全くもって散らかっている様子はない。対してもう一つの机の上には資料が山積みになっており見るも無残な有様だ。
「朔弥からでも聞いたのかな。僕が片付けをしなくて困ってる、とか。だから不用心だって言ってるんだけど、自覚ないからな」
どうにも直らないよね、と愚痴をこぼす久門を見て田中はうわべだけの笑みを浮かべる。頭の中ではどうやってこの場から逃げようか、この後どうやって切り抜けようかと思案している最中だ。
「彼はお前の愚痴ばかりを言っていたよ。ウンザリしてるんじゃないのか、お前に」
「それはないよ。だって朔弥ああ見えてドストレートに言うから。僕のことを鬱陶しいと思ってるときは素直に鬱陶しいって言うよ。これは経験則なんだけど」
で、と久門が取り出したのはスマホだった。
「言い訳はそれくらいにしてもらっていい? お縄につく時間だ。そろそろ僕も寝たいし」
画面に表示されていたのはタップ一つで110番に掛けられる通話画面。ここで逃げたとしても顔も名前もバレている以上そう長く逃げることはできない。かといって大人しく捕まるのも嫌だった田中の思考は最悪の方向へと向かう。すなわち、目撃者を殺してしまえばいいのでは、と。
その考えが頭をよぎった瞬間、久門の表情が初めて崩れた。
「今、僕を殺そうと考えたね」
田中は心中を見通すような久門の物言いに驚き、冷や汗を流す。久門の様子は先ほどとまでは打って変わって前のめりになっており、興味深そうに田中を観察している。観察される居心地の悪さに身じろぎしながら田中はわずかに久門から距離を取った。
「人っていうのは不思議と窮地に立たされると殺人のハードルが下がるんだ。今の君の様に不法侵入とストーキングがバレ、捕まりそうになったくらいで人を殺そうと考えてしまう。それはひとえに自身の日常を人を殺してでも守りたいからだ。それくらいに日常というのは重い錘として天秤に乗せられている」
田中が距離を取った分、一歩久門が田中へと歩みを進める。依然二人の間の距離は変わらぬまま、ゆっくりと時間が過ぎる。田中は久門の異様な雰囲気にのまれ、久門を殺そうという選択肢を捨て去った。ともすれば自身の方が殺されかねない様子に冷や汗を流しつつ、ひきつった喉で必死に弁明する他ない。
「ま、待ってくれ。悪かったよ。もう彼のことは狙わない。君の物だなんて知らなかったんだ。金輪際関わらないし、か、金も払う! 見逃してくれ」
「……不愉快だな」
久門は田中の声に眉根を寄せてはっきりとした嫌悪感と怒りを現した。
「『君の物』? 僕の親友を物扱いか。大層なご身分だな」
また一歩、久門が進み田中との距離が縮まる。無表情の怒気という異質に襲われ田中は動けずその場でたたらを踏んだ。
「僕はね、朔弥のことを誰が好きになろうが興味はないんだ。朔弥は人として魅力的な部類に入るし、顔だって整ってる。老若男女問わず彼に惚れるのも仕方のないことだと思うし、それを邪魔する権利は僕にはない。でもね、人を物として扱う上に法を犯してまで近づこうとする輩は見過ごせない」
カツン、カツンと久門の足音が嫌に大きく田中の鼓膜に届く。すっかり委縮してしまった田中は腰を抜かし地面にへたり込んで後ずさりをすることしかできない。久門から見ればさぞ滑稽であろうその様子ににこりともせず、久門は歩を進める。
そしてついに田中との距離が人一人分ほどのところで久門は止まり、無表情に田中を見下ろした。
「僕が一番信頼し、信用している親友の人生に、君という石ころは必要ないんだ。分かってくれるね」
――それは通告だった。
「二度と僕たちの前に現れるな」
久門の声が研究所に響いた瞬間、窓から月の光と共に赤いランプの色が飛び込んだ。
久門は田中の腕を力任せにつかんで捻り上げ、玄関へと強引に移動させる。玄関には警官が二人おり、一人が田中の身柄を久門から受け取りパトカーへと運んでいった。
「こんな時間にすまないね」
「いえ、以前から相談されていたこともありますし、心配だったので飛んできました。にしても災難ですね。これで何回目です?」
「さぁ。興味ないから数えてないんだ。何回目だと思う?」
「五回目、くらいではないかと」
「そんなにか。まったく、朔弥も罪づくりだね。それで自覚がないっていうんだから困っちゃうよ」
警官と少し立ち話をしたのち、久門は彼らを見送った。こういったストーカー被害はままあることで、すっかり警官とも顔見知りだ。そのこともあって調書を取るのは後日でいいとのことだった。
「にぁお」
研究室に戻ってソファに座った久門の膝の上にねこが乗る。ふみふみと足踏みする様はまるで労いのマッサージのようで、久門は少しだけ広角を上げてねこを撫でた。
「こんな時間まで五月蠅くしてごめんね。僕ももう帰って寝るから、ねこも寝るんだよ」
「にぁお」
「と、そのまえに――」
久門は視線を机へと向け溜息を吐く。触られて困る物もないし、と自分の机を片付けて朔弥の机と間違わせたのだが、正式には片付けたわけではなく、朔弥の机の上に自分の机の上にあった物を移動させただけである。当然、明日朔弥が帰ってくる前までに元通りにしなければ怒られるのは目に見えている。
「右の物を左に置くのは得意なんだけどな」
そうぼやきつつ作業に取り掛かった久門を応援するかのようにねこが後ろで尻尾を振った。
「おい、起きろバカ!」
ソファで足をはみ出しながら寝ていた久門は朔弥の怒鳴り声で起床した。かすれる目をこすって時計を見ればすでに正午を回っており、かなりの時間寝ていたと思われても仕方ないことを瞬時に察する。その実、朝の五時まで片付けが長引いたので睡眠時間は七時間と大して長くもないのだが、そんな事情を朔弥が知る由もない。
「なんだよ、僕は昨日頑張って片づけたせいで疲れてるんだ。あと一時間寝かせてくれ。八時間睡眠で我慢するから」
「七時間睡眠でも十分だろ。というか急用なんてないって言われたんだが?! 急いでいったのに!」
「えぇ~、おかしいな。手違いじゃないの、向こうの」
「一番確率が高いのはお前が大学を間違えてるってことだ」
朔弥が毛布を引っ張るので仕方なく起き上がった久門は欠伸をしてのそりと立ち上がる。向かったのはキッチンで棚から食パンを取り出すと、常備されている特製激辛ソースそ表面にサッと塗って口にくわえた。白い部分が真っ赤になった食パンを見て朔弥は「ゲッ」と声を溢すが久門に気にした様子はなく、くわえたままもぐもぐと頬張りながらコーヒーを淹れていた。
そして食パンを三分の一程食べたところでコーヒーが入ったマグカップをもって元のソファに着席する。
「間違ってないと思うけど。じゃああの電話は……?」
「お前の勘違いじゃないのか……。ったく」
ぼやきながら荷物を片付けに奥へと向かう朔弥に久門は小さく溜息を吐く。そもそも電話など朔弥を厄介払いするためのでっち上げだったのだが、それほど怒られることもなく済みそうで、ほっと胸を撫で下ろしたのだ。
しかしねこにはお見通しのようで――あるいは朝食を出してくれなかった久門に対する不満か、尻尾が不機嫌に揺れている。
「ごめんって」
口に含んだ食パンを一気にコーヒーで流し込んだ後、少ない荷物をかき集めて鞄へと入れる。
「どうした、仕事でも忘れてたか?」
「うんまぁ、そんなところ」
「そうか……、というか泊ったのか」
「片付けし終わったら力尽きてね」
確かに久門の机はすっかり片付けられており、なんならいつの間に設置したのか鍵付きの棚が設置されており、その中に資料が納められている。朔弥がその棚をしげしげとみていると、「あ」という久門の声が響いた。
何事か、と朔弥が振り返ると久門がいつも通りの無表情で、しかしながら少し朔弥を非難するような表情で朔弥の方を見ていた。
「……なんだよ」
「僕、朔弥のことは信頼してるし信用してるけど、君の人を見る目に関しては全く信用していない」
「なんだそのカミングアウトは。というか失礼千万だな」
「経験に基づいた事実だ。後で警官が来るから事情は聞いといて」
「は?」
久門はかまってと言わんばかりに足元にじゃれついてきたねこを優しく持ち上げて「あとでね」と言った後、ソファの上に下ろした。本当に急いでいるようで「資料どこに置いたっけ?」と棚を漁っている。
つい昨日見たような光景におかしさを覚えながらも警官という穏やかではないワードを聞いた朔弥は久門に突っかかる。
「いやいやいや、どういうことだよ!」
「あと、鍵変えるから。後で業者の人が来るよ」
久門に話を聞く気はないのか次から次へと話題が変わる。それも仕方ないと諦めて、しかしながら鍵を変えるという急な申し出に今度は朔弥が溜息を吐いた。
「またか? もう五回目だぞ」
「……」
呆れたような声を出していると久門がじっと朔弥を見つめる。なんだか居心地が悪くなって顔を逸らすと久門の口から溜息が漏れた。珍しい、と思っていると久門は首を振る。まるでもう救いようがない、と言っているように。
久門はハンガーから上着をはぎ取って羽織る。それを横目に居心地の悪さを流そうと冷えた麦茶でも飲もうと冷蔵庫を開けた時、朔弥は眉をひそめた。
「おい! また勝手に食ったろ!」
すでに玄関前まで移動していた久門は、背中に投げられた怒号にちらりと背後を振り返って無表情に笑う。
「おいしかったよ、ロールケーキ。やっぱり甘かったけど」
「じゃあ食うなよ!」
プリンはダメっていうからロールケーキにしたんだけどな、と全く反省していない言葉を吐きながら久門は玄関から出て行った。
「ったく、なんなんだよ」
研究所に一人残された朔弥は訳の分からなさに不機嫌になりつつソファに座る。ねこの頭をなでながら一体自分が出ていた一夜に何があったのか、と考える。そもそも久門が片付けをするという時点でかなり信じられない出来事なわけだが、いったい何があったのか。
そんな風に思案する飼い主に撫でられるまま、ねこは欠伸をした。
『朔弥のスイーツは毒を持った羽虫を蹴散らす賃金として頂く。あ、これは僕と君だけの秘密だよ、ねこ』
『にぁぁお~』