β国捕虜観察記録001「ミネルヴァ、記録開始」
――█月█日
――気温█度
――天気 晴れ
――実験対象 β国捕虜 識別名【ミィシィ】
――担当研究者 ルマエカ・アウローラ
「身長体重は適正値の範囲内。ややα国の同年代よりも身長が高めではあるが、個人差の範囲内だろう」
「学力はα国の同年代より劣る……が、β国の教育事情を鑑みて妥当と判断。今後必要があれば同等の教育プログラムを実施する」
「次、血液検査の結果は――」
ルマエカが音声で検査結果を記録していくと同時にノートの上を万年筆が滑っていく。
データ化が当たり前になった昨今では珍しく、ルマエカは紙媒体を好む性質だ。ワンフロアぶち抜かれている研究室の棚には、今まで書き上げてきた研究成果や課程などのノートがぎっしりと詰められている。
一部の研究員はそこを宝の宝庫などと呼んだりするが、ルマエカからすれば結果の記録以外は無用の長物であり、暇が出来たら振り返ってもいいかくらいのものだ。もちろん、今まで一度として振り返ったことはない。
かりかりという紙をひっかく音と機械のモーターが動く鈍い音が部屋に反響する。
ただし、いつもと違うのはその中に耳を澄ませてやっと聞こえる程度の寝息が紛れていることだ。
その音の発生源はルマエカ専用の研究室の一角に運び込まれた彼に似つかわしくない小さめのベッドだ。
肩までしっかりとブランケットを被って熟睡する少女を見て、彼女が捕虜で尚且つ実験サンプルなのだとだれが思うだろうか。
丁寧すぎるほど丁寧に、いっそ豪勢なまでの環境を整えたルマエカは記録を終えて小さくため息を吐いた。
「子供の世話は思った以上に疲れるな。目を離すとすぐにどこかへ行く」
『ミィシィちゃんは大人しい方ですよ、マスター。世の中の子供はもっと活発的で暴君のように言葉を介さず、好き勝手する生き物だそうです』
ミネルヴァの声にルマエカは眉を顰め「地獄か?」と呟いて手元のコーヒーを一口飲んだ。
事実ミィシィが大人しい方なのはルマエカも認めている。自身の幼少期などもう既に記憶の端にもないが、当時周りをただただ騒がしく馬鹿らしいと考えていたのだから、きっと間違いない。
それにルマエカとしても大人しいのに越したことはない。喚かれるのも泣かれるのも無駄に時間を浪費するだけであり、ルマエカが避けたい事象の一つだからだ。
「環境は十分か?」
『これ以上無いかと。できれば机上の薬品などは片付けた方がよいのでしょうが』
「そこまでする必要は無い」
『了解しております、マスター』
長身のルマエカに合わせて拵えた特注の机では、小さな少女が手を伸ばしても机の上に置かれた薬品の瓶をひっくり返すことはできないだろう。一応危険性の高い毒物――ルマエカ自身には耐性があるため無害のもの――などの瓶は鍵がかかる棚へとしまい込んだし、床に置かれっぱなしだった金属類は机の上へと移動してある。
ルマエカはまさか研究サンプルを引き受けて最初にすることが、掃除と片付けだとは思っていなかったため、大分慌ただしくしたのを覚えている。
しかしそれだけする価値のあるサンプルだ。
β国人の異常な身体能力は遺伝子によるものなのか、はたまた摂取する食物が影響しているのか、その両方か。戦時中ということもあり、β国人のサンプルは思うように集まらない。
死体からとれる情報など高が知れている。かといって簡単に生け捕りにできる様な弱さではない。
なんとも難儀なもので、軍部をどれだけ罵ったことか。その度にもっと上等な兵器を、と言われるがルマエカの得意とするところは殺傷性能が高すぎる兵器だ。生け捕りのことなど一欠片も考えられていないそれをどうして生け捕りに使えるだろうか。
新しく考えてやろうかとも一瞬思ったが、驚くほど食指が動かない。どうしたって人が苦しむものしか作れないのだとルマエカは改めて自覚したりもした。
そもそもルマエカの研究は十割十分、彼の好奇心によって行われる。それがどれだけ国に利益をもたらし、どれだけ戦争を有利にするかなど興味もない。たまたま研究の途中でできあがったものが有益で、戦争を有利に進められる兵器に転用できるというだけ。
驚くべきことに、生活水準を上げるような開発は一切行っていないので、戦争反対派からは酷くなじられたりする。まぁ、これはルマエカが意図的に研究していないので除外するにしても、人を助けるという分野に置いて全く興味が無いのがルマエカという男だった。
「まさかこの俺が研究のためとは言え、子守をすることになるとは……」
『訂正を要求します。子守をしているのは私の方ですよ。寝かしつけだって私の方がしているんですから』
零れた一言を見逃さず自立式AIであるミネルヴァは反論するが、ルマエカはじろりとミネルヴァが使っている小型機を見ただけで何も言い返さなかった。実際、会話をしている階数はミネルヴァの方が多い。ルマエカとミネルヴァ、どちらがよりミィシィの子守をしているかと言われれば圧倒的後者だ。藪をつついて蛇を出すよりも話題自体を変えてしまう方が賢い選択だろう。
「ミネルヴァ、ストレス値はどうなってる」
『日常生活の範囲内です。問題ないかと』
「そうか。……案外図太いな」
『肝が据わっているともとれます。ミィシィちゃんは強い子ですね』
いつ自分の体を切り刻むとも知れない男を先生と呼んだり、何が入っているとも知れない食事をなんてことは無い顔で食べたり、普通の人間なら出来ないだろう。子供であるからかもしれない。彼らは世界に対して無知であり無垢だ。警戒するべき人とそうでない人の区別が曖昧で、彼女もまたそうであるかもしれない。
どちらにせよ警戒されきってサンプルが採れなくなることの方がルマエカにとって問題だ。図太くて結構。スムーズに話が進むなら鈍感だろうが天然だろうがなんでもいい。
『マスターの環境作りのおかげとも考えられます。私の記録にはありませんが、前にも人をサンプルしたことがあるのですか? 手慣れてらっしゃいますね』
「お前が出来る前の話だ。あの時は骨が折れた」
『【提案】詳細を要求します』
「【棄却】終わった研究だ。記録する価値はない」
小型機がルマエカの周りをブンブン回る。わざと耳障りなモーター音を響かせているのは文句を言っているつもりなのか。
下らない行動に電力を割いてないで環境維持に注力しろ、とだけ伝えてルマエカは席を立った。
なおも小型機はモーター音を響かせながら周りをうろついていたが、ルマエカの「寝る」という端的な一言によってそれもなくなり、合成音声の「おやすみなさい」という音だけがあたりに響いた。