切り捨てた感情「質問があるんだけどサ」
「……。……はい、はい?」
阿僧祇探偵事務所の唯一の社員で事務員である東堂咲は、その言葉が自分に投げかけられたものだと理解するのに数秒を要した。なぜなら今まで一年ほど探偵事務所で勤務しているが阿僧祇から質問されたことがなかったからである。加えて、テレビドラマを見ている最中に話しかけられたこともない。大抵ドラマの合間に用事を言い渡してくるし、仕事がないときは出勤と退勤の挨拶しかしない時もある。
それくらい阿僧祇からのコミュニケーションは珍しい。
「友人が持ってる物件に住んでたら遠慮して出ていきたくなるもん? 家賃光熱費はタダとする」
「私なら遠慮なく住みますね」
「まァ、咲ちゃんならそうだよネ」
家賃も光熱費もいらないなら普通に良物件では? いや確かに間取りが気に入らないとかそういう部分はどうしたって出てくるものかもしれない。が、家賃と光熱費がタダなら普通におつりがくるんじゃないか?
咲は即答した後もそんなことを考え、やはり自分が出した答えは間違っていないな、と頷いた。そこではたと気づく。
「私なら、って世間一般とは違うと思ってます?」
「割とネ」
「心外です」
「せめて心外そうな顔して言ってほしいナー」
肩をすくめる阿僧祇に咲の口が綻んだ。雇い主と雇われという関係ではあるが、厳格な上下関係があるわけではない。その空気感が咲にとっては楽だし、それを分かってそういう態度をとってくれているのだとなんとなく解っている。
だからたまの質問くらい真面目に考えるか、と咲は思った。というか、この人でも質問とかするんだ、という意外な思いが先に湧いてきて全く集中できなかったが。
「神楽坂さんでも知らない事あるんですね」
「オジサンを何だと思ってるの? そりゃあ咲チャンよりは長生きですけどネ、一応人間なので。知らないこともタークサンあるんだヨ?」
「……嘘くさいです」
「それはもう仕方ないネ」
諦めたように言う阿僧祇の目は依然液晶へと釘付けになっていたが、どうしてだか耳がこちらを向いているのを咲はひしひしと感じていた。多分、テレビドラマの内容も頭に入っていないだろう。なにせ今日はずっとその回ばかりを流している。主人公の「いやいやそれは」というセリフを聞くのだって3回目だ。
なんにせよ、咲は一般常識に当てはめなおして考えることにした。
「まぁ、その人の性格にもよりますけど、遠慮しちゃうっていう気持ちは分かります。与えてもらってばかりだと、なんだか怖いですしね」
「怖い?」
「あとで何かしっぺ返しがきそうじゃないですか。ほら、幸せ過ぎて怖いって言いませんっけ」
阿僧祇はその言葉に「んー」と悩む素振りを見せた。あ、今素の神楽坂さんだ、と咲が思ったのとほぼ同時にその視線が咲の方へと向く。深い夜のような真っ黒な瞳が、咲を正面から見据えた。
「やっぱり迷惑かな」
阿僧祇の真剣な表情、というのを咲は初めて見た。テレビドラマを見ている時でも、咲の前では阿僧祇は口を緩くカーブさせている。だというのに、今は全くそんなことはない。むしろ口の端は下がっている方で、冷たい冬を思わせるなにかがあった。
いつから自分は文学的になったんだ、と咲が思うよりも先に口が動いた。慣れとは大変恐ろしいものである。
「いやぁ、どうでしょう。住んでいいよって言うこと自体は迷惑ではないと思いますけど」
「そうだよネ。じゃあ、新しい家が見つからないように手を回すのは?」
「それは迷惑ですね」
いたずらっ子のような笑みを浮かべて阿僧祇は咲を見ていた。咲はというと視線をそらして手元の真っ白な書類へと向ける。その光景はまるで目を合わせてはいけない何かを見たようなものだった。事実、咲にとってはそれに等しい。
なんだ、新しい家が見つからないように手を回すって。不動産屋に知り合いがいても阿僧祇ならおかしくない。それでも、そんな融通を効かせられるというのはさすがに度を超している。咲はどうしようもなく普遍的な自分の人生の方が大事だ。波乱万丈なんてそれこそテレビドラマの中だけでおなか一杯になれる。
「ま、そりゃそうだよね」
咲をからかって満足したのか、阿僧祇は再び視線を液晶へと戻した。それを確認した咲は、そろりとその視線を阿僧祇へ向ける。
「寂しいなら寂しいって言えばいいんじゃないですか」
咲はうっかり口から出た言葉に固まった。そしてそれは阿僧祇も同じだったようで、驚いたように咲の方を見ている。いや、驚いているというのは咲の希望的観測に過ぎず、その表情はいたっていつも通りのものだったかもしれない。ただ、一つ咲が危惧しなければならないのは阿僧祇の機嫌を損ねていないかどうかだ。
咲は知っている。阿僧祇の判断一つで自分の命が左右される可能性があることを。
「あの、別に、その……」
「……、あぁ、いや。別に機嫌は悪くなってないヨ。いやぁ、やっぱり咲チャンに相談して正解だったネ」
咲は冷や汗を垂らしたまましばらく阿僧祇の様子を伺っていたが、本当に機嫌を損ねたわけではないようで一安心して静かに息を吐いた。
自分でもついつい口をついた言葉はおおよそ阿僧祇には似つかわしくないものだった。だって阿僧祇は、この人は世界の全てをどうでもいいと切り捨てられる人だから。
そりゃあ咲だって最初は阿僧祇の人柄に騙されていた。でも付き合いが長くなればなんとなく線を引かれている事は分かるし、人に見せている全てが虚像みたいなもんなんだな、と思えるようになる。
「咲チャン、探偵向いてるかもよ」
「勘弁してください……。事務仕事で精いっぱいです……」
阿僧祇がハハハ、と心にもない笑い声をあげているのを横目に、咲は再び真っ白な書類へと視線を落とした。
寂しい、という感情が自分の中にあったことに阿僧祇は驚いていた。事務員である咲に指摘されるまで、行動理由には心配しかないと思いこんでいた。
確かに、言われてみれば少し寂しい気もする。なにせ一緒に暮らすなんてルームシェアとかいう巷で少し前に流行ったものっぽいじゃないか。阿僧祇は割とそれを楽しんでいたのだから尚更。
だから、嫌だった。桐志がここから出ていこうとしている事が。でも本人に真っ向から言えるわけがなく、わざわざ不動産屋に手を回すなんてしちめんどくさいことをしていた。のだが、迷惑と咲に断定されては多分そうなのだろう。彼女は図太いし見て見ぬ振りができる人間だが、一般的な感性を阿僧祇よりは持っている。
それにただ我儘を押し付けるのも大人としてどうなんだ、と思えてきた。まぁ、桐志が帰ってきて浮かれていたのはあるし、はしゃいでいたのもあるだろう。脳が正常な判断を下すことを放棄していた。と、言い訳して阿僧祇は心の中だけで桐志へ謝った。
さて、問題を自覚したのであればそろそろ解決しなきゃいけない時間だ。といってもすることと言えば手回しをやめるくらいなもので、電話一本でどうとでもなる。
阿僧祇は短くなった煙草の火を消して、新しく一本取り出した。
今日吸っているのは桐志が好んで吸っている銘柄だった。奇しくも阿僧祇が好きな銘柄で、意外に思ったのを覚えている。
ふぅ、と紫煙を吐き出せばゆるりと漂って空気に溶けた。
なんだか嫌だなぁ、と思うがそれもまた人生だし仕方のないことなのだと阿僧祇は思う。なら、まぁ、桐志が新しい家を見つけて引っ越すまでの間を命一杯楽しめばいいだけの話だ。
そしてその話はそう難しくはない。
なんにせよ、明日の朝一で電話入れるか、と決めて阿僧祇はリモコンの電源ボタンを押した。