One nightmare, one cup of tea ぼんやりとした景色だがいつもの探偵社。いつも通りの席に座ってテレビを眺めていた阿僧祇はふと、目の前に誰かが立っていることに気づいた。
それは桐志と誰かだった。誰かの方に見覚えはないどころかぼんやりとした印象で、顔も何もわからない。かろうじて茶髪であることと、明るく元気そうな印象を受けるということだけがなぜかわかった。
桐志に至ってもその表情はよくわからない。ただぼんやり桐志であるということがわかるだけだ。
「阿僧祇」
「ん、どうした」
テレビに急にノイズが走り、嫌に耳につく甲高い音が辺りに響き始める。耳鳴りのようにも思えるそれの中にあっても、桐志の声ははっきりと阿僧祇に届いた。
「これからコイツと仕事することにした」
「……はい?」
素っ頓狂な返事を返している自覚が阿僧祇にはあった。それほどまでによく意味が理解できなかった。一緒に仕事をする? それはどうぞ。必要に迫られて外部の人間と仕事をすることもあるだろう。でもどうしてだろうか、おそらくそういう意味ではないのだと直感的に阿僧祇は悟る。
こいつ、と言われた方は何も言わず、笑顔を浮かべているままだ。
「だからお前とはこれまでだ」
「いやいやいやいや、ちょっと待ってよ。なんでそんな急に。そもそもそいつ誰だよ」
「向こうで一緒だった人」
向こう。むこう。
阿僧祇はその単語があの3年間を指しているのだとわかった。いくら阿僧祇でも他人の過去を変えられるわけじゃない。その3年間は阿僧祇がどれほど焦がれても戻ってくるわけではない。
──じゃあなんだ? 桐志は俺よりもこいつの方が良いって言ってる? たった3年一緒にいただけの奴を!
阿僧祇が思考から帰ってくる頃には桐志とその誰かは背を向けて探偵社を出ていこうとしていた。阿僧祇の胸の内に焦りが滲みだす。
たかが3年でも桐志にすれば命がけだったはずだ。生死を共に乗り越えることで何らかの絆が生まれることくらい阿僧祇だって知っている。だから、たった3年一緒だっただけの奴でも阿僧祇のライバル足りうるのではないか。
阿僧祇は立ち上がって桐志を追おうとした。が、その背中への距離はいつまでたっても縮まることはない。
あ、という気づきと共にこぼれた言葉。
『待て、待てよ──』
「桐志!」
飛び起きた、という表現がぴったり当てはまる。未だバクバクと鳴る心臓と冷えた手足の感覚が夢から覚めたのだと阿僧祇に伝える。
暴れる心臓を落ち着かせるために深呼吸を繰り返し、額に張り付いた髪をかき上げる。口からは大きなため息が漏れた。
「最悪だ……」
阿僧祇がベッドで寝たがらない理由は、悪夢を見やすいからだった。
レイナが朝ごはんをどうしようかと悩みながら厨房へ向かったとき、そこにはすでに阿僧祇の姿があった。それ自体はなんの問題も疑問もない。阿僧祇は気が向いたときに料理を作っては材料代だけ回収して、レイナとマァナに振舞っていたから。今日もその日なんだな、と少しだけ嬉しく思いつつ、レイナは阿僧祇に朝の挨拶をするべく近づいた。
そんなところで、ふとなんだか阿僧祇の雰囲気がいつもよりも重く、暗く、ぴりついている事を感じ取った。
──あれれ、これは何かありましたかね。
最近はfurfanteでの仕事はなかったので個人的な仕事のせいだろうか、と思いながら当初の予定通り、レイナは阿僧祇へ声をかけた。
「おはようございます」
「……あぁ、おはよう。レイナチャン」
半身振り返った阿僧祇の手にはボウルとポテトマッシャーが握られており、レイナに挨拶している間にもポテトがどんどんマッシュされていた。阿僧祇の雰囲気も相まって、ジャガイモに親でも殺されたのだろうかという疑問がレイナの中で首をもたげる。
「ジャガイモに親でも殺されたんですか? あっ」
思っていた言葉をそのまま言ってしまい、マズイと思っても後の祭り。一度出た言葉は二度と戻ることはない。怒られるだろうか、と思っていると阿僧祇は「フ」と思わずといった様子で笑い声を零した。
「ジャガイモが親を殺してくれるなら、滑稽でバカらしくてむしろ大歓迎なんだけどネ」
やはり、なんだかいつもと様子が違う。それによくよく見ればなんだか顔色も優れないような?
レイナが阿僧祇を熱心に観察している間、それに気づいているだろうに気にしていない素振りの阿僧祇はボウルとポテトマッシャーを一度置いて、冷蔵庫へと向かった。
「レイナチャン、ポテサラにリンゴ入れる?」
「入れたいです! だってサラダもリンゴも食べられるんですよ!」
「うんうん、そうだネー」
野菜室からリンゴを取り出した阿僧祇はレイナの熱が入った言葉に頷きを返しながら、棚から包丁を取り出した。そしてそのままリンゴを半分に切った後、残りにラップをかけて野菜室へと戻した。
「んん。ええっと、私も手伝います!」
「ちょうど手伝ってもらおうと思ってたところだヨ。リンゴ切ってくれる?」
きゅうりやにんじん、ハムを取り出している阿僧祇を横目にレイナはキッチンへと近寄った。その時に盗み見たボウルの中身は綺麗にマッシュされきっており、固形であった面影はどこにもなかった。このレベルの潰れ具合ならきっと大分前には潰し終わっているはずで。
いろいろ考えたレイナは取り出した具材を斬り始めた阿僧祇へ突っ込んだ質問をすることにした。
「虚淵さんと何かありました?」
「……、いや、別になにもないケド」
阿僧祇は普通に答えたが、答える前の一瞬、わずかに止まった手をレイナは見逃さなかった。
「はい、ダウトです。喧嘩でもしたんですか?」
「いやいや、本当にそういうんじゃないんだヨ。ただちょっと、まァ、アイツ関係で悪夢は見たケド……」
「それが尾を引いている、と」
「昼ぐらいになればもとに戻るヨ。そんなもんデショ」
これに関してはおそらく阿僧祇は嘘をついていない、とレイナは感じた。悪夢を見たのも、おそらく昼頃にはいつもどおりになるのも。
このまま放っておくのは簡単だ。なにせ阿僧祇はレイナよりもよっぽど大人で人生経験が豊富だから。自分の機嫌は自分で取るだろうし、何をやってもレイナの余計なお世話で終わる可能性の方が高い。でも、今までの恩を少しでも返したいから。その機会が目の前に転がっているのなら無視する手はないだろう。
「こーら、考え事しながら包丁握っちゃだめデショ~。指切るよ」
レイナの心がここにあらずなのを敏感に察知した阿僧祇は切り終わった具材をボウルに入れながら注意を飛ばす。打って変わってレイナはまだ半分ほど切り終わったところだ。
斬るものの量も違えば、レイナの方が先に作業を始めたはずなのに阿僧祇の方が先に終わるとはこれいかに。これが慣れってやつなんですかね、とか頭の隅で思いながら意を決して前々から機をうかがっていた計画を実行に移す。
「あの、阿僧祇さん」
「ん?」
「紅茶、入れるのでちょっと飲んでいただけませんか」
「紅茶……」
阿僧祇の表情は目に見えて迷っていた。時々表明しているが、阿僧祇は甘いものが嫌いだ。それにはフルーツの甘みも含まれる。
あれ、そう考えたらポテサラのリンゴとかも苦手なのでは? とレイナは思ったが一旦置いておくことにした。
「甘くない奴です、多分……」
「レイナチャンが淹れるの?」
「はい! 練習したので!」
そう、レイナは紅茶を入れる練習をしていた。ゾーヤや瀬田、幽霊相手にも飲んでもらってなんとか及第点を貰える程度の腕にはなった。それを阿僧祇が知らなかったのはレイナが前述の理由で阿僧祇に頼まなかったからだ。
「……今?」
「今です。まだ朝食には時間が早いですし、10分くらいなら時間ありますよね」
「まぁ……そうだね。ベーコンとか卵とか焼こうと思ってたケド。それくらいなら時間はあるね」
「ベーコンに卵ってことはパンの上に乗せて食べるアレですか?!」
「……あぁ、そうしてもいいね。別々にするつもりだったけど」
一気に朝食への期待値が上がったレイナは目を輝かせながら、阿僧祇の返事も聞かず紅茶の準備をし始めようとした。そこでまだ任された仕事が終わっていないことに気づいてはっとする。
「これはおじさんがやっとくから、紅茶の準備しといていいヨ」
「わかりました」
トントンという包丁がまな板に打ち付けられる音を聞きながら、レイナは棚からティーカップやティーポット、そして用意しておいた茶葉を取り出した。
あとは練習した手順通りに紅茶を入れるだけだ。少々の緊張と共になんとかミスなく紅茶を入れ終わり、レイナはほッと息を吐いた。その頃にはもう阿僧祇の方の作業は終わっており、席に座ってレイナの作業を観察していた。
見られていた、ということに少し気恥しさを感じつつ、ポットからカップへ、紅茶を注ぐ。
「お待たせしました」
淹れ終わった紅茶一杯ずつをレイナの席の前と阿僧祇の前に置く。鮮やかなオレンジ色の水面に映ったレイナの顔は大丈夫だろうかという心配が少し滲んでいた。
手順も時間も間違えていない。茶葉も阿僧祇が飲みやすいものを選んだ。だから大丈夫なはず。そんなレイナの思いを見透かしてか否か、阿僧祇は何の躊躇もなく紅茶を一口飲んだ。
「あれ、これ思ったよりもさっぱりしてるね」
「! そうなんですよ。ニルギリって言って、あっさりしてる紅茶なんです」
阿僧祇の口から出た感想はレイナにとって成功を示すものだった。
これならオジサンでも飲めるなぁ、なんて言いながら二口目を飲んだ阿僧祇に満足して、レイナも紅茶に手を付ける。自己採点するなら80点といったところだろうか。まずまず及第点だろう。
「さて、カウンセラーレイナ先生は何を聞きたいのカナ」
「茶化さないでくださいよ」
レイナ先生、と呼ばれて少しむず痒くなって声が拗ねた雰囲気になる。おそらく阿僧祇はそうなることを見越したうえで茶化しているので確信犯だ。
このままでは主導権を握られる、と思ったレイナは早急に切り込むことにした。
「で、どんな悪夢見たんです?」
「バッサリ斬りこむねェ……。まぁ、簡単に言えばどこの馬の骨とも知れない奴に桐志がついて行っちゃう話だヨ」
「なるほど、なんとなくわかりました」
「本当にこれでわかったの?」
阿僧祇からすればかなり曖昧に伝えたはずなのに、レイナは「なるほど」と言わんばかりにしたり顔で頷いている。全くもってどうしてわかっているのか、阿僧祇が困惑する程に。
「阿僧祇さんがいろいろ考えるのは悪いところじゃないと思います。むしろ長所ですし、それに助けられてる感も否めませんし」
レイナは前置きのようにそう言って真っすぐ阿僧祇を見据えた。
「──でも、虚淵さんは阿僧祇さんのところに帰ってきたんですよね」
鳩が豆鉄砲を食ったような顔、というのをレイナは初めて見た。まさかそれが阿僧祇になるとは露ほども思っていなかったが。
阿僧祇のその表情は一瞬で消えてしまったが、少し何かを考えるような顔になって煙草を取り出した。ただ、取り出しただけで火をつけることもなく、手慰みのようにくるくると回すにとどまった。
「いやね、オジサンも分かってるのよ。桐志がその3年でどんな苦境をどんな奴らと乗り越えて、絆が芽生えていたと仮定しても、それがオレたちの11年に勝るなんてありえないって。わかってたつもりだったのに……」
「悪夢で見ちゃってショックってことですか」
「そう。結局オレは桐志を信じてないのかよってサ」
ま、夢の中の桐志の口ぶりにもショック受けたケド、と笑いながら阿僧祇は三度紅茶に口づけた。その表情からは鬱屈さは消えており、もう大丈夫だとレイナは感じた。
「また何か悪夢をみたら相談乗りますよ! レイナさんに任せて下さい!」
「……、そうしようかな。いやぁ、悩み事って人に話すだけで結構すっきりするとは聞いてたケド、思った以上かもネェ。それともレイナチャンの腕がいいのカナ」
「そりゃあまぁ、レイナさんですし?」
自慢げに胸を張ったレイナを阿僧祇は笑みを浮かべて見た後、壁掛け時計へと視線を向けた。
「そろそろ準備再開カナ。レイナちゃんはトースト作っといてくれる? オジサンはベーコン焼いて目玉焼きつくるから」
「はーい、分かりました~」
二人ともに紅茶を飲み干し、ティーカップをシンクへと置いた。
One nightmare, one cup of tea